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~ 六ノ刻   異界 ~

 晶が次に気がついたとき、そこは例の鏡の前だった。


 カビ臭い、湿った空気が鼻を突く。どうやら自分は、あのまま旧校舎の鏡の前で気を失ってしまったらしい。


「ったく……。なんだったんだよ、今の……」


 頭痛の残る頭を押さえながら、晶はゆっくりと辺りを見回して立ち上がった。自分の寝ていた床はひんやりとしていて冷たかったが、校舎の中はそれほど寒くない。ここへ侵入した際には気づかなかったが、いかに古いとはいえ建物の中。外の寒さに比べれば、幾分かマシなのかもしれなかった。


 次第に目が慣れてゆくにつれ、晶は自分と一緒に旧校舎に潜入した仲間のことを思い出した。清、直己、それに秀人。気がつけば、誰も自分の周りにはいない。目の前には自分が≪鏡さまの儀式≫に使った青い鏡さえもなく、自分の他には誰の姿も見えなかった。


「おい、藤宮! 悪ふざけしてないで、出てこいよ!!」


 仲間達が自分を脅かそうと思っているのだと考え、晶はありったけの声を振り絞って叫んだ。しかし、その声は無人の階段に虚しくこだまするだけで、誰の返事も返ってこない。


「直己! 秀人! お前ら、いるのはわかってるんだぜ! 俺を脅かそうとしたって、そんなの無駄だからな!!」


 やはり、返事がない。あれからどれだけ気を失っていたのかはわかないが、もしかすると仲間達は、晶を置いて逃げてしまったのだろうか。


「なんだよ、あいつら……。マジで俺のこと置いてったのか……?」


 だんだんと、恐怖よりも怒りの方が強くなってきた。確かに旧校舎に忍び込んで妙な儀式を試そうと言ったのは自分だが、それでも置いて行くことはないだろう。あの、合わせ鏡をしたときに見た奇妙な光りに驚いて逃げたのかもしれないが、せめて三人で校舎の外まで運んでくれればよかったのではないかと思ってしまう。


 友人に裏切られた怒りで、既に恐怖は晶の中から消えていた。多少、腑に落ちない点も残っていたが、このまま旧校舎の中で待っていても始まらない。


 やりきれない気持ちのまま、晶は一階へと続く階段を降りて行った。相変わらず、木の軋む嫌な音がする。が、初めて入ったときに比べると、そこまで怖くはない。


 そういえば、今はいったい何時くらいなのだろうか。懐中電灯なしでも校舎の中を歩き回れることからして、どうやら真夜中ではなさそうだ。しかし、真昼のように明るいわけでもなく、旧校舎の中は全体的に薄暗かった。


「やっべえなぁ……。もし、朝まで寝ちまったんだとしたら、また父ちゃんと母ちゃんに怒られちまうよ……」


 次第に現実に引き戻されてゆくにつれ、晶の頭の中に父と母の顔が浮かんで来た。


 昨晩、こっそりと家を抜け出したときには気づかれなかったが、さすがに今は大騒ぎになっているだろう。これから帰って叱られることを考えると、どうしても気が重くなって仕方ない。


「あーあ……。それにしても、旧校舎に忍び込んでまで収穫ゼロかよ。なんか、マジでやってらんねぇ……」


 紺野香帆が意識不明になった原因を突き止めたい。その原因が香帆の話していた≪鏡さまの儀式≫にあると考えて、自分は旧校舎の大鏡の前に立ったはずだ。そこで香帆の話していた通りに儀式を行えば、香帆がおかしくなった原因を突き止められるのではないかと信じて。


 だが、蓋を開けてみれば、結局は何の証拠も突き止めることができなかった。儀式を行った際、確かに妙な光りに包まれたものの、それ以外は至って何も起きてはいない。旧校舎の中で幽霊や妖怪の類に合うこともなかったし、香帆の話にあった≪鏡さま≫が現れることもなかった。


 唯一の奇妙な出来事と言えば、あの鏡から発せられた奇妙な光りである。もっとも、単に光が自分を包んだだけでは、それが≪鏡さま≫が存在する証拠になどなりはしなかった。


 香帆が意識を失ったことについても、あの光との関係は未だに不明だ。もし、あれのせいで香帆がおかしくなったのであれば、晶自身もおかしくなっているはずである。しかし、現に自分はこうやって、怪我一つせずに旧校舎の中を歩き回っている。


 所詮は下らない学校の怪談話。まともに信じた自分の方が馬鹿だった。そんな失意の念を抱いて、晶が一階の廊下に足を踏み出したときだった。


「おわっ!!」


 バキッ、という音がして、晶の足が廊下の床板を踏み抜いた。幸い、そこまで深くは踏み抜かなかったものの、それでも脛の一部を擦り剥いて、晶は思わず叫び声を上げながら足を押さえた。


「痛ってぇ……。この床、腐ってやがったのか……」


 足にまとわりついている木屑を払いながら、晶は怪我の様子を確かめた。多少、ひっかいたような痕が残ってはいるが、そこまで酷い怪我ではない。この程度なら、唾でもつけておけばすぐに直るだろう。


 自分の開けた穴に足を取られないよう気をつけながら、晶は床の様子を改めて確認しつつ進んで行った。夜中に潜入したときには気づかなかったが、どうやら旧校舎は想像以上に朽ち果てていたらしい。大鏡の前まで行く際に、誰も怪我をしなかったのが奇跡のように思えてくる。


 一階の廊下に続く角を曲がり、晶はふと壁にかかっている生徒の制作物に目をやった。自分の記憶が正しければ、昨晩、ここに侵入した際に驚かされた仮面の群れがあるはずだ。かつて旧校舎が使われていた際に図工の先生が作らせたであろう、過去の生徒たちの置き土産である。


 晶が壁の方を見ると、果たしてそこには紙でできた仮面が群れを成して貼り付けられていた。その数、およそ十数個。今になって見ると大して恐ろしくも感じないが、夜中に見た時には本当に驚かされた。これらの仮面を先生が生徒達に持って帰らせなかったことは、晶の中でも未だに謎である。


「ったく、相変わらず不気味な仮面だよな。こんなもん作らせるなんて、昔の図工の先生、実はゲテモノ好きだったんじゃねえのかな?」


 本人が目の前にいないのをいいことに、晶は好き放題に自分の思ったことをまくし立てた。本当ならば、この後は清や直己と一緒に当時の先生に対する悪口の一つでも言うのがお約束である。


