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02

「え、えと、あの、父さま?」

 どういう意味ですか?

 何ゆえに、ここでその言葉?

 今の状況で、そんな台詞が出て来る意味が、わたしにはちょっと……。

 ここはひとつ、「父様の娘に生まれることが出来て、今でもじゅうぶん幸せですが」と、ちゃんと伝えておくべきなのだろうか。むむむ。

 そう、つらつらと悩み込んでいると、わたしを慈しみに満ちた目で見つめていた父さまの視線が、ふと、横に逸らされた。

 なに?

 なにがあるのですか?

 父さまにつられるように、わたしも同じ方向を―――祭壇へと続く階段の裾の方を、見る。

「――――っ」

 心音が、全身を震わせた。

 たぶんきっと、一瞬、心臓が止まってしまったに違いない。それくらいの衝撃。

 瞬間的に凍りついたかのような身体中の血液が、今度は冷たさを伴って、煩い雑音を立てながら駆け廻り始める。

 みるみる冷えていく指先。

 感覚が無くなったそのわたしの右手が、父さまの手によって運ばれていく。それを、わたしは動かない感情のまま、唯ただ信じられない思いで瞳に映していた。

 やがて、真っ直ぐに差し出された、編地に包まれたわたしの手。

「この子を、よろしく頼む」

 その父さまの一言に、紅の下で青ざめているであろう唇がわななくのを、わたしは押し隠せなかった。

(こんなの――――うそです)

 そう、性質の悪い嘘。そうに決まっている。

 だから、こんな―――――、


「はい」


 応えがあるとともに、父さまの掌から下ろされていく、わたしの手。

 祝福の光溢れる祭壇へと続く、階の袂。

 白い陽光の中に差し出されたその人の手は、わたしの小さな手の平を、自らのそれで柔らかく受け止めた。

「――――うそ……」

 温かさを失った己の唇が、震えを帯びたその一言を擦れた音として紡ぐのを、どこか遠くで耳にしたかのように聞いた。

 光に慣れた視界。

 天上から降り注ぐ白光の世界の中で、一つの鮮烈な色彩に、否応なく目を奪われる。

 神世に存在するという聖なる焔の如き、純粋で、穢れのない一色――――紅。

 何者をも薙ぎ払うかのような〈苛烈の紅〉の彩。

 その煌めきを宿した髪を持つ人。

 白皙の肌と彫り深い貌の造作は神懸かりなまでに麗しく、気品に満ちてはいるが、感嘆を洩らさずにはいられないほど凛々しくもあり、決して男性らしい印象を損なうものではない。

 わたしは、知っている。


 ずっと前から、この(ひと)を。

 まるで、烈火を纏う太陽神のような、この(ひと)を。


 襟足で短めに整えられた緩く波打つ髪とは異なり、少々長めに取られた前髪の陰からわたしを見据える、鋭い金の瞳も。

 この世から掻き消えてしまいたい、そう何度もわたしに思わせた、冷徹な言葉しか吐き捨てない口唇も。

 美しい――――認めたくない、目にしたくなんてない、だけど……美しい………。

 その、彼の手の平に添え置かれた、わたしの手。

 なんの冗談なのでしょうか、これは。

 微かに震えて鳴る奥歯の音だけが、いやに頭に響く。それでも、麻痺したわたしの脳は、のろのろと思考を始めた。

 あれ?

(なぜ、このひとは白い服を着ているのでしょう?)

 混じり気ない純白の糸で織り上げられた、多分、最高級であろう衣裳。典雅でいて、神聖さを帯びたその衣は、寸分の狂いなく、彼の長身をすっきりと覆っている。

 彼の容姿、身分に相応しい衣裳。

 今日、この場に集っている大勢の乙女たちの甘やかな吐息を洗いざらい受けたことは、想像に難くない。

 たとえ、彼がわたしにとって怖れの塊のような存在であっても、それだけは分かる。

 わたしを射抜くように注がれる金色の視線、痛みを感じるほどのそれに怯えている今この時だって、それくらいのことは想像できる。

 目を、合わせたくない。うろうろと彷徨う、わたしの視線。

 だけど、彼の胸元を飾る〈それ〉を見つけた瞬間――――。


 豪華な、粉雪色のドレス。

 丁寧に施された、初々しさを煽る化粧。

 光の糸で紡いだかのように美しく軽やかな、全身を覆うベール。

 常では奏でられない、祝福の気鳴鍵盤楽器。

 父から贈られた、繊細な編地の手袋。



 気が付いてしまった。

 分かってしまった、全部。

 ……ああ、でも、そんなことって。

 ―――――背筋に、一気に怖気が走る。

 まるで人ごとののように眺めていたその光景から、意識が急激に現実へと引き戻された。

 そして、彼の傍にいるときに、いつも沸き起こってくる、あの衝動。



 逃げなきゃ。



 無意識に示される、魂にまで刷り込まれているんじゃないかと思うほどの、逃げなければという強い思い。

 早く、早く、早く!

