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「いらっしゃいませー」

 

 やる気のない店員の声が店内に響く。品出しをしながら俺も声を出すが、俺の声も大概だろう。深夜なんてほとんど客が来ないから怒られることはないが。

 今人気のアイドルが笑みを浮かべている、華やかなパッケージのお菓子をひとつひとつ並べていく。

 俺も女だったらなぁとは思わないが、こんな風に笑顔でいられる普通の人でありたかった。

 立ち上がり、折りコンをしまう。


「野崎さん、ちょっとトイレいってきます」

 

 今日のパートナーに声を掛け、向かった。

 体が重い。疲れが溜まっているのはわかっているがこの体の重さにはほかにも心当たりがあり、うんざりした気持ちで額に手を当てた。

 熱い。最悪だ。

 洗面台に手をつき、項垂れる。


「ホント、俺、ひどいな」

 

 顔を上げると目の前の鏡には顔色の悪い男がいる。言えないことを溜め込み、人生どうにでもなれと捨てかけている男だ。

 怖くなって、自らの頬をパチンと叩いた。

 カチャリと背後のドアが開く。そういえば仕事中だったと慌てて背筋を伸ばし、いらっしゃいませと声を掛けようと振り返った。


「あ……」

 

 息をのむ。そこにいたのは客じゃない。根岸だった。


「勇さん……」

 

 くしゃりと顔を歪めた根岸の目からは、ボロボロと涙が溢れてきている。昨日と同じ格好のまま、髪の毛もぼさぼさのままだ。

 たしか今日もカフェのバイトだと言っていたはずだが、この姿では行っていないのかもしれない。どこかで一晩過ごしたとしても、仕事には行っていると思っていた。

 思わず手を伸ばし、頬に流れる涙を拭ってやった。


「なに、泣いてんだよ」

 

 やっぱり放ってはおけないなと、思った。だから、やっぱり傍にいられないとも。

 根岸は言葉を発することができず、俺は、ただただ涙を拭い続けた。

 腕が伸びてくる。そのまま俺の背中に周り引き寄せられた。

 ぽすりと、その腕の中に包まれた。額で感じる根岸の胸の鼓動は激しくもなく、かといってゆったりと穏やかでもなく。


「勇さん、俺、帰りたい」

 

 嗚咽に混じり、告げられる。


「勇さんのいる部屋に帰りたい」

 

 俺のいる部屋に……


「勇さんじゃなきゃ、無理だよ。一人は嫌だぁ」

 

 その言葉を合図に、根岸の心が決壊した。

 うわぁんと大きな声を上げて泣き出した根岸に、何かあったのかと客がドアの窓からこちらを覗き始めた。

 マズイ。余計なことを言い出す前になんとかしないといけない。

 ポンポンと背中を叩いて宥めるも、泣きに泣いている根岸には伝わらない。


「根岸、うるさい!」

「だって、だって!」

「わかったから! 帰ってきていいからとりあえず泣きやめ!」

 

 仕方なくそう言ってやれば、ますます号泣してしまった。


「泣きやまなきゃ今すぐ捨てるぞ!」

「いやだ!」

 

 小声で脅し、驚いて止まった隙にバックルームへと連行した。


「お前、合鍵まだ持ってるな?」

「う、うん」

「じゃあ先に帰ってろ。俺は五時まで仕事だから」

「ここで待つ」

「迷惑だ。従業員でないやつがバックルームにいるとよくないの、わかるだろ?」

「……わかった~」

 

 渋々頷いた根岸の頭を優しく叩いてやった。


「帰ってきたら、ちゃんと話し合おうね」

 

 大男が、俺を見下ろしてすがりつく。


「……わかった」

 

 捨てられた犬のような目をして、なんとも酷い話だ。

 散々だ。もう俺、こいつから離れられないじゃないか。



 太陽が昇り始めたばかりの時刻。肌寒さに耐えながら帰宅した。

 部屋に灯りはついている。あいつが起きている証拠だ。

 不安と怒りと、罪悪感に少しの期待。

 心は落ち着かず、今にも逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが玄関ドアをゆっくりと引いた。


「おかえり、勇さん」

 

 ふわりと、コーヒーの香りが鼻につく。ほんのり暖かい室内に、ほっとしてしまった。

 同時に、一人が嫌だと声を上げて泣いた根岸の気持ちが痛いほどわかってしまった。

 人の気配がこんなにも安心できるなんて。こちらが泣きそうになってしまった。


「はい。今日もお疲れ様」

 