「それにしても、本当にボロイ仮面だな。旧校舎を使えなくしたときに、なんで捨てなかったんだろ……」


 今は、周りに話せる友人もいない。仕方なく、晶は独り言のように呟いて、黄ばんだ仮面の群れを改めて眺めた。


 ところが、そこまで口にしたとき、晶は自分の中で何かが引っ掛かっていることに気がついた。自分の目の前に広がる仮面の群れ。今ではさして恐怖も感じない古びた工作の成れの果てに、どこか恐怖とは違った違和感を覚えてしまったのだ。


(なんだ、これ……。なんか、初めて見たときとは、ちょっと違っているような……)


 夜と今とで、仮面の様子がどう違うのか。それを聞かれると、晶も返答に詰まってしまう。ただ、仮面の様子がどこか違っているのは確かであり、それが晶の中で、妙なしこりとなって燻っている。


 いや、実を言うと、仮面だけではない。先ほどから旧校舎全体に溢れる空気。そして、旧校舎の建物自体もまた、夜中に忍び込んだときとはどこか異なっていた。


 あの時の空気には暗闇に飲み込まれるのではないかという底知れぬ恐怖があったが、今の空気にはそれはない。代わりにあるのは、どこか生気を感じさせない、無機的で冷たい感じだった。


 昨日の旧校舎の様子をお化け屋敷に例えるならば、今の旧校舎に溢れているのは墓場に漂うそれと同じだ。石造りの墓標が放つ冷たい感じと、人の住まう世界とは異なる死者の空気。それらが入り混じったような、独特の不気味さを持っていた。


(なんだかわかんねえけど、気味悪いな。鏡さまについても何もわからなかったし……とりあえず、今日は早く帰った方がよさそうだな……)


 自分の感じていた空気が墓場のそれと同じだとわかったとき、晶の中に再び恐怖が蘇ってきた。しかも、今は頼りになる友人達も側にはいない。そんな心細さも相俟って、晶は早足に廊下を離れた。


 侵入の際に使った窓は、東階段とは逆の西側の教室だ。床板の腐った部分を踏まないように注意しながら教室に駆け込むと、晶は目の前の窓から躊躇うことなく外に飛び出した。


「ふぅ……。ここまで来れば、なんとか脱出成功ってやつかな……」


 誰もいないのに、ついそんなことを口走ってしまう。怖さを隠すために、晶はいつもよりも口数が多くなっていた。


 旧校舎の外に出て空を見上げると、そこは血のように赤い色で染められていた。目を覚ましたときは明け方だとばかり思っていたが、実はもう夕方だったのか。だとすれば、一刻も早く家に戻らなければ、それこそ大変なことになる。


 朽ち果てた旧校舎を背に、晶は校庭に抜けるようにして走り出した。一度、現実に引き戻されてしまうと、旧校舎の中で感じていた恐怖感がみるみる抜けて行く。それよりも、今は家に帰った際に、父と母から激しく叱られることの方が心配だった。


 昨晩、学校に忍び込んだ時とは反対の道を辿り、晶は校庭へと抜け出した。ここまで来れば、もう大丈夫だろう。様々な不安から一度に解放されたような気がして、晶はほっとした様子で目の前の校舎に目をやった。


「あっ……!!」


 次の瞬間、校舎を見た晶の顔色が一瞬にして変わった。今しがた浮かべていた安堵の表情は既になく、そこには再び恐怖の色が表れている。


 それは、あの旧校舎で抱いていたものとは別の恐怖だった。暗闇の中、怪談話に登場する怪物に狙われるというような恐怖ではない。自分の理解の範疇を越えた現実を見せ付けられ、身体が動かないと言った方が正しかった。


「が……学校が……」


 それ以上は、何も言葉にできなかった。


 今、晶の目の前に広がっている光景。それは、ぼろぼろに朽ち果てたコンクリートの校舎と、荒れ放題に荒れ果てた校庭の姿である。まるで何カ月も人が立ち入っていないかのように、外壁はひび割れ、校庭もあちこちから草が生えている。


 よくよく見ると、校庭にある鉄棒やサッカーゴールも赤錆にまみれて朽ち果てていた。プールとの境目である緑色のフェンスもまた錆びついて、風が吹く度にガタガタと嫌な音を立てている。


「な、なんだよ、これ……。いったい、なにがどうなってんだよ!!」


 答える者などいないとわかっていても、叫ばずにはいられなかった。


 自分の目の前に広がる現実。これはいったい何なのか。赤く染まった空を背景に立つコンクリートの廃墟は、昨日まで自分が学び舎としていた校舎とは似ても似つかないものだ。しかし、その壁に備え付けられた校章は、確かに自分良く知る火乃澤第二小学校のもの。酷く朽ち果てているものの、鉄棒や砂場の場所も自分の知っている学校のものと変わりない。


 たった半日、少なくとも自分では、そこまで長くは気を失っていなかったと思っている晶にとって、自分の目の前にある校舎の姿は到底理解できるものではなかった。コンクリートで造られた校舎がここまでボロボロになるのにどれほどの月日が必要なのかはわからないが、少なくとも、数十年単位で手入れがされていない可能性がある。


「俺……どうなっちまったんだよ……。ここ、本当に俺の学校なのかよ……」


 いったい、自分はいつの間に、浦島太郎になってしまったのだろうか。それとも、これは何かの間違いで、目の前の学校は自分の知る学校とは別のものなのか。


 このまま考えていても仕方がない。そう思った晶は、まずはとにかく家へ戻ることにした。学校がぼろぼろに朽ち果ててしまった理由はわからなかったが、それでも家に帰ることができればとりあえずは安心だ。この狂った現実からも、きっと抜け出せるに違いない。


 だが、そう考えて校門をくぐった晶が見たものは、学校を見たとき以上に信じ難い現実だった。


「マ、マジかよ……」


 校門を出たところに広がる見慣れた火乃澤町の街並み。その全てが、先ほどの学校と同じように酷く朽ち果てていた。街に人の気配はなく、不気味な静寂だけが辺りを覆っている。電気も通っていないようで、支柱の折れ曲がった信号機が光を失って虚しく風に吹かれていた。


 老朽化した校舎。見るも無残に朽ち果てた街並み。それを目にしたとき、晶の中で旧校舎にいた際に抱いていた違和感の正体が明らかになった。


 踏めば穴が開くほどに痛んでいた旧校舎の廊下。そして、潜入したときよりも薄汚れて見えた紙の仮面。それら全てが、学校や街と同じように朽ち果てていたのだ。大鏡の前で目を覚ましたあのときから、自分はこの奇妙な世界に放り込まれてしまったということだろう。


