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向ヶ丘千里はただ見つめているのであった

作者: ハスキル

はじめに。


 モエと千里はただ見つめ合っていた。

 見つめ合う、というのは密で深いコミュニケーションである。

 だがしかし、公園の広場で踊り狂うモエと、すべり台を指定席にしてぶらぶらと足を泳がせながらその様を見つめる千里は、そのわずか五メートルの距離の間でさえ視界が合わさることなく、触れたい、触れ合いたい、という願いから送る言葉のないコールを行き違いさせていた。

 そう。

 モエは過度な自己表現をしつつも、本当のところ、自分が嘘の存在だと分かっていたし、千里も自分の体がここにはないことを知っていて、自分は人に触れてはいけないということを自覚している。

 だからいつも二人の距離は五メートルであり、それ以上の関係にはならなかった。でも、触れたいという気持ちと共にある、このぬるい温度に満足してもいるのだ。

『流れ落ちる滝のような桜の花びら。終わる春。葉桜。風がびゅうびゅうと吹き、無音の鼓動が時間を追い立てる。二人は、この視界をふさぐほど降る花びらの中で、ただ見つめ、あるいは狂って踊る。』



そして:千里


『公園にはモエという女の子がいます。

 彼女は舞い落ちる花びらのように桃色の可愛らしさで笑い、葉桜のような初夏の快活さで、公園を舞っています。

 なんであんなに輝いているんでしょう。なんで、オレンジ色の染めた髪の毛がキラキラふわふわしているんでしょう。

ときどき足を休めて、潤んだ瞳が五歳児のような純粋さでこちらを覗いてきます。

 でもわたしは今、ここにはいないのです。

 本当のわたしは檻の中。学校で退屈な授業を聞いているのです。主体性のない……ましてやあなたみたいな自己表現力のない、ただの空気のようです。

 ここにいるわたしはフェイクなのです。

 本当のわたしは、お気に入りの小説を読みながら窓の外……逆にここから見ると、あのコンクリートの固まりで作られた箱の中。そこから、この公園を眺めているだけ。春のほのかに熱気を帯びた空気の中でふわふわと本を読むことを考えている……考えるだけの空っぼの人。

 そこにいるつもりになっているだけ。主観がそこにあるだけ。

 でも、一つ希望します。本当のわたしが、公園に行ってあなたに会いたい』



もう一つ:モエ


『公園には千里という女の子がいる。

 彼女は可憐な美少女で、黒より赤みの掛かった茶色の髪の毛がふわふわまん丸。綺麗に梳かれたボブカットを軽くパーマさせている。

 そしてなにより、わたしの唯一の観測者であり、その瞳で、本当はこの場にいないわたしを見ている。

 でも本当のわたしは今、そこにはいない。そこにいるのはフェイク。本当のわたしじゃないのだ。

 だって、今のわたしは点滴の針が通った病人で、身動きだって満足に取れやしない。

 そこにいるわたしはほんの思いつきで、書き始めた文章の塊であり、なんだってできる空想の暴走なのだ。

 風よりも早く、電車も、飛行機も追い抜くスピードで走る。高鳴る心臓が胸を熱くさせて、何よりも自由になれる。発散された思考の行く末の形なのだ。

 でも本当のわたしの願いは叶わない。

 点滴に縛られたわたしは目が覚めて、自分が病人だってことに気付いて、無性にやるせなくなる。

 今日も膨らむだけ膨らんだ妄想の中で、ふと気付くと『彼女』が公園で踊り狂っていた。わたしの思いの断片が、へんてこりんなベクトルへ向かって暴走していた。なんの抑制も効かない、ただのジャジャ馬っ子である。

 そんな恥ずかしいわたしの一つをなんのためらいもなく観測し、わたしに呼びかけてくる千里。ごめんなさい。逆に恥ずかしくて、まともにあなたを見れない。

 でも、本当はあなたに会いたい。病室を飛び出してあなたに触れたい。

 空高く舞い上がってあなたの元に……』



転回:シンクにあるアメーバ


お互いが存在を確認し合っているのに、決して繋がることのない奇妙な二人の関係は憧れとか、願望の塊として半ば固定されていて、本来の姿を歪めていた。それは、心地よく時間を停止させ、認識できる夢のカタチとして二人を満足させていた。

