第29話 修羅場
「……」
「……」
「……」
空気が重い。
とてつもなく重い。
重すぎて体が床に沈んでしまうじゃないかってくらい重い。
長い修行を経て、戦闘では誰が相手でも、どんな攻撃をされようとも決して動じない鋼の境地に至ったような気がする俺が、この空気の前では膝が震えて今にも逃げ出してしまいそうになっている。
ああ……先程のスイレンとのやり取りが天国に思える……。
いやまぁ、あれはあれで大変だったけど、怒りMAXで来るぶん対処はそこまで複雑にはならない。スイレンの単純な性格もあって、割と短い時間で彼女との関係は元に戻った。しかし今回はそんなすんなりとはいかない。なんせ相手が何を考えているか分からず、何をしてくるかも分からないからだ。
ただ1つだけ分かっていることと言えば――彼女が怒っているということだけ。
「……で、いつまで黙っているつもりだ?」
このまま永遠に沈黙が続くんじゃないかと思われたが、レラの一言によってようやく会話に流れが生まれようとした。本来ならこの状況を打破してくれたことに感謝をするところだが、こうなってしまった原因の一端がレラにもあるのでお礼は控えておく。
「そうですね、そろそろ話をしたいので貴女は出て行ってくれませんか?」
抑揚のない声で喋りつつも、殺気を込めてレラを睨むメイドさん。
その濁った瞳からは暗い感情しか読み取れず、体から漏れている黒いオーラの所為もあって、なんかもうシリアルキラーにしか見えない。
もはや記憶にある彼女の面影はどこにもない。
俺の知っている彼女はもっと優しくて慈愛に満ちて………………いたっけ? あれ……どちらかと言うと、影で物事を操って自分の望む展開を作り出すような子じゃなかったか? ……いやいやそんな腹黒い子じゃないだろ!
俺の彼女――アリサはちょっと黒いところもあるけど素敵な女の子だ!
「フン、夫に捨てられた女が偉そうに指図するな」
「捨てられてませんから。私を気遣って少し遠ざけられただけです。ジル様だって今、心の中で私のことを素敵な彼女だと思ってますよ? まあ、貴女がジル様の夫でもなんでもないただの勘違い大精霊なのだから分からないのも無理はないでしょうが」
「……」
「……」
俺を間に挟んで睨み合う2人。
とてもじゃないが俺が意見を挟める雰囲気じゃない。どちらか片方に肩入れすればもう片方から文句を言われるだろうし、だからって仲裁しようとしても「どっちの味方かハッキリしろ」と怒られるに決まっている。
ああ……アリサと再会した時は、驚きながらもすごく嬉しそうにしてくれたのに……。
全てはレラの拘束が緩かったのが悪かった。やはり邪神クラスを封印できる多次元分離結界術を使うべきだったんだ……!!
「……とりあえず私はジル様と2人で話したいので貴女は出て行ってください。その後ならいくらでも付き合ってあげますから」
「断る。お前は狡猾な女のようだからな、2人切りにしたら流されやすい夫がどんな洗脳を受けるか分かったもんじゃない。極力口を出さないでいてやるから私の目の前で話せ」
「嫌です。どうして赤の他人である貴女の前でプライベートな話をしなくちゃいけないんです?」
「お前と私が他人同士でも、私は夫の妻だ。夫を魔の手から守る義務がある」
「勝手に妻だと思い込んでいるだけでしょう?」
「ほう?」
「はっ」
とてもじゃないが3人で仲良くお喋りしましょうとはなりそうもない。
このまま黙っていても事態は悪くなる一方だろうし、そろそろ俺も参加するとしよう。
「あー……その、アリサ。レラはこういう奴だから今回は我慢してくれ。次はちゃんと2人だけの機会を作るからさ。レラもこれから大事な話をするんだから黙っていろよ?」
「……分かりました」
「ああ、無関係な話は聞き流してやろう」
よし、2人の了承は得た。
今はとにかくアリサへの謝罪が先だからな、早く誠意を込めて謝らなければ。……それに2人とも頭はいいから、真面目な話になれば少しは落ち着いて互いを知る努力はしてくれるだろう。
「あのなアリサ――」
「謝罪でしたら結構です。ジル様の性格や置かれている状況は理解しているので、ああいう手段を取ってしまうのも仕方のないことだと思っています。むしろバルディアが来ると分かっていながらお伝えしなかった私が悪かったのだと反省すらしています」
「そんなことは――」
