~ 終ノ刻 業報 ~
社の外に出ると、そこには依然として赤い空が広がっていた。しかし、先ほどと比べ、どこか赤黒いといった方が正しい色合いになっている。きっと、これがこの世界における、夜ということなのだろう。
辺りが薄暗くなったことも相俟って、廃墟と化した街は一層の不気味さを増していた。その上、いつどこから鬼が襲いかかって来るとも限らないとなれば、これはもう緊張しない方がおかしい。
犬崎紅の話では、この世界は魂が肉体そのものだということだった。では、そんな世界において、仮に再び殺されることになればどうなるか。
答えは、小学生である晶にも容易に想像がついた。現世の肉体を失った魂が、今度はあの世でも殺される。そうなれば、その先にあるのは完全な消滅。復活も転生もない、完全な無に飲み込まれてしまうということなのだ。
魂だけの存在故に、もうこれ以上は死ねない身体。まさに後がない状況だったが、晶の前を歩く紅は至って冷静だった。こういう事態に慣れているのか、それとも隣にいる巨大な黒犬の存在があるからか。その、どちらもあるのだろうと晶は思っていた。
「なあ……。これから、いったいどこに行くんだ? 紅兄ちゃん、香帆を助けるとか言ってたけどさ」
「だから、兄ちゃんはよせと言っただろう。まあ、別にそう呼びたいのなら構わないが……とりあえずは、黙ってついてこい」
晶の質問には答えず、紅はあくまで自分のペースで先に進んで行った。神社に案内されたときもそうだったが、紅は歩くのがかなり速い。意識して早足にしないと、あっという間に置いて行かれてしまうから大変だ。
程なくして、紅と晶は大きく開けた通りに出た。そこは、晶も見覚えのある場所である。
「紅兄ちゃん……。ここって、もしかして……」
「ああ。どうやらお前の学校に、探している女がいるみたいだな」
「香帆が学校に!! でも、どうしてそんなことがわかるんだよ!?」
「それは、こいつのお陰だな。これは俺の使役する犬神だ。霊的な存在を嗅ぎ分ける嗅覚は、その辺の犬が束になって集まっても敵わないほどだからな。お前を探すとき、そして俺がこの世界に来るときにも、こいつの力を借りたのさ」
「それじゃあ、このでっかい犬に、香帆の匂いを辿らせたってのか?」
「いや、正確には、鬼とは異なる霊気を持った者を探させただけだ。だから、必ずしもお前の探している女に会えるという保証はない。ただ、闇雲に街の中を探しまわるよりは、はるかに効率がいいはずだがな」
紅が、自分の隣に佇む巨大な黒犬を見て言った。その犬は相変わらず恐ろしい形相で、目の前の校舎をじっと見つめている。
火乃澤第二小学校。晶や香帆が通っている、県立の小学校の一つだ。もっとも、こちらの世界では既に校舎も廃墟と化しており、建物が木造でない以外は朽ち果てた旧校舎と変わりない。
「晶とか言ったな。お前、これから何が起きても、びびって逃げ出さないという覚悟はあるか?」
「か、覚悟って……そんなの、もうとっくにできてるさ!!」
「そうか。ならば、遅れるな。少しでも俺からはぐれたら、その瞬間に鬼どもが食い殺しに来る可能性もあるからな。俺の側……いや、黒影の側からは、できるだけ離れない方がいい」
ここに来るまでは余裕の表情を浮かべていた紅の声が、どこか厳しく諭すような口調になっていた。ならば、あの校舎の中にいるのは、それだけ危険な存在ということなのだろうか。
幽霊のような存在になってしまっても、晶には紅のように相手の力を感じ取ることなどできなかった。恐らく、生前に霊感がなかった者は、死後も大した力を持つことができないのではないだろうか。だとすれば、自分が鬼の正体を襲われるまで気づかなかったことも、窓ガラスを割られて家に侵入されるまで油断しきってしまったことも説明がつく。
いつの間にか、晶は自分の手がじっとりと汗ばんでいるのに気がついた。この世界では、魂が肉体そのものである。紅の話を信じるならば、生きているときと同じように、汗もかけば腹も減るのだろう。
「行くぞ……」
それだけ言って、まずは紅が校庭に足を踏み入れた。それに続く形で、晶も慌てて紅の後を追う。
二月に入ったばかりだというのに、校庭には雪の姿がまったくなかった。最初、この世界に放り込まれたときには気づかなかったが、思えばおかしなものである。豪雪地帯の東北で、こうも雪がきれいに消えてしまっていることなど考えられない。
やはり、ここは自分の住んでいた世界とは違うのだ。空気も水も、そして住人さえも、生きている人間の世界とは異なっている。
(紅兄ちゃんが言ってたけど……まさに、異界ってやつだな……)
ここは、この世の者が住まう場所ではない。神社で紅から聞いた話が、晶の頭の中に蘇る。
ざくざくと、校庭の砂を踏む音だけが響いていた。紅も言っていたが、ここは確かに晶達にとってアウェイである。人の常識など通用しない、死者たちが住まう死後の世界。そんな場所で一瞬でも気を抜いてしまうことは、非常に危険極まりない行為なのだろう。
この先に待つのは、果たしてどんなものなのか。そして、何よりも、香帆は本当に無事なのか。色々なことが一度に起こり過ぎて、どうにも頭の整理がつきそうにない。しかし、状況は晶のことを待ってくれているほど優しくはなく、程なくして晶は体育館の前にやって来ていた。
「なあ、紅兄ちゃん……。ここ、体育館だよな」
「ああ、そうだ。微かだが、黒影もこの中から鬼ではない者の存在を感じている」
「だったら、早く香帆を助けて逃げようぜ。こんなおっかない場所、いつまでも長居したってろくなことないしさ」
「そうだな。だが、焦りは禁物だぞ。外から見た分にはただの体育館かもしれないが、中には何がいるのかさえわからないんだからな」
一刻も早く香帆を助けようと息巻く晶を他所に、紅はあくまで冷静な口調で彼を制した。そして、意を決して体育館の扉に手をかけると、それを躊躇うことなく引いて開け放った。
「……っ!? こ、これは……」
突然、物凄い臭気が溢れ出し、紅と晶は思わず鼻を押さえて後ろに下がった。隣にいた黒影までもが、あまりに強烈な臭気に顔をしかめている。
流しの下と、腐った生卵と、それから強烈な血の匂い。その全てを混ぜ合わせたかのような臭気が、体育館の中から溢れ出していた。
「うぇぇ……。な、なんだよ、この匂い……」
「こいつは瘴気だ。それも、ただの瘴気じゃない。こんな量を溜めこめるのは、相当な力を持ったやつだぞ……」
瘴気。それは、霊的な存在が放っているとされる、一種の負のオーラのようなものだった。当然、悪霊になればなるほどその量は増え、霊感の強い人間が近づいただけで、場合によっては酷い吐き気や頭痛を引き起こさせることもある。
通常であれば、それでも肉体がフィルターの役割を果たし、そういった気をシャットアウトしてくれる。全てを防ぐことは無理でも、魂が直接瘴気に蝕まれることは避けられる。だが、それに比べると、今の紅達は瘴気に対してあまりに無防備と言わざるを得なかった。
今、紅達は、生身の肉体を失っているに等しい状態である。そのため、当然のことながら溢れ出た瘴気を直に浴び、一度に気力を持って行かれてしまっていた。後少し、瘴気の量が多かったならば、そのまま気を失っていてもおかしくはなかったのだ。
――――グォォォォッ!!
