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~ 弐ノ刻   秘事 ~

 晶が香帆と話をすることになったのは、レオに算数の授業で使う道具を貸してから数日ほど経った日のことだった。


 変態四天王として知られる晶は、当然のことながら自分から女子に話しかけることなどない。彼が女子に関わりを持つときは、せいぜいスカートめくりをするときくらい。後は、授業の際にクラスメイトと協力する必要が出たときくらいで、それ以外で関わることは少ない。


 そもそも、小六にもなってスカートめくりなどしている時点で、晶達は女子から目の敵にされている。キモイと言われることはあっても、カッコイイと言われることはない。当然、自分から話しかける以前に、女子の方から距離を取られている。


 変態四天王の称号を持つ自分に、女子が話しかけて来ることなどありはしない。そう思っていただけに、晶は香帆から話しかけられたとき、状況を理解するのに数秒の時間を要してしまった。


「ねえ、晶……」


 自分の名前を呼ばれ、ようやく香帆が話しかけてきたことに気づいた晶。いつもであれば下品な冗談を言って顰蹙ひんしゅくを買うか、もしくはスカートをめくって逃走するところだが、今日は不思議とそんな気分にもならなかった。


「なんだよ、香帆か。もしかして俺、また何かマズイことした?」


「そんなんじゃないわよ。ただ、この前レオに貸してくれた定規とコンパス、返そうと思っただけだから」


「そういえば、そんなこともあったな。でも、別にそんなもん、返すくらいだったらいつでもいいぜ」


「うん……。そのことなんだけど……」


 そこまで言って、香帆は急に口籠り、少しばかり下を向いて言葉を切った。普段の気丈な様子とは明らかに違う、どこか申し訳なさそうな態度。いつもは晶のような男子に対して啖呵を切っていることの方が多いため、こんな姿の香帆を見るのは珍しい。


「なあ、どうしたんだ? 返すなら、早く返してくれよ」


「それが……実はね……」


 気まずそうな表情のまま、香帆は後ろ手にして持っていた定規とコンパスを差し出した。その、あまりにも変わり果てた姿に、晶は思わず釘付けとなる。


 晶がレオに貸したコンパスと定規。それは、見るも無残な姿となって帰ってきた。プラスチック製の定規は真っ二つに折れ、セロハンテープで補修した跡があった。恐らく、香帆が修理したものと思われる。


 コンパスに至っては、これはもう使い物にならないだろう。必要以上に脚を広げられ、股裂きの刑よろしくネジが飛んでいる。付属品の鉛筆も失われ、針もねじ曲がり、プラスチックのケースはあちこちにヒビが入っていた。


「ご、ごめんね、晶……。あの後、レオに聞いたんだけど……お友達と一緒にふざけていたら、壊しちゃったみたいで……」


「はぁ……!? 借りたもんふざけて壊すって……そんなのありかよ……」


「本当にごめん。レオには、私からも注意しておくから。それと……コンパスと定規、私が弁償するよ」


「いや、別にいいよ。どうせ、今は授業でも使ってなかったし、そもそも俺の道具箱に入ってるものなんて、全部兄ちゃんのお下がりだしな」


「で、でも……」


「別にいいって言ってるだろ。お前の弟だって、壊したくて壊したんじゃないんだろうしさ」


 椅子を斜めに傾けて座りながら、晶はそう言って香帆の手からコンパスと定規を受け取った。それでも香帆は何度も晶に謝ったが、晶は適当に返事をして香帆を追い払った。


 香帆が去り、自分の目の前からいなくなったのを見計らって、晶は壊れたコンパスと定規を改めて見る。香帆なりに頑張って修理した後は残っているが、それでも到底使い物になるとは思えない。今は授業で使っていないからいいものの、近々新しい物を買わねばならないだろう。


(それにしても……)


 無残にも割れた定規。脚が曲がり、鉛筆も失って役立たずとなったコンパス。壊れた道具の慣れの果てを見つめながら、晶はふと考えた。


 自分も悪戯は好きな方で、よく物を壊しては両親や先生から叱られた。花瓶を割るなど日常茶飯事だったし、祖母の家の障子を蹴破って怒られたこともある。友達とキャッチボールをして、取り損ねたボールを近くの家の植木鉢に直撃させたこともあった。


 だが、そんな晶でも、人から借りた物を壊して返したようなことはない。そもそも、借り物はその日に直ぐ返すようにしていたし、自分の物ではない道具を乱暴に扱うことには抵抗があった。悪ガキとして悪名を馳せている変態四天王の一員でも、その辺の常識くらいは持っている。