「もちろん全く文句がないわけではないのですが……それはもうどうでもいいです。そんな些末なことよりも、この女房面した女とどういう関係なのかの説明をお願いします」
批判がましい目を向けてくるアリサ。
いや、どうでもよくはないと思うんだけど……。
「フン、教えてやれ夫よ。お前は既に過去の女で、私が新しいパートナーなんだとな」
「黙れババア」
「ん? 聞こえなかったな。もう1回言ってくれるか?」
「おやおや、お年の所為で耳が遠くなっちゃったんですかね~。若者同士の会話に付いて来れないのなら、お婆ちゃんは黙っていてくださいねー」
「死にたいのか小娘?」
「図星を指されたらすぐに暴力ですか。最近のお年寄りは短気でかないませんね」
「……フン、いいだろう。元カノが嫁である私に嫉妬していると思えば可愛いものだ」
「だから私とジル様は別れてなんていませんから!!」
「わーーーーちょっと待ったーー!?」
レラの胸ぐらを掴もうとしたアリサを必死に宥める。
彼女がここまで感情をむき出しにしているのは初めて見るかもしれない。……俺の記憶が正しければアリサはハーレム推奨派だったような気がするんだが……今そのことに触れたら怒るだろうから聞かないでおこう。
「すいませんジル様……。少し頭に血がのぼってしまいました。もう大丈夫です。……それで結局この女とは結局どういう関係なのですか?」
「うっ」
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「あー、レラは親友のようなもんだ。なんだかんだで世話になったりしたから恩もある。だけど結婚の約束とかはしていない」
「ほらやっぱり貴女が勝手に付き纏っていただけじゃないですか!!」
嬉しそうにドヤ顔を決めるアリサ。
心なしか部屋の温度も上がった気がする。
「ほう? 親友同士でもキスや性行為はするのか?」
そして室温は一気に氷点下へ。
「したん……ですか……?」
「そうだ。キスは9万4376回。性行為は7768回な」
「そんなにしてねえだろ――って、ハッ!?」
痛恨のミス……!!
「やっぱりしたんですね……」
「はい、しました……」
性行為に分類されるものは5回ほどしたのだが……こういうのは回数の問題じゃないよな。きっとアリサもさぞかし落胆して――
「尤も、お前が考えているような甘い行為ではなかったがな。あれはどちらかというと肉欲を満たす為ではなく、夫が男であることを思い出させる為の行為だった」
「あー……なるほど。それはしょうがないですね。むしろファインプレーと言えるかもしれません」
――落胆していなかった。
納得がいったという感じで頷いている。
非常に複雑な気分だ。
「夫は目を離すとすぐに女モードになってしまうからな。だから常に目を光らせておく必要があった」
「分かります。可愛い物を見かけた時などに、私がどれほどジル様の注意を逸らすことに尽力したか……」
「うむ、お前もやはり苦労したか」
「はい。レラさんも大変だったようですね」
あれ? なんか互いに尊敬の目を向け合っているぞ?
もしかして仲良くなったのか……?
「夫の面倒を見るのは大変だからな――あとは私に任せてお前は違う男を探せ」
「いえいえ、天下の大精霊様にそんなことさせられません。ジル様は私が引き受けますので、貴女はその辺の男でも養っててください」
うん、やっぱりダメか。
まるで水と油のように混ざる気配がない。
「だいたいさっきから『ジル様ジル様』と自分を下に置いている癖に、何故夫の意に反した行動を取る。普通なら黙って私を受け入れるはずだ。……フン、どうせ夫を利用して甘い汁を吸おうという魂胆なんだろ?」
「なっ――私はジル様を利用しようだなんて思ってません!!」
「また『ジル様』か。私にはそうやって慕っていれば夫が守ってくれるだろうと浅はかな考えをしているようにか思えないな。これならまだ自分達をペットだと自覚しているあの非常食達の方が夫の隣に相応しい」
「貴女だって勝手に女房を名乗っているだけでしょう!!」
「フッ。夫は照れ屋でもあり、気遣いができる男でもある。ほとんど覚えていない彼女の前で私を紹介するのが気まずいのだろう」
「はっ、また適当なことを」
「では証拠を見せてやろう」
そう言うなり俺をじーっと凝視し始めた。
な、なんだ……?
