海の解放感も時には悪さをするようだ
忘れた方がいい思い出というのはある。しかしそうした記憶ほど根深く、頭の奥の奥にまで居着いてしまう。そしてふとした瞬間、本人も意図せずいたずらにその顔を覗かせてくるのだ。
悪びれもせず、ひょうきんに……
ただし可愛らしさなど微塵もない。まるでカビのようだ。表面をこそげ落して上から洗剤を掛けても消えてくれない。
いっそ頭ごと交換できたら楽なのだろうが。生憎と人間の頭は某菓子パンヒーローのように着脱自由というわけにはいかない。
だから、一度記録してまったが最後、嫌な思い出とは一生を添い遂げなくてはならないときた……たとえそれが、他人からもたらされたモノだったとしても。
(+_+)
『――ちょっと歩くね』
そう言って、アスファルトが焼けてムシムシする中を歩くこと実に30分。
森林公園から再度海沿いの通りに出て、漁港の脇を抜けていく。
遊泳区域から距離が開き、喧騒も遠い世界のよう。海鳥が空を優雅に泳ぎ、打ち寄せる波が船に当たって跳ねる音が鼓膜に心地いい。
やはり騒がしいのはいまだ苦手だ。改めて太一はそう思う。
空は陰り、ずっと遠くに見えていた分厚い雲はいよいよ二人の頭上へ到達した。潮の香りの中にほんのりと土のニオイが混じり始める。
……ほんとに降ってきそうだな。
そういえば傘を忘れてしまった。道中のコンビニは既に通り過ぎてしまったし……できれば、彼女と共有しているこの時間くらいはもってほしい。そうは思うが、天気はいつだって気まぐれだ。
人間ができるのは、精々が願うことだけ。あとは全て成り行き任せ。どこかの金髪ギャルのことを思い出し、太一は思わず苦笑する。
「たいちゃんはさ、これからのことってなにか考えてる? やりたいこととか、仕事とか」
「え? なんで?」
「ほら、なんてぇの? あーしには、そういったの多分ないから。ていうか、やるべきことが決まってる、って感じじゃん?」
「あ」
太一は思わず眉根を寄せる。それを見て大井は取り繕ったように明るい声を出す。
「ああ、でもそれが完全に悪いこと、ってわけでもないじゃん? 別にやりたいこともないならさ、逆に何をしなきゃいけない、ってのが決まってるのは、ある意味ではな~んにも考えなくてもいいわけだし?」
「……うん」
「って、だから暗い顔すんなっての~」
「ごめん。でも僕には、やっぱりそいうのは……窮屈なんじゃないなか、って思っちゃうから」
「う~ん……まぁ、確かに親に自分の人生全部決められちゃうってのは良い気分しないけど……でも、自由過ぎても何していいか分からなくならない?」
「そう、かな」
「そうだよ。たぶん」
なにが一番いいのか、なんて答えはない。それは当人が決めることであり、他人や世間が決めることじゃない。
いつだって世界を認識しているのは自分自身であり、その世界でなにが最も自分にとっての最善で最良かは人それぞれ。
たとえ他人から見ればくだらないことも、その本人にとってはかけがえのないものであることだってある。
問題は、そういった自意識を以って、人生を考え歩めるかではないのか。
「僕は……まだ、よくわからない。自分が、何をしたいのかとか……そういうの、考えたこともなかったから」
「そっかそっか。まぁ高校生だしね。無理もない無理もない」
同じ高校生である大井が妙に大人びたことを言う。
いや、彼女は実際ちょっとだけオトナなのかもしれない。
「…………ま、あーしはこんな人生、クソくらえって感じだけど」
「え?」
