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企画参加作品

イースター・エッグ

作者: 柿原 凛

 大好きだった英会話教室の先生が、この町に帰ってくることを知ったのはつい最近。桜の蕾がまだ小さい頃だった。

 僕らがまだ小学生だった頃、近所の子供達にボランティアで英語を教える一人の美しい女性がいた。それが、先生だった。まるで漫画から出てきたような、ほんわかとした優しい先生。先生の周りにはいつも花が咲いているように思えた。毎回、回覧板が回ってきて、そこにさりげなく挟んである一枚のチラシに、レッスンの日時が書いてある。そして、一番下に、秘密の暗号。これを言うとレッスンに参加できるという単純な合言葉だった。

 そのチラシが途絶えたのは、ちょうど十年前。合言葉『Easter egg』の日だった。


 お母さんから、いつものように回覧板を受け取った。薄い黄色のバインダーに挟まっていた一枚のプリントを見つけ、じっと見てみる。次のレッスンは明日の朝。もう春休みだから空いていることは空いているけど、朝に弱い僕は起きれるかどうかが心配だ。再来週からは中学生としての生活が始まるのから、いい練習になるのかもしれないけど。今回のキーワードは何だろうと思い、視線の先をずらしていく。“Easter egg”ーーいあすてぁえっぐ? あとでお母さんに聞いてみよ。僕はそのまま回覧板の中身をきちんと揃え、次の家に回した。

 翌朝、お母さんに何度も布団をはがされ、やっと起きた時にはレッスンが始まる三十分ほど前だった。急いで身支度をし、家を飛び出す。雲の数が少ない、穏やかで心地よい朝。温かい太陽の光を浴びながら教室へと走っていくと、庭のほうがざわついていた。

 門をくぐり抜け、玄関横から庭へと続くの小道をかけて行く。天然芝の庭は明るく輝いていた。その先に、綺麗な先生が白い机の上のカップに紅茶を注いでいた。同じくらいの年齢の子供たちが六人くらい、笑いながらはしゃいでいる。

 先生が合図を出し、テーブルの周りに子供たちが集まって行った。僕もそれに混じり、みんなで合言葉を言って今日のレッスンに入った。先生の笑顔から放たれる英語を一生懸命に聴いた。丁寧にゆっくりと話してくれたので、なんとなく意味はわかった。この庭に、いくつかの宝物が眠っているらしい。「ガーデン」と「トレジャー」ははっきりと聞き取れたから、きっとそういう意味なんだろう。

 先生の掛け声と共に、一斉に散らばっていく子供たち。僕もその一人だ。大きな木の幹を探していた子が大きな声で見つけたことを叫ぶと、他の子も眼の色を変えて探しだした。僕も負けじと庭じゅうを探してみる。その間にも続々と見つけた人が増えていって、とうとう見つけてないのは僕だけになってしまった。

 最後の一人とわかってから、それは必死に探した。もうどこにもないのではないかと思って諦めかけていたが、ウッドデッキの小さな隙間から何やら赤い塊を見つけた。これだ! と思い、隙間の中に手を伸ばし、引っ張る。太陽の光を反射してキラキラ光るその赤い塊は卵状で、細やかな模様が描かれている。不思議なその見栄えに、喜んでいいのかどうかも分からず、とりあえず先生のもとに駆け寄ってみることにした。

 先生は僕の手の上で輝いている卵状のものを見て喜んでいる。

「イースターエッグね。今日の大当たりよ! Good job!」

 周りからは拍手や色々な言葉が行き交っている。そんな中、僕だけは喜んでいいのかどうかまだ分からなかった。一応今日の大当たりだったのだが、これがそんなに意味のあるものだとはまだまだ気付かなかった。

「今日の合言葉、覚えてる? Easterイースター) egg(エッグ。まさにコレのことよ。春が訪れたことをお祝いする時、キリスト教の人たちは卵を綺麗にして飾るの。これ、綺麗でしょ。大切な人にこれを渡したら、喜ばれるかもしれないわね」