 しかしそれは、つい……というかある種の必然性をもって変化を迎える。

 すべり台のてっぺんで踊り狂うモエを見ていた千里は、舞い落ちる桜の花びらが、髪に掛かったので手櫛で払い落とした。

 その時、本が手元がこぼれてすべり台をすすぅっと下っていった。

「あっ」と、千里は声を出す。

 それに気付いたのか、モエはいつも通りじたばたしていた体をゆらゆらとではあるが安定させ、本の方を見やり、そして……二人は本を取ろうと、互いに近づいたのだった。

 息が触れる。目と目が合い、お互いの瞳の奥に自らを確認する。

 千里はかぁっと頬を赤くし、モエは硬直したまま動かなくなった。

 千里はしばらくして正気を取り戻し、まだ動悸の激しい胸を左手で押さえながらも、衝動的に彼女に触れたい、と思った。

 本はすべり台の底部に張り付いたままだがまったく気にも留めず、右手が自然と差し出される。モエは何の反応も示さず、フリーズした機械人形のようだった。

 指先がモエの頬をとらえたとき、爆音が響く。

『ばばばばば……』

 ヘリコプターが頭上でけたたましく空気をかき混ぜている。

 風が桜の花びらを巻き上げ、モエの髪の毛をわっさわっさと揺らし、千里の来ている制服のスカートをばたばたとたなびかせる。

 千里はびっくりして手を引っ込め、ズレ落ちたメガネを直しもせずに頭上のヘリコプターを見上げた。

 体ごと巻き上げられてしまいそうな感覚をもよおす突風に眩暈を感じ、数回瞬きをした後、モエの方を見やると……もういなかった。最初から誰もいなかったかのように。

 嘘の自分なのだからと思えば外聞も気にならずに思いっきり泣けばいいのに堪えてしまう。

 一体自分は何者なんだって、そう千里は心の中で思った。千里はいつの間にか教室の中に呼び戻されていた。

 既に授業は終わっており、緊張感の解けた教室は活気に満ちているようだった。

 千里はパチパチと瞬きする。

 米軍のヘリコプターが遠くで飛んでいる。

 ここから見える公園は緑色の濃くなった桜が一面を覆っている。そこにはもう誰もいない。夢の時間は終わった。

「ふう」

 引き戻された意識を、軽い目眩と共にこらえながら本来のものに合わせるために、目頭をぐりぐりとマッサージして整える。

 止まった時間は動き始めた。


 千里は思っている。

 現実は自分の進めているスピードより早く時を進めているんだ、と。

 駆けっこも遅いし、会話のテンポも遅いし、テストの解答用紙はいつも何問か空白が出来る。どうしても社会の設けたリズムに乗れていないのである。

 質が悪いことに体だけは成長が早くてめんどくさい。

 しかし、現実という時間は立ち止まってくれない。もちろん千里自身の肉も回りの時間と環境に被さっているのだ。時計の針はのんびりと千里を待ってくれるわけでもなく、一日はあくまで平等に過ぎていく。

 体とは別に思いと心だけが取り残されて、しまいには分離してしまうんじゃないか。二度とあの公園から出られなくなるんじゃないだろうか。

 そんな不安が膨れ上がってどうしようもなくなるときもある。

 でも、この現実という早送りされた時間について行ける自信は無くなってきているのだ。走るのを止めて立ち止まってしまいたい。世界はその瞬間から、わたしの見るまま、思うままにゆっくり……ゆっくり秒針を動かすのだ。現実と乖離したわたしの世界は他の人にどう映るのだろう。誰の目にも止まらないのかもしれない。

 千里は、追い立てる者からの離脱に幸福を。孤独に恐怖を見て、唇を震わせた。

 もしかしたら、恐らくは、もう立ち止まってしまっているのかもしれない、とも思う。

 千里はゆっくりと立ち上がった。

 昼休みの廊下は賑わっており、ざわざわと空気が人の声を混ぜ合わせて振動している。

 千里のお弁当を食べる所はいつも同じである。

 千里は渡り廊下から直接中庭に出て、そこでお弁当を広げた。

 誰もいない。

 いちょうの木をぐるりと囲んだ石畳の道は、奥の、今は使われていないゴミ焼却炉に続いており、学校の歴史とイコールの年齢であるいちょうを眺めることが出来る場所に、青いベンチが一つ置かれている。

 昔、自動販売機があったと思われる床が四角く日焼けしており、かつての賑やかな光景を思わせるが、それは今の開けた空間のわびしさをより強調しているだけで、一層中庭を無人へと追いやっているように見える。

 今は千里、ただ一人。青いベンチに腰を下ろしていた。

 こうして千里はまた、周囲の時間の波から離脱する。

 ペプシのロゴが入ったプラスチック製ベンチはがちがちと座り心地が悪く、所々欠けて見た目も悪いが、逆に誰も寄りつかないことが居心地を良くする。

 千里は観察を始めた。

 千里の心は、食べるという行動を自動的に行っていた。ぼそぼそと小さい口でゆっくりお弁当のおかずやらごはんやらがちっとも減っていないんじゃないかというくらい微妙に減っていく。

 中庭では、時の狭間で幽霊が談笑していた。

 そこでは中庭は荒れておらず、ベンチも新品である。この風景は時が巻き戻っているのか? それとも千里の空想の暴走なのか……。

 すべては客観的でなく、千里の中だけで完結する。そこに脈絡とか整合性は皆無で、千里の言葉、思いが世界だった。



転回:伝導するゴム


 米軍のヘリコプターが爆音を鳴らしながら飛び去っていく。

 モエは呆然としていた。ヘッドフォンから垂れ流される音楽で支配された脳内にさえ容赦なく爆音は入ってくるが、目が覚めた原因は爆音などではない。

「わたしはなぜ、本を掴もうとした?」

 無意識が千里を求めた。実体のない欲望の塊が彼女を掴もうとしたのだ。

 もちろん、それは叶わなかっただろう。

「なぜ、無意識にモエを引き戻した?」

 なぜ。それは……。

「なんでだろ」

 モエはノートに書き殴られた単語の羅列とぐりぐり塗りつぶした訂正線(なにも書いていない状態でぐりぐりと跡が付くまで乱暴に鉛筆を走らせたものも含まれる)を見つめ、考える。

 しかし、それは何十秒か後にはそれがただぼぉっとすることに変わっていた。

 いらいらいらいら……。

 纏まらない考えと、回転の遅い脳に苛立ちを覚えて、またノートが黒く塗りつぶされていく。

 モエは諦めたのか、飽きたのか、ふかふかの枕にもたれ、いつものようにヘッドフォンから流れ出る意味の無い音の連続に耳を傾け始めた。

 間もなく、エイトビートのリピートが音楽としてゆっくりカタチを帯びていく。時折垣間見られるフェードアウトは過ぎ去るのではなく逆に深いところに潜るための誘引剤で、その瞬間からモエは再び空想への離脱を実行する。

 一つのフレーズを繰り返すだけのエイトビート。それだけで良い。

 そうすればモエの心は解き放たれて、無限の疾走を疲れることなく繰り返すことができるから。

 それだけが良いのだ。

 繰り返される景色は連なる高圧線であれ、もくもくと煙を上げる工場の煙突であれ、イチョウの並木道であれ、高速道路の車線であれ、街灯であれ、団地であれ、左右対称のバロック建築による回廊であれ……。