湧き出す瘴気に苛立ちを覚え、黒影が大きく吠えた。その咆哮に蹴散らされるかのようにして、瘴気の流れが一気に後退する。
「中に入るなら今だな……。動けるか、晶?」
「ああ、なんとかね。紅兄ちゃんこそ、大丈夫なの?」
「俺は問題ない。ならば、さっさと行くとするか」
再び扉に手をかけて、紅が先ほどよりも更に大きくそれを開け放つ。黒影の咆哮が効いたのか、今度は瘴気が溢れ出して来ることもない。
これならば行ける。そう確信し、紅は体育館の中に足を踏み入れた。瞬間、ぐにゃりとした奇妙な感触が伝わって、紅は思わず自分の足元に目をやった。
「こ、これは……!?」
紅の足元に広がっていたもの。それは果たして、古びた体育館の床などではなかった。
赤黒い、どこか内臓を思い起こさせるような奇妙な肉塊。それが体育館の床一面に広がっている。いや、床だけではなく、天井も壁も、全てが肉塊によって埋め尽くされていた。これでは体育館というよりも、まるで鯨の腹の中だ。
改めて足元を確認してみると、瘴気はどうやらこの肉塊から出ているようだった。先ほど、黒影の一撃でかなりの瘴気を消し飛ばしたが、これでは再び部屋が瘴気で満たされるのも時間の問題だ。
ぐずぐずしている時間などなかった。急いで紺野香帆を探さねば、最悪の場合、ミイラ取りがミイラになってしまう。そう、紅が考えたときだった。
「紅兄ちゃん、あれ!!」
晶が叫びながら指差した先にあるものに、紅の目は釘付けとなった。体育館の舞台の真上、校長や教頭が話をする演台が置かれているであろう場所。そこにあった一際大きな肉塊の中に、一人の少女の姿があったからだ。
舞台の上に、まるで瘤のようにして盛り上がった巨大な肉塊。その中に埋め込まれるようにして、その少女、紺野香帆は静かに眠っていた。完全に意識を失ってしまっているのか、彼女は一向に目を覚ます気配がない。だが、それ以上におぞましいのは、彼女を包む肉の塊そのものだった。
不気味に脈打つ赤黒い塊が、香帆の両腕と両足を拘束するようにまとわりついている。それは身体も同様で、腹から胸元にかけてまでが、既に肉の中に埋まっていた。
辛うじて、顔や太腿などは外に出ていたが、それも肉に飲み込まれてしまうのは時間の問題だ。あの肉塊の中で香帆の身体がどうなってしまっているのか。それはこちら側からではわからなかったし、考えたくもない。
「行くぞ、晶! あの塊から、紺野香帆を助け出す!!」
「ああ、わかってるぜ! あの生肉みたいなやつから、香帆を引っ張り出してやればいいんだな?」
晶の言葉に紅が無言で頷いた。それを見た晶も、ついに意を決し体育館の中に飛び込んだ。
足の裏から、何ともいえない不快な感触が襲ってくる。だが、気持ち悪いなどと言っている暇はない。ここで香帆を助けなければ、香帆はこのままあの醜い肉の塊の一部になってしまうかもしれないのだから。
赤い肉の絨毯の上を、紅と晶は香帆の囚われている肉塊目掛けて走った。途中、そのまま自分達も肉の中に引きずり込まれるのではないかと考えたが、床を覆っている肉塊には、そこまでの力はないようだった。
ところが、もう少しで体育館の舞台に辿りつけると思ったそのとき、突如として目の前の肉塊が大きく盛り上がった。それは他の肉塊よりも一層力強く脈打ちながら、紅と晶の目の前で、やがて人の形を成していった。
「な、なんだよ、こいつ……」
ぐねぐねと不規則に動く肉塊が、徐々に固まって人間の姿になってゆく。肉の塊だったときは紅の背丈の二倍ほどもある巨大な柱だったが、形が決まるにつれて、だんだんと小さくなっていった。
床から迫り出すようにして現れた一本の肉の柱。それは変形を繰り返しながら、とうとう紅と晶の前で一人の人間となった。
「お、お前……」
それ以上は、晶の口から言葉が出なかった。
肉の柱が変化した人間は、晶が思っていた以上に小さな相手だった。だが、それにも増して驚いたのは、その人間を晶自身がよく知っていたからだ。
「レオ……」
そこにいたのはレオだった。あの、虐めによる自殺――――少なくとも晶はそう思っている――――で命を絶った、香帆の弟である。
気弱で空気が読めず、常に不自然な愛想笑いを浮かべていたレオ。しかし、今のレオにはそんな様子は微塵もない。どこか自信に満ちた、それでいて不気味な笑みを浮かべて晶達の方へと歩いてきた。
「久しぶりだね、晶お兄ちゃん。元気だった?」
生前とは比べ物にならないほど流暢な日本語で、レオは晶に向かって話しかけてきた。その声に、晶は思わず肩を震わせて後ろへ下がる。
「お前……いつの間に、そんなに日本語が上手くなったんだよ……。それに、この変な場所は、いったい何なんだよ!?」
「変な場所って、ここのこと? ここは、僕とお姉ちゃんだけの秘密の場所だよ。この体育館に広がってるやつが、全部僕の一部なんだ」
レオの口元が、にぃっと三日月の形に曲がった。あの、不自然な作り笑いとはまた違う、底知れぬ不気味さを持つ笑みだった。
「なるほど……。貴様があの女の魂を、この世界に引きずり込んだ張本人か」
ゆっくりと晶に近づいてくるレオに対し、紅がその間に割って入った。晶を庇うようにして片腕を上げながらも、目だけはしっかりと相手の方を見据えている。
レオのことは、紅は先ほどの神社で晶から少しだけ話に聞いた程度のことしか知らない。しかし、あの肉の柱が変形して現れた時点で、目の前にいる少年が人の理解を越えた存在であるということだけは確かだった。
「そっちのお兄ちゃんとは初めて会うね。もしかして、晶お兄ちゃんのお友達なの?」
紅の赤い瞳に睨まれてもなお、レオは怯むどころか更にこちらへ近づいてくる。その言葉には、敵意のようなものは感じられない。晶と紅が、どうしてこの世界にいるのか。ただ、そのことに対して純粋な好奇心を向けていると言った方が正しかった。
「貴様の目的はなんだ? なぜ、あの女をこんな場所に閉じ込めた!?」
紅が再びレオに言った。それを聞いたレオの足が、紅の前で静かに止まる。顔からは先ほどの笑みが消え、なんとも言えぬ不愉快な表情に変わっていた。
「閉じ込めたって……僕は別に、お姉ちゃんを閉じ込めたつもりはないよ。僕がこっちの世界でお姉ちゃんのことを呼んでいたら、お姉ちゃんからやって来てくれたんだ」
「なんだと!?」
「嘘じゃないよ。でも、この世界には怖い人達もたくさんいるからね。お姉ちゃんを放っておくわけにもいかなかったから、とりあえずはここに隠しておいたんだ」
レオの顔が紅から離れ、肉塊の中に囚われている香帆に向けられた。完全に意識を失っているのか、香帆は相変わらず目を覚まそうとはしない。そればかりか、先ほどよりも香帆を包む肉塊の量が増えている気さえする。
「僕は、お姉ちゃんと一緒に楽しく暮らせれば別によかったんだ。ここには僕を虐める人もいないし、怖い人達も、僕よりは弱いやつばかりだしね」
「楽しく暮らせれば、別にいいか……。だが、その女はまだ死んだわけじゃない。現世を生きる者を常世へ引きずり込もうというのならば、俺はお前を倒さねばならなくなるぞ」
「どうして? 僕は別に、誰かを虐めたり乱暴したりするわけじゃないよ。ただ、お姉ちゃんと一緒にいたいだけなんだ。この先、ずっと……ずっと、どこまでも。誰にも邪魔されないところでね」
肉塊から再び紅の方へ顔を向け、レオがまたにやりと笑った。相変わらず、その笑みはどこか狂気を帯びている。そして、そんな狂気を帯びた笑みを、紅は以前にも見たことがあった。
(同じだ……。あれは……あいつの感情は……)
