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アパートに入るや否や、俺が持っているコンビニ袋に飛びつきそうな男をなんとか宥め風呂場へと押し込むと、とりあえずタオルで簡単に拭いて着替え、インスタントの味噌汁を二人分と、冷凍ご飯をチンして作ったお茶漬けを用意した。
さすがに今日はまともに夕飯を食べられそうにない。腹は盛大に鳴っているが。
勢いが強くなった雨を眺めながら、大きくため息をついた。
「あ、あの、お風呂、ありがとうございました……」
風呂から出てきたのか、腰にフェイスタオルを一枚巻いただけの男が所在なさげに立っている。
「そこ、座ってろ」
座布団なんてものはない。畳の上に座った男は、窓の外をじっと見つめている。服の用意をしてやりながら、男を観察した。
無精髭と長い前髪のせいで風呂上がりでも小汚らしいが、きちんと整えたらそれなりになりそうだ。しかし問題は体のほうか。
肩にやけどらしき痕と打僕痕。
左胸の上にあるのは切り傷。
両腕には煙草を押し付けられたような痕がいくつもあり、青痣は体中にあった。どれも新しそうだ。よく見れば口角も少し赤くなっているし、長い髪からチラリと見える瞼も腫れている気がする。それに骨の浮いた胸。
喧嘩ではないだろうな、この傷は。
ふと虐待や監禁、パワハラやDVという言葉が浮かぶ。しかし、これ以上面倒事に巻き込まれるのは嫌だと思考を止めた。
栄養が足りていないんだろうパサパサの髪の毛を、男は鬱陶しそうに弄っていて、そわそわと落ち着かない様子だ。
カーテンレールに干してあるTシャツを手に取る。部屋着にしているそれなら大きめだしこの男でも着られるだろう。
下は同じく干してあったステテコを渡した。今のものはカラフルだから問題ないし文句は言わせない。
「下着、新品ないんだけど、洗ってあるからいいか?」
「は、はい。すみません、何から何まで」
「気にすんな」
そそくさと、少し小さめなそれに着替えた男は再び床に座り、こちらを見上げている。長い前髪から覗く目はキラキラと輝いていた。
「……飯にするか」
「はいっ!」
この言葉を待っていたのだろう。嬉しそうに大きく返事した男は、俺の後を金魚のフンのようにフラフラしながら付いて歩いてきた。
「座って待ってろ」
「は、はいっ」
せっせと準備をする俺の真後ろでそわそわする様子が、まるで犬だ。
「ほら」
小さな折畳み式のテーブルに、温めなおしたコンビニ弁当と味噌汁を置いてやる。自分の前には熱い茶を掛けたお茶漬けと味噌汁を置いた。
「いただきます」
両手を合わせて箸を手に取る。
正直、体が飯を受け付けていない。空腹に泣く胃は必死に食物を求めているが、無理矢理詰め込んだお茶漬け一杯だけにしておいた。
「あの」
「ん?」
味噌汁を一気飲みした男が、おずおずと声を掛けてきた。
「ご飯、俺、その」
男の視線は俺の手元と、男の前に置いてある一つだけの弁当を往復していて、言いたいことはよくわかった。
「あぁ、いいんだよ。元々今日は食べるつもりなかったし。それはバイト先の廃棄なの」
「廃棄?」
「あぁ。俺コンビニでバイトしてんの。捨てるのはもったいないからって貰って来ただけ」
本来はしてはいけない事だからおおっぴらに言えることではないが、この男なら大丈夫だろう。信用云々ではなく、言えないだろうと思った。
「貰ったのはいいけど食えないし、どうしようって思ってたとこなの。だから食ってくれたほうが助かる」
そう言ってやれば安心したのか、弁当にも箸を伸ばした。
気持ちいい程の食いっぷり……というよりは心配になるほどの勢いに、予想していることがほぼ当たっているんだろうと、げんなりしてしまった。
おそらく、この男は家族に暴力を振るわれているんだろう。
家族かと思ったのは、この食いっぷりからだ。きっと満足に食事を与えられていないに違いない。
見た目的に未成年ということはなさそうだが社会人には見えない。学生、フリーターか。
なにかしら働けそうな年齢に見えるが、給料はあってもそれをすべて取り上げられているのかもしれない。
あぁ、困った。
ここまであからさまだ。明日、うちから放りだせるだろうか。
今日こっぴどくフラれたばっかりで傷心なんだが、悲しむ暇すら与えられないらしい。ガツガツ食べている男の様子を眺めながら、こっそりと溜息をついた。
食べ終わった男は、両手を合わせて行儀よくごちそうさまと挨拶をした。しつけはきちんとされているらしい。
後片付けをするという男を制し、その場に座らせた。礼をする気はあるようだが満身創痍の男はいま、心の底から安堵しきっているのだろう。目は今にも寝てしまいそうなほどトロンとしているし、体はふらふら揺れていた。そんな男に手伝わせて貧乏人にとって貴重な食器を割られたりしたら困る。100均で買えるとはいえ、100円あったら食パン一袋買えるのだ。
テーブルを移動させ、出来たスペースに冬用の掛け布団を半分に畳んだものを敷き、タオルケットを置いた。
「客用布団なんてないから。これで我慢してくれ」
ベッドを譲る気はない。心も体もボロボロなのは俺もなのだ。食欲がなく、こうして厄介事を拾ってしまい、一人で心を休めることもできないんだから、せめて体だけでもちゃんと休ませて欲しい。
さすがに男も嫌がることなく、何度も首を縦に振った。しかし遠慮してというわけではなかった。
「ちゃんとした布団で寝るの、久しぶりだから嬉しい」
ふにゃんと頬を緩めた男に頭が痛くなる。これがちゃんとした布団だなんて。
それに、いい年した男がなんだ、その言い方。
しかもあれだ、これ、そういうことだろ? ちゃんとしたところで今まで寝ることができなかったって……布団すら与えられていなかった可能性大っていう。
大丈夫かよ、こいつ。
喋り方ものんびりしていて、頭の緩い男が途端に心配になってきた。
「さっさと寝ろ」
コクコクと素直に頷いた男は、ごろりとすぐに横になる。背の高い男には足がはみ出てしまうが、冬でもないし風邪は引かないだろう。
「ありがとうございます」
「おう」
「おやすみ、なさい」
小さな小さな声。俺よりでかい図体なくせに、弱々しいその声は安堵に満ちていて、かすかに震えていた。
俺がおやすみと返す頃にはもう、寝息が漏れていた。
見知らぬ男の家で、心底安心しきった顔で寝る浮浪者。いや、被害者。
かわいそうにとは思う。俺にはどうしてやることもできないとも同時に思った。
色々と非力なのだ、俺は。
電気を消し布団に入る。瞼を閉じれば暗闇の世界が広がった。
嫌な黒だった。俺は昔からその世界が嫌いで苦手で、それでも目を閉じないわけにはいかず、ひたすら無心で羊を数えたが、ふとその闇に、煙草の煙と無表情の男の顔が浮かんだ。
今日、俺を振ったあの酷い男の顔。
腹の底からわき上がる怒りを拳に乗せて振るも、届かない。
唇を噛みしめ睨みつけていれば、その顔が今となりで寝ている、ふにゃんと緩んだ男の顔に変わった。
一気に怒りが霧散する。不安や恐怖が消え、体中の力が抜けるのがわかった。
すぅっと静かに意識が沈み、夢も見ないほど深く眠りの世界に落ちていった。