「ううん。なんでもない。もちょっとでつくよ。ほら、あそこ」
大井の指さす先にあったのは、船の姿が全くない桟橋だった。陸地から真っ直ぐに伸びた人工物。
「あそこさ、天気がいい時ってめっちゃ綺麗に夕日見えんの。まわりになんもないから、海の上に立ってるみたいな感じになるんだよね。いうて、今日は生憎なお天気だけど」
歩きながら太一は桟橋を見遣る。確かに遮蔽物の少ないあそこなら、夕日が沈むさまも幻想的に見えるかもしれない。
が、とっておきと言っていたわりに、少し地味ではないかと太一は思った。
「あ、たいちゃん。ちょっと地味とか思ったっしょ。モロ顔に出てんし」
「……ごめん」
「素直でよろしい。でも、あそこで一人になって夕日をぼけ~っと眺めるとさ、なんか世界に自分だけ~、って感じになれんだって。いやマジで。天気いい時に来てみれば分かるって」
「うん。機会があれば、ね」
「ああ~それ絶対に来ないヤツじゃ~ん。昔はあーしの行くとこと行くとこついてきたくせに――っ」
「っ!?」
大井は太一の手を掴むと、彼の手を引いて走り出した。
前につんのめるようにたたらを踏む太一。すんでのところでバランスを取り、彼女に手を引かれるまま足を動かす。
桟橋の手前は階段になっており、チェーンが引かれて『立ち入り禁止』の看板が立っている。途中にはいくつもの街灯が並び、白く塗装された手すりは錆び付いた下地が一部剥き出しになっている。
少し前まではここから観光船が出ていたそうだが、船の老朽化もあって現在は運航停止になっているらしい。
「とうちゃ~く」
「ねぇ、ここって……入っちゃダメなところなんじゃないの?」
「うん? そうだよ。だって海に落ちたら危ないじゃん」
「ええ~……」
「だから、内緒にしてね」
「……」
可愛らしく人差し指を口許に当てる大井。共犯にされたような気分になり、太一は思わずジト目を昔馴染み向ける。
「あ~。でもやっぱ今日は天気悪いね~。これじゃ全然太陽見えなさそう」
時刻は4時半を回り、あと10分ほどで5時になる。
不意に、太一のポケットでスマホが震えた。
確認すると、涼子からの連絡だ。
『お祭りイベント5時までだって』
『私たちはそろそろ帰るけど
あんたはどうする?』
どうやら例の地元のお祭りイベントが終わるらしい。ここまで結構な距離を歩いて来たし、そろそろ帰路についたほうがいいか。
「誰から?」
「姉さん。イベント終わりそうだから帰るって」
「あ、そっか5時までだっけ」
「そう」
と、再度スマホが震え、
『見ろよコレ!』
と、いうメッセージと共に、不破が映った写真が送られてきた。彼女の手には、駄菓子がこれでもかと詰め込まれた袋が。バケツようなソレを手に、不破はカメラに向けて得意げな表情を浮かべていた。
『詰め放題』
『過去最高記録出してやった!』
体型維持はどうした、という突っ込み待ったなしな写真とメッセージに、太一は思わず笑ってしまう。
すると、
「へぇ。すごいねこの子」
「っ、ヤヨちゃん!?」
彼女は、太一のすぐ脇に身を寄せて、スマホの画面を覗き込んできていた。肌が触れるほどの距離感に、太一は思わず顔が熱くなる。ノースリーブのシャツから伸びた彼女の腕。ずっと歩きっぱなしで汗に濡れた肌が触れてくる。
「ほんと、仲の良そうなことで、けっこうけっこう……でも」
と、不意に彼女は太一を見上げ、
「――この子さ、きっとたいちゃんの友達じゃないよね」
「え?」
その言葉に、思わず太一は固まった。
(;゜ Д゜) …!?