紅の中で、過去の忌まわしき記憶が再び蘇る。狗蓼朱音。以前、紅がまだ中学生だった頃に、故郷の土師見村にいた従兄の少女だ。紅と同じ赫の一族であり、その潜在能力は紅をも凌ぐ。だが、それだけの才能とは逆に、朱音の心は極めて弱く脆かった。
紅と同じ特異な容姿から、周りから好奇と偏見の目に晒されてきた朱音。彼女は唯一、紅に依存することでしか、その心を保つことができなかった。そして、極度に肥大化した依存心は彼女を凶行に走らせて、最後は彼女自身を人ならざる者へと変貌させてしまった。
今、紅の前で笑っているレオの姿は、まさしくあの時の朱音の姿そのものだ。朱音が紅に向けた気持ちとレオが香帆に向けた気持ちは細かいところで違うのかもしれないが、自分の好きな相手と永遠に一緒にいたいという点では共通している。そして、その想いが歪んだ形に溢れ出ている今、レオがしようとしていることは、ただ一つ。
「もうすぐ、僕とお姉ちゃんは完全に一つになるんだ。魂っていうのかな……それが全部一緒になって、ずっと離れ離れになることもなくなるんだ」
「なるほど……。やはり、貴様の目的はそれか……」
「だから、お兄ちゃん達は僕の邪魔をしないでくれないかな? 晶お兄ちゃんや、もう一人のお兄ちゃんが、どうやってこの世界に来たのかは知らないけど……ここは、僕とお姉ちゃんだけの世界なんだからさ」
「残念だが、そういうわけにはいかないな。そこの悪ガキも、お前の姉も、二人とも現世に戻す必要がある。お前には酷な話かもしれないが、現世を生きる人間の魂を、死者が好き勝手にしていいという決まりはない」
そこまで言ったとき、部屋の空気が一瞬にして変わった。壁や床を覆う肉塊が不気味に動き出し、ずるずるとレオの周りに集まってゆく。足、腰、そして胸の順にレオを包み、再び巨大な肉の柱へと変えてゆく。
「な、なんだよ、あれ……。レオ、お前……いったいどうしちまったんだよ!!」
目の前で肉に取り込まれてゆくレオの姿を見て、晶が慌てた様子で飛び出そうとした。が、紅はそんな晶を制すると、そのまま彼の腕をつかんで大きく後ろに引き寄せた。
「離れろ、晶! こいつはもう、お前の知っている紺野レオじゃない!!」
「どういうことだよ、紅兄ちゃん! あの肉みたいなやつ……あれ、いったい何なんだよ!?」
「俺にもわからん。ただ、一つ言えるのは、紺野レオが単なる鬼界の住人というわけではないことだ。あの力……ただ、この世に恨みを残して死んだガキにしては、あまりに強過ぎる」
心なしか、紅の言葉が震えているように晶は感じた。予想もしなかった相手との遭遇。そして、そんな未知の存在に対する恐怖心というものだろうか。この状況に飲まれそうになっている晶自身もまた、それは痛いほどよくわかる。
紅と晶の眼前で、レオは今や巨大な肉の柱そのものになっていた。柱の丈は、低く見積もっても大人の背丈の二倍ほど。晶はもちろん、今の姿の紅からしても、見上げる程に高い大きさだ。
肉の柱が、さらに大きく脈打って動いた。その瞬間、柱の左右を突き破るようにして、新たに二本の肉の枝が現れた。それは瞬く間に巨大な腕となり、さらには柱の根元が二つに割れて足となる。最後に柱の頭頂部が巨大な顔を形成し、肉の柱は巨大な人の姿に変わっていた。
「あ、あれは……」
レオが変貌した赤い巨人。その姿を見て、晶はそれ以上なにも言えなかった。
暗闇の中で光る紫の瞳。口から迫り出した巨大な牙と、頭から生えた二本の角。全身を構成する肉塊は今やたくましい筋肉へと姿を変え、赤銅色の輝きを放っている。
その姿は、さながら昔話に出てくる鬼そのものだった。廃墟の街で出会った鬼女とは違い、その強大さは向こう側の世界に通じていない晶でも十分にわかる。
鬼の胸部が激しく動き、その中央からレオの顔が現れた。胸の中に埋まるような形で、小さな顔だけがこちらを見ている。その姿は恐ろしい鬼とはどこか不釣り合いだったが、それだけに不気味なものだった。
「ねえ、お兄ちゃん達。僕は本当に、お姉ちゃんと一緒にいたいだけなんだ。だから、もういいかげんに帰ってよ。そうしないと……僕はお兄ちゃん達を、ここから追い出さなくちゃならなくなるんだよ」
憤怒の形相の鬼に代わり、その胸に埋まっているレオの顔が喋っていた。しかし、それを聞いてもなお、紅はレオの変貌した鬼をじっと見据えたまま引き下がろうとしない。
「残念だが、それはできない相談だ。お前があくまで生者の魂をこの世界に縛りつけるというならば……赫の一族の末裔として、俺は貴様を止めなければならない」
「そっか……。結局、君も僕を虐めるんだね。僕はお姉ちゃんと一緒にいたいだけなのに……最後の最後まで、僕の嫌がることをしようとするんだ……」
鬼の胸にあるレオの顔が、どこか寂しげな表情になって言った。辺りの空気が再び緊張に包まれて、紅もまた呼吸を整え身構える。
話し合いの時間は終わった。そう、紅は直感していた。今のレオは、完全に自分のことしか見えていない。現世に対する恨みと姉に対する恋慕だけが肥大化した、巨大な怪物と化している。
果たして、そんな紅の予想は正しく、次の瞬間には鬼の巨大な拳が降り降ろされた。辛うじて直撃は避けたものの、それでも物凄い風圧だ。あんなものに叩き潰されたら、それこそ一貫の終わりである。
「やはり、最後は戦うしかないのか……。来い、黒影!!」
鬼の攻撃をかわしながら、紅は自分の使役する犬神の名を呼んだ。その声に呼応するかのようにして、巨大な黒犬が鬼に飛びかかる。不意打ちに近い状態で横から体当たりを食らわされ、鬼はバランスを崩して大きく転倒した。
「おい、晶。俺と黒影が戦っているうちに、お前はあの女を助け出せ。このまま放っておけば、例え鬼を倒しても手遅れになる」
「えっ! お、俺が!?」
「早くしろ! それとも、俺の代わりにお前があの鬼と戦うか?」
「い、いや……。そういうことだったら、なんとかやってみるよ」
「任せたぞ。だが、危険だと思ったら直ぐに逃げろ。この世界での死は、即ち魂の消滅そのものだということを忘れるな」
そう言って、紅は再び倒れている鬼の方へと目をやった。鬼は早くも大勢を立て直し、恐ろしい憤怒の形相で紅達を睨みつけている。
「行け、晶! 紺野香帆は、お前の力で救い出せ!!」
晶に背を向けたまま紅が叫んだ。その足が赤い肉に覆われた床を蹴り、黒影もまた紅を守るようにして鬼の前に立つ。
鬼の拳が再び空を切った。巨大な丸太ほどもあるその腕が紅の頭を掠め、強烈な風圧が彼を襲う。少しでも気を抜けば、それだけで一巻の終わりだ。魂の欠片さえも残さずに、全てを消滅させられてしまうだろう。
このままでは、いずれは追い込まれる。仕方なしに、紅は懐から一本の草を取り出した。ここに来る前、神社で晶に渡していたのとは別のものだ。すらりと伸びた葉脈が特徴的な、刀のような形をした草だった。
「俺は、お前に恨みはない。だが、お前を止めねばならないというのなら……これを使うことに躊躇いはない!!」
そう言うが早いか、紅は手にした草を手裏剣のようにして投げつけた。普通であれば空気の抵抗で大した距離も飛ばないのであろうが、紅の手から離れた草達は、まるで何かに操られるかのようにして真っ直ぐに鬼へと向かってゆく。
「ぎぃぃぃぃっ!!」
草が鬼に命中した瞬間、鬼が部屋中の空気を震わせんばかりの声で叫んだ。見ると、草の命中した部分から、白い煙が上がっている。刀のような形状に反し、草は鬼の体を切り裂くというよりも、むしろ溶かしていると言った方が正しかった。
菖蒲。古来より端午の節句などに用いられる、魔よけの力を持つとされる植物である。紅が鬼に向かって投げたのは、その菖蒲に他ならなかった。