 永遠に連続する酩酊感に浸ることに安らぎを感じる。

 モエは疾走しながらも逆に冷静になっているのを感じていた。何も考えたくはない。と思いながらも、思考の波が押し寄せて止まらない。

 ふと、自分の分裂が始まったときのことが思い返された。

 その時も、リピートする音楽にのって走っていた。

 その最中さなか、ふとした拍子にモエの体は浮き上がったのだ。

 いや、もっと気持ちの悪い感覚で、 最初は空想なのに転んでしまったのかと思ったが、それはさながら『落ちる夢』のような永遠の落下で、止まらない落下感に恐怖を覚え始めたとき、何かがモエの中で弾けた。

 まるで、水素爆発の時のように……何者かに触れ合った瞬間、踊り狂うモエが生まれた。

 モエは無意識であり、分離はいつもいつの間にかで、彼女は自由だ。

 今日もこの思考の果てに自由な彼女はわたしから離れ飛び立つかもしれない。そう思うと、他人に自分の一部を取られるような、……それも憧れている自分のさらけ出したい一面なのにそれを奪われたようで悲しい。だから、なるべくそれは内に秘められて、そっとしておいて欲しかった。

「今日くらいはそっとしておいて欲しい。お願いだから、ぐっすり寝かせて下さい」

 モエは、その日に意識が途切れるまで走り続けた。



転回:観測者と見張り台


「なに見てんの?」

 千里は左肩に触れた何かにびっくりして、紫に染まったペプシのベンチに落としていたお尻が浮き上がった。

「きゃ!」

 みしみし、と今にも壊れそうなベンチの悲鳴があがる。

「もう五時限目、はじまるぜ」

 千里は触れられ方の後ろを振り返ると、そこには不良がいた。それは誰がどう見ても不良と分かるたたずまいでそこにいた。

「あ……不良だ」

 心の直感の赴くままに千里は言う。それは、

「不良じゃねえ」

 安心感から来る心の発露の堰が外れた瞬間である。

「でも、髪が金色……」

「おめえも茶髪だろうが」

「わたしのは地毛です」

「嘘つけ。中学のときは黒かっただろうが」

「良ちゃんが色盲なの」

「あぁあぁ、気付かなかった。俺の見える世界がずれてんのね……てそんなわけあるか! ぼけぇ」

「……声、大きい」

「て、めぇ……もういい。折角優等生を演じてらっしゃるお前さんに遅刻しますよ、と警告している優しい友人に不遜かつ冷淡な対応をするとは……良い度胸だ。夜道の背後に気を付けろよ」

 千里はその言葉を聞いて、ボロベンチから立ち上がった。

 やはり、急に立ち上がったせいでベンチは再び悲鳴をあげた。

「ご、ごめん。ありがとう」

「覚醒したか?」

「う、うん」

 某マンガに影響されて、「やれやれだぜ」とか言う良ちゃんは教室とは反対方向へ向かっている。

「良ちゃん」

「あん?」

「ありがとう」

「おお」

 簡単な会話。何の深さも、揺らめく波もない呼びかけと返答だが、千里はここに温もりを感じた。

 このまま良ちゃんに、おんぶされたまま時間を飛び越すのも悪くないかも知れません。と、千里は心の中で頬の赤くなるような妄想を膨らませた。

「良ちゃんは、わたしのネジを巻いてくれるわけではないですが、イライラしながら待ってくれるのです。それは心地よいのですが、優しいのですが、わたしは良ちゃん依存症になるか、おんぶされたままネジが切れてしまうのでしょう」

 そう、あえて声に出したら身震いするくらい怖くなってしまうのだった。



転回:地球照


 ある日、モエは夢を見た。

 まるでテレビ画面を見ているかのように別世界の出来事のように、彼女はそれを客観的に、他人事のように感じた。

 でも、激しいデジャブの胸騒ぎを感じて、画面を注視する。

 木枯らしの吹く街路樹の歩道で、男女が寄り添って歩いている。

 モエは、どきっ、と心臓が脈打つのを感じた。無意識に気づいたことが箇条書きされていく。

 それは、二人の着ている学校の制服が、モエの通っていた所のものであること。

 それは、女の子のしているイルカの髪留めに見覚えがあること。

 それは女の子のしている足に付きそうなくらい長いダッフルコートに見覚えがあること。

 それは、女の子のしている黄緑に黒いバーバリーチェックのマフラーに見覚えがあること。

 それは、女の子の背丈に。女の子の歩く挙動に。女の子の発するやたらはつらつとした甲高い声に聞き覚えがある、ということ。

 いつの間にか動悸は激しさを増し、左耳の奥の方でばくばくと鼓膜が内側から振動しているのを感じる。

 それは、夢の中での真実としてわたしが認識した主観のはずなのに、こうも認めたくないものか?

 モエはぶるぶる震える唇から『認めたくない』という言葉を繰り返し吐き出した。

「紅葉もすっかり終わって、葉っぱも落ちきってしまったねぇ」

 馬鹿みたいに騒いで、猫みたいに甘えている眼前の自分に自分の面影を認めない。

でも、紛れもなく自分の過去の姿だと認識する。

 つまりは……と、思いながらも思考の先が進まない。過程と結果を示されてもそれを真実を口にできない。

「ねえ、お腹減っちゃった。マック近くにあったよね。行こうよぉ」

「寒ぅい。緑茶飲みたい」

「あ、金星。……あ、れ。火星だっけ? あけのみょうじょう……。あれ?」

 モエは自虐をするように自分に尋ねる。

 なんてアホの子を地で行く、可愛らしいがとりとめもない言葉を言うんだろう。こんなにわたしってジョシコーセーだったかな?