 ここは、自分のいた世界ではない。いや、自分のいた世界なのかもしれないが、酷く時間の過ぎ去った世界なのかもしれない。そう考えると、もう駄目だった。


「あ……あぁ……」


 晶の口から言葉にならない嗚咽のような声が漏れ、その頬を涙が伝わった。自分が独りだけ奇妙な世界に取り残されてしまったことで、晶の心は急速に孤独に押しつぶされようとしていた。


 泣いていても、誰も助けになど来てはくれない。誰かに頼りたくとも、ここには自分の他に誰もいない。学校も、街も、その全てが不気味なまでに静まり返り、およそ人の生活しているような空気が感じられない。


 孤独がこれほど恐ろしいとは、晶は思ってもみなかった。いつも自分の周りにいた悪友や、時に喧嘩することもあれ、頼りになる兄の存在が、今になって懐かしく思える。


(藤宮……。兄ちゃん……。誰でもいいから、俺を助けてくれよ……。元の世界に戻してくれよ……)


 心の中で叫びながら、晶はその場に膝をついて崩れ落ちた。もう、これ以上は耐えられない。一度心が破れてしまうと、後はひたすら感情に任せて泣くしかなかった。


 無人の街に、晶の泣く声だけが響き渡る。しかし、どれほど泣こうと、叫ぼうと、一向に誰も助けに来る気配がない。


 どれくらい、そうしていたのだろうか。


 やがて泣き疲れてしまった晶は、ふらふらと立ち上がって目の前に広がる大通りを見た。酷く荒れ果ててはいるものの、それを除けば自分の良く知る街並みである。


「そうだ……帰らなきゃ……。俺……家に、帰らなくちゃな……」


 自分に言い聞かせるようにして呟きながら、晶は赤く腫れた目を擦って歩き出した。乾いた音を立てて、廃墟のような街を風が通り抜ける。


 この状況で家に帰っても、どうにかなるとは限らない。いや、それ以前に、果たして自分の家がきちんと残っているかどうかさえ不明だ。


 だが、それでも今の晶には、とりあえず家に帰るという選択肢の他に思いつくことがなかった。ここで泣いていても、誰かが助けに来てくれるわけではない。それならば、まずは家に帰ろうと考えたからだ。


 今の自分自身を覆う狂った現実。それから逃げるようにして、晶は崩壊した街の中へと静かに足を踏み入れた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 荒れ果てた街の中には、相変わらず人の気配というものがまったくしなかった。時折、道端を通り抜ける風が錆びついた道路標識を揺らす他には、野良猫一匹見当たらない。


 始めはひとりぼっちの恐怖に怯えていた晶だったが、街の中を歩いているうちに、驚くほど冷静になってきていた。不安は消えこそしなかったものの、自暴自棄になって泣きだそうとは思わない。自分自身、この街に漂っている空気に飲み込まれ、いつの間にか異常なことが常態になってしまったのかもしれなかった。


「それにしても、なんでどの家も、こんなにボロボロなんだ? まるで、何十年も人が住んでいないみたいだぜ……」


 この街は死んでいる。小学生の晶でさえも、直感的にそう思わせる何かがあった。街にある建物は、民家もビルも関係なく全てが廃墟と化している。商店街も例外ではなく、完全にゴーストタウンと呼ぶにふさわしい姿になっていた。


 だが、しばらく歩くと、晶は妙なことに気がついた。確かに、どの建物も酷く傷んではいるものの、その痛み方に違いがあるのだ。今にも崩れ落ちそうなほど傷んだ家もあれば、単に薄汚れているだけの家もある。人気がないのは同じだが、その違いは晶の目から見てもはっきりしていた。


 朽ち果てた廃墟のような家と、単に薄汚れた無人の家。この違いは、いったい何なのか。しばらく足を止めて考えてみたところで、一つの答えがすぐに晶の中で閃いた。


(そういえば……あそこの家、俺が小三のときに建て直されたばっかりのやつだ!!)


 未だ自分の記憶にも新しい改築工事の記憶。赤の他人の家ではなく、クラスメイトの家だったから忘れるはずもない。


 更によく街を眺めて見ると、どうやら廃墟と化している家は、どれも晶が生まれたときから街にあったような家ばかりだった。逆に、晶が物心ついた後に改築を行ったり、新しく建てられたりした家は傷みが激しくない。


 新しい家だから、傷んでいないのも当然だろう。そう言われれば返す言葉もないのだが、それにしても不思議である。


 例え新しい家だからと言っても、古い家の傷み方を見る限り、かなりの年月を放置されてきたはずだ。それならば、古いも新しいも関係なく、どれも廃墟のようになっているはずではないのか。晶は決して頭のよい方ではなかったが、その程度のことくらいは想像することができる。


 やはり、この街は何かがおかしい。初めて旧校舎の外に出たときは、自分が浦島太郎にでもなってしまったのかと思った。しかし、どうやらそれは間違いで、SF漫画などの世界によくあるタイムスリップをしたのではないようだった。


 それでは、自分の目の前にある街はいったい何なのだろう。答えが未だわからずに、晶は少しばかり苛立った表情で再び歩き出した。


(ったく……。タイムスリップじゃないんなら、この街はなんなんだよ。もしかして、≪鏡さまの儀式≫をやったせいで、街がこんなになったんじゃないだろうな……)


 考えられることは、それしかなかった。あの、儀式を行ったときに晶を包んだ不気味な光。そのくらいしか、今の状況を引き起こしたものの原因が思いつかない。


 だが、自分が儀式を行った結果、奇妙な街に迷い込むことになったのだとしたら、香帆に起きたことはどう説明すればいいのだろう。香帆は意識不明になったとのことだったが、自分はこうして歩いたり考えたりできる。今のところ、身体にもこれといった変化はない。


 何もかも、わからないことだらけだ。とにかく今は、少しでもこの街から逃れる方法を探さなければならない。そして、できることなら自分の手で、元の世界に戻らねばならない。


 次に何をすればいいかもわからないまま、とにかく晶は家路を急いで街を歩いた。人のいない商店街を抜け、公園の横を通り過ぎ、いつもの坂を登って角を曲がる。普段から通り慣れた通学路だったが、今日に限ってはいつもと様子が違い過ぎ、気がつくと警戒しながら歩いている自分がいる。


(なんか、まるでホラーゲームに出てきた街みたいだな……。その辺から、今にゾンビでも飛び出すんじゃねえか?)


