01
某神話から色々名前を拝借しておりますが、内容は原作とかなり異なります。
神の性質や単語の意味合いなども、本来のものとは違う点が多くございますが、ご容赦ください。
白い扉が、目の前で開かれた。
次の瞬間、視界を滲ませた、溢れんばかりの光。
扉の向こうに広がる大きな空間を余すところなく満たすその光は、わたしが向き合っている正面―――遥か高い天井から中央舞台の祭壇までを覆う、白と金を基調とした繊細なステンドグラスよりもたらされているもの。
神聖かつ典雅な華やぎを纏う陽光に目を眩ませつつも、わたし―――ダフネは、懸命に灰色の瞳を瞬かせて、扉の向こうを見渡しました。
慣れてきた視界の中で、像を結び始めたのは、人。
人、人、人、人の波。
神殿で一番大きな祭壇付きホールの空間を、扉から中央舞台に向かうまでの深紅の絨毯で線引きしたように分かれて居並ぶ、数え切れない人間たちが、一様にわたしを見つめていました。
大きく見開かれた千以上の瞳が、びくりと背筋を震わせたわたしの姿を映す。
思いもよらぬ光景に、何も考えず踏み込もうとしていた足が凍ってしまいました。
(――――な、なに? 何ですか、コレは)
何の集会……いや、むしろ祭?
これほど大勢の人間がこんな朝っぱらから集まっているなんて、只事じゃないです。
しかも、なんでみんな正装?
咲き誇る花々のようなドレスを纏った、品の良い貴婦人やうら若き乙女たち。隙なく宮廷着を着こんだ凛々しい紳士たち。
とっておきのおめかしなのでしょうか、きちんと整えられた服装でどこか落ち着きなく、でも、何か楽しみで仕方がないものを待っている様子の子供たちの姿もあります。
そんな大勢の人々の視線が、一斉に突き刺さるんですよ? 思わず我が身を引いてしまっても、仕方がないですよね。
(……もしかして、もしかしなくとも、おじゃまする部屋を間違えちゃったんじゃ………)
落ち着け、落ち着きなさい、わたし!
改めて正し直した姿勢で、きちんと前を向いたまま。且つ、迅速に。
背中に浮き始めた嫌な汗の存在を意識しつつも、この状況をどうにかするため、わたしの脳みそが活動を始めました。
(と、とりあえずは……)
この場を一刻も早く脱するために、〈相棒〉たる隣の人間の意識を戻して差し上げることが先決です。
さっきから全然動かないところを見ると、わたしと同じように凍っちゃってるのかもしれません。
(……どうにかしなければ!)
ごくりと唾を呑みこんだわたしは、隣に立つその男―――いつになく上品な、紺を基調とした装いで身を包む、有能で博識、温厚、美形、美麗魔導士……とまあ、美点を上げれば奇跡の泉のごとく溢れ出す素敵男性、もとい愛する父さまの上着の袖をきゅっと握りました。
いつも通り、一人娘たるわたしをエスコートしてくれていた紳士的な父さまの腕。あぁ、素敵。それに絡めていた手で、控えめに小さく服の袖を引きます。
ん……あれ?
………反応なし。
もう一度引っ張ってみたけれど。
…………あれれ?
どうしたんでしょう。いつもなら、何でもすぐに気が付いてくださるのに。何と言っても、父さまは完璧でいらっしゃるから。
わたしはこっそりと、隣に立っている父さまを視線だけで仰ぎ見ました。
「とうさ……」
“ま”まで言いかけた囁きを、思わず呑み込む。
「………っく」
噛締められた唇から洩れる声。
ふるふると小刻みに揺れる、老いてもなお頼もしい肩。
皺が刻まれた目尻からぽろぽろと零れゆく父の涙を目前に、わたしは唖然としました。
(なんでお泣きになってるんですか、父さまぁ――――!?)