――今日は彼女とのお別れの日だ。
手には貴重なお小遣いをはたいて買った造花のアイリスが一輪。転校していく女の子に渡すものだ、と店員に説明したら、これがいい、と選んでくれた。『希望』という花言葉があるのだそうだ。それと……『愛のメッセージ』という意味もある、と耳打ちされた。
途端に顔が熱くなった。
しかし太一にとって大井は当時もっとも身近な同い年の女の子であり、子供ながらに意識していたのも確かだ。
初恋というほど情熱的ではなかったかもしれないが、少なくとも当時に太一にとって彼女が『特別』な存在であったことは確かだろう。
少なくとも、慣れない花の贈り物なんかを送ろうと思うほどには……
『ありがと。たいちゃんにしてはセンスあるね』
なんて、喜んでいいやら怒ればいいやら。ただ、彼女からお礼を貰えたことだけで太一は満足だったし、それ以上を望むべくもないことを理解していた。
二人の関係はここで終わり。少なくとも、奇縁でもなければ……これから先、子供である彼らが再びまみえることなどない。
子供ながらの無力とは関係なく、離れ離れになった互いはこれから新しい関係性を築き、いずれこの繋がりは希薄になる。人の縁とはそれほど虚しく細く儚い。なにせ、血の繋がった相手とさえ、心がすれ違い離れていってしまうのだから。
それでも、
『――ねぇ、たいちゃん』
太一はこの少女との絆が、
『わたしたち、たぶんもう会えなくなっちゃうかもしれない』
確かなものだと心から思っていた。
『だから、お願いがあるんだ』
だから……
『うん! いいよ! 何でも言って!』
『ありがと』
――――神様という連中が、裏切り者であることを忘れるんだ。
彼女は一歩、太一に近付き、耳元に口を寄せる。
『あのね――わたし、たいちゃんを好きでいてあげる』
判っていたはずなのに……
『え?』
期待はいつだって、
『だって、そうじゃないとたいちゃん、絶対にひとりぼっちだもん』
優しい仮面を着けて、平気で人を傷付けるものだってことを。
『たいちゃんを好きになってくれる人なんていないよ。だって、たいちゃんが他の人のこと、好きじゃないもん。ううん。むしろ嫌いでしょ? 学校のお友達も、先生も、お父さんもお母さんも……お姉ちゃんも』
――いつか聞かせてくれたよね。僕のことが好きで、認めてくれるのは、わたしだけって。
――たいちゃんがそうやって色んな人を嫌うから、おうちの人も、たいちゃんが嫌い。嫌い同士だから、嫌な気分になるの。嫌な気分だから、不幸なの。
『だからさ、たいちゃん……』
いつだって嫌な思い出は、
『わたし以外の人と、仲良くなっちゃダメだよ』
――それが他の人たちのため……たいちゃんのためになるんだから。
ひょんことで顔を出す。
『ああ、だったらさ――学校とかもう行かなくてもいいかもね』
――だって、行ってもわたしはいないわけだし。
この時の彼女の顔は、よく覚えていない。笑っていたような、泣いていたような……
『約束、したからね――それじゃ、バイバイ』
最後に、彼女は太一の首に手を回し、ぎゅっと抱き着いた。
ああ……全くもって、
――彼女の言う通りだ、と……太一は思った。
・・ ウン(・д・`)
……ああ、そうだった。
思い出した。いや、思い出してしまった。自分が、彼女と交わした約束を――
空からは、ぽつりぽつりと雨粒が滴り始める。
「ヤヨちゃん、君は……」
「あーしはさ、自分のことは自分で決めたいって思ってるんだ」
「……」
「でもさ、結婚相手は決められちゃってるし、これから先の人生も決められてる。たいちゃんとのお別れした時から、そう決まったの」
「……」
「でもさ、結婚したい相手は自分で決めていいんだって。高校を卒業するまでに、そういう相手を見つけてさ、パートナーになってもらうの。でもさ、それってかなりの無理ゲーじゃん?」
「ヤヨちゃん」
「でもさ、もしちょっとでも、あーしの自由意思が尊重されるべきならさ……」
大井は太一の頬を挟み、真っ直ぐに瞳を覗き込んでくると、
「あーしの結婚相手は――たいちゃんがいい」
彼の人生をめちゃくちゃにした彼女は、そんなことをのたまった。
……ああ。
なんてドラマチックな展開なんだろう。きっとこんな茶番を用意したどこかの誰かは、きっと今頃ほくそ笑んでいるに違いない。
