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再開


 文化祭も近づいていた。放課後、愛理はいつものように部室へ向かう途中、本館一階の狭い通路で年輩の事務員のシスターとすれ違った。

 軽く会釈する。

「アメージング・グレース」

 シスターのその言葉に愛理は驚いて振り返った。

「最近弾かないのね。あれ弾いていたのあなたでしょう?」優しい雰囲気の名前も知らないシスター。ベールに包まれた顔をよく見ると、もうお婆ちゃんと言っても良い感じだ。

「あ、はい」

「あれ好きだったのよ。すごく良かったわ」

「あ…有難う御座います」

 シスターはにっこりと笑った。

 たったそれだけの短い会話を終えると、愛理は階段を上がって部室へ向かった。

 シスターが聞いてくれてたなんて、思いもしなかった。なんで私だってわかったんだろ? ぁぁ、中一の頃、ウクレレ同好会の部員は実質私だけだったからか。って事は、その頃から聴いてくれてたんだ? そう言えば、『アメージング・グレース』、もうかなり弾いていないな。

 愛理は指を折って数えた。

 もう6ヶ月になるのか。

 優と離れてしまってリクエストが入らなくなった所為もあったけど、優を思い出すから敬遠してた。文化祭で弾きたくない理由もそれ。けど、シスターが聴いてくれてるんなら、久しぶりに弾いてみよう。

 愛理はウクレレを構えて弾き出した。が、途中で弾けなくなってしまった。

 嘘っ?あれ?どうだっけ…指が覚えてたのに…弾けなくなってるなんて、ショック…確か、楽譜、ここに置いてあったはず。

 縦3×横3マスの木のロッカーの中段右端、愛理はここを使っている。扉を開けて楽譜の束を取り出した。

 あれ? 無いな…。確かこの中に入れてたと思うんだけど。

 もう一度確認するがやっぱりない。愛理は楽譜の束を元に戻し、扉を閉めた。首を傾げて中段右端の扉をみつめた。ふと、左隣の扉に目がいく。

 ここ、開かない所…あっ。ここだ。

 愛理の中に中学一年の頃の記憶が蘇った。

 そういえば、最初、ど真ん中のここを使ってたんだ。けど、ある日突然扉が開かなくなって…。そうだ…『アメージング・グーレス』の楽譜しか入れてないし、もう見なくても弾けるようになってたから、別に良っか。って、大して開ける努力もしないで隣を使うようになったんだった。なんか、いつの間にかすっかり忘れてた。

 ど真ん中の扉の穴に指をかけてひっぱってみる。

 固っ。やっぱり開かない?

 と、もう一度力を込めた瞬間、バコッと変な音とともに扉が開いた。

 穴にひっかけてた指がちょっと痛かったが、案外簡単に開いた。中にあったものを取り出す。中にあったのは2枚の紙だけだった。

 『アメージング・グレース』の楽譜。やっぱりここにあった。

 と、何? これ?

 2つに折りたたまれていたもう一枚の紙を広げてみる。

『はろぅ愛理。歌詞訳してみた。あってるかどうか、よくわかんないけど、どぉ?』

 そう書かれた下に『アメージング・グレース』の英語の歌詞と和訳らしきものが書いてある。

 これ、優の字だ…中一の時、優が訳した?こんなの見たっけ? 忘れてるだけ? …ううん、覚えがない…優がここにこれを入れた後に開かなくなったのかな…。

 愛理は紙に書いてある和訳に目をやった。

      * * *

驚くほどの慈悲、なんと素敵な響きだろう。

私のようなみじめな者すらも救ってくれる。

私は一度失った、しかし、今、見つけた。

私は何も見えなくなっていた、しかし、今、私には見える。

      * * *

 優の和訳を読むと、涙が自然と溢れ出た。

 インターネットで訳詞検索してみた事はあった。あれとは違う。確か『主の恵み』とか『神の恩寵』とかって訳されてた。神=Godって単語、どこにも書いてないのになぁ? 賛美歌だからこうなるのかな?って、正直、あまりピンと来なかった覚えがある。優の訳は、中学一年生の子が辞書引きながら訳した、本当にあってるのかどうかもわからないつたない訳に違いない。けど、この訳詞は今の私そのものだ。私のようなみじめな者。そう、私の事。わがままに、酷いこと言って人を傷つけて。私は優がどんなに私の事思ってくれてたか、見えなくなってた、鬱陶しいとまで思って…今はこんなにわかるのに。アイリーン、いつも包んでくれている、驚くほどの慈悲で、あの素晴らしい愛の歌で、私みたいなみじめな者でも救おうと…見捨てる事なく…。きっと、今、この瞬間も。