滂沱のごとく涙を流す父。
いつも穏やかで優しい微笑みを浮かべているこの男が、こんなに泣いている姿を見るのなんて、わたしがまだ幼い頃に亡くなった母の葬儀のとき以来じゃないでしょうか。
正直、大の大人(しかも初老男性)にここまで盛大に泣かれると……いくら素敵父さまであるとはいえ、ちょっと怖い。
どうしたというのでしょう。
(……そう言えば最近、少し情緒不安定でいらしたみたいだけれど)
気が付けば、どこか悲しそうな顔でわたしを見つめていた父さま。
「なぁに? どうかしました?」
そう訊ねれば、何でもないよと弱々しく笑んで、切な気な吐息を吐かれていました。
昨夜なんて特に酷かったです。わたしの顔を見るだけで、口元をふるふるさせたりして……。
そこまで考え、はっと息を止めた。
(まさか、ご病気!?)
真っ青な顔色に、謎の痙攣、そして世を儚んだような吐息……三拍子も揃ってるじゃないですか!
そんな、そんなの嫌です。
父さまは、わたしの唯一の大切な家族なのに!
「と、とうさま?」
わたしと同じ色をした父さまの瞳に、泣きそうに歪んだわたしの顔が映り込みました。
「いこうか、ダフネ」
柔らかくて、温かい微笑み。
白い手袋をした大きな手の平で、腕に掛ったわたしの手を優しく握ってくれました。
「は、はい」
反射的にこくりと頷いて、ぐっと涙を堪える。
そうです、いまはまず今日の目的―――父さまの大事な用事とやらを終えてしまわねば。
わたしはホールの中へと進み出した父さまに連れられて、赤い絨毯を純白の靴で一歩踏みました。
その瞬間、聖堂内に居並ぶ人々の間から一斉に漏れ聞こえた、様々な吐息。
それらは石造りのドーム型天井に反響して、小さな音の嵐を生みました。
バクバクと波打つ心臓が、口の中からバイーンとばかりに飛び出しそうになります。
(―――何!? わたし、どこか変でした??)
でも、何もみんなして一斉に呆れた溜息を吐くことないじゃないですかっ! 傷つくでしょう、泣いちゃいますよ!?
ビクついたわたしは、いつもよりたっぷりとしたドレスのスカートの裾を、思わず踏み付けてしまいました。
「っきゃ!」
転びそうになって微かに悲鳴を洩らしてしまったけれど、父さまが素敵に華麗に素早く支えてくれたので、何とか姿勢を立て直すことが出来ました。さすが、父さま。互いの視線をちらりと合わせて、にっこりと笑みを交わします。
そして、それと同時に背後からそっと掛けられたのは、しっとりとした低めの声でした。
「大丈夫? 気をつけてね、ダフネ」
視線だけで振り返り、優しい気づかいをくれたその人にもわたしは笑みを送りました。
「はい。ありがとうございます、アルテミス」
こそこそとしたお礼の呟きに、滝のようなまっすぐな銀月色の髪を揺らして微笑を返してくれたのは、大切なわたしの大親友。
付き添いで同行してくれている彼女も、こんな状況に突然陥ってしまって驚いているだろうに、それを面に出すことなく冷静そのものです。こちらも、さすがアルテミス。
世界の至宝、月の女神、と名高い美女中の美女たる彼女は、この大国でも有数の才媛として驀進的に活躍している素晴らしい女性で、大好きな友人であるだけでなくわたしの憧れでもある。
学生時代の知り合い曰く、わたしなんかが彼女の友達で居続けていることは学園26不思議の一つに値するとか。……他に25個もあるんだったら、わたしの1つ分くらい見逃して、そっとしておいて欲しいものです。
その女神の如き親友が、わたしが今着ているドレスの背後の裾を、すんなりとした白皙の細腕に掛けるようにして持ち上げてくれました。
彼女が今日付き添いとして来てくれた理由は、まさにこれのせい。
真っ白な粉雪色の布をふんだんに使った豪華でいて品のある、ついでに半端ない重量もあるこのドレス。
(やっぱり、こんなドレス……わたしには似会いません)
この、ふんだんに惜しげもなく使われた高級布の量! スカートの後ろ部分だけで、わたしの普段着が10着は仕立てられそうですよ?