 あまりに静かな街の様子に、思わず晶が不安になったときだった。


 角を曲がった晶の目の前を、一人の女性が歩いていた。後ろ姿で、しかも距離が離れているために、年齢はわからない。だが、少なくとも人間であることは確かのようで、二本の足はしっかりと地についていた。


「やった! 人がいた!!」


 自分の他にも人間がいた。その事実が、晶の頭から急速に恐怖心を取り去っていった。どこの誰からは知らないが、それでも人間がいるなら一安心だ。もしかすると、この奇妙な街から抜け出すための方法が見つかるかもしれない。


 目の前に女性に追いつかんと、晶は我を忘れて走り出した。もとより、俊足が自慢の晶のこと。女性との距離はかなり離れていたが、すぐに後ろに追いついた。


「あ、あの……!!」


 肩で息をしながらも、晶は女性に後ろから声をかけた。近くで見ると、腰まで伸びた髪は思ったより不揃いだった。お洒落の一つとしてあえて不揃いにしているのではなく、どちらかといえば不潔な印象が強かった。


 何か妙なものを感じながらも、晶は女性の顔を覗きこもうと更に前に出る。だが、次の瞬間、晶は自分の目の前にいる者の正体を知り、思わず悲鳴を上げて飛び上がった。


「う、うわぁっ!!」


 そこにいたのは、確かに一人の女性だった。だが、それは人間の女性ではない。


 赤く充血した細く鋭い眼。伸び放題の爪と髪に、くすんだ鉄のような色をした肌。服は死人の着るような白装束で、口からは鋭い牙が飛び出している。おまけに額からは小さな二本の角が迫り出して、それが前髪の間から顔を覗かせていた。


(な、なんだよ、これ! これじゃあ、まるで……)


 晶の頭の中で、目の前の女性の姿と昔話に登場する妖怪の姿が重なった。


 自分の目の前にいるのは人間ではない。街と一緒で、この女の人も普通の者ではない。そう、まさに鬼と呼ぶにふさわしい、見るからに恐ろしい姿をしている。


「あ、あぅぅあぁぁぁっ!!」


 鬼が、突然咆えて両手を大きく掲げた。最初はどこか遠くを見ているようだった目つきが、今では晶にもはっきりとわかるほどの怒りに染められている。


 このままではまずい。このままでは危険だ。そう思ったが早いか、晶は一目散に目の前の鬼女から逃げ出した。頭は混乱していたが、それでも晶はクラスでも随一の俊足だ。本気で逃げれば、大人相手にだって逃げ切る自信がある。


 ところが、晶の後ろから迫る足音は、一向に遠くなる気配がない。そればかりか、徐々に近くなってきているのは気のせいか。思わず不安になり、後ろを振り向く晶。そして、そこにいた者の姿を見たとき、晶は再び悲鳴を上げた。


「げっ!!」


 鬼が、すぐ目の前まで迫っていた。晶は決して手を抜いて走っていたわけではなかったが、鬼もまた晶と同じかそれ以上の速さで彼を追いかけて来たのだ。


 このままでは捕まる。そう、晶が思ったとき、目の前に見慣れた家が見えた。かなり古く、扉も錆びついているようだったが、忘れようはずもない。なにを隠そう、あれは晶自身の家に他ならなかったのだから。


 朽ち果て、錆びついた扉が開くのかどうかなど、考えている暇もなかった。


 晶は躊躇うことなく扉に手をかけると、そのまま転がりこむようにして家の中へと逃げ込んだ。幸い、扉そのものは壊れていなかったようで、間一髪のところで鬼から逃げることに成功した。


 玄関に飛び込むなり、晶はドアの鍵をしっかりと閉めて封印した。今にも壊れそうなほどに扉が傷んでいたため、念には念を入れてチェーンロックも施した。


 扉の向こう側で、ガタガタと戸を揺する音がする。きっと、先ほどの鬼が外で暴れているのだ。


 自分の家とはいえ、そこは埃の積もった廃墟も同然だった。当然、いつ扉が破られて鬼が部屋の中に入って来ないとも限らない。


 このまま玄関にとどまるのは、あまりにも危険だった。晶は土足のまま家に上がると、傷んだフローリングの床を踏み抜かないように気をつけつつ、リビングを抜けて台所に向かった。


 台所は、これまた酷く荒れていた。埃の積もった流し台。錆びついて水さえも通っているのかわからない水道の蛇口。とてもではないが、調理ができるような状態ではない。


 流し台の下にある小さな戸を開けて、晶はその中から役に立ちそうなものはないかと探してみた。とりあえず、あの鬼から逃げるための道具が必要だ。何か武器になりそうなものがあれば、持っているに越したことはない。


 小学生の晶の頭では、思いつくのは包丁や工具くらいのものだった。果たして、そんなものが鬼に通用するのかさえわからなかったが、とにかく今は気休めでも自分の不安を払拭するものが欲しかった。


 流し台の下は、ここもやはりというか、酷く汚れていた。使われなくなって相当経つらしく、見つかった包丁は赤錆だらけ。鍋も薬缶も同じように錆びついているか、それでなくとも塗装が剥げて使い物にならない状態だった。


「くそっ! ろくなもんがねえ!!」


 錆びた包丁や古びた鍋を放り出し、晶は悪態を吐いて二階への階段を登った。気がつくと、既に外で鬼が暴れている音がしなくなっている。扉が思いの他に頑丈だったため、諦めてどこかへ行ったのだろうか。


 まあ、今は考えていても仕方がない。とりあえず、今度は自分の部屋で何か使えるものがないか探してみることにする。


 階段に足を乗せると、その度にぎしぎしという嫌な音がした。どうやらかなり傷んでいるらしく、下手に駈け上がったりすれば踏み抜いてしまいそうだ。自分の家だというのに、まるでお化け屋敷の中を歩いているように思えてきてしまう。


 いつもは駆け足で上がってしまう階段が、今の晶には酷く脆いものに映って見えた。別に、誰に聞かれてまずいというわけではないというのに、自然に忍び足になっていた。


「やっぱ、家の中にも誰もいないみたいだな……。父さんも母さんも、それに兄ちゃんも……みんな、どこ行っちまったんだろう」


 家の中は外と同じく、不気味な静寂に支配されている。自分の部屋へ続く扉を開けてみると、そこには古びた家具と机が置いてあるだけだった。


 部屋に入るなり、つんとしたカビ臭い空気が鼻をついた。まるで、建てられてから一度も換気がなされていないかと思わせるくらい、部屋の中に空気がこもっている。


「うぇぇ、気持ち悪ぃ……。でも、こんなんでも、一応は俺の部屋なんだよな」


 部屋の中にたまった淀んだ空気を吸い込んで、晶は腹の奥から吐き気が込み上げてくるのを感じた。このまま部屋にいては、今に胃の中にある物を全てぶちまけてしまう。不本意だが、ここは一階に戻るしかない。そう、考えたときだった。



――――ガチャン!!