菖蒲の花が咲くのは五月だが、葉は春まで待たずとも手に入る。それに、現世とは異なる世界であれば、それらの成長もまた異なっていてもおかしくない。まだ小ぶりなものだったが、武器としての効力は十分だった。
菖蒲の葉は鬼にとって忌むべきもので、触れただけで体を溶かされてしまうという。人間にとっては漢方薬として使われることもある植物だが、鬼にとっては正に毒薬に等しい。
菖蒲の葉で鬼が怯んだところを見て、今度は黒影が再び鬼に飛びかかった。体格は鬼の方が一回りも大きかったが、それでも黒影は怯むことなく鬼の喉元に食らいつく。鬼も黒影を引き剥がそうと暴れるが、そこへ紅が菖蒲の葉による更なる追い打ちを食らわせる。
完全に優勢というわけではなかったが、戦況は紅と黒影にとって少しばかり良い方向に傾いていた。そして、二人が戦うその横で、晶は香帆を救うために体育館の舞台の上に上がっていた。
舞台の上、本来であれば演壇のある場所で、不気味に脈打つ赤い肉塊。その中に埋め込まれるようにして、香帆が静かに眠っている。
「待ってろ、香帆! 今、その気持ち悪い肉の塊から助け出してやるからな!!」
香帆を包む肉塊に手をかけて、晶が叫んだ。肉が手に触れた瞬間、なんともいえぬ生温かい感じがした。そればかりか、不快なぬめりまでもが手に伝わってきて、晶の背中に寒いものが走る。
だが、そんなことで怯んでいては、香帆を助け出すことなどできはしない。自分の手に残る不愉快な感触をぐっとこらえつつ、晶は香帆を捕えている肉の塊を引き剥がそうと力を込めた。
「この野郎……。さっさと香帆を返しやがれってんだ!!」
つかみ、引っ張り、最後は爪を立ててねじり上げる。しかし、肉の塊は思いのほかに頑丈で、晶の力ではどうにもならない。粘性の高いべたべたした液体がまとわりつくだけで、肉塊は一向に香帆を離そうとはしなかった。
(畜生!! このままじゃ香帆が……)
焦ってもどうにもならない。それは晶にもわかっていたが、この状況では仕方がない。せめて、何か肉を切るためのものでもあれば。そう、晶が思ったときだった。
ドンッ、という鈍い音がして、何かが晶の方に飛んで来た。その黒い塊は舞台の下に叩きつけられ、どろどろと不定形な形をとっている。
「くそっ……。やってくれるな、まったく……」
黒い塊の下から、紅が悪態を吐きながら現れた。どうやら鬼の一撃をまともにもらってしまったらしく、その足は微かに震えている。
先ほどの黒い塊は、恐らくは黒影だったのだろう。鬼の攻撃から紅を守ろうとして盾となり、一緒にここまで吹き飛ばされたようだった。
「やつが来るぞ……。まだ行けるか、黒影?」
足元の黒い塊に、紅が目を落として話しかける。その言葉に黒い塊が再び犬の姿となり、低い唸り声を上げながら鬼を威嚇した。
重たい足音を響かせながら、鬼が徐々に紅達の方へと近づいてくる。紅も黒影も戦意を失ったわけではなかったが、それでも身体に受けたダメージは深刻だった。
もう少し、せめて晶が香帆を助け出すまでは、なんとか時間を稼がねばならない。そう思って懐に手を伸ばす紅だが、彼の手が何かをつかむことはない。先ほどの戦いで、菖蒲の葉は全て使い尽くしてしまったようだった。
普通の鬼であれば、あれだけの葉を投げられれば全身を溶かされて退散しているはずである。しかし、レオの変貌した巨大な鬼は、ただの鬼界の住人ではない。紅が投げた菖蒲の葉は確かに効いていたが、鬼の動きを封じるまでの力は望めないようだった。
万策尽き、もはやここまでか。こうなれば、せめて晶だけでも現世に帰してやらねばならない。そのためには自分が囮となって、黒影に晶を案内させる他にないだろう。
(生きて帰れる保証はないかもしれないな……)
紅の中に、一瞬だけ死を覚悟するような考えがよぎった。いや、この場合は、正しくは消滅を覚悟すると言った方が正しいか。
このまま鬼の手にかかって消滅すれば、その先に待つのは完全なる無。再生も転生もなく、魂の欠片さえも残さずに消滅させられてしまう。
無謀は百も承知だった。あの鬼を相手に、武器もなく戦える保証などなにもない。だが、ここで自分が諦めれば、それは晶を危険にさらすことに繋がってしまう。そう考えて、紅が鬼に向かおうとしたときだった。
「もう止めろよ、レオ! お前……なんだって、こんなことするんだよ!!」
突然、舞台の上にいた晶が紅と鬼の間に割って入った。その足は震え、今にも崩れ落ちそうだったが、それでも声はしっかりとしている。湧き上がる恐怖をなんとか堪えつつ、鬼と対峙しているように思われた。
「お前が姉ちゃんと……香帆と一緒にいたいのはわかるけどさ! こんなことしたって、本当に香帆が喜ぶと思ってんのかよ! こんな地獄みたいな世界で、ずっと二人だけでいるなんて……それが、本当に正しいことだと思ってんのかよ!!」
晶の叫びが、肉塊に覆われた体育館に響き渡る。鬼はそれに答えることなく、ただじっと晶を見据えている。
「お前が虐められたとき、確かに俺は何の役にも立たなかったかもしれないけどさ……。でも、それでも……この世界の人間が、全員が全員お前の敵ってわけじゃないだろ!? それなのに、どうして勝手に一人で死んだりしたんだよ!! なんで、香帆と一緒に生きて戦おうとしなかったんだよ!!」
晶の声が、再び体育館に響いた。その言葉が終わったとき、今度は鬼にも変化が現れた。身体を小刻みに震わせて、天を仰ぐようにして大きく吠える。その姿は、さながら小さな子どもが泣いているようにも思われた。
「危ない!!」
鬼の拳が降り降ろされるのと、紅が飛び出すのが同時だった。巨大な杭のようにして打ち込まれた拳をなんとか避け、紅は晶を抱えたまま肉の塊の上を転がった。
「ウォォォォォッ!!」
鬼の拳が、足が、でたらめに繰り出されて二人を襲う。狙いなどつけていないのだろうが、それでも脅威であることには違いない。
「レオ……お前、本当に鬼になっちまったのかよ!? 虐められたからって、相手を恨んで、世界を恨んで……そんなんで、お前は本当にいいのかよ!?」
目の前でなおも暴れ続ける鬼に、晶は懸命に言葉を投げかけた。しかし、その声が鬼に届くことはなく、レオが姿を変えた鬼は滅茶苦茶に暴れまわるだけだ。
「お前は一人ぼっちだと思ってたかもしれないけどな……生きていれば、絶対にいつかはお前のことをわかってくれる人に会えたはずなんだ! お前の姉ちゃんだけじゃない。俺だって、お前とは友達になりたいと思ってたのに……。そう、思えるようになってたのにさ!!」
初めは自分もレオのことを、なんて嫌なやつだろうと思っていた。もっとも、それは単なる誤解であり、香帆から話を聞いた後は、レオのことを変な目で見ることもしなくなった。
生きていれば、いつかはきっといいことがある。月並みな言葉だが、晶はそれを信じていた。悪ガキとして名を馳せ、先生に呼び出されて叱られることなど日常茶飯事。傍から見れば楽しいことよりも怒られていることの方が多い晶だったが、そんな晶だからこそ、先の言葉が信じられてもいた。
どんなに嫌なことがあっても、死んだらそれで全てはお終いだ。ましてや、そんな自分の死に他の人間までつき合わせるなど絶対に間違っている。生きていれば、いつかは絶対に何とかなる。それを信じている晶には、今のレオの姿も行いも見るに耐えないものだ。
「いいかげんにしろ、レオ! お前が姉ちゃんを連れてっちまったら、お前の父ちゃんや母ちゃんはどうなるんだよ!! 自分で勝手に死んで、父ちゃんと母ちゃんを悲しませて……その上、香帆まで連れてこうってのかよ!!」