総額いくらだったんですか、とプレゼントしてくれた父さまに聞いてみたいけれど……出来ない、怖すぎて。
何より、高価な品すぎて分不相応だという以前に、良くとって〈並〉程度の容姿のわたしには全く似合っていないと、悲しいまでにはっきりと断言できる。
それこそ、アルテミスだったらステキに完璧に着こなせるに違いないのに。……何でわたし? 何かの罰ゲームにでも合っている気分です、全く。
いつもは足元にストンと落ちるだけの魔道院指定長衣しか着ないから、剥き出しの肩や背中が気になって仕方がない。それならと、アルテミスが薄いベールを頭からすっぽりと被せてくれなかったら、きっと恥ずかしくて外に出られなかったでしょう。
あぁ、散りばめられた小さな宝石たちが目に痛い。
でも、父さまが言う今日の〈用事〉にはどうしてもこの服じゃなきゃって、父さまとアルテミスが二人揃って言うものだから………………はぁ。
そこまで考えたところで、聖堂いっぱいに重厚な音色が響き渡りました。
その音があまりに唐突かつ大音量で空気を震わせたものだから、臆病なわたしはまたもや全身でビクついてしまいます。
これは………気鳴鍵盤楽器?
心を落ち着けて耳にすれば、低音から高音、多種多様な音階が整然たる嵐を為すかの如く波打ち、身体の奥を震わせる音の重なりを生んでいて……まあ、簡単に言うと、とっても壮麗で綺麗な音。
今まであまり聞く機会に恵まれなかったので、こんな状況でもちょっと嬉しくなりました。
―――だけれど、おかしいとも思います。
これは、確か重要な儀式のときにしか演奏されないはずなのに。
ほんとにこの集まりは何事なのか。聖堂中をもっとよく観察したくてたまらないのだけれど、衆人環視の中できょろきょろするのはとてもはしたないことなのでご法度です。父さまやアルテミスに恥をかかせるわけにはいきません。
重厚な楽音のなか、父さまの腕に手を絡めたわたしは一歩一歩ゆっくりと、父さまの歩みに合わせて歩き始めました。
刺すような周囲の視線から逃れるように、ひたすら視線は俯けたままです。
だから、揺れるベール越しに見えているのは紅い絨毯の色だけ。
いつの間にか、わたしは無意識に唇を強く噛締めていました。
(いやだな……)
この色の上を歩くのは、嫌。
……19歳にもなってこんなこと言うなんて、子供っぽい? ―――べつに、そう思われたっていいです。
紅色は、わたしが一番だいきらいな色。
この色だって、きっとわたしのことが嫌いなはず。
―――だって、これはあのひとの色なのだもの。
行く先に聳え立つステンド・グラスからの眩い光が、濃い紅色を徐々に明るく鮮やかに染め上げていくのを無感動な瞳に映しながら、ただひたすらに父さまに寄り添う。
余裕がなくて気が付かなかったけれど、紺色の上着の袖に添えた手には、知らず知らずの内に力が入ってしまっていたみたいです。
強張った手―――今朝、ドレスに合わせて選んだといって父さまから贈られた、白い編地の手袋に包まれたわたしの手に、温かくて大きな優しい手の平が重ねられました。
……ああ。
まるで溶かされたように、手袋の下で血の気を失うほど固く握りしめていた拳が緩む。少しだけくしゃくしゃになってしまった父さまの上着の生地からほどけていく。
「ダフネ」
低くて慈愛に満ちた、父さまの声。
いつの間にか、わたしたちは歩みを止めていました。
入口から見れば、あんなに長いと感じられていたはずの紅色の道がいつの間にか終り、光包まれる祭壇舞台へと続く階段の前で、わたしはわたしを見下ろす父さまと向かい合っています。
「父さま……?」
わたしの不安に満ちた問いかけには答えず、父さまは笑んだまま、自らの腕に未だ添えられたままだったわたしの手を、ゆっくりと両手とも持ち上げました。
広い父さまの胸の前に、一つに集めるようにして包み込まれたわたしの両手。
手の平で大切そうに包んだ娘の指に、父さまはキスを一つ落します。
「私のダフネ」
幼い頃から変わらない、甘やかしきった口調。
家でならともかく、こんなに大勢の前で口付けた父にぎょっとした表情を隠せなかったわたしは、次の言葉で更なる混乱をきたしました。
「―――幸せに、なるんだよ」
…………
…………………
………………………………………はい?