 身を翻し、ドレスの裾をたくし上げ、全力で入口の扉まで走ればいい。

 わたしがこの場を飛び出しても、父さまとアルテミスなら、きっと許してくれる。

 残されたあとの人たちなんて……彼のことなんて、どうなろうと知らない。

 ずっとそうやって逃げてきた。

 小さな子供の頃から、ずっとずっと。

 身体が、意識よりも一歩早く反応する。

 彼の手の平に委ねられた、わたしの手。わたしたちを繋ごうとする象徴にも見えるおぞましいそれ。

(―――いやっ)

 背筋を震わせたわたしは、断ち切るように腕を引き―――――、


「逃がさない」


 指先が離れかけた瞬間、囚われた手。

 逃がさないと言ったその言葉通り、戒めのようにきつく握り締められた。

 ―――痛い!

 走った痛みに思わず顔を歪めた時、そのままぐいと腕を引っ張られる。

 バランスを崩しかけたわたしの腰に手を添えた彼は、そのままわたしを自分の胸元に抱き寄せた。

 ……しまった、隙を突かれてしまった。

 まあ、彼とわたしとでは、重ねた経験値が違いすぎるので、仕方ないと言えばそれまでなのだけれど。

 悔しさと怖ろしさを必死に殺しながら、わたしは唇を噛んで視線を俯ける。

 大体、抵抗する間も与えず、難なくこういう動作をこなしてしまうあたりから、彼が女性慣れしているのだという事実が窺えるというものだ。

 なんて破廉恥な男。

 このっ、乙女の敵!

 ……そんなこと、口が裂けたって言えないけれど。

 でも、なによりわたしを絶望させたのは、ホール全体で輪唱を奏でた感嘆の吐息だ。たぶん、鈍臭くも倒れそうになったわたしの身体を支えたかのように、周囲の目には映ったのだろう。

 まんまと騙されているこの場の皆さんが、そこはかとなく憎い! ……あ、父さまとアルテミスは別だけれど。

 誰も、いまのわたしの心に気付いてなんてくれない。

 助けてもくれない。

 ……もう、いや。

 逃げたい。

 この(ひと)の傍になんて、居たくないのに。

 なのに………。


「逃げるなんて、絶対に許さないからな」


 耳朶に注ぎ込まれた言葉。

 彼の体温を持った吐息が、直に耳元に掛り、わたしは声無き悲鳴を上げた。

 怖い、怖い怖い怖い、怖すぎる!

 だけど、足に力が思うように入らない。

 抵抗の力を奪われ、へにゃりと崩れかけたわたしを、何を思ってのことか、彼は一瞬だけ抱きしめた。

 むぎゅっ、と彼の純白の衣裳の胸元で頬を潰されながら、絶望的な心境でわたしが目に映したのは、彼の胸元に飾られた花飾り。

 愛の花、と呼ばれるプリア・モーナの花を中心に、特殊な意匠で様々な花を組み合わせたその胸飾りを、この国の女の子なら、誰もが一度は夢に見る。

 いつか、大好きな男性が、自分のためにこの花飾りを付け、迎えに来てくれたらと。

 そう――――間違っても、「自分を嫌っている男性」が、ではなく。


「来い、ダフネ」


 やや乱暴にわたしの身体を押し離した彼は、小さな声で素早く命令してきた。

 それに対し、わたしは了承の言葉を発することはおろか、微かな頷きすら返していない。

 なのに、さっと背を向けた彼は、繋がれたままの手を力任せに引っ張り、足早に階段の方へと進んでいく。

 祭壇へと続く、真っ白な石の階段。

 長く続くそれを引き摺られるようにして登りながら、わたしは息苦しさに喘いだ。

 ―――ドレスが重い。

 さっきまでドレスの裾を持ってくれていたアルテミスは、下に残ってしまった。

 ―――歩くのが早い。

 父さまなら、もっとゆっくり足を進めて、わたしに合わせてくれるのに。

 思いやりも気遣いも無く、ただ己が意思のままに前を行く紅い髪を持った後ろ姿を、いままで怖ろしさに身を震わせるだけだったわたしは、この時になって初めて睨んだ。


 もう嫌だ。

 離して。

 逃げさせて。

 これ以上、わたしを傷つけないで。


 そう、叫びたいのに。

 泣いてしまいたいのに。

(―――こんなのって、ないですよ)

 もう、さすがに分かっている。

 このドレスの意味も、ベールの意味も、彼が胸に付けた花飾りの意味も、全部。

 本人―――花嫁であるわたしに、当日……いや、その瞬間まで知らされない華燭の典なんて、聞いたことがないけれど。

 でも、何故?

 どうしてわたしなの?

 何でかなんて、わからない。想像もつかない。

 どうして、だなんて……そんなこと、訊けるはずもない。



 だって、わたしは―――――、




 彼が、『大嫌い』な女の子のはずで。







 だから、わたしも―――――、





 彼のことが、『大嫌い』なのだから。



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