『私を信じて。いつも一緒だから』愛理の頭の中にアイリーンの声が響いた。

 そう、アイリーンはそう言った。そうだ。きっと、ずっと一緒に居てくれてる。

 ひとしきり涙が流れると、愛理はなんだかすっきりとした気分になっていた。視界までクリアになったような気がした。

 心が洗われるってきっとこういうのを言うんだ。…今、流した涙で洗われたのかも。

 愛理はそんな事を思いつつ、涙を拭うと、『アメージング・グレース』の楽譜をひろげて、ウクレレを弾き始めた。

 ぁぁ、良い音、出てる。最高に良い音が。今までで一番良い音だ。

 弾きながら、向こうで歌った時の事が思い出された。音と色の波が広がっていった、自分自身が広がっていったあの感覚。そしてアイリーン。

 アイリーンが一緒に居る! 傍に。感じる。ウクレレの音色に合わせて、歌ってる。あのアイリーンの素晴らしい歌声…。

 アイリーン、ありがとう。


 弾き終えると戸口から拍手が聞こえた。

「部長、今のすごく良かったです!間違いなく今までで一番です!」音ちゃんが拍手しながら、愛理の前までやってきた。

「私、なんか感動して泣いちゃいました」花奈(はな)は目に涙をためている。

 うんうん頷きながらスーちゃんも涙を拭っている。

 3人とも途中から聞いてたんだ。全然気づかなかった。

「やっぱり、それ演奏しましょうよ。それやらないなんて、もったいないです。演目載ってなくても良いじゃないですか、最後に一曲ぶっこんじゃいましょう!」音ちゃんが興奮しているのがわかる。

 愛理は微笑んだ。「うん。そうだね。そうしよう。」

 さっきのシスターも、聞いてくれたかな。

 愛理はもう一度優の和訳を読んだ。

 有難う、優。ごめんね、優。優に謝りたい。無性に謝りたいと思う。けど、今更…。


 《再開》

 目が覚めると、眩しい場所にいた。

 白い光の中に居るみたい。

「愛理、おかえり。ずっとこの時を待っていたのよ。私の声が届くようになった」聞き覚えのある澄んだ女性の声がした。

「アイリーン…ここは?」

「ここは、こっちで最後に話をした場所」

「え? でも、前ほど眩しくない」

 眩しい事には違いないけど、前の時は、もっとどうしようも無いくらい眩しかった。今は目を細める程度でもなんとかなる。眩しいけれども、少なくとも、今は、アイリーンの顔や姿が良く見える。前の時は、綺麗だと感じる事しかできなかった。光に阻まれてちゃんと見ることが出来なかった。

「それは、愛理が、あの時と比べて上がってるから」

 アイリーンはやさしく微笑んでいた。

 今はこの場の眩しさより、アイリーン自身が出す光輝の方が眩しい。本当に綺麗。色んなきれいな色の光につつまれているみたい…。私と一体になっていたあの鏡に映った姿となんて比較にもならない。ユーディはアイリーンは愛に溢れているって言った。その通りだ。優やユーディがあこがれてるって、その気持ちが良くわかる。やっぱり、きっと、天使ってこんなのに違いない。

「辛かったでしょう。私も辛かった。そんなあなたを見ているのが」アイリーンは愛理をそっと抱きしめた。

 ぁぁ、七色の光に包まれてる。きっとずっとこうしてくれてた。私が気付けなくなってただけで。ありがとうアイリーン。

「でも信じてた。必ず上がってきてくれると」

「上がった…? でも、どうやって? 私、何もしてない…」

 アイリーンは微笑みながら首を横に振った。

「あなたは責任をとった。クラスメートの酷い言葉を、行為を受け続けた。責任をとりつつ、マイナスになる事もしなかった。母親の小言にもヒステリーにも何も言い返さなかった。優を妬む事もしなくなった。誰かを恨むような事も、誰かの所為にするような事もしなかった。自分が悪いんだと自覚していた。そうだったでしょ?」

「ぁ…そう、あの夢…あの気持ちの悪い夢を見てから、そうしてた。ただ、イヤだったから。あんな所に居るのは、あんな醜い姿なのは、あんな気持ちの悪い物吐くのは、イヤだと思ったから」

