02
~Side Daphne~
※11/9 誤字訂正いたしました。ご指摘くださったお方さま、ありがとうございましたーッ! 何かまた間違いがございましたら、宜しくお願いします♪
春の花々が最期の花びらを落し、木々が一斉に透き通る緑の葉を茂らせ始めた季節。
エメラルド色を宿した世界は、あんなにも美しく輝いていたのに。
彼と出会った日。
それは、わたしにとって、最悪の日だった。
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高い高い、私の背の何倍もある門柱。
壮麗かつ繊細に絡み合う流線を持ってして形作られたアーチを見上げながら潜り、わたしはいつものように門柱のすぐ横、さっきまでいた敷地を一面に囲む煉瓦塀に背を預けた。
ふう、と一息吐いて足元に視線を下ろす。
目に入ったのは、ぴかぴかと真新しい黒のベルト靴と、灰色の石畳に広がる透明な水溜り。
(わぁ、きれいです)
陽光を弾く水面の上を、黄緑色の小さな葉っぱが船みたいにプカプカ流れる。
その様に、口元を緩めかけたところで、はっとした。
慌てて赤い煉瓦塀から背中を離したが、時すでに遅し。
「うぅ、きもちわるいー」
……今日の午後の授業中、雨が降っていたことをすっかり忘れていた。
今は白い綿飴のような雲が真っ青な空に幾つか浮かんでいるだけで、とてもいい天気なのだけど、門の側の花壇や通りの並木、建物や地面は雨水で濡れたままで。
(せいふく……母さまが、せっかくきれいにしてくれたばかりなのに)
制服の背中に出来た大きな染みを撫でながら、哀しくなったわたしは表情をくしゃりと歪めた。
その年の春、当時5歳だったわたしは、たった今くぐった門の向こう側に広がる学園、〈パルナッソス魔導学園〉に入学したばかりだった。
古来より、わたしが生まれたこの国は神々との縁が他国より強く、その恩恵を血という形で受けているためか、強い魔力を持って生まれる者が多い。
長い歴史の中、この大陸の大地で幾つもの国が次々と生まれ、戦いに明け暮れ滅んでいく中、わたしの祖国は魔導大国として発展することで、その地位を揺るがんものとしてきた。
―――魔の導きたる智は、剣。
―――誉れ寄せし根源たる力は、盾。
長い刻で培った魔導の智も、それを扱う力を持つ者が無ければ、古い紙に描き付けられた、ただの落書きと同じ。
そして残酷なことに、魔導の才というものは、この世に生を受けた瞬間に天によって定められている。
―――というわけで。
「魔術を使える人間をいち早く把握し、未来の礎となる魔導士候補を余さず洩らさずゲットしよう!」というスローガンの下、この国ではすべての生後間もない赤子に対し魔導測定を行うこと、という法律が定められている。
わたしももちろん、生まれて間もなくその判定儀式を受け、結果、幸運にも一定基準以上の魔力を有していると認められた。
そしてめでたく今春。
規定通り5つの歳に、魔導士の名門校―――国立パルナッソス魔導学園の初等部に入学出来たというわけだった。
「おめでとう、ダフネちゃん。とってもよく似合ってるわ」
一月前の入学式の日、そう言って微笑んでくれた母さま。
その笑顔を思い返しながら、わたしは自分が身に着けている白い学園制服を見下ろした。
胸元より少し下で切り返されたワンピースの女子制服。
後部分の布を四角く大きく取った、後ろに垂れさがる襟が特徴的で、装飾は襟縁と袖縁に縫いつけられた細い黒のリボン、左胸の園章、前で結ぶ帯状の黒い装飾布だけという、実にシンプルなものだ。
『白くて清楚』が、この制服を起用した学園側のコンセプト。
でも、白い布地は汚れが目立つ。古来より、子供が服を汚すのは、覆らない一種の真理のようなもので……うぅ。
(きょうも「よごしてしまいました」っていったら、母さまはがっかりなさるでしょうか……)
きのうは、校庭で転んだ拍子に花壇に突っ込んで、制服を泥だらけにしてしまった。
毎日毎日、同じように服を汚すわたしに、母さまは呆れてしまわれるかもしれません。
―――ああ、でも。
『いいのよ、ダフネちゃん。お洋服を汚すのは、子供の大切なお仕事だもの。それより、転んだときに怪我はしなかった?』
昨日、学園から帰ったわたしを出迎えた母さまはそう微笑って、真っ黒になった制服ごと、わたしを抱きしめてくれた。
(だいじょうぶ。これは、きょうの『たいせつなおしごと』ぶんです)
膝丈のスカートのプリーツ。母さまが毎日欠かさずアイロンを綺麗に当ててくださっているそれを、さっと手で払って整え、わたしは気合いとともに鼻から「ふんッ」と息を出した。
今日、帰ったら――――、
(母さまに、おせんたくのしかたをおしえていただきましょう)
花の香りがする母さま特製の洗剤粉を使って、みるみる洋服を綺麗にしていく魔法の手。
たくさんの泡の中で働くその優しい手をみるのが、わたしはとても好きだった。
(わたしのても、母さまのてようになれるでしょうか?)
