8
重い体を引き摺ってアパートへと帰る。時刻は夜中の二時で、静かに部屋へと入った。
靴を脱いでベッドへ倒れ込もうとしたとき、影が揺れた。
「勇さん」
突然掛けられた声に驚いて、たたらを踏んだ。心臓が口から飛び出るかと思った。
「きゅ、急に声かけんな、馬鹿! びっくりしただろが」
「ご、ごめんなさい~」
シュンと落ち込んだ声だ。
起きているなら遠慮はいらないと照明を付ける。眩しさに目を細めた根岸が、そろそろと顔を上げた。
「眠れないのか?」
だったら温かいものでもと立ち上がれば、ぐいっと袖をひっぱられた。
「勇さんと、話、したかったから」
「俺と?」
のんびりした話し方はいつも通りだが、おどおどした雰囲気はない。目線をふらふらさせることもなく、じっとこちらを見ている。
「どうしたんだ?」
珍しい。
何事もないようなふりをして冷蔵庫を開けコーヒー豆を取り出し、湯を沸かす。
静かにゆっくりとコーヒーを淹れて根岸に渡して、ようやく口を開いた。
ありがとうございますと一言告げてから、口をつけている。
いつも通りに見えて、いつもと違う緊張感。
待ち望んだ言葉が聞けるのかもしれない。
待ち望み、それでもずっと言わないでくれと、心のどこかで願っていた言葉を。
「勇さん」
名前を呼ばれる。いつものように甘えん坊な呼び方じゃない。少し震えているが、しっかりと名前を呼ばれた。
目線を合わせることで返事を返す。喉はカラカラだった。
「離婚も、慰謝料請求も、順調です。びっくりするくらい」
よかったなと返すと、頷かれた。
「相手の親が、示談にしてくれってしつこいくらいで」
そりゃそうだろうなとげんなりする。しかし根岸にはそんなつもりはないらしい。それにほっとして続きを促した。
「すべての決着がついても、ここにいてもいい?」
「は?」
予想外の言葉にびっくりして跳ねた。俺の驚きに根岸も驚いているが、それどころじゃない。
「な、なんでだよ。カフェの仕事、来月には正社員になれるんだろ? だったらこんなボロアパートで体縮めて生活しなくてもいいじゃねぇか。ここから歩いて五分のところにいい物件あったぞ?」
そこのほうがいいだろうと言ってやる。
この部屋には根岸のものはほぼない。布団も最初の夜に貸してやった、冬用の掛け布団を縦半分に折り畳んだものだし、もう秋だというのに上はタオルケットのままだ。
狭いこの部屋では無理だが、こいつがきちんと部屋を借りればベッドだって置けるし、テレビだって置けるだろう。わざわざ苦しい生活しかできない部屋にいなくてもいい。
決着がつくまでならわかる。なのにそのあともとは……正直、無理だ。俺が無理だ。
「不動産屋のおっさん、ガラ悪そうに見えるけどいい人だよ。ここの物件を教えてくれたのもあの人だ。情に厚いから、事情を話せば今の自分にあった物件を探し出してくれるぞ」
なんとしてでも離れたい。そんな気持ちが出てしまっていたのだろうか。くしゃりと顔を歪ませた根岸の目からぼろぼろと涙がこぼれだした。
「な、なんで泣くんだ!」
こっちが泣きたいと叫びたい。ぐっと本音を飲み込んで言えば、泣きますよと逆ギレされた。
「だって勇さん、俺を追い出そうとしてる!」
「いや、そういうわけじゃねぇよ」
「嘘だ!」
「う、嘘じゃないって」
ギっと睨まれてびくりと体を硬直させれば、傷ついた表情を浮かべられ焦る。
なんで焦らなきゃいけないんだと思いつつもこいつがこんな顔をしているのが珍しく、強く言い返すことを躊躇ってしまった。
それが駄目だったんだろう、根岸は無言でコーヒーを一気に飲み干してマグカップを乱暴に片付けたあと、そのまま頭まで布団を被って寝てしまった。
声を掛け辛く、俺も静かに布団へと入るしかなかった。
根岸は、翌日も引き摺っていた。ぷくりと頬を膨らまし、しっかりと拗ねている。
何度も俺に、必ず帰ってくるから、仕事に行ってくるだけだからと言った。早朝、俺が仕事に行く頃に起きてまで言って来たのだ。彼は本気なのだろう。
どうしてそこまでと思ってしまう。ここにいたっていいことなど何もない。しいて言えば、家賃が浮くくらいだ。
現代人らしい最低限の生活すらできない部屋の何がいいのか。
ほとほと困ったがどうすることもできず、今日も仕事に精を出した。
仕事と仕事の合間に部屋に帰れば、またメモが置かれている。
ケンカ中でもそういったことはちゃんとしてくれるようだ。内容はしっかり拗ねているが。
「あー……ほんとバカだな」
馬鹿だ、俺も。
ただ保護してやっただけなのに、こんなにもこいつに参っている。可愛いと想っている。
こいつを癒したい、こいつに癒されたいと思っている。
思わず握りしめてしまったメモ用紙は無残にもぐちゃぐちゃになってしまったが、それを綺麗に伸ばして引き出しにしまった。