 それに、なぜか彼女の声だけカクテルパーティ現象のように音を拾う。彼は……?

 本当は彼のことなど、誰でも良いし、知りたくもない。なぜって、思い出せないほど縁遠くなった人なのだから……。

 モエはその結論を振り払うように下を向いた。

 その、彼は時々身長半分くらい(は確実に大げさな表現ではあるが)の高さにある頭を撫でる。

 モエは視線を釘付けにされながら、ぶるぶると震え、ぐるぐると喉の奥からもはや原型をとどめない声を発し続ける。明らかに自分より可愛らしく、普通という装飾を身にまとった自分の声に、暗に拒絶されている。いや、モエ自身の強迫観念が両者の間を大きく隔てている。そこで、

「ねえ、モエ?」

と、突然後ろから急に声がして、びっくりしたモエは飛び上がって振り向いた。

 そこにいたのはもう一人の自分であった。

「あ、あう」

「もう一人のあなた。あなたは誰が本物のモエになるか分かる? あなたは本物になるモエ?」

 彼女は言葉を続ける。

 いたずら心の満たされた人のような、彼女の笑みを見ると、本当に自分の心の一部なのだろうか。と、モエは感じて身震いした。

 さも考えを巡らしているかのように、思案気に右上の方に目をやりながらゆっくり、質問の答えを提示する。

「もしもよ。あそこで幸せなモエが、今、この細分化されたわたしたちを見たらどう思う、と思う?」

 モエは目をそらした。

「や、やめて」

「ねえ、どう思うの? こっち見てよ。分からないの? 言えないの?」

 モエの視界はもはや定まらない。何にもピントが合わないし、ぐちゃぐちゃであった。しかしながら、すらすらと言葉を連ねる、突然現れたもう一人の細分化された一部であるモエの別の存在は、自らが関係していないかのようにすらすらと客観的真実を述べていく。

「本当は全て自分であるはずなのに、客観的に見る自分の細切れは暗いものほど目をそむけたくなるでしょうね」

「だから!!」

「やめないわ。これは、この言葉は、貴方が言いたくないけどあなたが望んだその答えの発声よ。やめられるわけないじゃない」

「やめて」

 モエの希望は無視される。でも、本当に止めて欲しいのか。事実を突きつけられた方が良いのか。モエ自身もはっきりと分からなかった。

「この細分化された思考のどれが本物かは分からない。けど、その本物は確実にその成分に寄らず、その濃度に寄らず、質量によらず、暗い部分を排除するでしょう」


「「わたしはいずれ、消えてしまう」」


 声がエコーして聞こえる。唇の動きだけが強調されて、何度も「わたしはいずれ、消えてしまう」を繰り返す。強制削除の恐怖が脳内を支配して、モエは頭を抱えて叫んだ。

「うわぁぁぁぁぁ」

 画面の激しい揺れが何秒か。永遠か?

 それで、夢から覚醒していた。

 そこにあるのは現実の、クリームホワイトの壁紙で埋め尽くされた病室である。

 寝ている状態から飛び起きたので、軽い立ちくらみに頭を抱え、もう一度周囲を確認する。

『ばばばばば……』

 窓ガラスの先で米軍のヘリが三台飛でいた。

 ヘッドフォンからはまだ曲が再生されていた。

『もしかしたら、繰り返される音楽のどこかで、今、わたしがわたしだと思っている瞬間はいつの間にかすり変わっていて、本物だと思っているわたしが偽物になっているのかもしれない。

 音楽に変化がないなんてことはあり得ない。

 いつまでも変わらない、と勘違いしている繰り返されるフレーズはいつしか形を変え、全く違う主題へ移行しているかもしれない。勘違いをしているのは自分だけで、時間は否応なくわたしの主観を変えていくということ……』

 モエは客観的に見える自分の分身……分裂した精神の一つ一つを知っている。今まではモエは、この自分が本物だと思っていた。分身を制御し、最終的には一つに集合するものだと思っていた。

 しかし、モエの無自覚は、周囲の視線は……。

 それは、モエを求めているのだろうか。

 心は簡単に嘘を付く。回りの視線と自分の希望が自分を形作る。

 果たしてその瞬間、自分がこの主観を選び取るのだろうか? と、モエは自問する。

「誰か、このわたしを見て。見てよ……」



転回:それは薄ピンクに青のストライプ


 千里はこれ以上上の階は存在しない階段を上っていた。その先には鉄とアルミのノブが重々しい扉があり、常用されない屋上に続いている。

 ぺた、ぺた、という音がするわけではないが、足が張り付いたような感覚と、音を立ててはいけないという意識で耳が繊細に反応して聞き取っている。

 埃だらけの終点に着く。

 千里にとってはちょっとでさえ開けるのに苦労するのに、錆びているために軋む音を考慮された開閉は、なおさらゆっくりゆっくり時間を掛けて、外の空気と埃を混じり合わせていく。