 それに比べて、香帆の弟はどうだろうか。


 借りた物を返すのにさえ姉の手を煩わせ、その上、壊した状態で返して来る始末。借りるときも借りるときで、「ありがとう」の一言さえ述べず、妙にはにかんだような笑みを浮かべ、ひったくるようにして道具を奪い走り去った。


 いつもは他人に対して怒りを覚えることの少ない晶も、今回ばかりは頭にきて仕方がなかった。香帆には気にしないと言っておいたが、それは方便に過ぎない。香帆を追い払うようなことを言ったのも、自分が香帆の弟に対して思っていることを、香帆自身に悟られたくないと思っていたからだ。


 しっかり者で、クラスの女子の中でも気が強いことで有名な香帆。それに比べ、弟のレオは正反対だと晶は思う。自分も家族の中では年下なのだが、あそこまで誰かに甘えきって生きているわけではない。クラスの女子達がレオのことを嫌っているのも、今の晶にはなんとなくわかるような気さえした。


「それにしても、酷ぇ壊れ方だな。母ちゃんに言って、新しいの買ってもらえるといいけどな……」


 既に使い物にならなくなったコンパスと定規を、晶は強引に机の中へと押し込める。今日、家に帰って母に新品をねだるのが、どうにも気が重くて仕方がない。


 晶が悪戯好きなのは、母も知っていることである。そのため、いくら晶が「友達の弟に貸して壊された」と言っても信じてくれないだろう。大方、適当に怒鳴られて、最悪の場合は新品さえ買ってもらえないで終わるに違いない。


 自分の貯金箱の中身を思い浮かべながら、晶は自分でコンパスと定規を買い直さねばならないかもしれないと考えていた。年が明けてお年玉をもらっているので、懐そのものが豊かなのが不幸中の幸いだ。


 しかし、悪戯好きで有名な変態四天王の一員が、お年玉で文房具を買うというのはどうだろう。妙に真面目ぶっているような気がして、晶自身、考えただけで背中が痒くなってくる。


「あーあ……。でも、まさか香帆のやつに弁償させるわけにもいかないしなぁ……」


 自分の小遣いは、できれば漫画やゲーム以外に使いたくない。だが、だからといって、香帆に弁償させるのも気が引ける。


 しばらくの間、晶はあれこれと悩んでいたが、やがて自分の小遣いよりも、香帆との関係を大切にすることに決めていた。別に文句を言って弁償させてもよかったのだが、香帆に向かってそんなことを口にするのは、どうにも恥ずかしい気がしてならなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 その日、家に帰った香帆は、珍しく弟のレオことを問い詰めようと考えていた。レオが晶からコンパスと定規を借り、それを壊してしまったこと。そのことについて、改めて聞こうと思ったのだ。


 人様から物を数日に渡って借り、しかもそれを壊して返す。いくら自分の弟とはいえ、これは叱ってやらねばならないだろう。


 今日、香帆のところにコンパスと定規を持って来たレオは、「ふざけて壊した」としか言わなかった。他の級友の手前、香帆もそれ以上は問い詰めなかったが、やはり甘かったと思う。現にレオは、例の妙にはにかんだような笑みを浮かべながら、道具を壊したことに対する謝罪の言葉さえ述べていなかったのだから。


 両親や香帆の前では決して見せない、学校にいるときだけレオが見せる、あの奇妙な笑顔。正直なところ、香帆はあのレオの顔だけは好きになれなかった。どこか作りものじみていて、まるで能面のような気味の悪い感じがする。


 弟に対してそんなことを思ってはいけないのだろうが、あれはレオの本当の顔ではない。少なくとも、家族と一緒に談笑しているときのレオが見せる笑顔ではないからだ。


 家では本当に良い子なのに、学校では礼儀知らずで空気の読めない人間に早変わりする。日本に帰って来てから既に一年以上が経つというのに、これではいつまで経ってもレオは異質な目で見られてしまう。


 やはり、ここは姉として、レオにきちんと言うべきなのだろう。父はどうにも穏やかな性格ゆえにレオには甘く、母も厳しく叱るということは苦手な人間だ。


 結局、最後は自分がしっかりするしかない。そう、香帆が思った矢先、玄関の方で扉の開く音がした。どうやらレオが、一足遅れて帰ってきたようだ。


「お帰り、レオ」


 リビングに入ってきたレオに向かい、香帆は声をかけながら振り向いた。ところが、そこまで言ったところで、香帆の目はレオの着ている服に釘づけになった。


 母から買ってもらった白いシャツは、見るも無残に濡れていた。ところどころ、泥のようなものがついているのも見て取れる。シャツの色が白いだけに、その汚れは酷く目立って見えた。


