人間は複雑怪奇なくせに、単純なところもいっぱいだ
秋穂は弟が起きる前に家に戻った。
あの子はいつも7時を過ぎないと起きてこない。
今は6時半を少し過ぎたあたりか。
「あら、秋穂。どこに行ってたの?」
「お母さん、おはよ……ちょっと、ラジオ体操をしに公園に……」
嘘は言っていない。予定にはなかったが、弟の同級生に勧められるまま、ラジオ体操をした。
そのあとは、彼が直面している問題について話を聞いた。
本当に聞いてあげるだけ。
生徒会長時代の経験則だが、この手の問題ごとを抱えた人が、誰かに相談を持ち掛けるのは『話を聞いてもらいだけ』の場合がほとんどだ。
時には具体的なアドバイスを求められることもあるが、基本的に相手は自分の話を聞いてもらい、肯定してもらいたいのだ。
そこで下手に持論を交えてアドバイスしたり、説教などしようものなら次はない。
彼は常に自身がなさそうに話す節があったが、その実、内側には彼なりの考えがあるように思えた。
「朝ごはんできるけど、今日は食べられそう?」
「うん……もらおっかな」
久しぶりに体を動かしたからか(言ってもラジオ体操だが)、いつもより少しだけ食欲がある気がした。
最近、朝はいつも面倒で、母の食事をまともに食べたのは何ヵ月ぶりだろうか。
汗を吸った体操着から着替え、母の作った朝食に手を伸ばす。
食卓についていると、大あくびしながら弟の昇龍が起きてきた。
「あん? 姉貴がメシくってるとか珍しいじゃん」
「た、たまには、ね」
「あっそ」
それきり。特に会話らしい会話もなく、弟はドカッと椅子に腰かけて朝食をまるで流し込むように食べ進めていく。
対して、秋穂は小さな口で口で、少しづつ、ゆっくりと朝食を食べていった。
……あまり噛まないで食べるのはよくなんだけどなあ。
などと思いながらも、なにも言えない。
秋穂が大学を休学して時間が経つごとに、弟の態度には目に見えて姉に対する嫌悪が見え始めた。
今も、出会いがしらにこちらに振り向いた以外、顔を合わせようともしない。
昇龍はそそくさと食卓から立ち去ると、登校の準備をしてすぐに出て行った。
母の「いつもはもっとのんびりしてるんだけどね」なんていう言葉が、余計に弟が自分を避けている事実を突きつけてくるようだった。
「はぁ……」
仕方ない、と思いつつため息を吐く。
「ごちそうさま」
「いつもこうして食べてくれると嬉しいんだけどね」
「気が向いたらね」
秋穂も母にそっけない態度を取りながら、二階にある自室へとひきこもる。
中は無残なものだ。脱ぎ散らかされた衣服や下着が散乱し、飲みかけのペットボトルやお菓子の空き箱や袋がゴミ箱から溢れて床に転がっている。無造作に放置されたファッション雑誌に映る綺麗な女性の顔が、なんともいえない虚しさを誘う。
窓は完全に締め切られ、隙間から差し込むスリット状の光が部屋を淡く……残酷に照らしていた。
「……」
前に、部屋は心を映す鏡である、という言葉をどこかで聞いたような気がする。
以前はちゃんと、脱いだ服も、散乱した本も、ちゃんと綺麗に整理して、ゴミなど転がる余地もなかった。
……掃除、しなきゃ。
でも、今はめんどくさいから、また後で。
そうやって、ずっとずっと先延ばしにしてきた。
唯一物がないベッドの上に腰掛ける、すると、秋穂のスマホが震えた。
『今日は無理に相談に乗ってもらってありがとうございました』
『よければ、また話を聞いてくれると嬉しいです』
太一からのメッセージだ、律義にお礼の連絡をしてくるあたり、なんとなく昔の自分を思い出す。
「ま、社交辞令みたいなものかな」
きっと、彼とまた会うことはないだろう。
そう思っていると、
『例えば、明日とか、もう一回時間をもえたりしませんか?』
思わず目を見開いた。
『もう一回』、という文字。
彼はまた自分に会いたいと思ってくれたのか。
途端、部屋で汚れが蓄積した鏡に映る自分を見て、一気に恥ずかしさがこみあげてきた。
濃いクマの浮いた目元、カサカサに乾いてひび割れた唇、肌、手入れもなにもしていない、ボサボサの髪の毛。
手や足は病的に細い癖に、ぽっこりと張り出したお腹周りが妙に目につく。