 そう言った先生はとても優しい声の持ち主で。やわらかい雰囲気が庭じゅうを包み込む。僕はそう言いながら微笑む先生の顔が頭に焼き付いたままだった。

 その後、三十分ほどレッスンをしてその日は終了した。僕は片手にイースターエッグを持ったままそのレッスンを聴いていたが、あまり集中出来なかった。先生の笑顔を見ているだけで、今日はなんとなく満足だった。レッスンが終わると、みんなそれぞれ散らばって帰っていったが、僕はその場に残った。なんとなく先生の笑顔に影を感じたためだ。目は笑っているけど、口は笑っていない。どうしたんだろう、そう思ったのは僕だけだったのだろうか。気付いたら僕は、先生に少しずつ近づいていた。

「ん? どうしたの?」

「先生こそどうしたの?」

 そうとう生意気な子だって思われたかもしれない。先生は思い当たるフシはあるけれどもそれを隠そうとしているような、そんな表情をしていた。

「どうしたのって……なんでもないわよ。大丈夫だから」

 何でもないわけがないし、何が大丈夫なのかはわからないけど、でもなんとなく先生のわざとらしい優しい表情が気になって気になって。もっと問い詰めたいけどこれ以上聞くと怒られるかもしれないなんて考えてしまって。ついには無言のまま、気づくとイースターエッグをゆっくりと差し出していた。

「ん」

「え、どうしたの?」

「ん」

「あ、えっと……」

「先生が……大切な人に渡したら嬉しがるって」

 自分でも言ってる意味が理解できなかった。頭で考える前に口が勝手に動いたという感じ。先生は無言のままゆっくりと、いや、やれやれといった様子で、差し出した僕の手を大きな手で包み込んでくれた。

「ありがとう。でもね、それは私のセリフ。あなたが持ってなさい」

 その時の先生の最後の微笑みは、忘れることが出来なかった。


 先生のレッスンがしばらく行われないので、様々な噂が流れた。何かの事件に巻き込まれただとか、実は潜伏していたからアジトを変えただとか、小学生が考えるような根拠のないものだったが、そんな噂の中でももっとも夢があってそれらしい“嫁いでいった”という噂

に結局は落ち着いた。落ち着いたのはいいが、僕にとってはなぜかそれが一番ダメージが大きくて。今となっては笑い話だが、僕はもしかしたら、幼心に先生のことを好きだったのかもしれない。それは他の子が幼稚園や保育園の先生を好きになるのと同じように。そんな先生が帰ってくるというのだから、反応しないわけがない。僕は引き出しの奥に大事にしまっていた、あのイースター・エッグを手に、先生のもとまで向かいたかった。でも、居場所が分からない。これも何かの噂だと一瞬だけ思ったのだが、それから二日後、おんぼろになった回覧板のバインダーに、見慣れたチラシを見つけたのだ。淡い色の画用紙に、レッスンの日時と合言葉が書かれている、あのチラシ。今回の合言葉の欄には『Easter』の文字。意味は、復活祭。特にキリスト教徒って言う訳じゃないけど、十年以上も英語の勉強をすればこれくらいの知識は辞書を引くまでもない。まさに先生にぴったりの言葉だ。

 当日、レッスン会場となる先生の家まで行ったが、さすがに小さい子供と一緒にそれを聴くのは恥ずかしかったので、塀の外から先生の久しぶりのレッスンを聞いた。吹き抜ける柔らかいそよ風が心地よい小春日和。新居の庭先はあの日のように芝生が生い茂っていて、見た目にも鮮やかだ。先生のレッスンが終わった後、僕はそっと先生の方に忍び寄り、十年前と同じようにイースター・エッグを差し出した。

「先生、覚えてますか。これ。復活、おめでとうございます」

 その時の先生の、驚いた表情の後の、あの微笑み方は、これからも忘れられないだろう。暖かい春の陽気のような、その微笑みは。

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― 新着の感想 ―
[一言] 面白かったです。 たぶん、初恋だと思うのですが、 自分の気持ちをうまく表現できない(子供の頃の)主人公には共感が持てました。 先生の現状(結婚しているのかどうか)がはっきりとはわからないな…
2012/04/16 22:22 退会済み
管理
[良い点] 叙情的な文脈の中に自然と引き込まれていく。魔法のような作品でした。短編の真髄がある。 [一言] そろそろ、長編書こうやあ。 勿体ない。
[一言] とても温かくて柔らかくていいお話ですね。 ただ残念なのは、先生がいなくなってから再会するまでどのくらいの期間離れていたのかがわからなかったところです。 「十年も英語を勉強すると」と書いてあり…
2012/04/02 23:37 退会済み
管理
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