 ぶわっ。

 そういう音も、いわゆる擬音である。突然開ける視界に少しばかり圧倒された心がありえない音まで拾うのである。

 連なるフェンスの先端に良ちゃんがいる。

 良ちゃんは苔生こけむしていることも、触れれば絶対にひんやりしているはずのことも気にせずに、ゆったりと腰を落としている。

「良ちゃん」

「んあ」

 良ちゃんは上を仰ぎ見る形で千里の方に振り返る。

 二人の世界は上下反転した。

「やっぱり君は不良さんだね。授業をほったらかしてこんなところで油を売っています」

「人のこと言えねえじゃんか」

「わたしは体が教室にいるからセーフです」

「はは。便利なからだ、だな」

「はい」

 にこりとはにかみながら、千里は良ちゃんに近づく。本当に嬉しそうに……言って欲しいことを言って貰えたという満足感の笑みである。

「今日はストライプなんだな」

「どこを見ているのですか」

「ん? 千里のパンツを、見上げる形で」

「そうですか。……楽しいですか?」

「いんや。そう冷静に対処されるとおもしろみは半減する」

 眠たげな瞳をいっそう細めて良ちゃんに目を向ける千里は、トリップしそうになった思考を呼び戻していた。

 自分の中では何も考えるな。思考を飛ばすな。と必死に抑制しているのに、思いは好き勝手な方向へ飛んでいこうとする。せめて良ちゃんの前でだけは頭を空っぽにして感じるままにうだうだと、その場をたゆたっていたいと、千里は望む。


 千里が、最初良ちゃんと出会ったのは、集合住宅の屋上だった。

「ああ、あの上からの景色は良いだろうなぁ」とふと思った瞬間にはもうそこにトリップしていた、給水塔の上でしばらく過ごしていると、階下からの天蓋が開かれ、そこから良ちゃんが現れた。

 千里はびゅうびゅうと吹きすさぶ、当時十月の木枯らしの音で良ちゃんが現れたことに気づかず、良ちゃんの一言に、大いに驚く。

「ちっちゃな青色のリボンマークがかわいいパンツだな」

 大声でそんな恥ずかしいことを叫ぶ良ちゃんに頭が追いついていかず、そもそもその良ちゃんがどこにいるのかすら分からずにきょろきょろと頭と目を左右にぐりぐりと回したあげくに動作不良を起こしたか、疲れたかでようやく視線を落とした先に下からパンツを見上げて立っている良ちゃんを発見する。

「きゃ」と、女の子らしい(?)声を上げるだけで精一杯の千里は、良ちゃんが次々と甚だ下の下を行く発言を繰り返したために遂にはスパークして、意識を呼び覚ました。


 次の日か、その翌日か千里自身よく覚えていないが、千里はその集合住宅を見て、衝動的にまたそこに行きたい、と思った。

 その時、またあの男の子がいるんではないか、という疑念もあったのだが、やはり欲求には抗えず、思考がトリップする。今度は慎重に辺りを見回し、自分の身なりをチェックする。

 思えばそれは、思考だけの物体なのだから服装など関係ない、と思っていたのに、それは良ちゃんに出会って変わってしまった価値観の始めでもあると思うと、また違った視点が生まれもするのだが、当時の千里にとってはただ、身を守ろうという防衛本能に忠実に従った結果に過ぎない。

 良ちゃんは欄干もない屋上の縁にたたずんでおり、強風に服をはためかせ、ただ夕日の映える町の景色を睨み付けるように凝視していた。

 もちろん、千里の方からはその表情を伺える訳ではなかったのだが、良ちゃんの、その仁王立ちした鋼の体躯に憧れ、ふわふわと現れては消えるあぶくのような所在ない自分には到底真似できない存在感の表明を羨み、また、背中に掛からない日の光が作り出す影からどことなく悲哀のこもった冷たい雰囲気を感じ、勝手ながら共感していた。

 確かに今まで観察してきた人々の中にも、そうしたいぶし銀のような味わいのある男性を目にしなかったこともないが、千里にとって、同じくらいの年齢の男の子で共鳴するところがあったことが、非常に親近感を持たせる一押しになったのではないだろうか。

 ただ、千里の勇気は声を掛けるまでに至らなかったため、しばし、良ちゃんのそれをじっと日の入りまで観察し続け、良ちゃんがかぶりを振って千里の方に向かったとき、押し出されるように千里の時間が動き出した。

「またあんたか」

 千里はもじもじと体を動かし、目をそらす。というのも良ちゃんが、夕日を見つめるように目つきの怒った態度で千里を睨んできたからなのだが、千里は何の意味もない、あれそれこれを繰り返しては、逃げたい衝動と戦っていた。

 そうこうして、良ちゃんが至近距離に迫る。

 何を言われるんだろうと千里は身構えたが、

「あんた、名前は?」

と、言われ、一瞬「誰の?」とテンパったことを考えた。

「おまえのだよ」

 見透かしたように良ちゃんは言う。

「む、向ヶ丘千里。て、いいます」

「ふうん」

 そう言って、良ちゃんは、さもなんの関係もないと言う風に天蓋を開けて中に入ろうとした。

 千里は置いてけぼりになる恐怖とか、何の発展もないまま過ぎる時に焦りを感じて手を伸ばした。

「また来いよ」

 良ちゃんはただそれだけ言うのみ、中に消えた。


「また来たの!?」

 次の日、良ちゃんは現れた千里にそんなことを言って千里をまたも驚かせた。

 千里は「え、なんで? あの、その」と、しどろもどろになってにやにやといたずら心たっぷりの表情の確信犯に踊らされる。

「冗談だよ」

「そ、そう……。ひどいです」

「そうか? 生身の体じゃないおまえさんの方がよほど酷いと、俺は思うけどな」

「な、あ……。酷いかな?」

「生パンツじゃないじゃんか」

「はっ?」

「だから! そんな嘘の体で嘘パンツを鑑賞しても楽しくない、と」

「最低です。男として、人間として!」

 千里は地団駄ふむように叫んだ。

「へえ、大人しいけど怒るんだ」

「そうやって馬鹿にしていると、ここから落としますよ」

「おお、怖い怖い」

 良ちゃんはわざとらしく身震いした。

「む、むきぃぃ」

 ぽかぽかと拳を左右で良ちゃんの胸の辺りに叩き込む千里だったが、もちろんなんの衝撃も与えられないのである。

「ははは……はっは。今度は生身で殴りにこいよ。待ってるから」

「そうします」

 千里はしょんぼりと、良ちゃんは満足げに夕日を鑑賞した。


 それ以来、千里と良ちゃんの微妙な結びつきが生まれた。

 良ちゃんは、己を見つめる千里を拒否しなかった。ただ、そのたびにパンツネタを披露するのは本人なりの千里へ向けた呼びかけであるようにも思えるが、千里自身、その柔らかい呼びかけに感謝しつつも他にやりようはないものか、と毎度毎度赤面しては対処法ばかりが熟達してきてしまった。