レオの気持ちがわからないわけではない。だが、ここで彼の行いを認めてしまえば、それはもっと多くの人間を悲しませることになってしまう。その程度のことは、晶とてなんとなくだが理解はしていた。
「この……馬鹿野郎!!」
それが、晶から鬼にレオに向けられた最後の叫びとなった。晶の叫び声と共に、彼の手から一本の枝が鬼目掛けて投げつけられる。
それは、紅が神社で晶に渡していた柊の枝だった。節分の際、魔よけとして玄関に飾る物として、鬼よけに渡されていたものだ。
投げつけられた柊の枝は、そのまま真っ直ぐな軌跡を描いて鬼の目に命中した。瞬間、物凄い悲鳴が体育館に響き渡り、鬼は目を押さえて転げ回った。
「今だ、黒影! やつを焼き尽くせ!!」
鬼の動きが止まったところを見計らって、紅が黒影に最後の指示を出す。その言葉が終わりきらない内に、黒影はその口から青白い炎を吐きだした。
「ぎゃぁぁぁぁっ!!」
全身を黒影の吐いた炎に包まれて、鬼が断末魔の咆哮を上げる。天井や床を覆っていた肉塊が激しく揺れ、紅と晶は足を取られてその場に転がった。
「う……あぁ、あぁぁぁ……」
鬼の悲鳴が、徐々に弱くなってきた。その間にも黒影は、休むことなく鬼に炎を浴びせ続ける。やがて、床や天井が一際大きく揺れたところで、紅と晶は自分達の身体が固く冷たい物の上に乗っているのに気がついた。
「これは……鬼の力が、全て消えたみたいだな……」
足元を見ると、そこは体育館の床だった。部屋中を覆っていた肉の塊は既になく、全てが元に戻っている。床や壁が酷く傷んでいる以外は、どこにでもある何の変哲もない体育館になっていた。
「うぅ……」
埃を払うようにして立ち上がった紅と晶の目の前で、小さな塊が微かに呻いた。黒影が油断なく近づこうとしたが、紅はあえてそれを制した。そこに倒れていた者、鬼の姿から人の姿に戻ったレオを見て、既に勝敗が決したことは明白だったからだ。
全身から青白い煙を上げて倒れているレオに、紅はそっと歩み寄った。腰をかがめてレオの顔を覗きこむと、その小さな手をそっと握って胸の上に置く。
「お、お兄ちゃん……」
先ほどとはうって変わった弱々しい声で、レオが目線だけを紅に向けて言った。
「どうして……どうして、邪魔するの……。僕はただ……お姉ちゃんと一緒にいたいだけなのに……」
「別に、お前の邪魔をするつもりはない。だが、お前は現世で姉と一緒に生きることではなく、自ら死ぬことで世界に目を向けることを止め、闇の中に閉じこもろうとした。そんな身勝手な逃避行に、これ以上現世の人間を巻き込むわけにはいかないんだ」
「でも……もう、僕には逃げるしか方法がなかったんだ……。それなのに、逃げちゃいけないの……? どんなに辛くても、苦しくても……お兄ちゃん達みたいに、戦わなくちゃいけなかったの……?」
「いや、そうじゃない。ただ、お前は逃げる場所を間違えた。お前が本当に逃げるべき場所は、こんな暗闇の世界じゃない。もっと身近に、お前の居場所があったはずだ。お前の目と鼻の先に、お前をちゃんと見てくれる人がいたはずだ。お前が本当に頼るべき人達は、決して強くはなかったかもしれないが……それでも、お前を受け止めてくれる場所は、ちゃんと現世に存在していたんだ」
「そっか……そうだね……。僕、一人ぼっちなんかじゃなかったんだ……。お姉ちゃんの他にも、ちゃんと僕のこと、わかってくれる人がいたんだよね……」
レオの瞳から、一滴の涙が零れ落ちた。それが体育館の床を濡らしたとき、レオの身体が徐々に光りの粒となって消え始める。
「僕……お姉ちゃんに嫌われちゃったかな……。晶お兄ちゃんに酷いことして……お姉ちゃんに怒られちゃうかな……」
「心配するな。お前の姉さんは、そんな心の狭いやつじゃないだろう? 確かに叱られはするかもしれないが……それは、お前のことを、ちゃんと大切に思ってくれているからだ」
「うん……。ありがとう、赤い目のお兄ちゃん……」
そう言いながら、レオは紅の腕の中でゆっくりと消えていった。彼の消えた後には光の粒が残っているだけだったが、やがてそれも、直ぐに周りの空気と混ざって見えなくなった。
「なあ、紅兄ちゃん……」
先ほどから紅とレオのやり取りを見ていた晶が、たまらなくなって口を開いた。
「レオは……あいつは、消滅しちゃったのか? 紅兄ちゃんが言ってたみたいに、無ってやつになっちまったのか?」
「いや、それは違うな。あいつの存在は、この鬼界から消滅しただけだ。恨みや憎しみを捨てた魂は、既に鬼とは別のものだからな。鬼としての存在意義を失った今、やつは別の世界にその籍を移したのさ」
「へえ……。それ、ちゃんと天国に成仏したってことでオッケーなのか?」
「まあ、そういう解釈で構わないだろう。もっとも、今回はあのレオとかいうやつに、ちゃんと人としての心が残っていたからできたことだ。理性も失い、心の底まで完全に鬼そのものとなっていたら、こうも上手く事は運ばなかった」
「そういうもんなのか……。って、それより香帆は!? あいつはどうなったんだ!?」
部屋が元に戻り、レオが消えたところで、晶は思い出したように大きな声で叫んだ。あの、肉の塊が消えた今、香帆はどうなってしまったのか。まさか、レオと一緒に消滅してしまったのではあるまいか。そう思い、慌てて舞台の上に駆け上がる。
肉塊を失った舞台の上は、当然のことながら何もない。演台さえも置かれていない殺風景な場所の中央に、晶は一人の少女が倒れているのを見つけて駆け寄った。
「香帆……よかった……」
そこにいたのは香帆だった。レオの生みだした肉の塊から解放され、生まれたままの姿でうつ伏せになっている。
「おい、しっかりしろよ、香帆! お前、助かったんだぞ! こんなところで、いつまでも寝てんじゃねえよ!!」
未だ意識を失っている香帆を抱き起こし、晶はその顔を軽く叩いて呼びかけた。すると、程なくして香帆が眉根を寄せ、ゆっくりと目を開けて晶を見た。
「えっ……。あ、晶……?」
「香帆……。お前、気がついたんだな」
「気がついたって……どうして、あんたがここにいるの? それに、私、今まで何をして……」
「何をしてって……お前、覚えてないのかよ?」
旧校舎で≪鏡さまの儀式≫を試して倒れたこと。それについて、香帆はあまりよく覚えていないようだった。もっとも、意識が戻ったばかりなので、まだ記憶が曖昧なだけなのかもしれないが。
せっかく助け出せたのに、これではどうにも納得がいかない。仕方なく、晶は香帆に事の成り行きを説明しようと考えた。が、晶が再び香帆に話しかけようとした次の瞬間、目の前にいる香帆の顔が、どんどん赤くなっていくのに気がついた。
「お、おい……どうした、香帆?」
「い、いやぁぁぁぁっ!!」
悲鳴と同時に、香帆の拳が晶の顔面にめり込んだ。拳は晶の鼻面を直撃し、晶は腕の中にいた香帆を放り出して舞台の上にひっくり返る。
救出に成功した喜びで、晶は肝心なことを忘れていた。肉塊から解放された香帆が、生まれたままの姿であったこと。それに気づいた香帆が、反射的に晶を殴ってしまったのだろう。
豪快に鼻血を吹きだしたまま、晶は体育館の舞台に大の字に転がって考えた。
とりあえず、これで香帆を助け出すことは成功だ。結果オーライな部分もあったが、それでもなんとか目的は果たすことが出来た。
ただ、その代償として、間違いなく香帆には嫌われてしまっただろう。自分の初恋が虚しく終わりを告げてゆくのを感じながら、晶の意識はそのまま真っ暗な闇の中へと沈んでいった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その日は、東北の二月にしては暖かい日だった。道路の雪は完全になくなって、いつもと比べはるかに歩きやすい。