わからないけど、一生懸命頑張ろう。
そして、母さまにはその分、ゆっくり休んで元気になってもらいましょう。
(うん、とてもいいかんがえです)
5歳の春。
まずは「転ばない」や「どこにでも凭れない」よう注意を払う努力をする、という発想を持たなかったわたしは、一人青空に誓ったものだった。
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―――さて。
「おそいです」
わたしは門柱の横に立ち、ムッと口元を歪めながら学園の方を睨みつけた。
(はやくかえりたいのに。いったい、なにをしてるんでしょう)
―――いっそのこと、先に家に帰ってしまいましょうか。
そう考えたりもしたけれど、
『いいかい、ダフネ? 外にはね、危ないことが数え切れないほど沢山あるんだ。君みたいに小さくて、奇跡的な可愛さの女の子が独りで歩いたりするなんて、以ての外だよ? 初めの一年間は、学園の登下校は父さまか、父さまがお願いした他の誰かと一緒にしようね』
絶対だよ、と頬をくっ付けてスリスリしてくださった父さまとの約束を思い出して、ぐっと堪える。
父さまとの大切な約束を破るわけにはいきません。
……ああ、でも早く帰りたいのに。
(エイロスにいさまってば、ひどいです)
わたしは短い腕を組んで、髪と同じ水色の眉を顰めた。
今日は、いつも迎えに来てくれているメイドのエリスがお休みの日。
朝はほとんど父さまが連れて行ってくださっているのだけれど、学園が終わった午後の下校時間は、そうもいかない。だから、父さまの代わりに、エリスが校門まで迎えに来てくれることになっているのだけれど……。
『今日は、エリスの代わりにエイロスが送ってくれることになっているからね』
今朝、いま立っている場所でわたしを見送ってくれた父さまは、そうおっしゃった。
エイロスこと、エイロス・アモルは、父さまのお友達の息子さん。
彼曰く、わたしのことを赤ん坊の頃から知っているだとかで、良く家にも遊びに来てくれる。
二つ年上で、先にこの学園に入学していたエイロスは、この一カ月の間ですでに2度ほど、ダフネの下校に付き添ってくれていた。
だが、
「どうせ、またよりみちしてるにきまってます」
初めての待ち合わせをした日と、2回目の日のことを、わたしは忌々しい気持ちで思い起こした。
―――まず、一日目。
三十分遅刻した理由を、エイロスは「飼育小屋のコカトリスが生んだ卵の様子を見に行ってた」ためだと宣った。
……まあ、これは彼がその学期の〈生き物係〉であったため、仕方がないでしょう。
―――次に、二日目。
四十五分遅刻した理由を、エイロスは「親友の代筆でラブレターを書いていた」ためだと宣った。
……らぶれたー、って何でしょう?
分からなかったので父さまに聞いてみたのだけど、
『ダフネには関係ないものだよ。……もし、この先そういう名前のついた“物”を誰かから押しつけられたら、父さまにすぐに渡すんだよ? 父さまが、ちゃーんと“片付けて”あげるからね?』
そうおっしゃって笑った父さまのお顔が、いつもと何か違うような気がしたので、それ以上深く聞けなかった。
ラブレターが何なのかは、結局良く分からなかったけれど、要するにわたし以外のお友だちとの約束をエイロスは優先したんだなって考えると、とっても面白くなかった。
(きょうは、どんな『りゆう』をいうつもりでしょうか?)