何をする気だ……?
「誰よりもお前を愛しているぞ」
「っ~~~~~~」
ヤバい。これはヤバいぞ。顔が熱くなってきた。胸も激しく打っている。……いやいやこれは卑怯だって。こんな直球を投げられたらどうしようもないじゃん。いつもはそんなこと言わないのに、いきなり不意打ちで剛速球とか来たら避けられるわけないよ!! うわ~……ダメだ、まだ顔の火照りが収まらない。
「見ての通り、夫もなんだかんだで私のことが好きなのだ。そもそも本当にただの親友なら、さすがに今頃はどこか違う場所へ転移させられているはずだしな」
「っ、私だって……!!」
突然服を脱ぎ捨てて裸になるアリサ。
その姿にピンクな記憶が蘇るが……。
「こらこら、そんなに勢いよく脱ぐなんてはしたないよ? それに寒いから早く服を着な?」
「!?」
「フン、夫相手に裸で迫るなど無意味もいいところだ。ムードが高まった時ならともかく、この状況で脱いでも夫を困らせるだけ。そんなことも分からないのか?」
「昔のジル様なら……少しは興奮してくれたのに……」
「ハッ!?」
しまった、レラの所為で意識がちょっとトリップしてた!?
「お前の知っているジルはもういないということだ。分かったなら早く違う男を探すんだな」
「ジル様は……私よりも……その女の方が好きなんですか……?」
「そ、そんなことないぞ!! 俺はアリサもちゃんと好きだ!!」
「聞いたか? アリサ“も”だとさ。これでハッキリしたな。少なくともお前が夫の愛を独占することは永遠にない」
「こ、こら、言い過ぎ――」
「う……ぐす……うぅ……うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああんんんん……!! ぽっと出のキャラにジル様を取られたあ~~~~~~!!」
「「!?」」
アリサが幼い子供のように大泣きをしてしまった。
…………。
え……?
あ、あの、ど、どどどどどうしよう!?
こんなこと初めてだから……ど、どうすんの!?
「どうすればいいレラ!?」
「うううううううろ、うろ……うろうろ……うろたえるな夫よ……!! 私に聞かれても分からん……!!」
「大人2人が揃ってポンコツじゃないか!!」
「だな!!」
「うわああああああああああああああああああん!!」
「とりあえず抱きしめればいいか!?」
「私がやるのか!?」
「いや、俺がやる!!」
泣きじゃくるアリサを優しく抱きしめる。
だがそれでも泣き止まないので、今度はより強く抱きしめると徐々にだが大人しくなった。
――そして数分後には、なんとか会話できるくらいにまでは落ち着いた。
「ひっく……すびまぜん……取り乱して……」
「謝るのはこっちだよ。ごめんなアリサ。久し振りの再会だっていうのに泣かせるような不甲斐ないことしちゃって」
「いいんです……。でも……できるなら……今日だけは2人切りで過ごしたいです……」
「ああ、構わないよ。……レラもいいよな?」
「……フン。確かに私も大人げなかったからな。好きにしろ」
さすがに空気を読んだのか、レラは大して反論もせずに部屋から立ち去った。
「さ、これで2人だけだ。今日はなるべくアリサの注文に応えるから、何でも言ってくれ」
「ありがとうございます。……では、しばらくこのまま抱きしめて下さい」
「了解」
――胸の中でアリサがニヤリと笑ったような気がしたが、たぶん気のせいだろう。
今年中に本編は終わらせたい。