今、晶と香帆は、火乃澤町にある墓地にいた。墓石に書かれているのは≪紺野家の墓≫の文字。他でもない、レオの骨が眠る墓の前だ。
あれから晶と香帆は、紅の使役する黒影に連れられて鬼界を出た。紅の話では、黒影は元々鬼に近い存在であるとのこと。それ故に、黒影につかまってさえいれば、鬼門をくぐり抜けるのは容易いとのことだった。
果たして、そんな紅の言葉は正しく、晶と香帆が気づいたときには、二人は病院のベッドの上だった。周りには香帆や自分の両親の他に、兄である長瀬浩二の姿、それに≪火乃澤小変態四天王≫の仲間達の姿もあった。
晶達の意識が戻ったことで、病室にいた者たちは大袈裟に叫んで喜んだ。病院でも原因がつかめなかっただけに、本当に助からないと思っていたらしい。もっとも、今回の事件に関して言えば、医者の力では決して二人を助けることができなかったのは確かだが。
意識が戻った後、香帆と晶はそれぞれに自分が鬼界で体験したことを話してみた。話し相手は、当然のことながら晶の兄である浩二や同じ学校に通う清に直己、それに秀人である。晶の身を案じて犬崎紅に連絡を取ってくれた兄はともかく、大人が二人の話を信じるとは到底思えなかったからだ。
「ねえ、晶……」
墓所に線香を供え終わった香帆が、徐に晶の方を向いて尋ねる。
「あのとき、私が変な儀式をしなかったら、レオは最初からちゃんと成仏できたのかな……。それとも、私がもっとしっかりしてれば、レオを死なせずに済んだのかな……」
「さあな。そんなの、本人に聞いてみなきゃわかんないさ。ただ、俺にも一つだけ言えることがあるぜ」
「一つだけ言えること? なんなの、それ」
「あいつが……レオが死んだのは、お前のせいなんかじゃないさ。本当に悪いのは、やっぱり虐めなんてするやつらだ。俺も馬鹿はやるけど、弱い者虐めは絶対にしねえ。それだけは、ここでお前に誓ってもいいぜ」
「でも……レオは、私と一緒にいたくて、あんなことをしちゃったんだよね。だったら、やっぱり私にも責任があるんじゃないかな……」
「そう考え過ぎんなって。確かに、あいつはお前と一緒にいたかったのかもしれないけどさ。それだって、お前のせいじゃない。俺、自分がドジで馬鹿だからわかるけど……あいつだって、ちょっと頭に血が昇って間違えちまっただけなんだよ。だから、お前はもう悩んだりすんなよな。いつまでも暗い顔してると、レオのやつが安心して天国に行けないじゃんかよ」
「そっか……そうだね。ありがとう、晶」
今までどことなく沈んでいた香帆の顔に、少しばかり光が射したような気がした。そんな香帆の姿を見て、晶はわざとらしく鼻の下を擦りながらにやりと笑う。
「ま、そう改まって礼を言われるまでもねえよ。俺だって、お前には色々と責任取んなきゃなんないことがあるからな。四月からは俺達も中学生なんだし、俺もいつまでもガキじゃねえさ」
「責任取んなきゃならないこと? なんなのよ、それ……」
「えっ……!! い、いや……ほら……その……あれだよ。俺、あっちの世界で、お前のあんな姿見ちゃっただろ? 不可抗力もあったけどさ……やっぱ、何もなかったような顔して流すのは違うんじゃないかな、なんて思ってさ……」
「あっちの世界でって……あっ、あんたねぇ!!」
鬼界にて、肉塊から解放された香帆を晶が助け起こしたこと。そのときのことを思い出し、香帆の顔が見る間に赤く染まってゆく。
「馬鹿! エッチ! どうしてそんなこと、今この場で思い出させるのよ!!」
「どうしてって……。いくら事故だからって、強引に忘れるってのも失礼な気がしてさ。やっぱ、男として色々と責任取るのが筋かなって思ったんだけど……」
「もう! むしろ忘れてくれた方がいいわよ、この変態! それに、責任取るって……あんた、これからどうやって責任取るつもりだったのよ!!」
もう、我慢の限界だ。そう思うが早いか、香帆は晶に飛びかかって首を絞め上げた。その上、晶が抵抗しないのをいいことに、頭を平手で何度も叩いた。
「い、痛てて……。やめろ、香帆! 墓場で暴れたりしたら、ご先祖様の祟りがあるぞ!!」
「うるさい、うるさい、うるさーい! 今日という今日は、絶対に許さないんだからね!!」
「勘弁してくれよ! それに許さないって……俺がいったい、何をしたって言うんだよ!!」
もうじき夕刻になろうという墓所で、晶の悲痛な叫びがこだまする。だが、香帆に頭を叩かれながらも、晶はなぜか嫌な感じはしなかった。
笑って、泣いて、喧嘩して。そうやって香帆と過ごせる、あの日常が戻ってきた。それだけで、今の晶にとっては、なぜか満ち足りた気持ちになれる気がしてならなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
夕暮れ時の火乃澤町。赤い夕陽に染められた街中を、三人の子ども達が歩いていた。背中にランドセルを背負っていることからして、どうやら小学生のようだ。
「おい、伊沢。なんか、最近面白いことねえな」
道に広がって歩いている三人の真ん中で、大柄な少年が呟いた。
「ま、仕方ないだろ。あの外国人、なんか学校の屋上から飛び降りて死んだみたいだし。先生達の話じゃ、事故ってことになってるみたいだけどな」
大柄な少年の横にいる、眼鏡をかけた少年が答えた。小学生にしては、やけに尊大な口調が鼻につく。体格からすればリーダー各は真ん中の少年と思われがちだが、実は眼鏡の少年の方が、他の二人を仕切っているようだった。
「それにしても、ホント最後まで迷惑なやつだったわよね。どうせ死ぬなら、独りで勝手に死んでりゃよかったのに……なんでわざわざ、私達の学校で死ぬんだって感じ」
最後の一人は少女だった。学校帰りだというのにガムを噛みながら歩き、およそ人目を気にするという様子が見られない。自分の好きなことをやって何が悪い。そんな言葉が似合いそうな少女である。
熊田佳樹、伊沢卓也、そして飯沼理緒。夕刻の火乃澤町を歩いていたのは、あのレオを虐めていたグループの主犯格達だった。
レオが死んでしまったことで、当然のことながら彼らは虐めのターゲットを失った。結果、ストレスのはけ口も失って、最近は随分と欲求不満になっていた。同じ学校の生徒が死んだという事実でさえ、彼らにとっては自分達の玩具を失った程度のことにしか思えていなかった。
苛立ちを抑えきれない様子で、佳樹が道端に転がっている空き缶を蹴った。鋭く乾いた音を立て、蹴り上げられた空き缶は、綺麗な放物線を描きながら宙を舞う。
だが、そのまま地面に落ちるはずの空き缶は、彼らの目の前に立つ男の手に収まった。適当に蹴った空き缶を見事につかまれて、三人はしばし唖然とした表情で男を見た。
空中を回転しながら舞う空き缶を、寸分狂わぬ間合いで捕えてつかむ。確かに凄いことなのかもしれないが、それ以上に三人の目を引いたのは、他でもない男の容姿だった。
赤い夕陽を背に立つ奇妙な男。その男の顔は、白い面で覆われていてわからない。秋祭りなどで使われる、神楽に出てくるような狐の面だ。
男の着ている服もまた、どうやら神楽の衣装のようだった。およそ時代錯誤な衣に身を包み、その腰には金色の扇子も挿してある。
「なるほど……。貴様たちが、この界隈で弱者を虐める愚か者どもか……」
空き缶を投げ捨て、狐の面をつけた男が静かに言った。怒りも悲しみも、およそ全ての感情を押し殺した、低く唸るような声だった。
「な、なんだよ、お前……。俺達に、何か用かよ!?」