青い空に浮かぶ一片の白い雲が、わたしの上に影を落とした。制服に包まれていない首筋から、すうっと温度を奪われる。
ふるりと身体を震わせたわたしは、こんなさむい思いをしているのも、ぜんぶエイロス兄さまのせいです、と恨みを着々と深めながら、口をへの字に曲げた。
早く来ないかな。
来てくれたら、お茶の時間に間に合うのに。
エリスが昨夜のうちに用意してくれたイチゴのパイを、エイロスと一緒に食べようと楽しみにしていたわたしは、ひとり剥れて俯いた。
今思えば、数少ない友達―――しかも、兄のように慕う幼馴染が、自分じゃない他の友人と仲良く遊ぶことに対して、やきもちを妬いていたのだと思う。
……大人しく認めると、本人がもの凄く付け上がるに違いないので、絶対に口にはしないけれど。
生来、人見知りが激しく、おまけに学園に入るまで、生まれ育った屋敷から碌に出たことのなかったわたしは、友達を作るのがとても下手だったから。
「おーい、ダフネ!」
待つこと一時間。
最強に無神経な彼は、ぶすっとした顔で仁王立ちするわたしの方へ、陽気に腕なんぞ振りつつ駆け寄って来た。
―――ああ。
いつも通り、キラキラと無駄に輝かしい金の巻き毛と、穢れを知らないブルーの瞳。
「ダーフーネーっ」
喜びに満ちた、元気いっぱいの声。
白い制服の大きな襟を風にたなびかせながら、軽やかに走るその姿を見て、
「きゃあっ、エイロス君よ!」
「いやーん。今日も天使みたいにステキー!」
「かわゆーいっ」
上級生やら下級生やら嫁き遅れの先生やらが、無邪気で愛らしいエイロスの容姿に、頬を染めて歓声を上げた。
まるで絡み捕ってやろうとでもいうような、熱くてネバついた視線もなんのその。
通常通り、最高水準のKYスキルでスルーして、彼は背に純白の羽を背負っているかの如きさわやかさで、こちらにやって来る。
……まあ、たしかにエイロスは、女の子のわたしから見ても可愛いですけど。
前に本人にそう言ったら、「まあねー。でも、ダフネの方がとびっきり可愛いよ?」と、天使然とした笑顔で頬ずりされたことを思い出し、イラっとした。
そのように、わたしが自己稼働でイライラを量産中であることを、彼が知る由もなく。
「ダフネっ」
花びらを飛ばす勢いでわたしの前に降り立った天使さまは、世界で一番の幸運を得たような微笑を浮かべた。
「遅くなってごめん。おまた―――――ブフッ」
「ええ、まちました。とっても」
地べたに沈む天使さま。
通学用の茶色いバックをエイロスのお腹に見事炸裂させたわたしは、ふんっと長い髪を振り回す勢いでそっぽを向いた。
「わ、悪かったって、ダフネ~」
石畳に尻餅をついたエイロスが、上目づかいに手を合わせながら、気まずそうに詫びてきた。
……さすがに、本気で悪かったと思っているのでしょうか。
一応、キング・オブ・ノウテンキな彼でも、反省することがあるようです。
しかし、ここですぐに赦してしまえるほど、乙女の一時間は安くもない。
「しりません。にいさまなんて、きらいです」
殿方に待たされた女の子の礼儀として、つーんと横向きの姿勢を保つ。
「こんなにまたせるなんて、ひどいです」
「ごめんなー。ダフネと同じ新入生にクラブ棟の案内をしてたら、つい遅くなっちゃってさ。あはは」
「いいですよーだ。わたしのことなんて、そのままわすれちゃえばいいです。わたしはひとりでちゃんとおウチにかえって、エリスのイチゴ・パイをたべますから」
「え、今日のおやつ、エリスさんのパイなの!? らっきーっ」
喜びの声を上げて立ち上がったエイロスを見て、わたしははっとした。
「だ、だめですっ。エイロスにいさまにはあげません!」
「いや、それは断固認めないから」
