エレーネ は いっぽ を ふみ だしたい
「婚約を白紙にさせてもらいたい」
エレーネが寮に届いた手紙に従い中庭に行ってみれば、そこには決意したような顔の婚約者と、それから見知った少女がいた。小柄で、庇護欲をそそるような、甘ったるい少女はベル・クレーニヒ――学園中の話題をさらう男爵令嬢だった。
学園内に限らず顔の広いエレーネは、おそらく彼女本人よりも彼女の噂に詳しいだろう。彼女の噂話は、令嬢らしくない言葉で言えば一つに収束する――権力を持つ整った顔の男に媚びを売る尻軽女、だ。
権力を持つ整った顔の男に該当するエレーネの婚約者も例に漏れず誑かされていることは知っていたが、学園内だけのお遊びでは済まなかったらしい。誠実な人柄ゆえ本気になってしまったと言えば聞こえはいいが、高位貴族であるエレーネはそんなお優しい思想にはなれなかった。
――あらやだ、なんて愚かなの。
侮蔑の感情と言葉を押し殺して、エレーネは悲しげに微笑むだけに留めた。家と家の間で結ばれた政略結婚に水を差した上に、言い出した婚約者の家は侯爵家でエレーネの家は公爵家だ。しかも婚約者は次男で、一人娘であるエレーネが女公爵になるにあたっての入り婿である。
公爵家を舐めているとしか思えない頭の軽い発言を受け、婚約者のことはある程度は好意的に思っていたはずだったが、エレーネは早々に見切りをつけた。家を継ぐ者特有のこういうところが好かれないのだろう、と思いながら。
「そうですか。……お気持ちはかたいのですね?」
さも悲しげに、さも辛そうに。
感じてもいない感情を顔に乗せるのは得意だ。婚約者がつられて悲痛な顔をして、謝罪を口から吐き出そうとしたのに合わせて、エレーネは口を開いた。
「そのお気持ちは、わかりますわ」
伏し目がちにエレーネがそう言えば、ベル・クレーニヒが驚いたようにこちらを見て、思わず漏れたといったような声を発した。
「……えっと?」
ベル・クレーニヒに話しかけるつもりはなかっただろう。彼女は尻軽女と呼ばれようが、決定的な間違いを犯すことはない立ち回りの上手い女なのだ。男爵令嬢から公爵令嬢に話しかけられるわけもない。だが平等を謳う学園内であれば、建前上は許される。エレーネは話しかけられたとして言葉を拾い上げた。
「ガヴィーノ様があなたを好きになる気持ちがわかります、と言ったのです。可愛らしくも努力家でいらっしゃいますし、この一年で苦手とされていたマナーもきっちり身につけておられます。他の教科の先生方からの評判も上がっており、それが一点特化ではないことの証左と言えるでしょう。そしてやはり、何を取っても可愛らしいです。庇護欲を誘うような小動物っぽい動き、しなやかで華奢な身体。透き通ったソプラノボイス。優しい垂れ目の穏やかな顔立ち。惹かれるのもわかるというものです」
尻軽女として有名なベル・クレーニヒではあるが、授業態度は真面目そのものであり成績も上がってきている。女生徒からの受けは最悪だが、教師の受けはそれなりにいいのだ。
とはいえ、できない子どもが頑張っているから受けがいいだけであって、エレーネのようにとびきりいい成績というわけではない。今まできっと誰一人としてエレーネとベル・クレーニヒを比べることはなかっただろう。成績にしろ、気品にしろ、血筋にしろ、美貌にしろ、ベル・クレーニヒなど比べる土台に達していないのだ。
だからこそ敢えて、エレーネは見てわかる情報だけでベル・クレーニヒと比べてやった。婚約者にエレーネの価値を思い出させるためだけの、些細な嫌がらせである。
「反対にわたくしは吊りあがった目の派手な顔の女です。気の休まらないことでしょう。身体に至っては……恥ずかしながらしっかりと肉がついてしまっています。公爵家の権力や財を用いて絞ったとしても彼女のような腰を作ることは絶対にできません」
恥ずかしげに顔を隠して、首を振る――ふりをした。エレーネの身体に恥ずかしがる要素などない。腰が細いと褒めたが、そこまで大きな差はないのだ。それどころかエレーネの方が明らかに豊満な胸がある分、腰との差は歴然としている。ベル・クレーニヒは儚げな印象を受けるが、肉がないのは腰だけではない。全体的に薄いだけだ。公爵家の財をかけて作り上げたエレーネの身体が劣るわけがなかった。
婚約者にはわからなかったようだが、エレーネの迂遠な嫌味はベル・クレーニヒには通じたらしい。婚約者がエレーネの身体に視線を向けたことに気が付き、たまらないとばかりに声を上げた。
「じゃあ納得して婚約を白紙にしてくださるということですね!?」
感情的になっているベル・クレーニヒは珍しい。もしやエレーネの無様なところでも見られると思って、勝った気でここに来たのだろうか? そうして予想外の反撃を受けて、こんなふうになってしまった?
