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「あれ? あかちゃんまで来たの!? ちょっとお兄ちゃん! 一体なんてメール送ったのよ!」
…………え? 病室の扉を開けるとベッドに座ってギャーギャーとみっちゃんを責め立てるゆきのんの姿がありました。ベッドの周りにはすでに他の三人も到着していたようでどうにも微妙な笑顔で私を迎えてくれた。
「な、なによ。悪かったわね元気で! ちょっと車とぶつかって転んだだけよ。大したことないわ」
私はゆきのんの方へと足を進めた。
「……った」
「え?」
ゆきのんの表情が戸惑いに揺れる。
「良かった! 心配しましたっ! ゆきのん、死んじゃうのかと! うぅ、うわぁああん! ……えぐっ、あぐっ」
ゆきのんの胸に顔を埋めてる。ずっと我慢していた不安や恐怖が、たった今生まれたばかりの安堵と一緒になって溢れ出す。
「ちょ、ちょっと、大げさよ。大丈夫。死なないから。私が死ぬわけないでしょ?」
ゆきのんが恐る恐るといった感じで私の頭をなでてくれました。
「うぅ、うぐ、……うん。良かった。……ずずっ」
「ちょ、シーツで鼻水拭くな!」
「あ、ごめんなさい……」
私は立ち上がってもう一度、ゆきのんの顔を見る。気のせいかちょっと顔が赤くなっている気がします。
「ほら、さくら。ハンカチ」
お母さんからハンカチを借りて涙を拭く。……安心したら、すごく、身体が重く感じます。くぼじゅんが私とお母さんの分の椅子を持ってきてくれた。お礼を言って、私たちも腰を下ろす。
「ごめん。俺も動揺しちゃって。心配させちゃったね」
みっちゃんが目尻を下げて謝る。私は首を振った。
それから、改めてゆきのんの姿をみる。足に包帯が巻かれて吊り上げられていた。骨折しているのかもしれない。私の視線に気づいたゆきのんが苦笑いを浮かべた。
「ヒビ、入っちゃったみたいなのよ。痛み止めもらったから痛くはないんだけど、一ヶ月は安静だって」
そう言うゆきのんの声は固かった。一ヶ月。それはつまり、明後日の本番は出られないということ。
「……みんな、ごめん」
頭を下げるゆきのん。泣いているのかもしれない。表情は見えなかったけど、肩が、少しだけ震えている気がした。
「しゃーないって。気にすんなや。ゆきのんが無事だっただけで十分やって」
「『無事』じゃないでしょ? ゆきのん、本当に痛くない? 何か欲しいものある? 私にできることなら何でも言って?」
ゆきのんは答えない。ただ、ゆきのんの震えが大きくなった気がした。私は何を言って良いのかわからずに膝の上で拳を固めた。何もできない。自分が情けなかった。
沈黙が続く。誰も、何も言わない。言えない。ゆきのんが何を欲しているのか、みんなわかっていた。たった二週間しか一緒にいない私にだってわかるのだ。みんながわからないわけがない。
あれだけ頑張ったのだ。練習したのだ。『大泉演劇祭』に参加するために。たくさんのお客さんの前で『桜の国のお姫さま』を公演するために。誰よりも張り切っていたゆきのん。誰よりも練習したゆきのん。
私は胸が苦しくて引き裂かれそうだった。でも、泣いたらダメだ。今、本当に泣きたいのはゆきのんのはず。そのゆきのんが頑張って我慢しているのに私が泣いたら、全部、無駄になってしまう。そんな気がした。
「……お願いがあるの」
小さな声。でもその凛とした声ははっきりと聞こえた。
「『桜の国のお姫さま』を中止にしないで」
ゆきのんは言った。リュウとみっちゃんが顔を見合わせる。
「雪乃、無理だ。その身体じゃ、舞台には立てない。これが最後って訳じゃないんだし、今回は――」
「私は立たないわ」
みっちゃんの説得を遮ってゆきのんは力強く答えた。
「お姫さまならいるじゃない。セリフも完璧。動きも完璧。誰よりも頑張ったお姫さまが」
ゆきのんの目はまっすぐに私を捕らえていた。
「わ、わたし……?」
「他に誰がいるのよ」
ゆきのんは笑った。優しくて暖かいあの笑顔。
「あかちゃんならできるわよ。いつも私の前で見せてくれる演技をすれば良いだけ。それだけで十分舞台に立てるわ」
私は、思わず目を逸らす。みっちゃんもリュウも和歌山もくぼじゅんも、みんな私のことを見ていた。
「お願い。あかちゃん。私の代わりにお姫さまを。『桜の国のお姫さま』を公演させてあげて!」
「わ、わたし……」
どうすればいい? どうすれば。そんなことは簡単だ。やると言えばいい。そうしないと後悔する。そんなことはわかっている。でも、口が動かない。また――後悔するのをわかっていて私は動かないの? 誰よりも頑張っていたゆきのんのお願い。私をこの劇団に連れてきてくれたゆきのんのお願い。それを私は――
「……無理です」
――断ったのです。
風船を割ったような破裂音が病室に響いた。頬が痺れる。自分の頬を触り、じんわりと暖かくなっていることを知る。叩かれたのだ。お母さんに。
