夢の中で走るといつも前に進めない、きっと現実で停滞してるから…
その日の6時限目を、太一はサボった。
昔はちょくちょく体調を崩して学校を早退していたものだが……自分の意志で明確に授業から逃げたのは、これが初めて。
とてもじゃないが、学校にいられる気分ではなく……教室にいる不破はもちろん、霧崎にも、他の誰にも、会いたくなかった。
情けない自分を隠すために、誰にも声を掛けずに、そっと……
荷物は全て置いてきた。上履きもそのままだ。教室に戻りたくなかったから。
6月の空。そろそろ梅雨明けなのだそうだ。だというのに、ずっしりとした鉛色の雲が天蓋を覆い隠す。一人マンションへの帰路につく太一の頭上はぐずり出す一歩手前。そして、マンションまであと半分というところで、空は本格的に泣き出し始めた。
……泣きたいのは、こっちだよ。
顔に当たる雨粒に目を細め、ぐっと奥歯を噛みしめる。
背中を丸め、地面に視線を落としたままマンションに帰ってきた。
顎から雨水が滴り、制服はぐっしょりと重たい。おぼつかない足取りで、太一は部屋へと帰宅した。
ガランと静まり返った我が家。つい昨日まで、リビングでは騒音と呼んで差し支えないほどの賑やかな声が聞こえていたのに……
今はシンと耳が痛いほどの静寂に支配され、心なしか空間の温度まで低くなっているような気さえした。
テレビの前には、霧崎が持ち込んだゲームのパッケージにコントローラーが無造作に置かれている。涼子のコントローラーも、不破が使ってからそのままだ。確かにそこに家族以外の誰かがいた痕跡がしっかりと残されている。
『アタシも今度買ってくっかなぁ』
先日、不破はそう言っていた。彼女は、またここに来て、自分専用のコントローラーでゲームをする気でいた。
だが、もう彼女が太一の家に来ることはない。太一は不和を拒絶した。そして彼女もそれを受け容れた。
ずっと彼女から解放されることを望んでいた。いつも自分勝手に太一を振り回し、好き勝手に振舞う不破のことが太一は苦手だった。生活が脅かされ、日常はバグり、正常ではなくなった。元の生活に戻るため、太一は不破のダイエットに協力し……しかし終わっても関係はなし崩し的に続いて……
辟易していた。いつまで我が家を溜まり場にする気なのかと。毎日毎日、気苦労が絶えず、なんど溜息を吐き出したか分からない。疲れ切って泥のように眠った日だってある。
心も体も、一日でも不破との関係を終わらせて早く休ませろと幾度も抗議してきた。
だから、今日のことは太一にとって確かに望みが叶った瞬間だった。そのはずだったのだ。
なのに、この胸をギリギリと締め上げるものはなんだというのか。
うまくいったはずなのに、ようやく一人の時間を取り戻したというのに、達成感なんてまるでない。
むしろ、まるで親に置いて行かれた時のような寂しさを感じる。
手を放され、背を向けられ、一瞥もされることなく、歩き去って行く。
太一はそっとゲーム機から視線を外し、自室へと引っ込んだ。
濡れた制服を着替えることもせず、ベッドの縁に背を預けて、床に体を投げ出す。
外はいまだ雨が降り続けている。窓の外は薄暗く、光の挿さない部屋はより真っ暗。
視線を少し横に滑らせると、そこには先日、不破と霧崎に選んでもらった服がハンガーに掛かっている。髪にも触れてみた。ワックスとスプレーでしっかりと固定されて硬くなった毛束の感触が指先に返ってくる。
『あんた、ほんとに前からなんも変わってねぇじゃん。見てくれだけ』
不破の声がリフレインする。
「分かってますよ、そんなこと」
ベッドから枕を引き寄せ、顔を覆い隠す。
ここしばらくは涼子が使っていたため、自分のものではない匂いがついている。
「っ――っ――」
枕越しに嗚咽が漏れる。自分から突き放しておいて、いざ離れていくと見捨てられたような気になって、そんな女々しい自分に嫌気がさして……太一の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
どうするのが正解だったのか分からない。
そもそもの話として、自分が相手に何を望んでいたのかさえ分からなかった。
ひとしきり泣いた後、喉がひりついてキッチンへ水を取りに行く。
飲みかけのペットボトルの中身を一気に飲み干す。
目に入るのは、やはり皆でワイワイと騒いでいたリビングだ。
『自分なんか、とか言ってる相手と付き合うのって疲れるじゃん? なんていうかさ、相手にただ肯定されたがってるみたいな感じ? それってさ、ただの依存じゃん?』
妙に鮮明に、霧崎の言葉を思い出す。同時に、太一は「ああ」と納得を得た。
……僕、不破さんに慰めてもらおうとしたんだ。
自分を否定し、貶めて……それを、太一は不破に否定して欲しかったのだと理解する。
自分じゃ自分を肯定できないから、相手にそれを望んだ。自分のことは信じられないが、相手の言葉なら信じられる。
……僕、不破さんを利用しようとしたんだ。
『使う側』と『使われる側』。
その関係は、一方通行ではなかった。太一もまた、不破を『使おう』と無自覚に考えていたのだ。むしろ、太一の方が一方的に、不破に期待を押し付けていたのかもしれない。
「最っ低じゃないか……」
きっと、霧崎も不破も、太一のそんな下心に気付いていたのではないか。
いや、きっと気付いていた。
それでも、