 いっそのこと冷たくあしらってくれれば良いのに……。

 千里は、ついそう考えてしまうこともある。でも、それも一種の甘えなのである。良ちゃんは体ごとぶつかっていかない限り、千里の前からするりと消えてしまう。

 千里はいつか必ず彼の前にダイブしてラリアットを叩き込む日を夢見る。


 さて、学校の屋上で、空と地平を鑑賞している二人は、思い思いの方角と高さに瞳を向けて、その場の共有を温い温度で楽しんでいた。

 千里は町並みを一望できるロケーションを、首を左から右へとゆっくり動かして眺めた。

 住宅街の広がる眼下の景色は敷き詰めた家屋。そこから次第に遠近法で上へ奥へと上昇する線路と幹線道路が、横切る川を跨いで地平線上にあるビルの群れに消える。

「前から言ってるじゃんか。あんまり体からトリップするなって」

 良ちゃんは起きあがった。

「分かってるけど……」

「分かってねえな。何度も言ってることだぞ」

「ぐう。……でも、求めている人もいるの。誰にも見てもらえない、誰にも存在を認められていない人も……いるから」

「見られるとそいつは救われんのか?」

 千里は押し黙ってしまった。

 相変わらず厳しいな、と千里はじわっとくる涙腺を堪えた。

 確かに千里の心がいくつも分身しようが、体が分裂しようが、救われる人なんていない。千里も分かっていることだった。

 結局のところ千里の自己満足でしかない。自分の心の癒しの口実でしかない。同時に千里の現実逃避を促進させてもいる。人間としての良い状態へ導くものではない。

 良ちゃんはよっこらせ、と言って立ちあがった。

「ごめんな」

と、良ちゃんはばつが悪そうにそう言う。

「なんでそういうこと言うの?」と、千里は返す。

「分かるからさ。なんとなく」

 千里は思う。


(また……そんなこと言うと、わたしはまた君に甘えてしまいます)


 胸の内を甘いものと苦いもので混ぜた口当たりの悪い感覚を抱き、千里は喉頭を軽く握ってしまった。

「わたし、大人になれない子なのかなぁ……」

千里は力なくそう言って瞳を潤ませた。

「さあな」

 良ちゃんはそう、なにか意見を言うのでも、励ますのでも、慰めるのでもなく、眼下に広がる現代社会の俯瞰図を凝視する。

 ここにいるのは千里の一部の感情であり、全てではないから。千里はこの小さい、良ちゃんにとっても千里にとっても全てである世界の中で寂しく時間の流れを見守っているから。

 そう考えるから、良ちゃんはそれを見ずにはいられない。そこにいる千里も千里。どこにある千里も千里。彼女全てを見て、知ってそれから、彼女のあるべき姿がなんたるかを教えてあげたい。そう願い、それが正しいと、良ちゃんは信じる。一つに限定して存在に肯いてしまったら、あとの彼女の主観は、どうなるだろう。

 生も死も、時が与えて染み込んだ人の像は空っぽにはならない。

 千里は自分が空っぽだと思っているが、良ちゃんにとってはそうではない。どれかを犠牲にして千里の時を掴む位ならばいっそのこと全てなくなってしまっても良い。

 良ちゃんは信じる。全てでようやく一つになるのが人という一個の調和なのだ、と……。

 良ちゃんは千里の心が崩壊するその瞬間の到来が脳裏に過ぎる(よぎる)不安と戦いながら、千里の全て纏まった姿を静かに待ち続けている。



転回:桃色の波


 モエは、ぶちぶちとマスキングテープで固定された自分に刺さっている点滴を引き抜いた。

 左腕に血がたらりと流れる。つつ、と肘から腕、腕から手首、手首から薬指へ。薬指に集まった血液がぷるぷると震えて滴り落ちる。

 モエはその光景をしばし見つめた後、指先まで伝う血の軌跡を右手の指でなぞり、べたべたになるくらい腕いっぱいに撫で延ばしてから、おもむろに立ち上がった。

 普段着の入ったスポーツバッグを掴み、トイレへ行く。

 モエは誰かいるかと思って身構えてトイレに入ったのだが、たまたま誰も使用者はいないようだった。そして、個室の中でモエはスポーツバッグを引っかき回して、中身を確認する。

 黄色のTシャツ。ブルーのボレロにタイトなデニムスカート。それに藍色のレギンス(太ももにちっちゃなドクロのマーク付き)。……そういう取り合わせである。

 しばし思案を巡らせ、意を決したようにモエはパジャマに手を掛けた。

 サーモンピンクだったパジャマは血で汚れ、どす黒いシミが作られている。

 邪魔なパジャマを体から剥がし、一枚一枚袖を通していく。

 そして。

 カチャ。わずかな金属の擦れる音と共に個室のドアが開き、そこから華奢な体つきの女の子が、ばさばさの髪の毛を振り乱して現れる。モエはごわごわした肌触りの違和感に顔をしかめながら洗面台の大きな鏡の前に立った。