突如として目の前に現れた奇妙な男。その姿に、佳樹も卓也も完全に怖気づいてしまっている。それは理緒もまた同様で、普段の生意気な態度はすっかり影を潜めていた。
「我は、古来よりこの街を守りし狐の化身ぞ。貴様らのような愚か者どもが街の平和を乱すのを見かね、わざわざこうして馳せ参じたのだ……」
「へ、平和を乱すって……俺達が、お前に何かしたってのか!?」
「とぼけるな! 貴様らの所業、我が知らぬとでも思ったか! 己の快楽のために弱者を甚振り、その死にさえ悲しみの色一つ浮かべぬ外道め! 貴様らには、それ相応の報いを受けてもらおうぞ!!」
風がゴオッと吹いて、三人は思わず目元を腕で覆い隠した。その瞬間、狐の面を被った男の影がぬぅっと伸びる。影は瞬く間に三人の足元に絡みつくと、そのまましっかりと食らいついて、完全に動きを封じてしまった。
「な、なんだよ、これ! 足が……足が動かねえ!!」
「ちょっと! なにがどうなってるのよ、もう!!」
半ば金縛りに近い状態になり、佳樹と理緒が口々に叫んだ。その間にも、狐の面を被った男は三人に近づくと、そのまま音もなく後ろに回る。
「報いを受けよ、愚か者ども! 常世の闇に生きる者達の恨み、苦しみ、叫びを聞き、己の所業を後悔するがいい!!」
次の瞬間、男の声が終わると同時に、三人の首に鋭い痛みが走った。どうやら男に首筋を突かれたようで、三人はそのまま前のめりになって倒れ込む。
「痛ってぇ……。ったく、いきなり何しやがんだよ!!」
男に突かれた首筋を押さえつつ、佳樹が悪態を吐きながら立ち上がる。いつの間にか金縛りも解けていたようで、今では自由に動くことが出来た。
「おい、てめえ! どこの誰だか知らないけど、これは立派な犯罪だからな! 下校中の小学生を襲った変質者ってことで、警察にチクってやる!!」
身体の自由が戻り、俄然強気になったのだろう。先ほどまでの恐怖心はどこへやら。さっそく佳樹が狐の面の男に食ってかかる。
ところが、そんな佳樹のことなどお構いなしに、男は面の奥で不敵な笑みを浮かべていた。訝しげに思い、さらに男に詰め寄ろうとする佳樹。が、そんな彼とは反対に、卓也も理緒も、何かに怯えるようにして佳樹の後ろで震えている。
「おい、どうしたんだよ。お前ら、まだあの変な野郎にびびってんのか?」
「そ、そんなんじゃない……。お前こそ、足元にいるやつが見えないのか?」
「足元にいるやつ? なんだよ、それ?」
必要以上に怯えた様子の二人を不審に思い、佳樹も恐る恐る自分の足元に目をやった。そして、次の瞬間、彼もまたその視界に入ってきたものを見て仰天することになる。
「う、うわぁぁぁぁっ!!」
そこにいたのは、紛れもない薄汚れた一人の老婆だった。だが、ただの老婆ではない。
枯れ木のように細くなった手と、いまにも破れそうな薄汚い白装束。身体の半身は地面の中に埋まり、まるで身体が地面から生えているかのようになっている。その両手は佳樹の足をしっかりとつかみ、いまにも地の底に引きずり込まんとしているかのようだった。
「な、なんだこいつ! 離れろ! 離れろよ!!」
老婆の手を振りほどき、佳樹はなんとか卓也や理緒のいる方へと逃げ出した。しかし、それでも彼らの顔から怯えの色が消えることはない。
気がつくと、そこにはいつの間にか、大小様々な異形の者達が集まっていた。
首の無い、全身が傷だらけの男。白目を向いて、顔だけは無邪気そうにして笑っているたくさんの赤ん坊。先ほどの老婆と同じようにして、壁や大地からこちらの様子を窺っている老人達。そして、塀の向こう側や街灯の上から、こちらを恨めしそうに見つめているやせ細った人間達。
「あ……あぁぁぁぁ……」
異形の者達の何人かが、うめき声のようなものを上げて向かってきた。慌てて逃げようとする三人だが、今度は反対側からも別の異形が向かってくる。完全に逃げ場を失ってしまった彼らを見て、狐の面の男は仮面の奥で笑っていた。
「どうだ、このクソガキども。これが、この世に未練を残して死んだ者達の成れの果てだ。貴様らがこれからも弱者を甚振ることを止めないというのなら……その度に、向こう側の世界の住人達と顔合わせをすることになるだろうな」
仮面の奥から響く声が、いつしか若い男のものに代わっていた。もっとも、そんなことは今の佳樹達にはどうでもいい。
四方八方から迫る幽霊の群れに、佳樹達は完全に正気を失ってしまっていた。泣き、叫び、最後は互いに罵倒し合って我先に逃げ出そうと試みる。が、そんな彼らの抵抗も虚しく、やがて三人は無数の幽霊に囲まれたまま、最後は逃げ場を失くして豪快に気絶した。
「やれやれ……。とりあえずは、これで後始末もできたな」
狐の面を外し、その奥から髪の白い少年の顔が姿を現す。赤い瞳と白い肌が特徴的な、どこか無愛想な表情の少年、犬崎紅だ。
「おい、九条。それに、長瀬も……もう、出て来ても問題ないぞ」
神楽の衣装のまま後ろを振り向いて、紅が電柱の影に隠れている九条照瑠と長瀬浩二を呼んだ。その言葉に、今まで物陰から様子を窺っていた二人が紅の前に現れる。
「お疲れ様、犬崎君。でも、意外だったわね。あなたが虐めっ子達にお仕置きをするなんて……。それも、私の家から神楽の衣装まで借りて、妙に凝った演出までするなんてね」
「別に、大したことじゃない。ただ、やつらのような人間には、少しばかりお灸を据えてやった方がいいと思っただけだ」
「お灸か……。まあ、虐めで人を死なせておいて、あんな態度だったもんな。多少のお仕置きを食らっても、そいつは自業自得ってやつだぜ」
未だ気を失ったままの佳樹や卓也の姿を見ながら、浩二が腕を胸の前で組んだまま言った。
「でも、犬崎。お前、あのガキどもに何をしたんだ? なんか、すげえ勢いでびびってたみたいだけどさ」
「何をした、か……。まあ、しいて言えば、俺の力を条件付きで少しだけわけてやったというところだな。俺みたいに、向こう側の世界の連中を見ることのできる力。その力を、少しだけ解放してやったという方が正しいか」
「解放?」
「ああ。俺みたいにきちんと修業を積んだ人間ならまだしも、あいつらみたいな素人が中途半端に強い霊感を持ったりしたら、その辺の浮遊霊まで見境なく視界に入るようになってしまう。それを承知の上で、俺はやつらに幽霊が見えるようになる条件まで課して力を解放した。連中が、また誰か他の人間を虐めようとしたとき……再び辺りにいる幽霊が、見境なく見えるように細工をしてな」
「細工って……そんなこと、簡単にできんのかよ!?」
「そう言われると、簡単とも言い難いんだが……。まあ、誰にでも出来る芸当ってわけじゃない。他人の霊能力を付与するなんて、実際は禁術ぎりぎりの行いだからな」
淡々とした口調のまま、紅はとんでもないことをさらりと言ってのけた。
通常、霊的な存在を感知する力とは、人が生まれ持って授かった能力の一つである。人間によって力の強弱は異なるが、大なり小なり、生まれたばかりの頃は幽霊を見る力を持っている。
生後間もない赤ん坊が壁の一点を見て急に笑い出したり、小さな子どもの頃にだけ不思議な体験をしたりすることがある。それらの力は大人になるに連れて徐々に失われ、修業を積まねば制御することもできなくなってくる。
紅が佳樹や卓也、それに理緒に施したのは、そういった類の力を一時的に解放するためのものだった。本来であれば、霊能者が後継者を育成する際に用いるような術なのだが、素人相手に施せば先ほどのようなこともできる。
