金婚式
第何波目かのコロナ禍・・我が家にもいい事が無い。元太郎の咳がなかなか治らない。免疫不全によるものか、不安材料ばかりである。・・酷い咳をしている息子。息子の奢りで、しゃぶしゃぶの老舗へ。50年前夫の父と対面した店であった。50年共に住み、共に生きて居る事は誠に稀な事で目出度い事である。只一つ思い残す事がある。息子元太郎は未だに独身・・これから年老いてどの様に生きるのだろう。何が原因で結果なのであろうか。反省しきりである。また世の男性、女性の考え方も、50年前とは違うようである。これでいいのだろうか?
新型コロナ禍・・・今は何波?エェート・・六波だったかな?七波かな?学校、職場、老人ホーム・・クラスター発生で、大変である。広島市という中堅都市にも多数・・県全体では新規感染者は連日一千人を超えると言うのである。この頃我が家族皆も少し疲れた感じである。皆と言っても三人家族、いい事が無いからであろうか。そんな訳・状況のなかで、息子元太郎が言うのである。「今日の予定空いて居るなら・・皆で検診を受けて、その帰りにしゃぶしゃぶを奢って上げようか?」と言うので「えっ!まぁ!賛成、お願いします。久しぶりのお誘いじゃね。この頃彼女が出来たらしいから、もう我が息子では無いような気がしていたんよ。以前は三人で、よう行ったよね。親子関係は信頼しきっていた。今は違うね。何処でどうなったか?つい一年前迄は・・親の言う事が正しかった。全て間違いが無いからであろう。それを・・お母さんはこの歳になる迄遊ばせて呉れなかった。今から五年間遊ばせて呉れ!」とか言った。デートクラブらしい。ランチしてドライブしていくらかのお金を払って、お話相手して貰うらしい。何が楽しいのだろうか?と思う。リーガグラブとかロイヤルクラブとかいうらしい・・開いていたパソコンを遠くからちょっと見た。まるで結婚紹介サイトのように、写真入りでプロフィールが書いてある。名前はニックネームであろう。確かではないが・・マスモトさんと云う人が元締めかもしれない。そこで吹き込まれた。もう親の言う事は耳に入らなくなっている。「聞かなくていいから独立してよね・・所帯を持てる人がいいよ。もう元太郎のパンツ洗いたく無いんよ!頼みますよ・・。今迄お嫁さんを探していたけど・・詰まる所、本人がその気が無かった。本当の処は、飛び込めない。断られるのが嫌なんでしょ!傲慢なんよね。断られるのは、普通の事よ。何回も断られて・・やっと、わが身を振り返る。当たり前の事よ・・性格とか人格とか付き合ううちに解って来て、好きになるのに。見た目では無いよ。元太郎は性格が良いから、解って貰うには時間が掛かるけど、後は大丈夫よ。まじめに生きるのが一番いいんよ。安心なんよ」でも、もう我が息子は親の言う事を聞いて呉れなくなった。山陰にも行ったけど・・あれが最後かも知れんね!と思って居た。久しぶりである。「嬉しいかな?でも元太郎のその咳!なかなか治らない。心配してるんよ!大丈夫かな。免疫不全と云う様な事はないよね。彼女は一人?それとも?その関係、昔人間は嫌いなんよ!」「別の病院で、血液検査して貰うから・・解かるじゃろう」「そうよね!解れば安心・・ありがとう」と云う訳で親子三人揃って、健康センターへ・・・。お昼から雨が降りだした為か、センターは検診者は多く無い。検温と手の消毒、問診票を書いて、待って居ると受付から呼び出されて、順に受付が済んだ・・。体重、身長を計り・・採尿、採血とトントン進んで・・最後に②番の先生の問診であった。検診結果は、二週間後位に送られて来る事になって居る。三人の検診が済むと、時計は午後四時前であった・・。「次の病院の予約・・丁度いい時間になっている」と云うのであった。次の病院と云うのは・・息子元太郎が、何処からか仕入れた噂なのである。「ワクチン三回打った人はエイズになり易いんだ(後日この噂はデマであったと訂正)」と言い出して、親を実験台にするのである。「そんな訳ないからと言うのに!・・まぁ、元太郎の免疫力低下を検査して貰う為に、付き合います。その咳なかなか治らないから、空咳心配なんよ」この年になって迄も、心配は尽きないものである。本当に心配であった。もう一カ月以上も酷い咳をしている。採血と問診票・・何が心配で来院したかを聞いて居る。皆の免疫力低下と書いた。此処でも結果が分かるのは一週間後である。(後日結果は異状なしと通知が来た)次はしゃぶしゃぶのお店・・予約した時間よりちょっと早いけど・・GO-GO-
