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その日は夕方からコンビニへバイトに行き、夜中に帰ってきたら、根岸は暗い部屋で静かに待っていた。スタンド照明の小さな灯りだけで、俺が持っている唯一の本を読んでいたようだ。
帰ってきたら一目散に玄関までやってきて、おかえりなさいと言った。
慣れない言葉がくすぐったくて、泣きそうだった。おかえりなんて言われたことがない。
コンビニで貰って来た廃棄弁当は三つ。俺の経済事情を知っているオーナーだから、二つ貰っていいかと聞くと二つでも三つでも持って帰れと言われた。
それを静かに食べて、しばらくしてから寝た。
翌日朝、パチンコ屋の早朝掃除から帰宅したら根岸はすでに起きていた。箒で床掃除をしている。
ぎこちない扱いに、箒が使い慣れていないだけかと思ったがそうでもないようで、掃除は毎日していたがやり方が分からず、ずっと自分なりにやっていたそうだ。
クタクタだったが、箒の掃き方を教えた。
昼、こいつが全く料理できないことがわかった。
料理をしたことがないという根岸だったが、タダ飯食うべからずなのと、本人にやる気があったから教えた。しかし、壊滅的不器用さで断念。
激安スーパーで買ったうどんに五枚三十八円で買ったおつとめ品の油揚げを炊いて冷凍しておいたものを温めて乗せ、ベランダからネギを取ってきて刻んで乗せて食べた。
「家庭菜園ですね!」
「スーパーで買ったネギの根っこを植えただけだ」
家庭菜園なんて、そんなちゃんとしたもんじゃない。それでもすごいと目を輝かせている。しきりに感動していた。
不思議な男だった。
そんな生活に文句を言わず一カ月。男はようやくバイト先を見つけた。
身なりを整えた男はえらく美形だった。
垂れ目で、いつもふわふわと甘く優しく笑っている様子が癒されそうだと、近所にあるカフェの女性オーナーが声を掛けてきたそうだ。
俺の、伸びたテロテロTシャツに、激安の店で買った時代遅れの五百円のデニムを履いて、寂れたシャッター通りを歩いていたのにも関わらずだ。女性というのはイケメンを見抜く目がすごい。
バイトから帰ってきた俺に嬉しそうに話す男は、一カ月に貰える給料の予想を立て、俺に返す分――衣服などの必要最低限のものを俺が立て替え購入した為だ。と、生活費として俺に入れる分、貯金に回す分と、指を折りながら計算している。
給料貰うのなんて、初めてじゃないだろうに。
ひどく喜ぶ様子は初めてバイトする高校生のようで、不思議に思うも聞く事はしない。
多少、情は沸いたものの、やっぱり面倒事には巻き込まれたくなかった。十分に巻き込まれているが。
「あ、そういえば、お昼に大家さんが来て、これを置いてってくれましたよ~」
夕飯の廃棄弁当をテーブルに並べる俺の横から冷蔵庫を開けて、大きな皿を取りだした。
「大家さん? やべ、何も言われなかったか?」
「はい! 俺がいるのに驚いてましたけど~、事情を聞かれて正直に答えたら、泣きながらそういう事ならいくらでもいて頂戴って言われましたぁ」
「は?」
「それで、これを二人で食べてって」
テーブルの上には、お袋の味の定番とも言える肉じゃががこんもりと盛られた皿。肉じゃなくツナだが。
「あの大家さん、また泣いたのか……」
「びっくりしましたよ~! 空腹と怪我で雨の中動けなくなっていたところを勇さんに助けてもらって、食わせてもらってるんですって言ったら急に泣きだしちゃって~」
泣きやんでもらうの、すっごい大変だった~と困ったように笑う男に、何正直に言ってんだよと呆れたら、慌てだした。
「え? え? 駄目、でした?」
「駄目じゃねぇけど……出ていけとか、言われなかったんだろ?」
「う、うん」
「じゃあ大丈夫だろ」
それもこの男が美形でこの性格だからだろうな。元々優しい人だが、きっと大家の心をがっしり掴んだに違いない。
温め終わった弁当を並べ、二人でテーブルに着く。手を合わせてから食べ始めたものの、肉じゃがに手を伸ばす男はそのたびに俺にちらちらと視線を飛ばしてきた。
「……何か、他にも言ってたのか? 大家さん」
多少嫌な予感はする。チラリと男の顔を見てから、くそ甘い卵焼きを口の中に放り込んだ。
「あの、勇さん、ご両親の借金を肩替りしてたって、自分もご両親に捨てられて、高校生の頃から慎ましく生きてたから、俺の苦労とか気持ちがよくわかって、放っておけなかったんでしょうって。その、借金って、ご自分のじゃなかったんですね……」
ちっ……
思わず打った舌打ちに、男の顔が一瞬で青ざめた。
「あの、ごめんなさいっ! 俺、その」
「いいんだよ、もう終わったことだし」
さらりと言えば、涙目の男はきょとんとした。
「本当のことだし。それに言っただろ? 借金はもう完済してる。俺ももう成人してるから今さら親なんかどうでもいいし」
「勇さん……」
「勘違いしてる奴はそのままにしておけばいいし。知ったところで何もないだろ? 誰かが変わりに払ってくれるわけでもないしな」
肉じゃがうまいな。
租借しながら呟けば、男がくしゃりと顔を顰めた。
「そうだ、これ渡しとくよ」
これ以上聞かれるのも湿っぽくなるのも嫌で、話しを変えてしまう。
ズボンのポケットから取り出したものをぽいっと投げて渡した。
「うわっ」
慌ててキャッチした男は、その手の中に掴んだ物を見て息を飲んだ。
「いるだろ? お前もバイト始めるんだし」
「う、うん」
じっと手の中の鍵を見つめている男の目に、じわじわと涙が溜まり始めた。
おいおい、プロポーズされた女かよ!
突っ込みそうになって、寸前で止めた。
呆れてたら、男はぐいっと腕で涙を拭い、満面の笑みを浮かべ頭を下げた。
「ありがとう~! 勇さん!」
「……鍵、渡しただけだし」
「でも嬉しいです~」
大事に大事に手の中に鍵を包む男に呆れつつも、ほんの少し、心の奥の暖かさに頬が緩む。
マズいなと、思う。じわじわと、俺の心を浸食してきている。
鍵に頬擦りしだした男を慌てて止めて、俺は食事を再開した。