 着ているものだけ浮き上がってしまったようなアンバランスさを感じる。

 服の快活なイメージとは裏腹な、不健康そうに見える青白い肌と真っ赤な唇。猫背と輝きが薄れている瞳。何日も梳いていない髪の毛。これらをなんとかしなければならない。

 モエはばさばさの髪の毛を久しぶりに梳き、左上をゴムで纏め、精一杯伸びをした。

「普通の女の子、普通の女の子」

と、念仏のようにぶつぶつとそれを唱え、ニカっと鏡に向かって笑った。

 これで準備万端である。これで誰も脱走患者だとは思わない。

 モエは平然と院内を歩き、作った笑顔を振りまきながら、スキップで病院から脱出した。


 モエは土手道を歩き、いつもの公園まで歩く。

 相変わらず米軍のヘリコプターがばりばりと爆音を上げてどこかへ向かっている。

 時々、ぶあっと風を巻き起こして往来する車になぜかびくびくと脅えながら、モエはようやく公園にたどり着いた。

(公園の中に入るために道路を横断しなければならなかったのだが、モエはがたがたと震えてしまって、渡るのにやたらと時間を要してしまう。)

 緑地の多い、遊歩道が南北に横切っているその中央に遊具の置かれた広場がある。桜が回りを囲んでおり、生い茂る木の葉が非常に立体的で奥行きを感じさせる。

 そこには、砂場、すべり台、ブランコ、(ネッシーだろうか?)恐竜を模したバネの乗り物、雲梯、シーソーにジャングルジムと言った具合に一通りの遊具が円を組んで砂場を囲んでいる。

 いつもすべり台の天辺てっぺんを指定席にしている千里は、今はいない。

 モエはうつむく。

 ここに来れば千里に会えるんじゃないか、という淡い期待。

 千里がわたしの存在に「うん」と肯いてくれるだけでわたしという人格は救われる……という希望。願い……嘆願……夢想………………。

 それは押しつぶされそうになった一個の人格が、溺れて水面上に唯一出た右手が掴もうとあがく最後の藁だったのだ。

 当然、そんな簡単に出会えるはずもなく、モエはがっかりしたのを「ああ、やっぱりね」と納得することで追いやる。何度も、何度も。「ああ、ああ……」「やっぱり会えない。やっぱりわたしはいなくなる」「どこにかな?」「塵ですらない、電気信号の一回線にすぎないのだから」「存在の証明すら一瞬に、瞬く間に消えていくのかな」

 空っぽになっている感情の隙間に、渇を入れる。

 これからどうしよう、とモエは考える。

 馬鹿馬鹿しい、とモエは改めて感じつつ、とぼとぼと歩いてネッシーの乗り物にまたがる。

 これを焦燥というのだろうか。と、モエは思う。

 まるで歯車のかみ合わないモーターのベルトのようだ。モーターだけがウインウインと派手な音を立てているが、ちっとも負荷は掛からない。オーム無しなのである。

 間もない内に負荷の掛からない感情は、自然と止まるであろう。

「ばばばばば……」

 お迎え。

 いや、あれは米軍のヘリコプター。

 いや、あれはわたしを空気のようにかき混ぜて、溶かし去るマドラー。

 いや、あれはただの心象風景。

 ノイズと、ノイズ。ヘッドフォンから垂れ流される……。

 どちらにせよ、なんにせよ。モエの人格の一つは、諦めるという形で他のものに明け渡されようとしていた。

『舞い踊る紙ゴミのような桜の花びら。終わる春。風がびゅうびゅうと吹き、無音の鼓動が時間を追い立てる。』

 シルエットのみのヘリコプターが視界をブラックアウトさせるかのごとく目一杯に接近していて、モエは最後に見たかった青空すら見ることなく、ネッシーの背から仰向けに落下していった。


「ゴンっ!!」



発展:限りなく白に近い灰色は精錬されていない銀色のようだ


 荒野に線路が一本伸びている。

 起伏のあるムーアには線路も見えては隠れ、山に立てば地平は低い。濃淡のない雲が視界のほとんどを支配しており、宇宙を隠して一層空を低く、低くしている。

 冷たい風が頬を刺す。

 ただ一つ人工的な造形として一本の線路に一本の電線とそれを支える等間隔の電柱が、そこに人の気配を残しているが、風に晒されているせいか、それとも別の理由か錆びて朽ち果てているようだった。

 モエは線路に沿って歩いている。とぼとぼと、なんの宛もなく、線路に束縛されたように永延と歩く。

 見捨てられた人工物ほど孤独を助長するものはない。 

 不思議と足は痛くならない。風は身体をとことんまで冷やしていくが、モエは次第に麻痺していく全身の感覚を、逆に楽しんですらいた。

 今もふらふらと足取りも覚束ないが、その内身体を支えられなくなったらモエはそのまま前のめりに崩れ落ちるだろう。そして、この線路のように朽ち果て、そして風化していくだろう。

 モエは、選ばれなかった。

 たくさんあるモエの分身から、結実して昇華しようというとき、このモエは、モエの身体からはじき出されてしまった。

「ちゃんとがんばったよ、わたし」

 一人、誰にともなくモエは言う。自分は可哀想。自分は哀れ。だから自分が慰めてあげるしかない。なぜなら、この誰も選ばなかった世界とモエの一部には残されたものは、左様なものでしかないからだ。

 目の前にもう一人のモエが現れた。

 いつものあの笑顔で、モエの前五メートルの位置に立っている。

 小首を傾げるような仕草でモエを見つめる。

「どうしたの。大丈夫?」

 と訊ねているように見える。

「なんで貴女がここにいるの?」

 ついに立ち止まってしまったモエはもう一人のモエに問うた。

「貴女は自由な翼があるじゃない。こんなところではなく、あなたの翼を休められる場所まで羽ばたいてよ。ねえ、お願いだから……」

 思えばいつも孤独だった。ひとりぼっちだという現実から逃げ出したくて、多くの人格が生み出され、モエの身体を離れては自由に辺りをはしゃぎ立てていたように思えた。ここにいるもう一人のモエも、その中の一つである。

