*閑話* 約束
前のエピソードから省いた小話です。
『母と娘、ちょっとだけ父。』の回想。
「おめでとう、ダフネちゃん。とっても良く似合ってるわ」
入学式の日、母さまはそう言って微笑んでくれた。
ベッドから身体を起こし、部屋に入ってきたわたしを眩しそうに見つめた母さま。
白い生地の真新しい制服を着たわたしは、大好きな母さまに抱きついたまま、にっこりと笑って見上げる。
母さまはとても身体が弱くて、わたしが物心ついた時から、ベッドから離れられなくなることが、多々あったように思う。
パルナッソス魔導学園にわたしが入学するこの日も、母さまはお医者さまから外出をきつく禁じられていた。
せっかくの入学式だし、母さまにも来て欲しい。
でも、駄目でも良かった。
母さまが、本当はとても行きたいと思ってくださってることを、十分に知っていたから。
むしろ来てくれないことよりも、母さまが「ごめんね」と謝って、悲しそうな顔をする方が、断然嫌だった。
「あらあら、ダフネちゃんったら。今日から魔導士学生になるっていうのに、まだ甘えん坊さんなままなのね?」
きゅっと抱きついたままでいた幼いわたしの頭上で、面白がるように、でもひどく甘やかすように洩らされた問い。
「ちがいますっ! おうちをでたら、わたしはちゃんとおねえさんになるんです。でも、いまはまだ、母さまといっしょだから、おねえさんにならなくていいんですもん」
「まあ、本当? 本当にお姉さんになれるのかしら、わたしの可愛い泣き虫さん?」
ぷう、と頬を膨らませたわたしは、ふかふかな母さまの胸にぎゅっと顔を埋めた。すりすりと頭を擦り付けるわたしの水色の髪を撫でながら、母さまがくすぐったそうに笑う。
「ほんとうにほんとうですっ。おそとにでても、きょうはぜったいになかないです。父さまにダッコもしてもらいません」
「あら、我慢出来るのかしら?」
「できるったらできるんですっ。おねえさんはダッコなんかほしがったりしないんですっ」
「え、そうなのかい? 抱っこさせてくれないのかい、ダフネ」
わたしたち二人を見守りながら椅子に腰かけていた父さまが、急に腰を上げたかと思うと愕然とした面持ちでわたしの腰に手を添えてきた。
今日、入学式に付き添いで出席してくれる父さまは、濃緑色をした式典用の正装をパリッと着こなしていて、すごく素敵だ。お顔もとってもハンサムなので、まるで本の中から抜け出してきた王子さまみたい。
母さまと同じくらいに、大好きな父さま。
いつもなら、すぐに胸に飛び込んで、ぎゅっと抱きしめて貰う。
だけど―――、
「ほら、ダフネ。こっちにおいでー」
「いやです。きょうは、父さまのダッコはなしです」
ぷいっと顔を背けると、腰に当たった父さまの両手が、雷撃を受けたみたいにビクリと引き攣った。
心配になって、ちょっとだけ様子を窺う。
すると、ちょっとお口元がフルフルしてるけど、相変わらずにっこりなさっていたので、わたしはほっと安堵の息を吐いた。……その見解が正しかったのかどうかは分からないけれど。
「だ、ダフネ。もしかして、父さまの抱っこ、嫌いになっちゃったのかい?」
「そうじゃないです。でも、きょうはおやすみなんです」
「えぇ!? 父さまは、ダフネを抱っこして校門の前で写真を撮りたいなぁ。ダフネは学園の近くに行ったことがないから、校門の彫刻アーチを見たことがないだろう? すごく綺麗だけど、私の可愛いダフネは、小さいから良く見えないかもしれないなー」
「……う。でも、でも、ダフネはもう小さい子じゃないから、おともだちのまえでダッコなんて………」
「父さまが高い高いしてあげたら、良く見えると思うんだけどなー?」
「うぅー………」
「な? だからほら、ダフネー」
「―――あなた、もうお止めなさい」
躍起になって、自分の腕の中に娘を誘き寄せようとしていた父さまの頭を、母さまが平手で叩き打った。
「だ、だが、クレウサ。せっかく、私たちの可愛いダフネの人生の門出だっていうのに」
頭を押さえてそう訴えつつ、往生際悪く縋りつこうとする父さま。わたしを庇うように抱きしめた母さまが、しっし、とばかりに父さまを片手で追い払った。
「言葉の用法がおかしいわよ、ネイス。結婚式じゃないんだから」
「結婚!? 馬鹿言っちゃいけないよ、ダフネは未来永劫誰にも嫁になんてやらないよ?」
