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 携帯の目覚ましの音に意識が浮上する。レースのカーテンしか掛かっていない部屋にはもう眩しい程、朝日が差し込んでいた。

 大きく伸びをして床を見下ろす。こんなにも眩しい朝日が顔を直撃しているのにも関わらず、男はぐっすりと眠っていた。

 寝る前同様に心底安心しきった表情のまま。まるで幸せだった頃の夢を見ているかのようだ。

 スマホのカメラを起動させ、男の姿を何枚か写真に収めた。なにかあった時の証拠用だ。

 首をコキコキと鳴らしながら洗面所に行き、身だしなみを整えたあと戻ると、さすがに男も目が覚めたようで体を起こして窓の外をぼおっと眺めていた。


「おはよう。眠れたか」

 

 声を掛ければビクリと大げさなほどに体を強張らせ、そろりと振り向く。その顔は青ざめていて、今にも叫びだしそうだった。


「おい、大丈夫か?」

 

 思わず声を掛けてしまう。


「あ、大丈夫、です。おはよう、ございます」

 

 まだ半分寝てるのか? 強張った顔は少し緩んだものの、どこか意識がはっきりしていないようだ。


「朝食、パンでいいだろ?」

 

 気にはなるものの、聞いてしまったら最後だ。薄情だとか何だとか言われようが、俺は俺のことで精一杯だから勘弁してほしい。

 インスタントで薄いコーヒーを淹れ、食パンを2枚焼いて置いてやった。

 他にはない、たったそれだけの食事だ。それでも男の目は輝いた。

 先ほどの表情はどうしたと言わんばかりに男は目を輝かせ、こちらを見上げている。待てと言われた子供か犬か。


「食う前にすることは?」


 まるで子供をしつけているかのように言ってやれば、布団を畳み端に寄せ、洗面所へ行き身なりを整えて戻ってくる。

 気を悪くした様子はない。キラキラ光る目があまりにも素直で、いたたまれなかった。


「……食おうか」

「はいっ!」

 

 あまりに元気のよい男に、なんだか眩暈がする。


「美味しいです!」

 

 嬉しそうに口の端にパンくずを付けた笑顔の男が言う。薄いコーヒーに食パンだけの朝食なのに、マーガリンやジャムすらないのに、文句一つ言わない。


「そりゃ良かった」

 

 俺の返事にすら嬉しそうに笑う。

 一体、どんなところから逃げてきたんだろう、こいつは。


「あ、あの、俺、根岸英彦っていいます。昨晩は本当にありがとうございました。あのままだったら、俺、今頃……っ」

 

 食パンを1枚食べ終わった男は落ち着いたんだろう、自分の名前を名乗り出した。

 しかし、すぐに声を詰まらせる。下唇をぐっと噛みしめ、嗚咽を堪えているようだった。


「……杉田勇。別に、大したことしてないから気にするな」

 

 すっと視線を逸らす。多分顔には出ている。面倒事には巻き込まれたくない、朝食を食べたら出ていってくれと。

 根岸と名乗った男は、立ち上がったかと思うと勢いよくその場に土下座した。


「なっ」

「お願いです! 俺なんでもします! しますから、しばらくここに置いてください!」

「はぁ!?」

「俺、行くところがないんです! 仕事もなくて、金もないんです! 仕事探して、ある程度お金が貯まるまで、なんとか、なんとかお願いします!」

 

 大きな体を小さく小さく丸めた男は必死に叫んだ。


「ちょ、ちょっと煩いから! 近所迷惑になる!」

「でもっ」

「でもじゃねえんだよ! ここ無理言って借りてんだから、追い出されたらどうしてくれんだよ!」

 

 小声で怒鳴れば根岸はぐっと堪え、眉を思い切り下げた。


「あのな、見たらわかると思うけど」

 

 溜息をつきつつ、男を座らせる。俺も腰をおろし、薄いコーヒーを一口飲んだ。


「わかるだろ? 俺な、すげぇ貧乏なの。借金まみれで先々月やっと全て返済して、やっとまともな生活を送れそうかなって時なの。どれくらい貧乏か、見たらわかるだろ?」

 

 そう言えば男がグルリと周囲を見渡した。


「何も、ない」

「悪かったな」

「だ、だって、見たらわかるって」

「正直すぎて褒めてんだよ」

 

 しょぼんと落ち込み、上目遣いでチラチラとこちらを見る。


「テレビは前の住人が置いてったやつだし、冷蔵庫とベッド、布団一式は大家さんの息子のお古だ。このテーブルは違法投棄された大型ゴミを持ち帰ってきたの」

 

 ぎょっとした男に、にっと笑ってやった。


「今まで風呂無しの、トイレだけは共同であるっていう激安アパートに住んでたの。台所で風呂だぜ? 笑うだろ。なんとか借金返済終わったから、逃げるようにここに引っ越ししてきたんだよ。自分のことで精一杯なんだよ、俺は」

 

 人を一人、保護し養う余裕なんて全くないっつうの。しかも、どこの誰かわからない、厄介ごとを抱えている男を。


「昨晩はな、ほっといたら命に関わりそうだったから助けてやっただけ。これ以上は、今度は俺の命に関わるんだよ」


 溜息と共に告げれば、ついに男が泣きだしてしまった。


「お、おいっ」

「杉田さんっ、は、なんて、なんていい人~!」

「は!? お前、人の話聞いてたのかよ!」

「聞いてた! 聞いてました~!」

「じゃあなんで!」

「自分の事で精一杯なら、たとえ命に関わろうとも人を助けようなんて思わないと思う。なのに、俺を助けてくれた。俺、なんでもします。できること、なんでも。一生懸命働いて、早く出ていけるようにします。だから、だからお願いします。しばらく置いてください!」

 

 大きな体をぎゅっと丸め、額を床にべったり付け頭を下げた男。のんびりとしか喋れない、頭が弱そうな男。

 あぁ、ほんと迷惑だ。俺は大きな溜息を吐いた。


「……早くバイトなり職を探せ。給料出たら生活費を徴収するからな」

 

 俺の言葉に男はバっと勢いよく頭を上げた。信じられないという顔をしている。そんなの、俺のほうが信じられない。


「あの」

「なんだよ」

「い、いいんですか?」

「仕方ないだろ」

 

 このまま追い出したら、夢見が悪いっていうか。

 眉間の皺が深くなった俺に、男は再びその目に涙を溜めた。


「その、聞かない、んですか?」

 

 震える声で申し訳なさそうに聞いてくる男の鼻から、透明な水が垂れてきた。


「……聞かない。面倒事に突っ込みたくないからな」

 

 半分に切った節約箱ティッシュを渡す。気付いた男が頭を下げて一枚だけ取ると、それで鼻をかんだ。

 世間では一回につき二~三枚取るのが普通だそうだが、この男は一枚だけだった。

 そこに妙な感心と、もやもやしたものを感じた。しつけなのか、それとも……いや、ともかくだ。


「俺を巻き込むな。条件はそれだけだ」

 

 そう告げると、男の涙腺と鼻は再び決壊した。

 汚い……。

 床に額を付けた土下座スタイルのまま、何度も何度もありがとうございますと言う男を見下ろし溜息をついた。

 困っている人は正直放っておけない。自分が辛さを知っているから。

 しかしそれも、借金を完済したことで出来た心の余裕があったからだろう。

 こんなことは想像だにしていなかった。



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