03
「ほら、もう仕舞ったから。そろそろ帰ろう、ダフネ」
「………」
「いいかげん、機嫌直せよー。あんまり遅くなりすぎちゃうとさ、クレウサおばさんが心配するぞ?」
だいたい、なんであのお宝の価値がわかんないかなー、などとほざくエイロス兄さまの手を、わたしはしぶしぶながら握った。
母さまの名前を出されたら、仕方がない。こちらが折れるしかありません。嗚呼、なんて大人なんでしょう、わたし。
……でも、そもそも遅くなったのは、兄さまのせいじゃないですか。
歩きながら、先ほどの“お宝”について熱く語ることを辞めないことにもイラりと来たので、とりあえず繋いだ手の甲にざっくり爪を立ててみた。
「もっとはやくあるきましょう、にいさま。このままだと、ひがくれちゃいます」
「えー、おおげさだなー。早く歩き過ぎると、また転ぶぞ? それより、なんか手が痛いんだけど。爪立てたまま引っ張るなよ、ダフネ~」
痛ー、と言いつつ、何故だか妙に楽しそうな兄さまの態度にムッと眉間の皺を寄せながら、わたしは更にグイグイと彼の手を引っ張った。
いつもこうです。
わたしは怒ってるのに、兄さまはそれを分かってくれない。
喜ばせようとしてるわけじゃないんだから、嬉しそうにしないでください。
そう思っているのに、「あはは、ダフネはやっぱりかわいいなぁ」などと、手を引かれながら後ろで言うその無神経さに、
(ちいさい子にするみたいにしないでください――――ッ!!)
歳下だからって、嘗めんじゃないです! これは一矢報いるべきでしょう!
わたしは牙を剥かんがため、勢いよく後ろを振り返った。
―――その時だった。
「せんぱい」
綺麗な声。
身の内の怒りが一瞬にして掻き消される。
(だれ?)
聞いたことのない声。
でも、たぶん、わたしと同じ歳くらいの子供の……。
まるでそうすることが定められているかのように、わたしの視線は声の主を追った。
その先で、
真っ先にわたしの目を浚ったのは――――― 紅。
透き通る陽光の下、鮮烈なまでの紅色の髪が目に眩しくて、わたしは思わず両目を細めた。
(わあぁぁ)
声に出せない感嘆。
―――なんて綺麗なんだろう。
わたしたちのすぐ後ろ、ちょうど校門から出てきたばかりと見える一人の男の子が、こちらをまっすぐに見つめていた。
なんというか………すごく、すっごくカッコいい子だ。
まん丸でプクプクなわたしの頬っぺたとは違う、ふくっくらとはしてるけど、整った線を描いている顔の輪郭。炎のような紅の髪と、宝石みたいな金の瞳は、これ以上ないほど艶やかに陽の光を弾いている。
すっとした整った面立ちは、この前、母さまに見せて頂いた絵本に出てきた美の女神さまに似ているような気がした。
でも不思議。
それでも、女の子には全然見えない。どこからみても、ちゃんとした男の子。
………うわぁ。
すごい。こんな子、見たことない。
わたし以外のひともそうなのか、さっきから下校途中の子たちが彼を見て呆けたように足を止め、人集を作り始めている。
――――こういうのを『神がかり的な』って言うのかな、なんて。
読んだ本の中に出てくる、大人っぽい言葉を使ってみることに夢中だった小さなわたしは、人生で初めて実感した“感動”に、胸をときめかせた。
自然と、頬も緩んで笑顔になる。
最も、そんなわたしとは裏腹に、向かい合っているその男の子はどこか不機嫌そうだったのだけれど。
子供らしからぬ、冷気を帯びた黄金の瞳。
(え? あれ?)
背筋を冷たいものが駆ける。
向けられた視線が嫌に痛く感じられて、わたしは本能的にエイロス兄さまの後ろに隠れた。自分でも、どうしてそう動いてしまったのか分からない。
な、なんで隠れなきゃいけないんでしょう?