「ちょっと! どうしたのよ、それ!?」


 香帆の口から、思わず英語で声が出た。アメリカで長く暮らしていたためか、今でも香帆は、気が高ぶると英語が飛び出ることがある。身内相手にしか使わない言葉だが、それは返ってレオにとっても好都合だった。


「ごめん、お姉ちゃん。ちょっと、遊んでただけだから……」


 ぼそぼそと呟くような声で、レオは香帆にそう言った。彼の使う言葉もまた、日本語ではなく英語になっている。学校で見せていた妙にはにかんだような笑顔はそこになく、ずぶ濡れの少年が力なく立っているだけだった。


「まったくもう……。いくら雪が積もったからって、こんなに服が濡れるまで遊ぶことないでしょう!?」


「うん……。気をつけるよ……」


「わかってるなら、最初からやらないの。それと、とりあえず濡れた服を脱いで、さっさとシャワーでも浴びなさいよ。そのままにしてたら、今に風邪ひくわよ!?」


「わ、わかった……」


 いつもに比べ、妙におどおどした様子で、レオはランドセルを放り出して浴室に向かった。リビングの床にランドセルが転がって、レオは逃げるようにして部屋を出てゆく。


「あっ、こら! 鞄、ちゃんと自分の部屋に持って行ってからにしなさいよ!!」


 そう、香帆が怒鳴ったときには、レオの姿は既になかった。仕方なく、香帆は放り出されたランドセルを拾い、レオの部屋に運んでやることにする。


 レオのランドセルは、彼の服と同様に酷く濡れていた。よく見ると、ランドセルにもあちこち泥がこびりつき、なんだか全体的に小汚い。どこでなにをして遊んでいたのかは知らないが、これは少し羽目を外し過ぎだろう。


 半ば呆れた顔をしながら、香帆はレオのランドセルを彼の部屋まで運び込んだ。階下の浴室からは、レオがシャワーを使っている音が微かに響いてくる。


「まったく……。借りた物は壊して返すわ、服もランドセルも汚して帰ってくるわ……。あの子、どうしていつも、ああなんだろうなぁ……」


 誰に聞かせるともなく、香帆はあれこれと呟きながらレオの机にランドセルを置いた。机の上は綺麗に片付けられていたが、これは恐らく出掛けに母が片付けたものだ。レオは決して整理整頓が得意な方ではなく、放っておけば部屋の中は、瞬く間に足の踏み場もないほどになってしまう。


 口下手で鈍臭く、少々甘えん坊なところもある弟。そんなレオだったが、香帆は不思議と彼を嫌うことはなかった。異父姉弟ではあったものの、レオは香帆にとって大切な弟だ。そういった感情が、香帆にとってレオのことを、どこか憎めない人間にしていたのかもしれない。


 机の上に置かれたランドセルの蓋を、香帆は無言のまま開け放つ。あの、ドジで忘れっぽいレオのことだ。学校から手紙をもらっても、親に渡すことはまずないだろう。大抵、香帆に注意され、思い出したようにランドセルの奥から引っ張り出して来るのが関の山である。


 どうせ今日も、何か学校からもらった手紙を奥に押し込めているのだろう。そう思って蓋を開けた香帆だったが、次の瞬間、自分の目を疑うような光景が香帆の瞳に飛び込んできた。


「ちょっ……な、なによ、これ!?」


 ランドセルの蓋を開けた香帆の目に映ったもの。それは、びしょ濡れになったランドセルの中身だった。あちこちに水滴がついていることから、これは水ではなく恐らくは雪。教科書もノートも雪で濡れ、ふやけた海苔のようになって完全にくたびれてしまっている。


 雪遊びをして、服を濡らして来たくらいならまだわかる。しかし、学校で使う教科書やノートまで駄目にしたとなれば、話は別だ。


「あの子……。こんなにしちゃって、明日の学校はどうするつもりなのよ!?」


 もはや、呆れるのさえ馬鹿馬鹿しい。香帆はランドセルの中から一冊の教科書を引っ張り出すと、それを片手に階段を降りた。浴室ではレオがまだシャワーを使っているようだが、そんなことは関係ない。風呂に入っていようといまいと、言うべきことは言わねばなるまい。