だが如何に劇的な展開とて、これはいささかやり過ぎというものだ。まるでロマンの欠片もない。
幼い頃に交わした約束が、ここまで微笑ましくないというのもなかなかに滑稽な話ではないか。
「どう、たいちゃん?」
「なに、が……」
「あーしと結婚とか、どう? って意味」
「そんなの……」
そんなの……言葉は出てこない。なにを、どう返すべきかのか、分からない。顔を、合わせられない。
どう考えても今の状況は太一のキャパシティを超えている。正しい選択がなんなのか、そもそも状況への理解さえ追いつかない。
ただ、一つ言える事があるとすれば。
「なんで、僕なの……?」
その一点に尽きる。
思い出してしまえば、もはや過去の美しい記憶はその全てに歪なフィルターが掛かってしまう。
――君は人に好かれない。
幼かった少女はそう言った。
太一を憐れんでいたのか。それとも何も知らずに彼女の後ろを着いて行く彼のことを、陰で笑っていたか。
いったいどんな気持ちで、彼女は太一と一緒の時間を過ごしていたのだろう。
空から降り注ぐ雨粒は勢いを増していく。髪は濡れ、肌に触れた雫が重力に任せて滑り落ちる。
「分からないよ……僕には、ヤヨちゃんが分からない……」
「あーしと結婚するの、イヤ?」
「そういうことじゃなくて!」
太一にしては珍しく大きな声が出た。
思考能力は既に限界。取り乱さず、叫ばないようにするだけで精一杯。
「君が転校してから……僕、しばらく学校に行かなくなったんだ」
「へぇ……」
「思い出したんだ。ヤヨちゃんとの約束……君は僕に、ずっと独りでいろって、そう言ったんだ」
「だね。覚えてるよ。だってその方が誰も傷付ないじゃん?」
「その言葉を信じで、僕は他人との関係を切ってきた」
「楽だったでしょ?」
「楽だった……でも」
それはとても悲しくて、寂しかった……不破たちと、共に過ごす時間を得てしまったことで、太一はその事実に気が付いた。
「僕はヤヨちゃんを、友達だって思ってた……ヤヨちゃんは、どうだったの?」
「あーしは……」
雨脚は更に苛烈に、全てを黒く塗りつぶしていく。
「友達じゃないって思いながら、ずっと一緒にいたかな」
「そ、っか……」
「うん。ごめんね」
なぜだか、涙も出なかった。きっと彼女の答えを知っていたような気がするから。
「じゃあ僕たちは、結婚するとか、それ以前の話だよ」
「ヒモでもいいよ」
「嫌だよ」
「たいちゃんのしたいこと、いっぱいさせてあげるよ。エッチも可」
「なにも、ないよ」
「そっか……残念」
彼女は「はぁ」と吐息を一つ。太一から一歩遠ざかり、
「ダメだったか~……たいちゃんがちゃんと約束を守ってくれてたら、ワンチャンあったのかなぁ……」
「もしそうなってたら、僕はここに来てないよ」
「それって、つまりあのおともだちがいたからここに来たってこと?」
「そうなるかな」
「なるほど……やっぱさ、あのギャルたちの中に好きな子とかいるんでしょ?」
「皆、友達だよ」
若干一名ほど、怪しいのもいるが……少なくとも、目の前の少女と比べれば、確実に友達というカテゴリーに入ってくるのは間違いないと、太一は思う。
「そうか~……ざ~んねん」
「っ!」
思わず、太一はカッなって顔を向ける。どれだけ自分が苦労して彼女たちの関係を築いたか。それを知りもしないで『残念』と口にした彼女に頭が熱くなる。
が……
「え――」
雨に濡れた彼女は、顔をくしゃっと歪ませて、無理やり笑っていた。叩き付ける雨粒に全身を濡らし、滴る雫の区別がつかない。
「ヤヨ、ちゃん」
「期待なんて、やっぱするもんじゃないね」
「……」
「いうて、全部あーしのせいか……」
彼女の表情は痛ましく、太一は声を掛けられない。
「それじゃあね。たいちゃん」
太一の脇をすり抜けて、彼女は桟橋を戻っていく。その背に振り返ることもせず、太一はひとり、荒れる海原をぼうっと見つめていた。
il||li( =д=)il||li
アレ…なんか、すっげぇシリアス?
作品が面白かった、続きが読みたい、と思っていただけましたら、
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