内心、首を傾げたのだけれど、それでもわたしの手は無意識に兄さまの制服の裾を、まるで縋りつくかのようにきつく握りしめていた。……ほんとうに、なんで?
まごまごビクつきながら顔を逸らしたわたしを、何故か眇めた目で一瞥した彼は、そのままわたしの手前―――エイロス兄さまへと視線を移す。
その途端、
(あ、なんだか息苦しいのがマシになりました)
背筋の悪寒も納まり、わたしは慌てて大きく息を吸い込んだ。
ああ、苦しかったー。
……っていうか、あれれ? わたし、もしかして今、息も止めちゃってたでしょうか。
うーん、なんででしょう。
全く以って、わけがわからない。
「ああ、ヘリオスじゃないか。どうかした?」
のんびりとした口調で問い掛ける兄さま。
天使と太陽王子のコラボよーっ、とどこかで黄色い声が上がる。
熱気を帯び始めた周りの空気なんてなんのその。マイペースな調子で緩んだ笑顔を浮かべ続けている幼馴染を、わたしは呆れた顔で見上げていた。
時々、あなたが最強なんじゃないかって思う時があります、兄さま。尊敬はしないけれど。
「なになに? あ、もしかして、まだ聞いておきたいことでもあった?」
にこやかに、小首を傾げながら問う兄さま。
周りからまた「かわいーっ」と甲高い歓声が上がるのを耳にしながら、騙されちゃ駄目ですよ皆さん、とわたしは心の内で叫んだ。
このひとは、どの角度で首を傾げる自分が最も可愛いく見えるかを、常日頃から研究しているような人間なんですよ! わたしといる間中、「今の僕、可愛かった?」と確認してくるような堕天使なんですよーっ!?
残念ながら、その絶叫が乙女たちのハートに届くことは無く……。
「ああっ、二人で並んでるともっと素敵ねー」
「わたしも弓部に入っちゃおっかなー」
「えー、じゃあ私もっ」
きゃあきゃあとはしゃぐ女の子たちの会話を耳にして、わたしはようやくそのことに思い至った。
(ああ、そう言えば……)
今日の兄さまの遅刻理由は『クラブに新しく入った後輩の案内』だった。
エイロスが所属しているのは、〈弓部〉。
兄さまはこう見えて、弓の名手なのだ。いつもホニャホニャしていらっしゃるから、うっかり忘れてしまいそうになるのだけれど。
良く見れば、男の子の肩にも弓の道具を持ち運ぶための専用ケースが掛けられていた。きっと、今日案内したという新入部員は彼のことだったのだろう。納得です。
「および止めしてすみません。あしたからのクラブの活動について、少し確認させていただきたい点があったので」
“ヘリオス”と呼ばれた、超絶美人さんなその男の子は、わたしと同じ五歳の新入生とは思えぬほどしっかりとした態度でそう言った。
「ん、いーよ。なにかな?」
「ありがとうございます。ではまず、射法の練習についてですが……」
ヘリオスは、はきはきとした口調で質問し始めた。
その姿を、わたしは相変わらず兄さまの陰に隠れたまま、黙って見つめる。邪魔になってはいけないので、ひたすらじっとして。
それにしても、
(ほんと、すごいんですね……)
堂々とした会話の運びと、まっすぐに相手に向けられた眼線。
噂通りな子だと、わたしは感心しながら吐息を吐いた。
――― 新入生のヘリオス・アポロン・オリュンポス。
ホントのことを言えば、わたしは、この男の子のことをちょっとだけ知っていた。
でも、初対面。
それは、ホントにホント。
遠目にしか、見たことがない。
というか、たぶん、わたしがこの春から通っている学園で、彼のことを知らない人間なんて居なかっただろう。
容姿の際立った美しさもさることながら、入試時に受けた能力検定の成績は断トツのトップ、しかも正真正銘、生粋の王子様。
春の入学式。