 濡れた教科書を手に、香帆は浴室の戸を勢いよく開け放つ。目の前には、今しがたシャワーを浴び終えて、タオルを体に巻いたレオがいる。


「あっ……。お姉ちゃん」


「ちょっと、レオ。あなた、この教科書は何なのよ。こんなに濡らしちゃって……明日から、学校で使うのはどうするつもりなの!?」


「ご、ごめんなさい。僕、遊んでたら、これも濡らしちゃって……」


「はぁ……まったくもう。私に謝っても意味ないわよ。だいたいねえ……」


 濡れた教科書を洗濯籠の脇に置き、香帆は何気なくレオの腕を見た。瞬間、レオが何かに気づいたようにして、まるで裸を見られた少女のように腕を胸の前で組む。


 それは、時間にすればほんの一瞬のことだったのかもしれない。だが、それでも香帆は、弟の腕につけられた物を見逃さなかった。


「ちょっと、レオ! あなた……その腕、どうしたのよ!!」


 胸の前で組まれたレオの腕を取り、香帆が感情のままに叫ぶ。強引に腕を引き剥がして見ると、今度はしっかりと香帆の目にも見えた。


「レオ……あなた……」


 レオの手首を抑えたまま、香帆が信じられないといった顔で呟く。弟の腕にあったもの。それは紛れもない、大きな青い痣だった。何かに強くぶつけたのか、それとも喧嘩でもしてつけられたのか。どちらにせよ、これが普通にふざけていてできるものではないということだけは、小学生である香帆にも十分にわかる。


「は、はなしてよ! 別に、僕は大丈夫だから!!」


 香帆に痣を見られたところで、レオが急に暴れ出した。手首をつかんでいた香帆の手を振りほどき、そのまま浴室から逃げ出そうと走り出す。


「ちょっと、待ちなさいよ!!」


 扉を開けて外に出ようとしたところで、再び香帆の手がレオの腕をつかんだ。その拍子に、レオの体に巻かれていたタオルがとれ、生まれたままの姿が露わになる。


「うわっ! み、見ないでよ!!」


 背中を向けているにも関わらず、レオはそう言って身体を隠そうとした。初めは恥ずかしがっているのかと思ったが、それが裸を見られたことに対する恥じらいではないということは、レオの背を見た香帆にも直ぐにわかった。


 同じ歳の頃の子ども達と比べても、決して大きくはないレオの身体。そんな彼の背中には、腕と同じような痣が無数にあった。中には皮が剥けて擦り傷のようになっているものもあり、見ている方が痛々しくなる。


「レオ……あなた……」


 タオルを拾って再び身体に巻くレオに、香帆はかけてやる言葉が見つからなかった。


 初め、レオが返ってきたときは、彼がふざけて服を濡らしたのだとばかり思っていた。ランドセルの中身に関しても、レオがふざけて濡らしたものだとしか思わなかった。


 だが、今のレオの姿を見てはっきりとわかった。弟は、レオは虐められている。それも、クラスメイトが気まぐれに行うような、悪ふざけと同レベルの虐めではない。もっと陰湿で残酷で、じわじわと相手を追い詰めてゆくような本格的な虐めだ。


 服を濡らして帰って来たのは、きっと虐めっ子に雪でもぶつけられたのだろう。いや、もしかすると、バケツ一杯の雪を頭から被せられたのかもしれない。ランドセルの中まで雪が入っていたところから考えて、全身がずぶ濡れになるまで雪まみれにされたのは間違いない。


 それだけでなく、先日の算数の道具がなかった件。あれもまた、よくよく考えてみれば虐めの可能性があった。


 そもそもレオの持ち物は、寝る前に母が準備させている。それにも関わらず忘れ物をしているというのは、持ち物を学校で隠されてしまった可能性が高い。


 晶から借りたコンパスや定規を壊してしまったのも、あれはレオがやったのではなく、誰かに壊されたのだとすれば納得がゆく。レオは少々ドジで世間ずれしたところもあるが、決して自分から物を粗末に扱うような子ではないからだ。


「ねえ、レオ……」


 再びタオルを身体に巻いたレオに、香帆はそっと話しかける。


「あなた……学校で虐められているんじゃないの?」


「ち、違うよ……。僕は別に、虐められてなんか……」


「正直に言って! この前、算数の時間に道具がなかったことも、今日、ずぶ濡れになって帰ってきたことも……本当は、全部誰かに無理やりされたことじゃないの!?」


 だんだんと声が大きくなってゆくのが、香帆自身にもわかった。


 レオが虐められていたかもしれないという事実。そして、姉でありながら、長いことそれに気づけないでいた自分。そんな諸々の事柄に関する想いが、そのまま感情となって溢れ出てきてしまっていた。