しゃぶしゃぶが美味しいと云う老舗である。店の前に車を乗り付けると・・車はそのままでと云う案内人・・。(高級車ではなく軽の車ですが・・よろしくと心で言う)コロナ禍とは言え、さすが老舗である。お客さんは次々とある。「支度してますので少しお待ちください。どうぞ椅子に掛けて下さい」玄関横の待合スペースに掛けていると、元太郎が「ちょっと早かったかな・・」「俺ちょっとトイレに行って来る」夫がトイレに行くという事はなかなか帰らない・・迷い子になって、皆で大探しをする事になるのである。「はい・・行ってらっしゃい!此処に居るから迷い子にならんのよ」「了解・・」返事だけはしっかりしている。部屋の準備が出来た頃、如何にか夫治夫が帰って来て・・三人揃って二階の間仕切りの部屋に案内された。部屋は民芸調に設えてあり、小柄で機敏な所作の係り人が「ナミエです宜しくお願いします」と挨拶をした。「さぁ頂きましょう、ありがとうね。乾杯!兄ちゃんはウーロン茶で乾杯!お店でしゃぶしゃぶを頂くのは何年振りじゃろね。内でも真似して造るけど、お店の味は如何だったかねと思うね。胡麻味のタレは、お父さんもピカイチ上手に作るよね。家に在る調味料全部使って・・割合はその時任せかな?どれどれお店のお味は・・」前菜が出て来た・・可愛い小鉢に盛り付けてある。「あれ~可愛い、美味しい・・筍の木の芽和え・・分葱のぬた‥菜の花の・・」春の訪れを感じるのである。それからお造りであったかな。桜鯛のお造り、中皿に薄く綺麗に並べてある。「家ではこれ程綺麗に出来ないね。すごく美味しい!!いよいよメインのしゃぶしゃぶよウフフ」鉄鍋が運ばれてきた。仲居のナミエさんが給仕をしてくれる。食物を噛む速さが早い私を見て、野菜を取り皿に取り、男性二人より先に手渡してくれた。この順番は最後のおじや迄続いた。隣の席の夫治夫は、モグモグ・モグモグ食べて居る。時間を掛けると完食して居る事に気が付いた。その時から急かさない・・。余計な事は言わない事にしている。夫の横顔を見た。トロンとしてやる気のない眼、少し腫れている感じの顔。脳梗塞二度目の後だもの仕方ないか!表向きは普通の年寄りの行動である。しかし内向きは、作業を頼んでも途中で嫌になり、最後まで出来ない。又、話の辻褄が合わない。用事もしないで、ぺらぺら喋る・・家の者にとっては大変手が掛かる人なのである。此処まで元気になり、今在るを感謝しなければならない事は、重々解っているけれども・・。ついつい愚痴が出て来てしまう。
五十年前、この店で・・夫の父、治太郎と初めて対面したのであった。治夫が早紀の釣書や写真を親元に送ったので、慌てて真相を確かめに来て下さったのだ。店は活気付いて居た、高度経済成長期に入る頃であった・・1970年代。世の中希望に満ち溢れて居た。何もかも出来る!努力すれば、何とかなると思って居た。世の中の風潮であったと思う。そんな折である、美味しいしゃぶしゃぶ、瀬戸内海で採れたカレイの煮つけ、フグのお刺身・・ご馳走が並んでいた。治夫は父治太郎に、首回りがきついよぉと言いながら(子供に帰った気持ちで)、ネクタイを緩めて居た。初めての挨拶は何と言ったか・・覚えて居ない。料理の事は覚えて居る。ペチャクチャ喋る早紀では無いので、それが気に入って貰ったのかも知れない。父治太郎は・・背が高く、体格が良い。県の団体役員であった。若い頃は、軍隊の旗手に選ばれた程の容姿であったという。治夫は男性では小柄の方である。そこで一言・・「小さい時病気されたんですか?」早紀は言って居た。話は一瞬止まった。「はぁ・・」「いえ・・私も、姉より二回り小さいんですよ。幼い頃病弱でしたから・・」その後は眉の形の話になった。聡明かも知れんと感じられたのかな?父は、子供達の眉の形に興味を持って居たらしい。次の日の朝、治夫は仕事が休めない。代わりに早紀がお見送りしたのである。新幹線のプラットフォームで・・「遠い処、態々お越し下さいましてありがとうございました。道中お気を付けてください」お土産に、もみじ饅頭と旅行用の小さなウィスキー、おつまみを手渡して「道中長いですから、お体休ませて上げて下さい」他は何も言わなかった。良い言葉も見当たらない。里の方からお嫁さんを見つけたいであろうから、他は言わなかった。デッキでお別れをした。途中神戸在住の姉(夫の伯母さん)の処に立ち寄ると云う事である。「それではありがとうございました」と早紀「また・・」治太郎は言った。また・・とは希望が持てる言葉かも知れない。早紀は自然に列車に付いて二三歩・・治太郎はウンウン・・と言って居るようだった。早紀はそれから手を振った。臙脂色の自分で縫ったコートを着ていた。
