下層
起きるのやだな。学校行くのやだな。
愛理は、目が覚めてからベットの中でずっとそんなことを思っていた。
階下から母親の怒鳴り声が響いてきた。「早く起きなさい!遅刻するでしょ!」
家にいるのもやだな…。
愛理はベットから這い出して制服に着替えた。
愛理はいつもより一本遅い電車…と言っても、最近はわざとこの電車に乗って登校していた。この電車だと教室に入るのが始業ぎりぎりになるからだ。
「あれ?一人だと電車乗り遅れちゃう?」
愛理は、ちらっと声の主、未咲来に目をやった。
愛理は、何も言わずにうつむき加減で自分の席に向かった。
「とうとう捨てられちゃったもんねーあんなに必死に追いかけてたのに。かわいそ。」
クラスの他の人達も、いい気味だと言わんばかりにクスクスと笑い声をたてる。
愛理は唇をかみしめた。
「あれー?何も言わないのー?一人じゃ何もできないんだってー」
ここ数日ずっとこの調子だった。
「いい加減にしたら」そう言ったのは優だった。
同調してクスクス笑っていた人達が一斉に気まずそうにうつむいた。
「あれ?何で止めるの?もう関係ないのかと思ったけど?」未咲来は挑戦的な目をしている。
「くだらな過ぎて、へどが出る。今度言ったら、同じ目に合わせるからね」優は未咲来を睨み付けて低い声で言った。
未咲来は優の迫力にばつの悪そうな顔をして、口をつぐんだ。
確かに、優がその気になれば、みんな優の側につくだろうな。だけど、こんなくだらない事、優は絶対にしない。私にはわかる。今のはただの脅しだ。優、まだ、私の事かばうんだ…。
愛理は、優と一瞬目があったが、すぐに目を逸らした。
「愛理、優ちゃんと喧嘩してるんだって?」家に帰ると、母親が話かけてきた。
優のお母さんにでも聞いたのかな。
「喧嘩?って言うか、友達やめたから。これで、もう優と比較しなくて済んで良かったでしょ」皮肉を込めて言った。
「そんな事…」
「お母さんも、優秀な優ちゃんと、出来の悪い娘を比べなきゃいけなくって大変だったねー。もう開放されるから。安心して」ふんっ、嫌みたっぷりに言ってやった。
「何言ってるの!」と、母親が叫ぶと同時に、バチンッと平手で叩かれていた。
「もう一切、金輪際、優の話はやめてよね!」愛理は母親を睨みつけながら、そう叫んで、自分の部屋へ逃げ込んだ。
アイリーンに言われたのに、責任取らなきゃならないって…けど、許すなんて出来ない。素直になんてなれない。大丈夫、あんなのただの夢か、私の妄想なんだから…。
あれから、お母さん、優の話、しなくなったな。小言も言わなくなった。酷い事ばかり言うようになった私をどう扱ったら良いかわからないんだ。電話で誰かに『今頃思春期で…』みたいな事を言ってたな。そう言う言葉で片付けようとしてるんだ。ただ時が経てば、なんとかなるとでも思ってるのかな…大体、他人に私の事ペラペラ話す必要ないのにさ、自分一人で抱えきれないからって言いふらしてさ…ムカつく!…バカみたい。ううん、あの人はバカだ。
「アイリーン!やっと来てくれた」ユーディは嬉しそうにアイリーンを迎えた。しっぽのついていない、ユーディだけのユーディ。鎧もまとっておらず、鮮やかな濃い群青色のチュニックを着ている。
「呼んだでしょ」アイリーンの方も、アイリーンだけのアイリーン。いつものラベンダーカラーのシンプルなドレス姿ではあるが、鮮やかさも美しさも、愛理でもあるアイリーンとは比較にならない。
「いつだって呼んでるよ。」
「知ってるわ」
「私の方からアイリーンの所へは行けないからね」
「なかなか来れなくて、ごめんなさい。」
「忙しいのはわかってる。アイリーンの歌はどこで歌っても意味があるからね、どこのステージでもひっぱりだこだ」
「私にできるのは歌う事だけだもの」アイリーンは微かに笑った。アイリーンの周りに淡い虹色の光がふんわりと広がった。
「その点、私の場合は、あの刈り取りの仕事が無ければ途端に暇になってしまう」
ユーディは壁にかけてある銀の大鎌に目をやった。アイリーンも青白い光を放つ大鎌に視線を向けた。
「『天翔ける銀の月 』、いつ見ても素晴らしい鎌ね」
「アイリーンのつけてくれた名前も素敵で気に入ってるよ。」ユーディは微笑んだ。
「ふふっ。本当に天を翔けている月のようなんだから。相応しい名前でしょ?」