『何してもダメってことないじゃん?』
『釣り合うとかなんてどうでもよくね?』
『アタシがあんたを友達って思ってたらそれで話おわりじゃない普通?』
不破は、太一の醜い期待に、応えてくれていたんだ。
それを、太一は自分で否定し、挙句突き放した。自分勝手に、自己中に、相手を裏切った。
強烈な自己嫌悪と罪悪感にまた目じりが滲んだ。立っていられない。キッチンの床にうずくまる。
しばらくの間、薄暗い部屋の中に、嗚咽交じりの「ごめんなさい」という声が鳴り続けた。
太一はようやく理解した。あの時、もしも正解があるとするならば、それはきっと――
ほんの少しだけでも、素直に相手の言葉と今の自分を、肯定してやればよかった。
本当に、それだけだったのだ。
それは一番難しく、一番簡単な方法だった。
…………_| ̄|○
涼子は帰宅と同時に違和感を覚えた。灯りの点いてない部屋。誰の声も聞こえず、静まり返っている。
「ただいま~」
声を掛けても返事はない。今日は不破たちは来なかったのだろうか。しかしそれならそれで太一がいるはずではないか。
「? 皆で出かけたのかしら……」
しかし玄関の鍵は掛かっていなかった。誰もいなくなるなら鍵くらいは掛けていくと思うのだが。或いは単なる掛け忘れだろうか。
涼子はリビングに入り灯りを点ける。やはり誰もいない――
「っ――!?」
涼子は思わずギョッとした。
キッチンに目を向けると、制服姿の弟が流し台に背を預け、ぐったりと座り込んでいたからだ。
「ちょ、ちょっと太一!? あんた、どうしたのよ!?」
慌てて駆け寄る。目は閉じられて、妙に顔色が悪い。息はしている。涼子は太一の額に触れた。返ってきた温度は、かなり高いように思えた。
Σ( ºωº )
翌日、太一は学校を休んだ。
雨が降る中、傘もささずに帰宅。挙句に髪も乾かさず、濡れた制服もそのままの状態で過ごしていたため、しっかりと風邪を引いてしまったわけである。
「はい……はい……申し訳ありません。それでは、失礼します」
6月29日。涼子も今日は仕事を休んだ。また不破にブラコンと言われてしまうかもしれないが、どうにも今の太一をそのまま一人にしておくことは躊躇われた。
数年前……小学校5年生の時に不登校になった時と、今の状況が似ているような気がしたのだ。
「具合はどう?」
「……頭とか喉とか……なんか全部痛い」
「そう。まぁ39度も熱が出れば当然ね。学校には連絡を入れておいたから、今日はゆっくり休みなさい」
「うん……」
時刻は朝の8時。いつもなら二人とも家を出ている時間帯。涼子は普段着だ。上にエプロンをつけている。
「少しは食べられそう?」
「いらない」
「そう。でもちょっとはお腹に入れた方がいいわ。ゼリー飲料買ってきたから、それだけでもお腹に入れて、薬飲みなさい」
甲斐甲斐しく太一の世話を焼く。今の太一は風邪以上に、何か別のものに蝕まれているような気がする。
と、不意に涼子のスマホが鳴った。
「ちょっと出てくるわね」
涼子が部屋から出ていく。一人の空間で、太一はぼうっと天井を見上げて無為に時間をつぶす。
風邪のせいだけではない。何もやる気が起きない。
挙句の果てに、いっそこのまま消えちゃいたい……などという考えまで浮かぶ始末だ。
弱り目に祟り目。弱り切った精神状態、弱り切った体。
次第に、何を考えるのも億劫になって、太一は瞼を合わせる。
何も見たくないと言わんばかりに視界を閉ざし、太一は夕方まで、眠りに落ちる。
――ふと、夢を見た。
一人たたずむ太一の前には、両親と涼子、そして小学校時代に仲の良かった一人の友人、隣には霧崎と……不破が立っている。
だが、最初に両親が太一に背を向け、すがるように手を伸ばす太一を無視して消えてしまう。
涼子は、そんな両親とは別の方向に顔を向け、やはり太一の前から姿を消した。
次いで、小学校時代の友人が、太一の手を躱すようにその場からいなくなる。
その場に残ったのは、不破と霧崎の二人。
しかし霧崎は太一に向かってため息を吐きながら、彼の脇をすり抜けてどこかへ行ってしまう。
最後に、太一は不破と目が合う。
彼女は何も言わず、ただじっと太一を見つめていた。
『不破さ、』
思わず彼女に手が伸びる。しかし不破は一歩、太一から遠ざかると、
『じゃあな』
と、それだけ残して踵を返す。
『待って』
咄嗟に、声が出た。
『待ってください!』
遠ざかる不破の背中を追いかける。しかし、どれだけ手を伸ばしても、どれだけ足を回転させても、その背に彼の手は届かない。
見れば、太一の手は小学校時代の小さなものに変わっていた。
『待って!』
幼い太一が必死に不破の背中を追いかける。
おいていかないで、一人にしないで、こっちを見て……
しかし、どれだけ走っても、まるで重たい泥の中にいるように、体は前には進んでくれない。
次第に、不破の背中は豆粒のように小さくなって、
ふっと、彼は一人きりの空間に取り残されていた――
(´;д;`)
か、書いている作者もキツイ……
でも、ハッピーエンドは用意してるもん!
ちゃんと用意してるんだからね!?
作品が面白かった、続きが読みたい、と思っていただけましたら、
『ブックマーク□』、『評価☆』、「いいね♪」をよろしくお願いいたします。
また、どんなことでもけっこうです。作品へのご意見、感想もお待ちしております。