こんな姿で、自分は他人に会ってしまったのか。
……ど、どうしよう……もう会えない、って断る? でも、でも……
葛藤が胸を錯綜する。
秋穂はスマホしばらく見つめる。
と、またしてもスマホが震えた。
『秋穂さんの予定が合う時で大丈夫なので』
などと、年下の男の子に気を遣わせてしまった。
秋穂は「むぅぅぅ~」と少し唸った後、
『いいよ
今日と同じ時間と場所に待ち合わせで大丈夫かな?』
そうメッセージを送った。
直後、太一から、
『ありがとうございます
それじゃ、また明日
楽しみにしています』
それで、メッセージのやり取りは終わった。
社交辞令、これは社交辞令なんだ。
秋穂はベッドに突っ伏し……しかしすぐに顔を上げる。
「体操着、洗っておかないと」
ラジオ体操とはいえ久しぶりに体を動かして汗を掻いた。
体操着を洗って、シャワーもちゃんと浴びて……
人に会うことを意識した秋穂は、すぐに洗面所へと降りた。
明るいところで見る自分の顔はそれはもうひどいもので、思わず笑ってしまいそうになるほどだ。
「はぁ……」
さっきからため息が尽きない。
秋穂はシャワーで汗を流し、部屋へと戻る。
「……ラジオ体操、懐かしかったなぁ」
学校時代は体育の時間、部活になれば必ずやらされた。
あの時は何気なくこなしていたが、いざ学校から離れてプライベートとでやってみると、随分と新鮮だ。
きっと、これは大人にならないと分からない感覚だろう。
秋穂はラジオ体操と検索した。
すると、自分が想像していたよりも多くの健康効果があることを知れた。
試しに動画サイトを開いてみる。
聞き慣れた音楽と共に、インストラクターが動きを解説してくれている。
学校で教えてもらうのは基本的に第一までで、ラジオ体操には第二まで存在する。
しかし、慣れていないせいか少し動きが複雑に見えた。
「へぇ……一日に3回……朝と、夕方4時ころ……それから、寝る数時間前にやる効果的なんだ……」
夕方は、学校帰りの生徒たちの目があるから厳しいが、夜なら……
「もう一回、自分でやってみようかな」
別に、そこまで大変なこともない。第一までなら慣れ親しんだ動きだ。今日、久しぶりにやってみたが、体が覚えていてくれた。
秋穂は太一とのメッセージ画面をもう一度開く。
久しぶりに言葉を交わした家族以外の人。
『例えば、明日とか、もう一回時間をもえたりしませんか?』
彼は自分なんかと、もう一度会いたいと言ってくれた。
そのことが、無性に嬉しく感じてしまう。
大学で完全に叩きのめされて、メンタルをやってしまった自分。
情けない、情けない、情けない……自分はこんなに弱かったのか、と己を責めて、責めて、責めて……
……私、単純だな。
誰かに求められた瞬間、こんなにも気分が高揚するなんて。
――そして、時間が過ぎて夜の8時。
秋穂はいつものワンピースではなく、動きやすいTシャツにストレッチデニムを履いて玄関を出た。
「あ? 姉貴?」
「りゅ、りゅうくん。おかえり」
帰ってきた昇龍と鉢合わせた。気まずい空気が流れる。
「んだその恰好?」
「ちょ、ちょっと散歩に、ね」
「……あっそ。あんまみっともねぇ姿、周りに見せんなよ」
「……うん」
昇龍の辛辣な言葉に少し気分が降ってくる。昇龍は「じゃま」と秋穂を押し退け、家の中へと入って行った。
秋穂は俯きつつ、誰ともすれ違わないことを願いながら、公園へと向かう。
しかし、ラジオ体操をこなし、汗を掻きながら家に帰るころには、意外と弟の言葉が、意外なほど気にならなくなっていた。
人は暇になればなるほど、余計なことを考えてしまうのだ。
それ故に、運動という体を強制的に動かす行動を取ると、他のことを考えている余裕もなくなり、それだけで思考がスッキリする。
秋穂は、サボり気味だったスキンケアを、もう一度してみようかな、と考えて……
同時に、秋穂は明日が来るのが、少しだけ楽しみにしている自分がいることに、気が付いた。
(꒪˙꒳˙꒪ )
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