「レオ……。あなたが日本に来てから、なかなかこっちの暮らしに慣れないってのは知ってるわよ。でも、ここで隠し事しても仕方ないじゃない。辛いことや悲しいことがあったら、ちゃんと家族に言うこと。これ、常識じゃない?」


「う、うん……」


 あくまで引き下がろうとしない香帆に根負けしてか、それとも単に本音が出ただけか。とうとう最後には、レオも自分が虐められていたという事実を改めて認めた。虐めはどうやら一年近くに及んでいたらしく、その間、レオはずっと一人で耐えていたという。


 レオの話では、最初は他愛ない悪ふざけから始まったという。なんでも、日本語が上手く話せないことを馬鹿にされ、それが徐々にエスカレートしていったとのことだ。


 もともと日本語があまり得意でなく、他の人間とコミュニケーションを取るのも下手なレオ。そんな彼は当然のことながら、何をされても黙って耐える他になかった。しかし、そのことが返って周りを増長させ、今では学年を問わずレオを虐める者が出始めたという。なんでも、虐めの首謀者は香帆達の学年にいるらしく、時に酷い暴力をふるわれることもあったそうだ。


 全てを聞き終わったとき、香帆は自分の目から涙が零れていることに気がついた。姉として、本当はレオを守ってやらねばならなかった自分。それなのに、レオが虐められているということにさえ気づかず、時に勘違いから怒鳴ってしまっていた自分。そんな過去を思い出し、香帆はとても悲しい気持ちになっていた。


「ごめんね、レオ……。お姉ちゃん、あなたが虐められているってことに、全然気づかなくって……」


 本当は、もっと気の利いた言葉をかけてやりたい。そう思っても、声がむせ返って上手く言葉にできない。


「ねえ、レオ……。今度から、辛いことがあったら、ちゃんと私やお母さん、それにお父さんにも言うんだよ。一人で我慢したら、絶対に駄目だからね」


「うん……。けど、僕……これからも、学校には行かないといけないんだよね……」


「それは……仕方ないよ。でも、これからは私がレオのことを守ってあげるから。学校にいる間は、私がレオのことを虐めるやつら、やっつけてあげるから……」


 そう言って、香帆はレオの頭に手を置くと、癖毛だらけの髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。


 自分にレオを守る力があるかどうか。それは、香帆にもわからない。ただ、虐めを放っておいてよいはずがないということだけは、香帆にも十分にわかっている。


 香帆に頭を撫でられたまま、目の前ではレオが満面の笑顔を浮かべていた。それは、学校で彼が見せていた、どこか歪んだ能面のような笑みではない。レオが本当に嬉しいときにだけ見せる、香帆の家族しか知らない太陽のような笑顔だ。


 ここ最近、自分はレオの笑顔を見ていなかった。そんなレオが、自分の言葉一つで笑顔を取り戻してくれる。ほんの些細なことではあったものの、香帆にはそれが嬉しかった



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 翌日は、一月にしては良く晴れた日だった。東北の冬は寒くて曇り空な天気が続くことが定番だが、ここ最近は晴れやかな日が続いている。


 一昨日まで降り続いていた雪も、今日はかなり溶けているようだった。山の尾根は白い帽子を被ったままだが、街は既に普段の姿を取り戻している。道に残る雪はかなり減り、人も車も普通に行き来することが可能だった。


 朝の陽射しを背に受けながら、晶は少しばかり急ぎ足で学校に向かった。今日は清や直己といった友人もおらず、一人での登校である。


「やっべえなあ……。俺としたことが、まさか寝坊なんかしちまうなんて。昨日、母ちゃんに隠れて、夜遅くまで布団の中でゲームなんかやってるんじゃなかったぜ」


 朝日に包まれた街中を走りながら、晶はそんなことを口にした。なんのことはない。今日、友達とは別に登校しているのは、晶が寝坊したためだ。しかも、両親には内緒で携帯のゲーム機を布団の中に持ち込んで、夜中までこっそりプレイしていたから寝坊した。


 最近のゲームは面白い。やり過ぎはよくないとわかっていても、つい夢中になってやり込んでしまう。ゲームを作る側も巧妙で、プレイヤーをいかに飽きさせないかを考えて作っている。俗に≪やり込み要素≫と言われるそれは、晶のような子どもをゲームの虜にするのに十分だった。