神戸在住の伯母との話し合いで、この縁談は進む事になったようである。嫁という字は、部首は女という字につくりは家という字・・結婚には親の意向も入っていた。家を継ぐ子を育てなければならない。その頃は大体縁談には、素行調査とか身辺調査とかあったものである。貧しい家ながら、ようお稽古をしていると認められたのであろうか。遠い東北育ちの治夫と、広島県生まれ、広島育ちの早紀・・。お世話して下さった方のお蔭なのである。不思議なめぐり逢い、前世からの約束、これがご縁と云うものか。当時の考え方として、結婚は世の中でたった一人の人を探す大仕事であった。それ故嫁入り前の娘は、何処の親も過敏に気遣っていたのである。結婚して五十年が過ぎた・・金婚式は二人で世の中の事に耐えて、互いに人格を認め支え合って迎える記念日であろうか。何より良いのは、子供達の事で共に喜べること。心配事は共に話し合い解決出来るように、模索する事であろう。そして至らなかった処を二人で反省すべき日であろうか。金婚式を迎えた人は身近にそおは居ない。二人とも一緒に生きている事であるから。治夫の父母、早紀の父母・・姉夫婦も叔父、叔母夫婦も金婚式を迎えてはいない。一組あるかなという程少ない・・。それほど稀な事で目出度い事なのである。「これと言って、今行きたい処もないし・・見たい物も、食べたい物も無い。此処にこうして居るだけで幸せという事にして置きましょうか?何か楽しい事をゆっくり考えて置く事にしてね・・」
「お父さん(治夫の事)今日は思い切って本の整理しませんか?納戸にいっぱいあるんよ。孫に読んで貰いたい絵本、置いて有るんだけど・・。希は薄いから?」
沢山の本である。五十年間に読んだ本であるから・・随分な数になる。先ずは絵本・・子供達の為に無理をして、高価でも良いと思った本を買い与えたものである。悔いはない、身について行くだろうと思って居た。しかしながら・・読んで上げた親はしっかり覚えて居るのに、当の本人は全然・・まったく覚えて居ないというのである。シリーズもので、セットにして孫に読んで貰いたかった。あの頃のように・・孫に読んで上げたかった。何度も何度も毎日毎日・・宿題済んで就寝前、布団に入って・・。幼稚園児の娘・・詩織は直ぐにグゥグゥと鼾をかいていた。夢の中で聞いて居るかも知れない、最後まで読むのであった。隣の布団の元太郎は一年生・・物語をじっと聞いて居るのである。一つのお話が終わると、安心したように眠りについて居た。いつ迄続いただろうか・・。詩織が一年生か二年生になる頃まで、毎日毎日・・・。幸せなひと時であった。この思い出が有るだけでいい!孫には古い本を残さなくていい・・と思った。
文庫本のシリーズもの・・徳川家康・・若い頃治夫と前後を競って読んだものである。また物語のちょっと先の事を聞いたりすると、心安らかに読めるのであった。今は字が小さくて、読む気になるのに時間が掛かる。竜馬がゆく・・。信長も・・。三国志・・。治夫の好きな作家は藤沢周平・・池波正太郎・・村上春樹・・。一冊買えば二人の読者が居る、効率は良いのである。リサイクルショップに持ち込んで見ようかな。値のつかない本も有るらしいけど・・売れそうな本を仕分けして、段ボール二箱になった。治夫に手伝って貰ってやっとの事、リサイクルショップの駐車場に持ち込む。治夫にカートを借りて来て貰って、重い段ボール箱、二箱を載せた。力の必要な処は此処まで、後はレジの順番が来て店の人が手際よく処置して呉れて居る。「値が付かなかった本は如何しましょうか?お持ち帰りですか?捨てましょうか?」「捨てて下さい」持ち帰って資源ごみの日に出すのも辛いから・・。