 突然、ガラスの割れる激しい音が晶の耳に響いた。一階からではない。音は、晶のいる二階から聞こえてきた。


 二階には、自分の部屋の他に兄の部屋もある。すると、今の音は兄の部屋から聞こえてきたものなのだろうか。


 自分の部屋とは反対側にある扉に手をかけて、晶はそれをそっと開けてみた。ろくに手入れもされていない金具が軋み、ぎぃぃ、という嫌な音を立てる。


 兄の部屋は、これまた晶の部屋と同じように荒れ果てていた。一応、見慣れたベッドや本棚などがあるものの、どれも酷く汚れきっている。漫画本や学校の参考書などはあったものの、その表紙もまた黄ばんで薄汚れていた。


 だが、それにも増して晶が驚いたのは、兄の部屋の窓ガラスが割れていることだった。割れたガラスの向こうからは、外の空気が風となって入り込んできている。冬の、冷たく肌を刺すような風ではなく、薄気味悪く生温かい異様な風だ。


 先ほどの音は、この窓ガラスが割れたときの音だったのだろう。では、このガラスを割ったのはいったい誰か。その答えも、晶はすぐに知ることとなった。


「う、うわっ!!」


 突然、割れたガラスを失った窓枠に、二つの手が現れてそれをつかんだ。未だガラスが残っているにも関わらず、その灰色の手の主は何事もなかったかのようにして、身体を部屋に滑り込ませてくる。


 腰まで伸びた、黒く縮れた髪。鉄の様な色をした肌に、煌々と光る赤い二つの目。伸び放題に伸びた爪は獣を連想させ、頭には二本の鋭い角が生えている。窓ガラスを割って部屋に入って来たのは、先ほど晶を追っていた鬼に他ならなかったのだ。


「で、でたぁ!!」


 抗おうなどという気は起こらなかった。台所や自分の部屋で、武器になるものを探そうなどとは考えなかった。もしも、自分の手に何か武器になるものがあったとしても、それで戦って勝てるような保証はどこにもない。


 階段が抜け落ちんばかりの音を立て、晶は転がるように階下の部屋へと逃げ込んだ。後ろからは、ずるずると何かをひきずるような音が聞こえてくる。きっと、あの鬼女が、こちらを追って来ているのだ。


 台所を抜け、再びリビングに出たところで、晶は床に足を滑らせて大の字に転がった。埃の積もった床は思いの他に滑りやすく、慌てていたので簡単に足を取られてしまった。


「痛ってぇ……」


 転んだとき、背中を強く打ったのだろう。背骨から痛みが全身に広がって、呼吸をするのも苦しかった。


 このままでは、鬼女につかまって殺されてしまう。そう思って上を見ると、そこには今の晶が最も見たくない者の姿が迫っていた。


「あっ……」


 それ以上は、恐怖にすくんで何も言えなかった。鬼の顔が、こちらの目と鼻の先にある。憎しみに満ちた険しい瞳で晶のことを睨みつけながら、鬼女は爪の伸びた手をゆっくりと晶の首にかけた。


 爪が喉に食い込み、意識がどんどん遠くなってゆく。不思議と痛みはなかったが、この苦しさは別格だ。全身の感覚が奪われて、徐々に自分が自分でなくなってゆく。このまま意識と共に、存在さえもが消えてしまうのではないか。そう思わせるほどに、鬼女の力は強かった。


 自分はこのまま、目の前にいる鬼女に殺されてしまうのか。得体の知れない世界に迷い込んだまま、誰に知られることもなく、消えてしまうのか。


 本当は怖くてたまらない。それなのに、なぜか身体が動かない。声も出せず、暴れることもできず、その間にも晶の首を絞める手の力はどんどん強くなってゆく。


 もう、これでおしまいか。思わず諦めにも似た気持ちが晶の中で広がったときだった。


 突然、物凄い物音と共に、一陣の黒い影が部屋の中に転がりこんで来た。その影は瞬く間に鬼を跳ね飛ばし、更には上にのしかかって抑え込む。鬼女も暴れているようだったが、力の差は晶から見ても歴然だった。


「な、なんだ……あれ……」


 鬼女に絞められた首筋をさすりながら、晶は呼吸を整えつつ身体を起こす。よくよく見ると、部屋の中に入ってきた黒い塊は、巨大な犬のような姿をしていた。いや、犬というよりは、あれは狼とでも言った方が正しいのだろうか。


 虎ほどの大きさの身体に、金色に光る二つの瞳。身体は黒く、流動的な何かでできており、晶が今までに見たことのある獣とは大きく異なっていた。


「おい、大丈夫か?」


 鬼女と犬の戦いに見惚れていた晶の後ろから、いきなり声がした。声のする方へ顔を向けると、そこにいたのは一人の少年だった。


 少年の年齢は、その背丈からして晶と同じくらいだろうか。しかし、ただの少年ではない。その瞳は血のように赤く、髪は白髪と言える程に色が薄く抜けている。肌の色も同じように白く、黒く古めかしい衣服に身を包んでいた。


「な、なんだよ、お前……。あれ、いったいなんなんだよ」


 少年の姿にどこか見覚えのある感じを抱きつつも、晶はそう尋ねるのが精一杯だった。ところが、そんな晶のことなどお構いなしに、少年はやけにぶっきらぼうな口調で晶の手を取り立ち上がらせる。