 あの時。

 千里がモエのに触れようとしたあの時にもし、実際にその手がモエの頬に当たったなら、どうなっただろうか。

 何か変わっただろうか? 幻像であると分かって幻滅しただろうか。

 モエはもう一人の自分を見つめて自問した。相変わらず彼女は笑顔を振りまいているが、でも、道化師が笑いながら泣くことが出来るように、彼女もまた、笑顔の奥底で憂いと悲しみをため込んでいる。そう、モエは思った。

 嘘でも何でも良かったのかもしれない。自分がフェイクな存在だと自覚しても尚、現実には存在しないものであることが白日の下にさらされたとしても尚、最も純粋なコミュニケーションの形に対して、全くクリアな気持ちを抱いている。

 結果、拒絶されたとしても、モエにとって孤独から抜け出せる唯一の手段であり、事実、フェイクだとしても触れ立ったという事実は、肌に残るのだから。

 だから、なにも恐れる必要は無かったのだ。例え、触れあったものが虚像であっても、モエには触れる、という結びつきが必要だった。

 モエの足はついに自分の体を支えきれなくなって倒れ伏す。

 うつ伏せになった体は、ごつごつとした砂利と、雑草に冷やされていく。

 モエは瞳を閉じた。

 遠のく意識の奥で、ペチペチという音がして、頬を冷たい感触が打ちつける。雨までふってきたんだろうか。

 ペチペチ、ペチペチ。頬をうつそれは、冷たさで意識を四散させていく、というよりも逆に覚醒させる。

 モエは多少のうざったさに眉をひそめる。


「大丈夫だよ。わたしが見ているから」


 突如発せられた言葉にモエの心臓は激しく脈打った。

 びっくりして振り向きざま、瞳をあげるとそこには、『舞い上がる桜の花びら。終わる春。葉桜。風がびゅうびゅうと吹き、無音の鼓動が時間を追い立てる。』

 それはピンクの乱舞。青い空。そして、素早く過ぎ去っていく一つの雲があるのである。

「ち、千里!!」

 モエは叫んだ。起き上がったその先には一人の少女が立って……。



覚醒:向ヶ丘千里は一つになる


 千里はただモエを見つめている。

 モエは、自らの時が止まってしまったかのように制止しており、虚空をぼんやりと見つめていた。

 いつもの奇天烈な踊りはどうしたのだろう。と、千里はモエの顔をよぉく見つめた。

 モエの視線の先……目を落とす先にはネッシー(?)の乗り物があり、ネッシーに振り落とされたような体勢で、もう一人のモエが仰向けに倒れている。

 二人とも、今にも消えてしまいそうなほど存在感が希薄で、千里は、呆然と立ち尽くしたモエの輝きのない瞳を見て泣きそうになった。

 今にも飛び立ってしまいそうなパワーと身軽さの弾丸のようなモエが、消えてしまう。

「わたしに何か出来ることはないのですか!!」

 千里は、モエに対して初めて叫んだ。

 輝きのない瞳がまん丸に開かれて、それから……そのまん丸の瞳から血のような色をした涙がつつ、と流れた。

 その瞬間、千里は覚醒する。

 場所は放課後の教室。がた、と大きな音を立てて足を机にぶつけた千里は、何事だと、周囲の注目を集めることも気にせず立ち上がり、黒板にある黒板消しを二つ手に取った。

 駆け足で教室から屋上へ。初めて派手に音を立てて脈動する鼓動と時間。

 今まさに千里は自分の足で時を動かそうと走っている。

 軋む音など気にせず思い切り屋上の扉を開き、欄干の前までダッシュする。そして……。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 叫びながら手を前にかざして黒板消しを叩いた。

 叩いて叩いて叩きまくる。

 盛大に音を立てろ。モエ、起き上がれ。舞い上がる翼となれ。

 千里は、踊り狂うモエのように必死に黒板消しを叩いた。

 時は初夏。遠くには葉桜が生い茂っている筈だ……。



終息:飽和する水素


 パチッとモエは目を開くと、そこは満開の桜が空を囲み、視界の中心には白んだ下弦の月が所在なげにたたずんでいる。

 暴風が吹き渡り、ヘリコプターが、まるで間近にあるかのようにバタバタと耳をつんざくように空気をかき混ぜている。

 桜の花びらは舞い上がり、空へ空へと消えていく。

 モエの体は今にも浮き上がりそうなくらいで、体重をまるで感じない。

 それは、自分がデフォルメされたヘリコプターになったからだとは、本人が知る由は無かったが、ただただ舞い上がれよ、飛び立てよ。という、後ろからの後押しを感じて、感ずるままに飛翔する。

 桜の花びらと一緒にと一緒に天高くモエは舞い上がった。

 かゆみを催すほどに巡る血流。精神の結合と、融合がモエの中で実感される。

 わたしはわたしのものだ、という確信が生まれ、モエはなんだか分からないまま落下し、地面に激突した衝撃で我に返った。


 髪の毛はぐしゃぐしゃ。全身あざだらけ。頭は乗り物から落ちたせいでずきずきと痛む。桃色の波はもうなくて、初夏の葉桜が生き生きとセミを迎え入れている。

 みーんみーんみーんみーん……。

 自己主張の激しいセミの鳴き声を聞きながら、モエはその場にずっと腰を落として自らの鼓動を感じ取った。


この不思議な作品は、ちょっとした社会問題の提起も兼ねておりまして、ファンタジーというフィルターを通して、皆さんが千里とモエにちょっとでも共感してくださったならば、作者はこれに勝る喜びはないのであります。

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