「段ボールは如何しましょうか?」「持ち帰ります」と躊躇わず、言って居た。詩織に送る、荷造り箱に利用するつもり。また本を入れて資源ごみで出そうと思って居た。「計算出来ました。二百七十五円です」「えっ!本当?」レシートを見た!四十八冊買って頂き、二百七十五円也・・。殆どが五円で買って頂いた。「五円なんですか?」持って来るのが大変であった。重くて二人掛かりよ・・。お茶代にもならない。・・真っいいかな!私達は存分に読んでいるから。これから此の本は綺麗に整理されて、本棚に並び・・何方かに買って頂くのだろう。何方かに読んで頂くので嬉しい・・。売値は百円位かな?もっと高いかな?手間が随分掛かるから。
爽やかな季節とは、今日この頃の事であろう。寒くも無く暑くも無く・・明日は和服の虫干しをしようかな。着物(和服)を着る機会が無くなった。又・・足腰が痛くて様にならない。手が痛くて着つけが出来ない。若い頃のように楚々とした着物姿にはならない。箪笥の肥やしとはこういう事か・・。かと言って全部無くす・・売り払う事は出来ない。女性の着物には人生の思い出がいっぱい籠って居るからである。着物を着た折々が記念日であったからであろう。娘詩織の卒業式には早紀の着物をそのまま着て貰った・・。レンタル着物の時代になっていた。そんな中、早紀の若い頃の着物を喜んで着ていた。袴を着けて居るので胸元と袖しか見えないのであるから、早紀が選んだ小紋柄の着物は良かった。その着物は早紀が二十歳になる時、一年間積み立て貯金をして、初めて買った着物であった。母美子の見立てである。仕立ての内職をして居た母の見立ては、着る人を引き立てる落ち着いた良い柄である。
虫干しをした日も、良いお天気で爽やかな風が吹いていた。先ず全部の着物を箪笥から出して、衣紋掛けやハンガーに掛けて風を通す。二階の二間続きの部屋の窓際、風の通り道に昼過ぎまで吊るして置く。とにかく全部を、帯も長襦袢も帯締めも箪笥から出して風を通すのである。まだ躾のある(着ていない)着物もニ三着ありそう・・。如何したものだろう。洋服に仕立て替えた着物もニ三着ある・・。でも一張羅にはならなかった。座布団カバーを作った。和柄の座布団カバーは好評であった。座布団は和ベースであるから、部屋はしっくりと落ち着いた感じである。一枚の着物から、四枚の座布団カバーが出来る。
早紀が着た振袖は、白地に大きく薄いピンクやブルーの花の柄であった。洗い張りをして、いつでも縫えるように、裏地まで買ってある。でも如何したものだろうか・・思案している。孫は着てくれるだろうか?新しい振袖が良いのだろう。レンタルがいいとか言い出すのだろうか?もしも、お祖母ちゃんの振袖を着る・・とか言って呉れたら・・薄くピンクとかグリンとかの色を入れて、薄く染めると良いかな?白い生地の黄ばみが目立ち難くなり、今風の振袖に出来上がるかも知れない。如何じゃろうね?畳み方も覚えようとしない・・。虫干しもしないだろうなぁ・・。迷惑かな?邪魔かな?だったら何を作ろうかな・・。掛け布団かな?これも今は中綿はダウンだから・・綿の和布団は重く感じるであろう。琴のカバーもいいかも知れない・・。もうちょっと考える事にしようかな・・孫はまだ中学生だから。そして虫干し・・夕方までに元あったように畳まなければならない。湿気が来ない様に紙を間に入れて綺麗に畳んで、タトウシに包んで箪笥に入れるのである。とても忙しい一日になる。コーヒーを一杯とも言えない程である。虫干しをした着物を畳まなければ・・部屋が使えない。布団が敷かれない。一日が終わらないのである。
思い残す事が一つある。息子元太郎の事である。此のまま一人で老いて行くのだろうか?夫治夫が逝き、私早紀も死んでしまうのに・・元太郎は何の準備もして居ない。親は何時までも生きてはいない。そろそろ独立して欲しい。何事にも原因があり結果があるという・・我が家の場合、何が原因して居るのだろうかと思う。幼い頃から元気で、気立ての良い子供であった。成績はいつも良かった。友達皆から好かれていた。只・・鼻(蓄膿症)が治らなかった。手術したのは成人してからであった。(鼻腔の粘膜をレーザーで焼く手術・・骨を削る手術)小学生の時は出来なかったのか?洗浄に耳鼻科に通ったものだった。