「それで良かったの。…愛理、どうしたい?」

「へっ? 私…私は…歌いたい」アイリーンの歌、あの素晴らしい体験…歌いたい。

「優は?」アイリーンは少し離れて、愛理の目を見つめて聞いた。

「優…優には謝りたい。」

「それだけ?」

「優とまた…友達になりたい」今更、虫がいいとは思うけど…。

「友達に戻ったら、優はきっとまた、こっちでの使命を再開するでしょう」

 あの辛い使命…鎌であの不気味なモノを刈る仕事……優にさせたくない。

「だったら、今のままで良い」愛理は何のためらいもなく、そう答えた。

「愛理、あっちで辛いでしょ?」

 愛理は頷いた。

「けど、今のままで良いの?」

 愛理は頷いた。「優があの辛い仕事するのに比べたら、なんて事ない。私が耐えればそれで優があれをしなくて済むんなら、それで良い。辛くても耐えてみせる。」愛理は、そう言いながら、自分の中から何か力のようなものが沸いてくるのを感じた。「例え教室で一人でも、ウクレレ弾ければ…同好会のみんなが居ればなんとかなる。」そう言って愛理は笑った。

 アイリーンは、本当に満足そうに微笑んだ。

「ただ、優に一言謝りたい…」

 愛理はそう言いつつ、いつの間にか目を細めずにアイリーンを見ている事に気づいた。

 あれ? さっき程眩しく無くなった?

「で? 何って?」後ろでふいに優の声がした。愛理は振り返った。あっちのそのままの優が居た。

「優…ごめん。酷いこと言って、酷い態度とって…私、謝りたくて」

「そ。愛理が泣きついてきたら、いつだって守ってやったのにさ」

「へ…でも私、本当に酷い事言ったのに…」

「うん。本気で腹立った。傷ついた。哀しかった」

「優…本当にごめん…」

「…で、そのうち、愛理が辛そうなのを見てるのが辛くて…」

 愛理は、驚いた表情で優を見上げた。

「けど、愛理が戻ってくるの、待ってるしかなかった」優は少し口の端をあげて、ニコリとした。

「…許してくれるの?」

「許すも何も、当たり前だろ? 愛理を守るのが私の役目なんだから。アイリーンは本当に素敵だし」優は憧憬に満ちた顔を一瞬アイリーンへ向けた。

「でも、優、あの黒いの刈るの、辛いでしょ? …もうしなくて良いよ」

「私がやるって言ってるのに、何か文句あるわけ? 私が向上するチャンス、奪う気?」優はいたずらっぽい表情を見せた。

 ああ、懐かしい。優のこの顔。

「それに、そろそろあれも聞きたくてさ。また弾いてよな」

 優が言う『あれ』。何の事を言ってるのかなんて、尋ねなくてもわかる。『アメージング・グレース』。

 気づくと、優は、ユーディになっていた。正確に言うと、優でもありユーディでもあるユーディに。あの最初に見た、三日月型の大鎌を持った、鎧姿。ユーディは、その青い炎のような姿で、誇らし気に叫んだ。

「さあ、行くよ!」

 ユーディがそう叫ぶと同時に、最初にユーディを見た、あの薄暗い場所と似たような雰囲気の場所に居た。私の姿はあの愛らしい姿になっている。アイリーンでもある私に。

「一度離れないと無理だと判断した。だから一旦打ち切らせた。必ず元に戻る…いや、元以上の繋がりを持てるようになると信じて」赤を秘めた青の不思議な目の色のユーディは、無表情に、しかし力強く言った。

 素敵なユーディ…また会えるなんて思わなかった。

「でも、やっぱり…」あの黒いのを刈るのは辛いに違いない…

「まだ言う?愛理は優に純粋な無私の愛を向けた。なら、優も同じ愛を返すに決まってる」

「無私?」

「『私が耐えればそれで優があれをしなくて済むんなら、耐えてみせる』そう言っただろ?」

 愛理は頷いた。

「何の見返りも求めない、ただ純粋に相手の事を思っての愛。それどころか、自分が辛い事も耐えるとまで言った。これ以上崇高なものはない。だから優も同じ愛を愛理へ返す。自分が辛い事も相手の為なら耐える愛」