「ああ。けど、当分、お休みだ。アイリーンとの差がまた開いてしまうのが気がかりだよ。やっと追いついて来ていたのに」ユーディは小さく溜息をついた。
「刈り取りを再開すれば、すぐに追いつくわ。あなたのやっている事はすごい事なんだから」
「ん…愛理はどんどん酷くなっていくね」
アイリーンは小さく頷いた。「私の声なんて全く届かない…このままでは、どんどん下がっていってしまう。愛理は感受性が強いから…人一倍影響を受けやすい分、下がり方も早い」アイリーンは唇を噛みしめた。
「愛理の今いる場所を見せてみたらどうだろう?可哀相だけど、手遅れになる前に…下手をすると戻れなくなってしまうかもしれないよ?」
「愛理はそんな子じゃないわ。必ず…必ず戻って来る」
「けど、アイリーン…」
アイリーンは辛そうな表情をした。
「アイリーンはやさしい。それはわかってる。けど、少し…過保護だ」ユーディは、少し口の端をあげて、アイリーンをみつめた。
「そうね…もっと酷い場所に落ちてしまっては、もう見せる事も出来なくなる。今ならまだ…」
ユーディは頷いた。
「けど、どうすれば良いのか気づいてくれるかしら…私の声は届かないし…あまりに不気味過ぎて、何も考えられないんじゃ…」アイリーンは首を左右に振った。「これが過保護なのね。大丈夫、愛理を信じるわ」
《下層》
愛理が目を覚ますと、とても暗い場所に居た。
ここは…どこだろ?
炭鉱跡みたいな穴蔵のような場所。明るい色味なんてどこにも見当たらない。感じるのはただ黒。それだけ。良く見ると、そこら中にベットリとした粘っこい物がへばりついている。足元にも。空気自体にも粘っこさを感じる。歩くたび、体中に何か目に見えないねっとりしたモノがまとわりつくような嫌な感覚。
もの凄く気持ち悪い。何なのここ…。
どこからか言い争っているような声が聞こえた。ヒステリックな声。愛理は引き寄せられるようにそちらへ向かっていた。そっと様子を伺う。
あれ? この女の人、一人で叫んでる?
「一体、あたしが何したってんだよ! いつもいつも人の事こけにして、バカにすんのもいい加減にしろ! クソやろう!」
その女の人が激しく体をくねらせ、じたんだを踏みながら、ヒステリックに叫ぶと同時に、口元から、体中から何か黒いものが周りに飛び散っていた。その飛び散る黒いものが愛理の顔に、体に飛んできた。
「ひゃっ」思わず顔に手をやって拭う。ベトリとしたイヤな感触。手についた黒いものを見る。
これ、そこら中にへばりついている粘っこいモノ? 気持ち悪い…
「フッ、毒を吐くとは良く言ったもんだ」
その声に顔を上げると、叫んでいた女性がこちらを向いていた。
「ヒッ!」その風貌のあまりの醜さ、存在の不気味さに、愛理は小さく叫んだ。その人の体中には、さっきの黒いものがついている。
違う、体の中から出てきてる。
愛理はあまりの気持ち悪さに思わず後ずさりした。ふと気付くと、周りに同じ様な人たちが老若男女問わずたくさん現れていて、ヒステリックに叫んだり、大声で怒鳴ったりしていた。彼らの吐く、出す、黒いものがそこら中に飛び交った。愛理はその黒い飛沫を体中に受けながら、気持ち悪さと恐ろしさで身動きすらとれなくなった。
「ユーディ…アイリーン…優…助けて…」思わずそう呟いていた。
「助けて? フッ、何言ってる。あんただって同じようなもんなのにさ。良く見なよ」そう言ってさっきの女性は、不気味な歪んだ笑みを浮かべた。
へっ?
目の前に鏡が現れた。
愛理は、鏡に映った自分の醜い姿に声にならない叫び声をあげた・・・
と、同時に目が覚めた。布団の中で汗だくになっていた。時計を見ると、まだ夜中の三時半だった。夢?
醜い自分の容貌を思い出した。色味なんて全く感じない姿。口はへの字に左右不対称に曲がり、目は落ち窪んでまるで生気が無く、身体も顔も全てがゆがんでいた。髪もボサボサで、着ている服もただのボロ布を纏っているかのよう。そしてあの黒いものが体中に付いていた。
内面が外に表れる…。ユーディはそう言っていた…今の私は、私の内面はあんなに醜いって事?
身震いがした。
気持ち悪い…あの不気味な場所…あれが今の私に相応しい場所? もう誰も助けてくれない。嫌だ…怖い…。眠ったらまたあの夢見るかもしれない…怖い…
愛理は結局朝まで眠れなかった。