大講堂のエントランスに彼が現れた瞬間、その場にいたすべての者が一瞬にして目を奪われた。
……もちろん、わたしだって。
見たことがないほど大勢の人間が集まっていることに怯え、ぐずって父さまを困らせ始めていたわたしの涙も、背を正し、向けられた夥しい量の視線も物ともせずに顔を上げ続けていた同い年の男の子の姿に圧倒されて、どこかへ吹き飛んでしまった。
あの日、みんなの心を攫ってしまった太陽の王子様。
好きになってしまったと騒ぐ女の子は、同じ新入生だけでなく、上級生のお姉さま方の中にも多いらしい。わたしのクラスの子も、かっこいいよねー、と頬を上気させて話していた。
わたしには、まだみんなが楽しそうに語る「恋」がどんなものなのか、全然わからないのだけど。
―――それでもあの日、ヘリオスのことを“カッコいい”と思った。
女の子たちが大好きだという、王子様のような容姿を、ではない。
落ち着いていてどんなことにも動じない横顔と、金色の瞳に湛えられたしっかりとした意思が、ひどく尊いものだと感じたのだ。
それはたぶん、甘やかな恋ではなく、強い憧れ。
甘ったれの自分にはない彼の高潔さに、わたしは魅了されたのだ。
「おーい、ダフネ?」
聞き慣れた呆れ声とともに、ぽん、と頭の上に置かれた手。
はっと我に返ったわたしは、慌ててその手の主を振り仰いだ。
「何ぼーっとしちゃってるんだよ」
にっこりとしたエイロスに覗きこまれ、わたしは目をぱちくりさせた。
「へ? わたし……」
「駄目だなー、そんな簡単に男に見惚れてるようじゃさ。安い女の子になっちゃいけないぞ、ダフネ」
「み、みとれてなんかいません!」
両頬を引っ張りながらそんなことを言ったりしちゃう兄さまに、わたしはギョッとして顔色を青くした。
衆人環視で何を言い出すんでしょう、この破廉恥天使は!
「にいさま、いいかげんなことをいわないでくーだーさーいーっ! ほっぺもはなしてっ」
「んー。じゃあ、なんでヘリオスのことを穴が開くほど見詰めてたのかなぁ?」
「そ、それは……」
「それは、なんだい?」
言ってごらーん、と頬をさらに横に伸ばしながら、エイロスはにっこりと微笑みを深めた。
ん……何ですか?
笑っていらっしゃるはずなのに、目がすっごく怖いですよ、兄さま。
だいたい、こんな大勢の人に囲まれてる中で、言えるはずなんてないじゃないですか!
(お、おともだちになってほしいな、なんて)
………嘘です。
みんなの前じゃなくたって、わたしには言えっこないです。無理。
「ほーら、言いなよ。じゃなきゃ、顔がビロビロに伸びちゃうぞー」
「いーやーでーすーッ!」
絶ッ対に黙秘です。
あはは、柔らかいなーと頬を伸び伸びさせ続けているエイロス兄さま。……楽しそうでいいですね。
空気や状況が読めないのはいつものことですが、それにしたってしつこ過ぎでしょう。
……あの子のこと、放っておいていいんですか?
おそるおそる横目でヘリオスの様子を窺うと、彼はさっき兄さまと話していた時とは全く違う、感情の窺えない表情で、わたしたちを見ていた。
その無の美貌の中、黄金に湛えられた冷気だけが、暗くわたしを射抜く。
ぞくりと、再び背を駆け抜けた嫌な悪寒。
「ダフネ?」
急に抵抗を止めて大人しくなったわたしを不審に思ったのか、頬から手を離した兄さまが顔を覗き込んで来た。
間近に迫った似非天使の顔面に、わたしは両手の平をバシッと当てて、これ以上の接近をガードする。
「もー、なにするんだよー。人が心配してやってんのに」
「ちかすぎです。あと、やっぱりきらいです、にいさま」
「あ、またそんなこと言う。せっかく心優しい僕が、友達の少ない可哀想なダフネに、ヘリオスを紹介してやろうと思ってたのに」
「えっ?」
なんですって?