治す術を一番に、何としても探すべきであった。そして体作りにスポーツ・・向いて居る運動をさせて上げれば良かった。週一の水泳には通ったけれど。お稽古事や塾は必要であったか?身体を作るそして心を育てる事を念頭に置かなければならなかった。遊びの中で、善悪を判断する事を学ぶのであろう。私早紀は何を急いで居たのだろうかと思う。反省しても取り返しは付かないけれど、これから何としてでも良い方向へと思う。親の残された時間は余り無い・・。丁度一年前迄、元太郎は心も純粋で、気立ての良い人であった。初めて自分から婚活をすると言った。結婚紹介所に四カ月在籍して居る間に、50人か60人に申し込んだそうだが(自営業・年収の関係か又は年齢、ルックスか)誰も会ってお話迄にはならなかった。「誰もかれもと云うのじゃなくて、一人に集中して念じて、ダメなら次の人に申し込む。という事にしないと女性に失礼かもしれんよ。一度に10人も20人も・・数撃ちゃ当たるという考え方は止めて下さい」元太郎は「そんな事をして居る時間が無い・・」と言った。結局・・紹介所の手前か?一人だけ会って下さる人が居た。お見合い迄運んだのである。お見合い日が決まってから料理の練習もして、話題作りをしていた。元太郎は純粋な気持ちで喜ぶのである。そして緊張して居た。しかしその人にも断られて・・「俺位じゃぁダメなんだな」と一言いった。自棄になったのかな。・・自棄になる!そんな暇、お母さんの人生には無かったよ。甘いよ・・とちょっと前までの早紀は言って居ただろう。でも今は違う・・本人が悩んだ末の行動であろう。蓄膿症と云う体の不備を抱えながら、一心に親の期待に応えて居た。努力する人であった。元太郎・・ありがとう。そしてごめんなさい。を言わなければならない早紀である。今迄の殻を破って生きようとして居るのであろうか。同じ頃・・デートクラブの関係者が声を掛けて来たらしい。この不安な状態は何時迄続くのだろうか?我が家はどうなるのだろうかと思う。跡取り息子が、金のクルスのネックレスをするようになった。考えられない!と思って居る。親はいつかは死ぬのである。何としても、一人でもちゃんと生きて欲しいと念じて居る。人様に迷惑を掛けないで頂きたい。元太郎はもう親の手の届かない処にいるのであろうか。この頃仕事をして居るのだろうか?自営業だから、気ままに出来るけれど・・今迄頑張った仕事も、即売り上げが落ちて居るではないか。仕事が手に付かない様子だけれど・・如何するつもり?これからの計画を立てて居る?この状態ではやる気が無いから仕事が無くなり、お金が無くなり、借金をしてしまう。親の家を売り払い、デートクラブにつぎ込んでしまう?その金も使い果たし・・デートクラブの用心棒になってしまうん?この頃の若い女性・・大丈夫なのかな?人生をどの様に考えているのかな?・・息子元太郎よ、今の状態で安心できますか!自分の判断、自分の責任ですよ。頼みます!・・・と、今迄どうりの親の価値観を押し付けて居る。どんな世の中になろうとも、悪の栄えた試しは無いからである。
「お父さん(夫治夫の事)ちょっとでもいいから元太郎と話す時間を取って下さい。何の話でもいいから、私達・・これ迄に話し合う事をしていない。仕事優先に考えて居たから、相手を理解して居ないよね。お互いの気持ち、解かるのは当たり前としていた。話もしないでは解らない。ここからやり直しませんか。脳梗塞二度目のお父さんだけれども、出来るよね。二人の最後の仕事と致しましょう。元太郎は如何思うかね。嫌われるかも知れないけれど・・」
そして年老いた私、又はあの世に居る私に出来る事があるとしたら・・。
蝶になって、折々に身近に居て上げたい。辛い時・・虹になって慰めて上げたい。爽やかな風になって、優しく労わって上げたい。私早紀も亡くなった母に、そのように見守られていたから・・・。世の父や母は、いつも身近に居て、優しく見守って居ると・・気付いて下さい。
終わり
金婚式を迎えることが出来た。とても目出度く、有難い事である。お祝い事は後日として置き、今在るを感謝しなければならない。息子は何時までも子供ではない。取り越し苦労と解って居るけれど。親は年老いて何も出来ないけれども・・何とか良い方向へと念じている。