 あ…。

「愛理はずっとそんな愛を優に向けてたんだよ。一時期、妬みにとってかわられてしまっていただけで」ユーディはやさし気な表情になっていた。

「見てごらん」ユーディがそう言うと目の前に姿見の鏡が現れた。

 私の姿…前に見た姿よりも綺麗。アイリーンだけの時の姿には到底及ばないけれど、色味の鮮やかさも増して、何より前よりもずっと輝いて見える。

「前より、キレイだろ?」

 愛理は頷いた。

「当然だ。今の愛理には本当の愛がある。こっちでは、内面が外に表れる」ユーディはそう言って、口の端をあげた。

「そうだ。ウクレレ弾きながら歌ってみる? 今の愛理なら、愛に満ちた音を出せるはず。優も聞きたがってるしね」ユーディはフッと笑った。

 愛理が頷くと、手の中にウクレレが現れた。

 ユーディは三日月形の大きな鎌を両手で構えた。

「『天翔ける銀の月(あまかけるぎんのつき)』、待たせたね。さあ、一緒に空を翔けよう」ユーディはそう鎌にささやくと、準備OKと言わんばかりに愛理に頷いて見せた。

『アァーメーージーングレーース…

 ウクレレのやさしい音と、素晴らしい歌声が、重なり合い、様々な美しい色に色めき合いきらめき合い、波紋となって広がっていく。

 私自身が輝いている、大きく広がっていく。アイリーンが一緒なのも強く感じる。

 歌いながら、優の訳詞が思い出された。

『私は一度失った、しかし、今、見つけた。』

 ユーディが『天翔ける銀の月(あまかけるぎんのつき)』と一緒に空を翔け巡っている。

 今、見つけた。


 次の日、学校は休みだった。愛理は早朝から優の家のチャイムを鳴らした。優のお母さんに中に入るように言われたが、ここで良いからと、玄関扉の外で優が出てくるのを待った。

 優が少し寝ぼけた顔つきで外に出てきた。髪が寝癖でボサボサだった。

「優、ごめん、今日部活は?」

「今日は久々の休み」

「あ、寝てたのに、ごめん…部活行く前にって思って早く来たんだけど」

「…別にいいけど。何?」

「あの、優、これ…」愛理は優の訳詞が書いてある紙を差し出した。

 優は怪訝な顔つきで、紙を手にとり広げて見た。

 これ、私の字?「ぁ…これ」そういや、こんなの訳した覚えがある。忘れてた。愛理に渡したんだっけ?

「それ、部室の開かなかったロッカーの中にあった。ど真ん中の」

 あ? …そうだ。なんとなく気恥ずかしくて、こっそりあそこに入れたんだ。愛理が次に開けた時に気付くようにと思って。そしたら、あそこ開かなくなったって聞いて…ちょっと残念な気もしたけど、まぁそれならそれで別に良いや。って思ったんだっけ。

「うん、そういや、中一ん時、これ訳してあそこに入れた」

「こないだ見つけた」

「へぇ、あそこ、開いたんだ?」

 愛理は頷いた。

「フッ。タイムカプセルみたいだな」

「あ、うん。そうだね。3年前」

「…で?」優は紙をもって無い方の手で自分のボサボサの髪をとき出した。

「…それのお蔭で、目が覚めた。だから、優…有難う」

「は?」優は手を止め、不思議そうに愛理を見た。

「その和訳…私の事そのもの」愛理は優の持っている紙を見ながら言った。

 優は紙を両手でしっかりと持ち訳詞に目をやった。

『…私のようなみじめな者…私は一度失った…』

「私は何も見えなくなっていた、しかし、今、私には見える」優がちょうど目で追っている所を愛理が声に出して言った。

 優が目を上げると、愛理がまっすぐに見ていて、ばっちりと目があった。

「で? 今、何が…見えるのさ?」目があったまま優が聞いた。

「優」愛理は優をまっすぐに見たまま答えた。

「へ? まぁ、目の前に居るけど…」

 愛理は首を横に振った。「優が、ずっとどんなに私の事思ってくれてたか…見えなくなってた…いっぱい酷い事言って、ごめん…ね…」途中から涙で声がつまっていた。

 優は複雑な顔つきで立ちつくしていた。

「ごめん。ただ、謝りたかっただけだから。それ、貰って良い?」愛理は涙を拭って、優の手にしている紙を指差した。

「へ、ああ…」優はもう一度訳詞に目をやり、単調な口調で言った。「私は…一度失ったモノ…見つけた。たった今」

 愛理は不思議そうに優を見た。

「私が好きだった愛理」優は、はにかむように微笑んだ。

 愛理の目からまた涙が溢れた。

「な、また、あれ弾いて」

「うん。聞いて」愛理は嬉しそうに微笑んだ。

 優にこんな顔見せるの、きっと久しぶり。ごめん、優。私、優はきっと許してくれるに違いないって思ってた。だって、あっちで優はもう許してくれてたんだから。


 もうあの素敵なユーディの夢は見ない。きっともう今の私には覚えている必要が無いから。でも覚えて無いだけで、私は今もあっちで歌っているに違いない。ユーディは『天翔ける銀の月(あまかけるぎんのつき)』を手に空を翔けめぐっているに違いない。あれは、夢や妄想なんかじゃない。現実。そのうち遠い記憶になっていってしまうのかもしれない。でも、私はもう疑わない。私にはいつもアイリーンがついてる。きっとこれからもこっちでは色々あるんだろう。お母さんの小言も優びいきも続くだろう。けどもう、何があっても優と心が離れる事はない。今はそう確信できる。


 銀色の三日月が夜空を翔けている夢を見た。

 キラキラと輝いてとても綺麗だった。



       ---- 完 -----


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