 コーヒーを手渡され、受け取る。

 マグカップ越しにじんわりと熱が伝わり、体の力が抜けて行くのを感じた。


「あのね、勇さん」

 

 予想以上に穏やかな声だ。

 考えてたんだと、彼は言う。表情は声色と同様にとても穏やかだ。


「俺は勇さんと一緒にいたい。なぜかっていうと、とても落ち着くから。どうして落ち着くんだろう? そうだ、勇さんは怒鳴らない。否定しない。まるごと受け入れてくれて、そっとしていてくれる」

「そっとしておいたのは、面倒ごとに巻き込まれたくなかったからだ」

「そうだったねぇ」

 

 否定しても信じていないのだろう、へらりと笑っている。


「カフェにもね、そんな人はいっぱいいるんだ。みんな俺を俺として扱ってくれる。嬉しい。でも、勇さんみたいに、心地良いって感じることが出来る人は他にいなかった」

 

 話を聞きながら、落ち着かなくてコーヒーに口を付けた。

 少し冷めてきている。それでも急いで飲み干せないのは、俺が落ち着かないからだ。


「ね、勇さん。俺ね、たぶん勇さんのことが好き」

 

 えへへと、目の前の大型犬が尻尾を振っている錯覚が見える。

 マグカップに口を付けたまま、俺は根岸を睨みつけた。わかってるのかと、お前は何を言っているんだと。けど、どれも流されてしまう。俺が好きだからという言葉ひとつで。


「両想いだねぇ、勇さん」

「……俺はお前のことが好きだなんて、一言も言ってないぞ」

「わかってるよ」

 

 わかってない。わかっていない。


「わわっ、勇さん、泣かないで」

 

 腕が伸びてきて、夜とは逆に俺の涙が拭われる。


「そんな顔しないでよ、勇さん~」

 

 そういう根岸の顔も、今にも泣きそうな表情だ。


「俺だって、お前を泣かせたかったわけじゃない」

 

 ツンと痛む鼻に、潤む視界。

 泣かしたくなかった、泣かされたくもなかった。

 嬉しいはずなのに、同時に悲しくて、頭の中が混乱する。

 やっと人並みの幸せを手に入れられそうなのに、俺なんかを好きになったら、ごく平凡な、しかし最高の幸せをこいつは逃してしまう。


「馬鹿だ、お前は」

「知ってるよ」

「だから馬鹿なんだ」

「勇さんもでしょお?」

 

 ズバリと言われて、思わず吹き出し笑ってしまった。


「朝起きて、おはようって言えて、パン一枚だけどちゃんと朝ご飯食べられて、お昼はまかないで、帰ってきたら夕飯が食べられる」

 

 マグカップを取られ、床の隅っこに置かれた。


「おかえりって言える。お疲れ様って言える。今日あったことを話しあって、笑いあって、顔を見てお休みって言える」

 

 こいつが何を言いたいのか、よくよくわかった。だから、俺から腕を伸ばしてやった。


「ただいまって、ありがとうって、言える相手がいる」


 腕の中に閉じ込めてやる。すると胸元に頬を擦り寄せられた。

 とても幸福そうな表情を浮かべている。


「当たり前のことが、当たり前にできる。感じる幸せは当たり前じゃない。とてつもなく大きな幸せになって俺の中に積もっていくんだよ」

 

 目を細め、頬を緩める。目元が赤く染まり、思わずそこに口付けた。


「なにが幸せかは、自分で決めるよ」


 ね、勇さん。

 浮かぶ笑みに、やられた。



 ゆっくりとベッドへと押し倒される。背中に感じる布団の感触はいつものせんべい布団なのに、なぜかふわふわして、とても暖かい。

 ゴクリと大きく唾を飲み込む音がして、見上げれば俺も思わずゴクリと唾を飲み込んでしまった。

 すごい、雄くさい顔だ。

 いつものんびりした喋り方で、甘えん坊で、べったりな、大型犬のような根岸はいなかった。

 まさに狼のような、肉食の男がここにいる。

 ポタリと、こめかみから流れてきた汗が俺の頬に落ちた。

 それを追うように根岸の顔が近づいてきて、そして――


 触れた唇は暖かくて、甘くて、体温は俺たちを癒してくれた。

 俺たちは、幸福に涙を零した。


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