キパッ、と鮮やかに言い切った彼からは、もはや反省モードが欠片も見出せなくなっていた。
さっきまでの謝罪はなんだったのでしょう。
「ちょ、にいさまがきめることじゃないでしょー!?」
「いいや、もう決定です」
「だめったらだめですッ!」
「ははは、そんなこと言っても無駄無駄。ダフネは僕のことが大好きだから、そんな意地悪はできないね」
やけにはっきりと、そんなことを面と向かって言うものだから、わたしは思わず怯んでしまった。
なんて恥ずかしい生き物なんでしょうか、このひと。
「な、なな、なにきいてたんですか。さっきから、きらいだっていってるでしょうっ」
「ふふーんだ。無理するなって。大好きな僕と一緒に食べるおやつは、きっと格別だよー? ほら、にいさま大好きって言ってごらん?」
「……うぅ~」
確かに、ひとりで食べるおやつより、エイロスと一緒の方が断然美味しい。
だけど……うぅ……。
「ほらほーら、“だーいすき”って、ひとこと言うだけだって」
簡単だろう? と可愛らしく傾けられた金色の頭。
でも、愛くるしいその表情に浮かんでいるのは、天使に有るまじきニヤニヤとした笑みで――――。
「い・い・ま・せーんッ!!」
しつこくからかってくるエイロスに向かって、わたしは思わず絶叫した。
その声が、思いのほか周りに響いてしまって。
通りすがりの上級生のお姉さんたちにクスクスと笑われてしまったわたしは、真っ赤になって彼を睨み上げた。
「わたし、にいさまにはもう、ぜったいぜーったい、やさしくなんてしてあげないんですからっ」
そう言いつつ、あれ、と思う。
―――何故でしょう。
わたしを覗き込んでいるエイロス兄さまの姿が、急に曇ってゆらゆらしてます。
一方、わたしの瞳のダムが決壊しそうだと気が付き、マズイと判断したらしきエイロスは、慌てた様子でまた謝り始めた。
「にいさまのばか。ばかばか、おたんこなす!」
ぽかぽかと繰り出されるわたしの拳攻撃にも、大人しく甘んじている。
「まーまー、そろそろ赦してくれよ。あ、ほら! お詫びにこれをあげるから」
え、お詫び?
その言葉に釣られて、いそいそと近寄った欲深いわたしに、エイロスは自身満々の笑みを浮かべた。
そして、僕のとっておきだぞー、とにこやかに彼が取りい出しましたるは………。
「―――な、なんですか!? その濁った透明のビロビロ」
不気味に白濁した、ぶ厚いゴムの様な“ナニカ”。
ごきげんなエイロスは、胸を張って自慢気に、それを掴んだ腕をわたしの方に突き出してきた。
「聞いて驚け! なんとこれ、バジリスクの抜け殻なんだよ! 脱皮したばっかりなのを、この間みつけてさー。凄いだろっ。これを持ってると金持ちになれるんだって、じーちゃんが言ってた。ほらダフネ、鞄に入れて―――、」
「いやいやいやいやいやあぁああーーーっ!! かばんにさわらないでくださいぃいぃっ! ちかよらないで、はなしてーっ!」
「えー? せっかくなんだから、遠慮するなよ。ほら」
「ぜったいいやあぁあああーーーー! もぉ、エイロスにいさまなんか、だいっきらいですっ」
「そんなこというなよー。さみしいだろ?」
あはは、と笑うエイロスから、わたしは半泣きで距離を取った。
待ちぼうけを食わされた上に、何でこんな目に合わなきゃいけないのでしょう。
というか、初めて遅刻してきた時間が三十分で、次が四十五分、それで今回が一時間? なぜ、きっかり十五分ずつ待ち時間が増えているのだろう。
……この計算で行くと、次の待ち時間は一時間十五分?
(もう二度と、エイロスにいさまとはかえるやくそくなんかしません)
幼いながらも心に固く誓ったわたしだったが、約束してきたのは父だったということをすっかり失念していた。