私は痛みよりも驚きに目を見開いた。お母さんが私を叩いた? 初めてのことだった。
「お母さん、アンタのこと見損なったわ」
「……お母さん?」
私の正面に立ち、私のことを見下ろすお母さん。瞳が潤んでいるように見える。
「やめなさい。この劇団を。いや、もう演劇自体関わるな。アンタには無理だよ」
冷たい声。聞いたことがないほど固く、平らな声だった。
「演劇って言うのはね、一人では絶対にやれない事なんだ。仲間が必要なんだよ。アンタじゃこの子達の仲間にはなれない。いや、どうせ仲間だと思ってなかったんだろ? だからアンタのことを仲間だと思ってくれていたこの子の願いを断った」
「……違う」
「自分が人前に立つのが怖くて、ただそれだけで仲間を裏切ったんだろ?」
「違うっ!!」
私は立ち上がった。お母さんを睨みつけて言葉を続ける。
「私は、幸せだった! みんなが私のこと迎えてくれた! いつまでも成長しない私を根気よく見てくれた! いつも一緒に練習してくれて、暖かくて楽しくて、でも厳しくて、誰よりも頑張っているのに、私のこともしっかり教えてくれて、褒めてくれて、それが嬉しくて。――ゆきのんは私の親友だもんっ!」
「じゃあ、なんで断った! アンタは親友の願いも無下にするのか!? 舞台に立つのが怖いから――」
「怖くなんかないっ!!! ゆきのんのためならそんなの全然平気だもんっ! でも、でも私じゃダメなんだよ! ゆきのんはすごいんだよ? ゆきのんが舞台に立つだけで景色が見える、風の音が聞こえる、何もかもがらっと物語の世界に変えちゃうんだよ? どんなに真似しても、私には絶対できない。私の演技じゃ、同じ舞台なんてつくれない……台無しにしちゃう」
お母さんは大して可笑しくもなさそうに笑った。
「はっ、さくら、アンタなんにもわかっちゃいないね。どんなにすごい役者でもね、同じ舞台なんか作れるわけないんだよ。その時その時で息づかいが、空気が、感情が毎回違う。役者が変わればその違いはさらに大きくなる。雪乃ちゃんには雪乃ちゃんの、さくらにはさくらの『お姫さま』がある。そしてそれは、舞台を台無しになんかしない。演劇っていうのはそういうところが楽しいんだ」
「…………」
「さくら、あんたさ、雪乃ちゃんの願いをきいてあげたいんだろ?」
「……うん」
「だったら自信持て。他でもない雪乃ちゃんが、『さくらに任せる』って太鼓判押してくれてるんだぞ?」
そうだ。ゆきのんは、私ならできるって言ってくれた。あのゆきのんが私に任せるって私を認めてくれたんだ。なのに、私は――。
ゆきのんは私をじっと見ていた。その瞳は期待と不安で揺れ動いているように見える。私の答えを待っているんだ。もう一度ちゃんと、答えなきゃ。私は一度目を瞑って大きく深呼吸した後、まっすぐゆきのんを見返した。
「……私、やります。ゆきのん、私、絶対成功させる。頑張るからっ!」
そうか。こうやって使うんだ『頑張る』という言葉は! ゆきのんは嬉しそうに頬を緩ませた。
「お願いね。お姫さま」
ゆきのんが手を差し出してくる。私はその手をしっかりと握りしめた。バトンは渡された。つないだ手から、ゆきのんの気持ちが流れ込んでくるような気がした。絶対に離すまいと私はその気持ちを大事にしまう。――もう、逃げるのやめにするんだ。
「えっと、あのー、あかちゃんのお母さん? お母さんは、な、何者ですか?」
みっちゃんが恐る恐るお母さんに話しかけた。お母さんは、ふふんと胸を張ると、どこか偉そうに言う。
「あたし? まぁーそうだねー、別に大したことないさ。昔、『カリメホーキー』って劇団で役者やってただけのしがない主婦さ」
「「「「えええええええええええええーーーっ!!!!!」」」」
私以外のみんなが驚きの声を上げた。……え? なんですか?
「カリメホーキーってあの劇団カリメホーキーのこと?」とくぼじゅんが珍しく戸惑う。
「……それしかないだろ」のリュウが呟く。
えっと、なんなんでしょう? 私には何が何だか……。
「カリメホーキー? 何それお母さん」
「あかちゃん知らないの!? あのねぇ、カリメホーキーっていったら日本一ファンの多い劇団よ? なんで娘のあんたがそれ知らないのよっ!」
バタバタと手を振り回してゆきのんがわめいた。……元気だ。ゆきのんならそのままでも舞台に出れそうな気がするよ。
「まあ、とにかく不肖な娘ですがよろしくお願いしますね」
お母さんが頭を下げて
「こちらこそ! 是非僕達の練習も見に来てください!」
とみっちゃんが頭を下げ返した。
「んー、気が向いたらね?」
お母さんはウインクをしてそう返す。……お母さんのウインク、初めて見たけど全然似合ってません。
さっきまでの緊張感は消え去り、しばらく楽しいおしゃべりが続きました。けれど、私の胸の中では熱い気持ちが燃えたまま。絶対に、やり遂げてみせます。