「とりあえず、話は後だ。今は一刻も早く、安全な場所に逃げ込むのが先だ。違うか?」


「そ、そりゃそうだけどさ……。ってか、お前いったい誰なんだよ!?」


「説明は後だと言ったはずだ。死にたくなければ、必死で俺についてこい」


 晶の質問には答えず、少年は未だ鬼女と戦っている獣の方を見た。そして、手招きするような動作をしつつ、獣を自分の方へと呼び寄せる。


「もう止めろ、黒影。とりあえず、動けなくしておけば問題ないぞ」


 少年の言葉に、今まで鬼女を押さえ込んでいた獣がゆっくりと顔を上げる。改めて見ると、実に恐ろしい顔をしていると晶は思った。以前、雪道で追いかけて来た野良犬などの比ではない。それこそ、狼をさらに一回り凶悪にしたような、見ているだけで震え上がりそうな顔だった。


 鬼女が動かなくなったのを確かめて、獣は少年の側へ静かに歩いてきた。あんな大きな獣が一緒で、あの少年はなぜ怖いと思わないのだろう。


「あの様子なら、しばらくは動けないか……。上出来だ、黒影」


 相変わらずぶっきらぼうな口調で、少年が隣に立っている獣に言った。少年にはまだまだ聞きたいことがあったが、晶はあえてそれを尋ねるのを止めた。


 とりあえず、目の前の少年は自分を助けてくれたのだ。少年の正体など、まだ気になることはあったものの、今は少しでも頼りになる人間の側にいたいという気持ちが強かった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 それから先は、どこをどう歩いたのかわからなかった。少年に言われるまま、晶は廃墟と化した街の中をひたすらに歩き続けた。自分と同じ歳くらいなのに、少年の足はやけに速い。そのため、何度も置いて行かれそうになったものの、その度に自慢の俊足を生かしてなんとか追いついた。


 今、少年と晶は古びた神社の境内にいた。正確に言えば、その境内の中にある朽ち果てた社の中だ。


 社は学校の旧校舎や晶の家よりも古く、どこも朽ち果てて酷い有様だった。手入れの行き届いていない床は腐り、壁もまたあちこちに穴が開いている。室内だというのに、隙間風がそこら中から入り込んで妙に肌寒い。


「さて……。とりあえず、なにから話したものかな……」


 社の棚の奥から持って来たのだろうか。少年が火のついた蝋燭を燭台に乗せて、晶の前に現れた。


「なにからって……そんなの、俺にだってわからないぜ。こっちはまだ、お前の名前だって聞いてないってのにさ」


「名前、か……。そんなものを言わなくても、お前は以前に俺に会っているはずだぞ。そう、昔のことではなかったと思ったが……まだ気づかないか?」


「気づかないって……何をだよ?」


 当然のことながら、目の前の少年に晶は見覚えがない。こんな目立つ容姿の人間ならば、一度会えば忘れないはずだ。しかし、彼の姿は学校の友人の中にはおろか、晶の知っている知人の中にもいなかった。


「以前、お前達が犬に襲われていたことがあっただろう? あの時、お前を助けてやったのが俺だ。そう言えば、少しは思い出すか?」


 少年が、少々苛立った口調で晶に言った。それを聞いた瞬間、晶の中で忘れていた記憶がみるみる蘇って来る。


 あの日、清や直己、それに秀人達と一緒に≪スカートめくり千人切り≫の話をしていたとき、蹴り上げた氷の塊が野良犬にぶつかって、晶達は早朝から街の中を逃げ回ることになった。その際、転んで犬に襲われそうになった秀人を助けてくれたのが、他でもない目の前の少年と同じ容姿をした高校生だった。


「も、もしかして……お前、あの時の兄ちゃんなのか!?」


「ああ、そうだ。もっとも、今はこんな姿だがな。向こう側の世界・・・・・・・に送り込めるのは魂の切れ端みたいなものだから、ガキの頃の姿を保つだけが限界だ」


「な、なんだよ、それ……。向こう側の世界・・・・・・・に魂の切れ端って……俺にもわかるように説明しろよ!!」


「言われなくてもそのつもりだ。だが、その前に、お前がどうやってここに来たのか……それを教えてもらおうか」


 ややもすると高圧的に思われる態度で、少年が晶に向かって尋ねてくる。一瞬、その態度が気に食わないと思った晶だったが、ここで喧嘩を始めるほど馬鹿ではなかった。今の晶にとって、目の前の少年の存在は、この奇妙な街から抜け出す最後の頼みの綱だからだ。


 それから晶は、少年に今までのことを洗いざらい話して聞かせた。それこそ、香帆やレオに何があったかということや、≪鏡さまの儀式≫に関することまで全てだ。中には話しづらいことも含まれていたが、この状況ではどうしようもなかった。


「なるほどな……。それで、お前はその紺野とかいう女から鏡をもらって、儀式を試したというわけか……」


「ああ、そうだぜ。でも、別に香帆の言ってた鏡さまなんて出てこなかったし、気がついたらこんな変な世界にいる。俺、もう何がなんだかわかんねえよ」


「心配するな。だいたいのことは、今のお前の話から理解した」


 少年がにやりと笑う。何かを確信したような、含みのある笑みだ。


「とりあえず、俺からは何を話せばいい? この世界のことか……それとも、お前自身のことか……」


「なんだっていい。どっちにしろ、俺には何もわかんないからな。そっちの好きなやつから話してくれよ」


「ならば、まずはこの世界について話をしよう。お前……死後の世界については、どれだけ知っている?」


「死後の世界? なんで急に、そんな話になるんだよ!?」


 いきなり妙なことを聞かれ、晶はわけのわからないという顔をして少年に聞き返した。


 少年の口から出た死後の世界。晶も本気で信じているわけではなかったが、少なくとも死んだら天国や地獄に行くという話くらいは聞いたことがある。ただ、晶の知識はあくまでその程度のもので、天国や地獄の詳しい話にはまるで疎かった。


「恐らく、お前が知っているのは、仏教やキリスト教の死生観くらいだろうな。善人は天国に行き、悪人は地獄に堕ちる。そんな話ならば、聞いたことくらいはあるだろう?」


「あ、ああ……。でも、それが何の関係があるってんだ?」


「関係は大ありだ。なぜなら……ここは既に、死後の世界。常世の住人達が住まう、向こう側の世界・・・・・・・なんだからな」


 蝋燭の火が、風に吹かれて静かに揺れた。炎の向こう側で、少年の顔がオレンジ色に染まっている。


「死後の世界って……。それじゃあ、俺はもう、とっくの昔に死んじまったってことか!?」


「いや、そうではないな。だが、放っておけば、いずれは元の世界に戻れなくなる。そうなる前に、お前の魂をあるべき場所に戻さねばならない。今のお前も俺も、魂だけの存在みたいなものだからな」