「あーはいはい。ほどほどにね? そのままじゃ、ダフネが年頃になったときに、『うざい』って、嫌われちゃうわよ?」
「そんなことないよなー、ダフネ? 父さまのこと、ずっとずーっと大好きだもんなー?」
「はい! 父さまのこと、だいすきですっ」
「ほらクレウサ、訊いただろう!? ダフネは世界中の男の中で、私のことを永遠に一番愛してるって!」
「あーもー、あなたが曲解の天才だっていうことは、十分に分かったから。ネイス、悪いけど少し黙ってて?」
「ちょ、ひど! 私は君のことも存分に愛して」
「だ・ま・っ・て・て! って、言ってるでしょう? あー、うざ」
「………」
しゅん、と大人しくなった父さまからわたしへと視線を戻された母さまは、ご自分の膝から、わたしを床の上に下ろし、真っ直ぐに立つように言った。
「いい、ダフネちゃん? 今日、あなたは外の世界に初めて触れることになるわ。それはとっても素敵なことだし、怖いことでもある。わかるかしら?」
「え、おそと……こわいんですか?」
「そう。でも、それだけじゃないわ。さっき言ったように、素敵なことだって一杯あるし、楽しいことも沢山あるの。それは、お家の中だけじゃわからない、外に出てみなければ知ることの出来ないことよ。今までは、父さまや母さま、エリスがいつも守ってあげられたけど、これからは違う。欲しいなと思ったものは、ダフネちゃんが自分の足で探して、自分の手で捕まえなきゃいけないし、恐ろしいと感じたものは、自分の力で退けなきゃいけないの」
「や、こわいのいやです! わたしだけでやっつけるなんで、きっとできないです」
「そうね。ダフネちゃん“だけ”だったら無理かもしれない。だからね、ダフネちゃん? 助けてくれるお友達を見つけなさい」
「お……とも、だち?」
「そう、友達。これも素敵で楽しいものの一つかしらね」
ふふっ、と母さまは微笑みながら、数えるように指を立てておっしゃったのだけれど、わたしは同じように笑みを返すことが出来なかった。
(わたしと、ともだち………なってくれる子、いるでしょうか)
極度の人見知りであることを、常日頃、堕天使のような幼馴染にからかわれ続けてきたわたしにとっては、ひどく難しいことに思えて……。
自信無く俯いたわたしの心の内を察してか、母さまはお顔にほんのり苦笑をのせて、わたしの髪を優しく梳いてくださった。
「あらあら、なにも大勢作る必要はないのよ? まあ、居るに越したことはないのだけど」
「でも……」
「大丈夫。きっと、見つかるわ。ダフネちゃんと“本当の”友達になってくれる子が」
「ほんとうの? おともだちには、うそのおともだちもあるんですか?」
「そうね、残念ながら」
「どうしたら、“ほんとう”のともだちか、“うそ”のともだちかがわかるんでしょうか。……わたしにはわからないかもしれないです」
「うーん、たしかに難しいわね。―――あ、じゃあ、こういうのはどうかしら? あなたが怖い目にあったときに助けてくれた子が居たら、その子には絶対に言うようにするの! 『わたしと、本当のお友達になってください』って。その子は、きっと本物だわ」
「あ!」
「ふふっ、名案でしょ?」
「はいっ。母さまはてんさいです!」
「でしょでしょー」
「……だけど、クレウサ。その場合、私たちの可愛いダフネがピンチに陥ることが前提になるんじゃあ………」
「ネイース。あなたはだ・ま・っ・て・て、って言ったわよねー?」
「………」
またもやお口を閉ざしてしまわれた父さまを余所に、母さまは続ける。
「ねぇ、ダフネちゃん。一つだけ、母さまとお約束出来るかしら?」
「おやくそく?」
「そう。―――もしも、本当の友達が出来たときにはね、あなた自身もその子の本当の友達でいられるような心を持たなくては駄目よ? 助けられるだけじゃなくて、助けようとする人で在ろうとなさい。結果が伴わなくてもいいの。ただ、一緒に頑張って困ったことを乗り越えようとする気持ちを持つことだけは、忘れないで欲しいわ」
―――それが、あなたを守る、なによりの力になってくれるはずよ。
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あの日、柔らかな額を寄せ合って、祈るように伝えられた教え。
約束、という言葉に応じた自分の頷きも。
それを温かく見守ってくれた、母さまの慈しみに満ちた眼差しも。
ずっと、ずっと、
わすれません。