通常、霊能力に長けた者達は、修業を積んで霊の見える状態と見えない状態を使い分ける。しかし、何の修業も受けていない彼らにとっては、見たい霊を選択することなどできはしない。良いも悪いも関係なく、全ての霊が見えるようになってしまう。
彼らが誰かを虐めようとしたとき。そのときには、再び彼らの周りに浮遊霊の群れが現れるようになるだろう。このような脅しを楔にすることは本当の解決ではないと思ってもいたが、それでも紅は、虐めの首謀者達に一応の落とし前をつけさせることには成功した。
「ねえ、犬崎君。長瀬君の弟が言っていた≪鏡さまの儀式≫っていうの……。あれ、結局なんだったの?」
狐の面を持ったまま佇む紅に、照瑠が不思議そうな顔をして尋ねた。しかし、紅は彼女の言葉には答えずに、どこか納得のいかない表情で口をつぐんでいた。
普段であれば、こうした話には自信に満ちた口調で持論を述べるのが紅である。しかし、今回の事件に関しては、彼自身も納得のいっていないことが多かった。
「すまないな、九条。今回ばかりは、俺も全てを語るには情報が不足し過ぎているようだ。多少の偶然にも支えられて、事件そのものは解決できたが……俺自身、まだ納得のいっていないこともある」
「納得のいかないこと? でも、事件は全部、犬崎君が解決したんじゃないの?」
「残念だが、それは違うな。俺が解決したのは、あくまで長瀬に頼まれた≪弟を助けて欲しい≫という依頼だけだ。その一環として、あの紺野香帆とかいう女も助けられたに過ぎない。事件が起きた原因や儀式の正体なんかは、俺にも皆目見当がつかないな」
いつもの紅らしくない、妙に慎重な言葉だった。全てが終わったはずなのに、実際には何も終わっていない。そんなことを言いたげなようにも思われる。
そもそも、紅が長瀬晶を助けに鬼界へと入り込んだ理由。それは、級友でもある長瀬浩二からの依頼を受けたからに他ならない。同じ街の同じ場所で立て続けに、それも同じ学校の小学生が意識不明の状態で発見されたとなれば、何らかの事件性を疑わない方が嘘になる。
浩二からの依頼と、そして何よりも晶の友人達からの証言も得て、紅は今回の事件が鬼門に絡んだものではないかと推測した。鬼界の朽ち果てた神社で、紅が晶に語った現世と常世を繋ぐ門である。
鬼門。古来より鬼がやって来るとされる、丑寅の方角。今回の事件で鍵となった旧校舎の鏡もまた、その鬼門の方角に置かれていた。そこで何らかの儀式を行えば、素人でも鬼門を開くことはできるのかもしれない。
だが、仮に鬼門を開いたとしても、それで鬼がこちらの世界に溢れ出して来るわけではない。本当に力のある者が鬼門を開いて、せいぜい一匹か二匹の鬼を呼び出せる程度だ。当然のことながら、人間の魂が門をくぐり、反対に向こう側の世界に行けるはずもない。
鬼門は鬼が現世にやって来るための門。言わば、鬼界から現世にやって来るための、一方通行の出入り口である。例え鬼門を開くことに成功しても、そこから鬼の住まう世界に行くことは不可能なのだ。
通常、こちらの世界から鬼界へと向かうには、裏鬼門と呼ばれるものを利用する。鬼門とは正反対の方角に位置するもので、こちらは現世から鬼界への一方通行な通り道である。紅が黒影の力に便乗して魂の一部を鬼界へ送った際も、これの存在を利用した。
鬼門を開くための儀式としか思えない、≪鏡さまの儀式≫。だが、それを行って、逆に鬼界に魂が吸い込まれるとはどういうことなのだろう。しかも、魂の全てを吸い取られたわけではなく、その一部だけが意識を持って、向こう側の世界に行ってしまうとは。
ここから先は全て推測の域を出ない話だが、今回の事件、紅は亡くなった紺野香帆の弟、紺野レオの存在が大きいのではないかと思っていた。
この世に恨みを抱き、鬼界で鬼の一員となってしまったレオ。そんなレオの中にも、僅かばかり人の心が残っていた。自分の姉と一緒に永遠に暮らしたいという、あの感情である。
香帆の魂が鬼界に引きずり込まれてしまったのは、鬼界にいるレオが呼んだからだとすれば説明はつく。全ての魂を吸い出されなかったのは、単に儀式が不完全だったからだろう。
神社で晶から聞いた話では、≪鏡さまの儀式≫に使う鏡は本来二枚。その内の一枚しか使わなかったから、香帆は完全に鬼界に取り込まれることがなかったのかもしれない。
また、晶が鬼界に渡れたのは、今度は香帆の存在があったからだと思われた。レオが香帆を呼んだように、香帆も心のどこかで晶を呼んでいたのだ。二人の仲について紅はほとんど知らなかったが、互いに考えている以上に、彼らは信頼し合っていたのかもしれない。
(あの二人が、鬼の住む世界に渡った理由は説明できるか……。だが、それにしても、この妙な不安感はいったい何だ?)
夕刻の赤い陽を背に、紅は腕組みをしたまま考える。香帆や晶が鬼界へと渡れた理由さえ説明はついたのに、未だ肝心の部分でしこりが残っているような気がしてならない。
(そもそも、今回の事件の真の黒幕は、いったい何者だったんだろうな。あのガキどもに鏡を渡した人間がいるとすれば……そいつの目的こそが、この事件の真相に迫る鍵というわけだが……)
事件の裏には、まだ自分の知らない何者かがいる。彼らは決して善意から香帆に≪鏡さまの儀式≫の話をして、二枚の古鏡を渡したわけではないだろう。
本来であれば出口でしかない鬼門。それを逆流させるようにして、魂を鬼界に送り込む術。その上、ただの小学生でしかなかった紺野レオもまた、人の心を残しつつも、あそこまで強力な鬼に変貌していた。これらのことから考えて、今回の事件には裏で何者かが糸を引いていたと考えねば、あまりに不自然なことが多過ぎる。
現世と常世を繋ぐ≪鏡さまの儀式≫。そして、普通では考えられない使われ方をした鬼門の存在。この二つが合わさったとき、紅の脳裏を一瞬だけ恐ろしい考えがよぎった。
――――あの儀式は、本来は現世と異界の境界を破るためのものだったのでは……。
現世と異界は、当然のことながら強固な壁で隔てられている。しかし、仮にその壁を取り払うことができたならば、どうだろうか。レオと香帆が互いに呼び合う力を媒体に、その繋がりを利用して現世と鬼界を繋ぐ。それこそが、あの≪鏡さまの儀式≫の真の目的ではなかったのだろうか。
今回の事件では、儀式は不完全なものに終わってしまった。だが、仮にあの儀式が完全に成功していたらどうなっていたか。それを考えると、さすがの紅も自分の背中を冷たいものが走るのを抑えきれなかった。
鬼界に住まう鬼達が、開け放たれた鬼門を通り、こちらの世界に大挙してやってくる。下級の神に匹敵するような力を持った鬼でなくとも、それこそありとあらゆる鬼が、鬼門を通り抜けて現世に溢れ出してしまう。
もしもそのようなことになれば、さすがの紅でも手に負えなかっただろう。いや、紅だけでなく、事と次第では日本中の霊能力者をかき集めて対応しなければならないほどの、大惨事になっていたかもしれないのだ。
間違いない。この街には、意図的に闇を広める何者かが存在している。その者と出会ったとき、恐らく戦いは避けられない。闇を用いて闇を祓う赫の一族の末裔として、いつかは対峙せねばならないときが必ず来る。
「行くぞ、九条。もう、このガキどもに用はない。今日は下らないことにつき合わせて悪かったな」
神楽の衣装の格好のまま、紅はそれだけ言って一足先に照瑠の神社に向かって歩き出した。照瑠と浩二も、慌ててその後を追う。紅が今まで何を考えていたかなど、二人は知る由もない。
自ら呪いの道具を依頼者に渡し、闇を広めて行く闇の死揮者。その存在を強く意識しながら、紅は次の戦いが、そう遠くない日に起こるのではないかと考えていた。