「魂だけの存在? でも、俺はこの通り、普通に動いたり喋ったりできるぜ。幽霊みたいに、壁をすり抜けられるわけでもねえしさ」


「それは当然だ。さっきも言ったが、ここは現世の人間が入ることのできない死後の世界だ。現世では実態を持たない魂でも、この世界では立派な肉体も同然なんだ。だから、動く分には生きていたときと何ら変わらない行動ができる。こうして喋ったり、走ったり……やろうと思えば、飯を食うことだって普通にできるからな」


「へ、へえ……そうなのか……。でも、だったらなんで、俺はこんなところに来ちまったんだ? それに、兄ちゃんはどうやって、こっちの世界にやって来たのさ?」


 ここは、既に死んだ者たちの住まう世界である。少年の口から語られた事実は晶を驚かせるに十分なものだったが、それでも晶には、まだまだ聞きたいことが山ほどあった。


 少年は、晶がまだ死んだわけではないと言っていた。では、自分はどうして死後の世界に来てしまったのか。それに、少年はどうやって死後の世界に入り込み、しかも小学生くらいの姿になっているのか。


 晶の疑問は尽きなかったが、少年は至って冷静なまま再び口を開いた。その口調は、先ほどからどうにも大人びているように思えて仕方がない。


 外見と実際の年齢が違うのだから、当然と言えば当然である。だが、それでも晶は少年が、本当は自分よりも二回りほど大きな大人の男ではないかと考えていた。


「まず、お前がどうやってここに来たか……。憶測だが、それを教えてやろう。もっとも、お前も薄々は感づいていることだと思うがな」


「俺が感づいている? ま、まさか……」


「その、まさかだ。お前がここに来る前にやった、≪鏡さまの儀式≫。あれは恐らく、鬼門きもんを開くための儀式だろう」


「キモン? な、なんだよ、それ?」


「昔から、鬼がやってくるとされて忌み嫌われていた方角のことさ。その名の通り、鬼の門と書いて鬼門と読む。だが、これは単なる迷信なんかじゃない」


 少年の赤い瞳が蝋燭の向こう側で光った。血のように赤い瞳で見つめられると、それだけで否応なしに緊張が走る。少年にとっては普通のことなのかもしれないが、今から聞かされる話は、晶にとっては未知の世界のものだ。


「鬼門は単なる凶方位ではなく、本当に鬼の出入りするための門だったのさ。丑寅の……今でいう、午前二時から三時の間に特定の手順を踏みさえすれば、鬼門を開いて鬼を現世に呼び出すことができる」


「鬼を現世にって……まるで、ゲームの召喚魔法みたいだ」


「そういう考え方で構わないだろうな。お前の学校の旧校舎にある鏡。あれはまさに鬼門の方角……つまりは北東の方角に位置していた。そこで鏡を使った儀式をすれば、鬼門が開くのも当然だ。昔から、合わせ鏡は不吉なものを呼び込むとして忌み嫌われていた行為だからな」


 合わせ鏡。少年の口から出た言葉には、晶も確かに覚えがあった。≪鏡さまの儀式≫を行う際に重要なのは、合わせ鏡の間に人間が立つことだ。それに、少年の言っていた丑寅の時刻というものも、≪鏡さまの儀式≫を行う午前二時にぴったり当てはまる。


 だが、そんな矢先、晶の頭に新たな疑問が浮かんで来た。


 少年の話では、鬼門を開くことは向こう側の世界・・・・・・・から鬼を呼び出すことに繋がるという話だった。しかし、それでは自分がこの世界にやって来てしまった理由が説明できない。自分は鬼を呼び出したのではなく、むしろ呼び出された側なのだから。


「なあ、兄ちゃん。鬼門ってやつの話はわかったけど、それがどうして≪鏡さまの儀式≫と繋がるんだ? 俺は鬼を呼び出したんじゃなくて、どっちかっていうと、こっちの世界に呼び出されちまったんだぜ?」


「そうだな。恐らくは、お前の儀式に使った鏡……あれが原因だ。どこの誰が作った物かは知らないが、どうやらその鏡は鬼門を通じて常世と現世を繋ぐ力があったらしいな。しかし、儀式が不完全だったが故に、お前は魂の一部だけを切り取られるような形で、この世界に放り出されてしまったんだろう」


「魂の一部? それ、さっきも言ってたよな」


「ああ。人の魂と一口に言っても、常に一塊でいるわけじゃない。場合によっては、本体から千切れて分身みたいになるやつもある。生霊なんてのは、そういった類のものだ。お前くらいの年齢のやつなら、ドッペルゲンガーなんて言った方がわかりやすいか?」


 生霊、それにドッペルゲンガー。怪談話にそこまで詳しくない晶でも、一度くらいは聞いたことのある言葉だった。生きている人間の幽霊とか、自分と同じ顔をしたもう一人の自分とか……とにかく、少年の言っている分身のような存在であることだけは、晶もなんとなく理解した。


「俺がこんな姿なのも、魂の一部に意識を投影しているだけの存在だからだ。魂全てを幽体離脱させてしまったら、肉体はどんどん生命力が低下してしまうからな。この世界に入り込むためには、こうする他に方法がなかった」


「そ、そうなんだ。でも、さっき兄ちゃんは、俺がまだ死んでないって言ったよな。だとしたら、俺も兄ちゃんみたいに分身で、本体はちゃんと生きてるってことなのか?」


「いや……。実は、この話はそれほど単純じゃない……」


 少年の顔に、途端に影が射した。先ほどまでは随分と多弁になっていたにも関わらず、ここにきて急に押し黙ってしまった。なんだかよくはわからないが、少年の態度から、晶はそれだけ事態が深刻なのだと考えた。


「なあ……。話が単純じゃないって……まさか、やっぱり俺は死んじまってるのか!?」


「そうじゃない。ただ、俺はあくまで分身に意識を乗せたような存在だが、お前は肝心の本体がこの世界に来てしまっている。現世に残っている方が分身で、しかもそっちには意思も何もあったもんじゃない。だから、このまま放っておけば、いずれは肉体が限界を迎えて衰弱死してしまうだろう」