「ほら、お前たちって同じ学年だろ? あ、でもクラスは違うんだっけ」
「…………」
無言のまま向けられ続ける、射るような金色の視線。
友達になれるよう、紹介してくれる―――その言葉に浮かれかけたわたしの肝を一瞬にして凍結させてしまえるほどの威力が、その目にはあった。
(な、なんで?)
何で、さっきからそんなに睨むんですか?
怖くなったわたしは、喉を鳴らして小さく後退る。
「おーい、何凄んでるの」
にぶにぶな兄さまでも、わたしたちの異常な空気に気が付いた。ということは、これは余程の状態ということですよ?
「凄んでなどいないです」
「はぁ? まあ、別にいいけど」
いいえ、ぜんっぜん良くないでしょう!
そう叫び唱えた、内なるわたしの異議を知ってか知らずか(恐らくは後者であろう)、
「とゆーわけで、ヘリオス、この娘はダフネだよ」
この状況で、そう笑顔で繋げられる兄さまは、天使じゃなくて悪魔だと思う。
「………誰?」
「え? だから、“ダフネ”だって。俺の幼なじみなんだ。宮廷魔導士のペネイオス・テッサリアって知らない? この子、あのひとの娘だよ」
「ペネイオス―――〈水の錬命士〉の?」
父さまの名に目を見張ったヘリオスは、すばやくこちらに視線を走らせた。
そんなに驚くことなのでしょうか。
いつも冷静な彼が―――いえ、いつも見張っているわけじゃないので、ホントはよく知らないのですが―――、双眸を見開いてわたしを凝視している。
父さま、有名なんですね。さすがです。
嬉しくなって、ゆるゆると微笑みかけた、その時、
「……こんなやつが?」
その一言に、わたしの全身が凍りついた。
『――――こんなやつ』
(いま、わたし……)
そう、言われました?
「おい、そんな言い方はないんじゃない?」
いつもみたいに笑みを含んでいない、ちょっと低めの声でエイロス兄さまが何か言ったような気がしたけれど、わたしの頭にはきちんと入って来なかった。
だって……だって、憧れていたひとに、わたし―――、
「こんなやつ、はないと思うけど。女の子に対してさ」
「“こんなやつ”は“こんなやつ”で十分ですよ。―――せんぱい、失礼ですけど、コイツに騙されてるんじゃないですか?」
「は?」
「こんなのと幼馴染だなんて……しんじられない」
「お前、なに言って……」
汚いものを唾棄するがごとく吐き捨てた、そんな後輩を諌めようと、兄さまが声を荒げかけた次の瞬間、
「せんぱいほどの方が付き合うような価値、ないと思いますけどね」
そう言葉にして、彼は、笑った。
それは、わたしが初めて見た、彼の笑顔。
とっても綺麗で、
とっても醜悪な、
わたしただ一人のためだけに向けられた――――嗤い顔。
「なあ、おまえ……」
絶句している兄さまを余所に、紅の王子様がゆったりとわたしに語りかける。
一歩、踏み出された彼の足。
もう一歩、二歩、三歩……。
彼が近付く分だけ、わたしの身体も後ろに下がった。
エイロス兄さまの制服の上着から、掴んでいた手を放す。
護ってくれていた見慣れた背中の陰から、追い出されるように離れる。
――――こわい。
彼が、ヘリオスが、怖い。
小刻みに震える身体を、がくがくする両脚で必死に支えながら後退るわたしは、それでも彼の双眸から視線を外すことが出来なかった。
細められた、金色の目。
身を切り裂くような凍てつきとともに、全身を嘗め尽す熱をも宿した不思議な瞳。
その引力に囚われ、わたしは彼から顔を背けることを禁じられた。
「ほんとうに、」
だから、彼のそのひとことは、
わたしの魂に、くっきりと刻印を焼き付ける。
「―――――見下げた屑だな、お前」
ほら、ね?