「いえ、それとこれとは別です」
「どうしてですか!」
その考えを裏付けるように、貴族の令嬢だったらすぐに出る答えを敵に聞いてしまった。
エレーネはにっこりと笑って、幼子に諭すように説明した。
「わたくしとガヴィーノ様が好きでお付き合いをして結婚しましょう、とお話をしていたのならここでお別れすることは構いませんが、家同士の利益が関わる婚約ですのでわたくし個人では決めかねるのです。ただ、両親にはこちらからも話しておきます。賠償さえしていただければ、わたくしは円満に破棄したいと思っておりますので」
「賠償して円満……!?」
「お互いが納得してお別れできるのであれば、それは円満と言えますでしょう?」
エレーネにも利があると思われると面倒なので言わないが、エレーネだって婚約者とは別れたい。自分の立場もわからずに恋愛感情で家同士の婚約の終わりを切り出す男だ。人として誠実かもしれないが、貴族としてはどうかしている。こんな男であると結婚前に知れてよかった、とエレーネは心底思ったくらいだ。
婚約者が何も異を唱えないからか、あるいはやはりエレーネがこの場において圧倒的な立場を誇っていたからか。感情の高ぶったベル・クレーニヒは決定的な間違いを犯した。
「エレーネ様はさきほど私を選ぶのも納得だとおっしゃっていました! あなた様にも瑕疵があるということではありませんか!」
うっかりエレーネは笑いそうになって、必死に口元を押さえた。まるで悲しむかのような仕草に収まったのは、日ごろの行いがいいからだろう。
何せベル・クレーニヒは男爵令嬢という身分でエレーネのような高位貴族の婚約者に手を出しておきながら、お前も悪いだろうと言ったのだ。
婚約者はこちらの瑕疵を指摘せず、エレーネが勝手にベル・クレーニヒは可愛いですものね、と言っただけだ。それを踏まえなくとも、とんでもない発言である。婚約者も大層驚いて、信じられないものを見る目でベル・クレーニヒを見ている。
「……あなた、随分と酷いことをおっしゃいますのね。婚約する前からわかっている顔の美醜を瑕疵にしようだなんて」
「そ、そんなことは言ってません!」
ならどういう意味ですか、と追い詰めてもよかったが、エレーネは悲しげな顔を作って婚約者を見るにとどめた。婚約者は顔を青白いものに変えて、頭を下げて謝ってくる。
その様子を見るに婚約者が自分の好きになった女の程度の低さと自分のしでかしたことの大きさを理解したらしいとわかって、エレーネは内心でほどほどに満足した。あまり追い詰めると面倒なことになりそうだ。ここで嫌がらせはやめておこう。
「ガヴィーノ様、侯爵家へは後日連絡させていただきますね」
「ああ……本当に、すまない」
――清々したからかまいません。
エレーネはそんなことを思いながら、薄く微笑んで中庭を後にした。
気分は少々すっきりした。しかしあの愚かな二人の被害者であるとはいえ、エレーネが奪われた側であることには変わりない。公爵令嬢であるエレーネの失態として、陰であげつらうものが出てこないとも限らないのだ。女性としてのプライドを踏みにじられたような気分になっても仕方ないだろう。
「……エレーネ様」
ふいに後ろから声をかけられ、エレーネは振り返った。カルロ・オルシュ。エレーネよりも入学が遅かった年上の同級生である。
控えめに声を掛けられたことから、中庭での出来事を見られていたのだろうことは簡単に推察できた。人気が少ないとはいえ、公共の場だ。誰がいてもおかしくはなかった。
「あら、何でしょうか?」