「そ、そんな……。だったら、早く戻んねえと!!」


「まあ、慌てるな。ここで焦っても何もならない。お前がここに来るときに色々と面倒な手順を踏んだのと同じように、現世に戻るためにも、これまた色々と制約があるんでな」


 このまま放っておけば、いずれは死ぬ。そう聞かされて慌てる晶を、少年はあくまで落ち着いた口調で制した。


 自分が死ぬと聞かされて、慌てない者がいないといえば嘘になる。しかし、ここであれこれと騒いだところで、元の世界に戻れるというわけでもない。


「とりあえず、これからのことだが……」


 晶が落ち着いたのを確認しながら、少年が再び語りだした。


「お前も知っての通り、ここは生きた人間の住まう世界じゃない。天国か地獄かと聞かれたら、地獄に近い場所と言った方が正しいな」


「地獄に近い場所? でも、ぼろぼろになってるだけで、ここは俺の住んでた街みたいだけど……」


「それは当然だ。地獄と言っても、別に針の山や血の池で溢れているわけじゃない。見た目だけは、現世となんら変わらない世界が広がっているんだよ。ただ、あくまで姿が似ているだけで、そこを管理する者はいやしない」


「それじゃあ、家や学校がボロボロなのは、住んでる人が手入れしないからってことなのか?」


「そう考えてもらって構わない。それに、世界によっては現世と漂っている空気そのものが異なっている場合もあるからな。建物や家具なんかは現世の配置を写し取ったように並べられるが、手入れをしなければ瞬く間に朽ち果ててしまうこともある。まあ、死者の中には生前とはまったく異なるメンタリティを持ってしまう輩もいるから、それも当然といえば当然なんだが……」


「メ、メンタリティ?」


「簡単に言えば、物事の考え方のことだ。例えば、ここは鬼が住まう世界。そして、ここでいう鬼とは、現世に強い恨みを持って亡くなった人の魂が姿を変えたものだ。だから、この世界に住まう魂は現世に対する恨みばかり強くて、それ以外の思考が殆ど麻痺してしまっている」


 鬼の住む世界。少年の言葉に、晶はいつしか無言のまま頷いていた。


 あの、街で出会った鬼女。きっとあれは、この世に深い恨みを持って死んだ人の魂だったのだろう。だから、同じ鬼であればいざ知らず、そうでない晶のことを見て、強い怒りと憎しみを撒き散らしながら襲いかかってきたのかもしれない。


「お前の考えている以上に、あの世ってやつは色々な姿形がある。中には善良な人間の魂だけが暮らしている世界もあるが、反対に悪霊ばかりが閉じ込められている世界もある。そういった向こう側の世界・・・・・・・のことを、俺達はひっくるめて異界と呼んでいる」


「異界……」


「ここは鬼が住む世界だから、さしずめ鬼界きかいってところだな。まあ、どっちにしろ、俺達にとってはアウェイであることに変わりはない。下手に動けば、さっきの鬼女みたいなやつに、また襲われるぞ」


「うげっ……。じゃ、じゃあ、あんまり大声出して騒いだりしない方がいいんじゃ……」


「それは心配ない。アウェイとはいえ、全てが鬼の連中に都合のよいものばかりってわけじゃない。奴らの苦手とするものも、ちゃんと見つけて集めておいた」


 そう言いながら、少年は懐から何やら木の枝のようなものを取り出した。見ると、そこには濃い緑色をした、見るからに痛そうな形の葉が生えていた。


「これは柊の葉だ。節分の際、玄関の前にイワシの頭をつけて飾ったりするだろう。古今東西で魔よけとして使われていて、特に鬼が嫌うとされている」


「なるほどな。それじゃあ、これがお守りの代わりってやつか」


「そういうことだ。だが、あまり過信して油断するなよ。鬼が嫌うとはいえ、所詮は魔よけ。奴らを退治するほどの力はない」


 柊の枝を手に入れて調子に乗る晶に、少年はしっかりと釘を刺して立ち上がった。武器を手に入れたと勘違いして、軽率な行動に出られれば全てが台無しだ。この世界から脱出するまで、まだ戦いは終わらないのだから。


「では、そろそろ行くぞ。お前もぐずぐずしてないで、さっさと立ったらどうだ?」


「ああ、わかったぜ。でも、あんまりガキ扱いすんなよな。俺だって、やる時はちゃんとやるんだぜ」


「それを聞いて安心した。実は、まだお前の他に、もう一人だけ助けなくてはならない人間がいるんでな。悪いが、そっちにもつき合ってもらうぞ」


「お、俺の他に、もう一人? まさか、それって……」


「そうだ。お前の言っていた、紺野香帆とかいう女。俺の感が正しければ、あの女の魂もこの世界に迷い込んでいるはずだ。元の世界に帰るのは、その女を助けてからということになるな」


「そっか……。そういうことだったら、俺もやれるだけやってみるぜ。なんか、役に立てることがあったら、何でも言ってくれよな」


 少年の口から語られた、香帆を助けるという言葉。それを聞いた晶は、身体の奥から俄然やる気が込み上げてくるのを感じていた。


 香帆がなぜこの世界に迷い込み、どこでどうしているのか。晶にはそこまでわからなかったが、とにかく香帆を助けるために力を貸したいのは確かだ。


「そういや、自己紹介まだだったな。俺、長瀬晶ってんだ。よろしくな、兄ちゃん」


「それは俺も知っている。俺がこの世界に来たのも、お前の兄貴から頼まれてのことだしな」


「お、俺の兄ちゃんが……!?」


「あいつは俺のクラスメイトだ。もっとも、あまり直接関わることは少ないが……」


「そ、そうだったんだ……。でも……だったら、ちゃんと敬語で話さないとマズイよな。それとも、もしかして兄ちゃん、既に結構怒ってたりする?」


「気にするな。それと、俺に向かって兄ちゃんはよせ。お前の兄貴と一緒にされているようで、紛らわしくて仕方がない」


 少年が、自分の兄と友人だったという事実。それを知った晶は精一杯気を使ったつもりだったが、少年は別に気にも止めていないようだった。


 野良犬から助けてもらったときもそうだったが、どうにも彼は無愛想な気がしてならない。こんな性格では彼女もろくにできないだろうと思ったが、それ以上は余計なことを口にするのを止めておいた。


「なあ……。だったら、俺はそっちのことをなんて呼べばいいんだ? 俺、兄ちゃんの名前なんて知らないし……」


「名前、か……。俺の名は犬崎紅。闇を用いて闇を祓う、赫の一族の末裔だ」


 先ほどまで晶に背を向けていた少年が、くるりと振り返って晶を見た。その少年、犬崎紅は苦笑しながら晶を見ると、自らの隣に例の巨大な黒犬を従えて、一足先に社の外へと向かって行った。

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