「婚約が白紙化された暁には、自分も次の婚約者候補に入れていただけますでしょうか」
「……まあ」
エレーネはてっきり、カルロ・オルシュが慰めてくるものだとばかり思っていた。カルロ・オルシュは寡黙ではあるが、誠実で人の好い男であるという印象が強い。
しかし彼の口から出て来たのは、自身の売り込みだ。予想もしていなかった言葉に、何度も目蓋を開閉させてしまう。
彼は軍事に明るい伯爵家の五男だ。とはいえ、縁戚にはいくらでも軍事関係者のいる公爵家にとって婿に入るには少々厳しい家柄であるとも言えた。利がないわけでもないがその利は大きくなく、次の婚約者を選ぶにあたって上から数えた方がいいということはないだろう。
ただエレーネは今しがた婚約を白紙――実質、破棄された状態に近い。要するに寝取られた女の価値は下がるわけで、しかも目ぼしい令息には皆婚約者がいるわけで、彼が婿に入ること自体はさほど問題ないと言えた。それに実家だけに限定するとあまり利はないものの、伯爵家は兄弟姉妹が多い関係上、嫁ぎ先や婿入り先とも親戚付き合いができると考えれば、そう悪い話でもないのだ。
埋もれていたら選ばれないが、知っていれば選ぶかもしれない。その程度にはカルロ・オルシュとの結婚に価値はあった。
そして何より――彼の目は煌々と輝いていた。獲物を見るような不躾な目を向けられたことはいまだかつてない。エレーネは何度か瞬いて、それから口を開いた。
「もしかして権力がお好き?」
「ええ、大好きです。今まで自分を侮っていた連中に傅かれるかと思うとたまらないですね」
とんでもないことを言い出したカルロ・オルシュにエレーネは「ふふ」と笑ってしまう。どこの誰が彼を誠実な人の好い男だと称したのだろう。とんでもないものを腹の内に仕込んでいた。
「もちろん、エレーネ様のことはもっと好きですが」
エレーネに合わせるように目を細めて笑ってくれた顔に、ほんの少し動きが止まる。そうして、しっかりとカルロ・オルシュを見た。
高い上背や広い肩幅は年上ならではの包容力を感じる。美麗な婚約者とは違う、男らしい整った顔立ち。伯爵家の五男で継ぐものも何もない状態でなければ売れ残ってもいなかっただろう、いい男だった。
見た目は悪くはない。だが中身はどうだろう。エレーネは婚約者に馬鹿な裏切りを受けたばかりだ。見る目がないといっても間違いではないだろう。彼がいいかまではわからない。
「ふふ、わかりました。その折には父に進言してみますね」
だが考えてみてあげてもいいかもしれない。そう思って微笑めば、「きっとですよ」とカルロ・オルシュも微笑んだ。
なろうなので、一回くらい婚約破棄物を書こうと思いました(作文)
簡易設定
エレーネ(18)
公爵家の一人娘。よくいる悪役令嬢風のお嬢様。セクシー系美人。性格はよくないが、貴族としては普通だし優秀。ガヴィーノのことは恋愛感情はなくても好意的に思っていた。無自覚だがショックが大きい。
ガヴィーノ(19)
婚約者。侯爵家次男。恋に恋をしたが本来は常識人枠。人もめっちゃいいが顔がめっちゃいい。二人に不実な行為はできないと白紙を願い出た。家族には相談済み。このあと当然のように家との縁を切られる。
ベル・クレーニヒ(19)
男爵家長女。上昇志向が強く、愛人狙いで色んな男に粉を掛けていたが、ガヴィーノに本気になってしまった。気が非常に強い。
カルロ・オルシュ(23)
同級生。伯爵家五男。腹の中でいろいろ渦巻いているが、権力欲が強いゆえに権力を与えてくれるエレーネを絶対に裏切らない男。――もちろん、エレーネ様のことはもっと好きですが。