 手に入れるだけでも苦労するようなアイテムを持っていたり、仲間にするのが難しいモンスターを見事仲間にしたり。ゲームの世界のこととはいえ、そういったことが達成できると、学校ではある種の英雄として扱われる。小学生の間では、勉強や運動と同じくらい、遊びが上手い人間もまた英雄なのだ。


 だが、いくら英雄を目指していたからとはいえ、それが原因で遅刻をしてしまっては元も子もない。ゲームのやり過ぎで学校に遅れたことが担任の教師に知れたら、それこそ無駄に説教を食らってしまう。


 校門前の横断歩道にある信号機が、青から赤へと点滅を始めた。色が変わりきる前に向こう側に行かなければ、そこでゲームオーバーだ。


「うおぉぉぉぉっ! 間に合えぇぇぇぇっ!!」


 普段、スカートめくりをした女子から逃げる、変態四天王随一の俊足が地面を蹴った。間一髪、晶は信号が変わる前に、横断歩道を渡りきって校門をくぐる。大した距離を走ったわけでもなかったが、気がつくと息が上がっていた。


「はぁ……。ぎ、ぎりぎりセーフってやつかな……」


 額の汗を拭いながら、晶は息を整えつつ下駄箱へと向かった。校舎の真ん中にある時計を見ると、朝の学活までは少しだけ時間がある。朝っぱらから街中を走っただけあって、遅刻だけはしないで済んだようだ。


 校庭の真ん中を突っ切るような形で歩いてゆくと、何やら水飲み場に人がいるのに気がついた。こんな時間、冬の水飲み場にいるのは誰だろう。そう思って近づいてみると、そこにいたのは意外な相手だった。


「あっ……もしかして、香帆?」


 水飲み場にいたのは香帆だった。どうやら何かを洗っていたようで、その手は冬の冷たい水にやられて赤くなっている。彼女の隣には弟のレオもいて、晶を見ると、例の妙に歪んだ笑みを浮かべながら軽く頭を下げた。


「なあ、香帆。お前、こんなところでなにやってんだよ」


「なにって……見ればわかるでしょ。レオの上履き、洗ってたのよ」


「上履き洗ってたって……この、クソ寒い中でか!?」


「別にいいでしょ。あんたには、関係ないことなんだから」


 晶などに構っている暇はない。そう言わんばかりの態度だったが、それでも晶は香帆のことが気になった。こんな寒空の下で、教室にも行かずに上履きを洗う。そんな彼女の奇行が、晶にはどうしても納得できなかった。


「ったく可愛くねえの。けど、このままだったら遅刻するぜ。なんだったら、俺と一緒に先生に怒られるか?」


「なによ、それ。もしかして、嫌がらせのつもり?」


「そんなんじゃねえよ。ただ、こんな寒い中で靴なんか洗ってたら、マジで風邪ひくぜ。俺と違って、香帆は頭いいんだからさ」


 馬鹿は風邪をひかない。そんな一昔前の諺を引き合いに出しつつ、晶は香帆の横に並んだ。そして、香帆の足元に転がっているもう片方の上履きを拾うと、それを握ってまじまじと眺めた。


「うわぁ……。それにしても酷ぇな、これ。落書きだらけだし、おまけにガムの粕までついてるぜ」


 どう見ても、そのまま履くことができそうにないレオの上履きを見て、晶は少し大袈裟に言った。相変わらず、香帆は無言のまま上履きを洗っている。晶のことなど今は眼中にないようで、無心に上履きについた汚れを落とそうとしていた。


 このまま香帆につき合っていたら、きっと遅刻をしてしまう。それでは、あの信号前のダッシュが全て無駄になってしまう。しかし、ここで香帆を放っておいて、自分だけ教室に向かうのも気が引ける。


 遅刻をしないことを取るか、それとも香帆を手伝うことを取るか。しばしの間、晶は上履きを片手に悩んでいたが、やがて何も言わずに蛇口の栓を捻ると、香帆と一緒に上履きを洗い始めた。


 冬の空の下、校庭の水飲み場に上履きを洗う音だけが響く。晶も香帆も何も言わず、ただ汚れを落とすだけに集中している。そして、そんな二人の後姿を、レオが少し離れた場所から見つめている。


 数分ほど経つと、上履きについた汚れは一通り流れ落ちていた。泥やガムの粕など、目についた汚れは既にない。ただ、落書きだけは落としきれなかったようで、クレヨンやマジックで描かれた文字が水に濡れてぼやけていた。


「ほら、終わったぜ」


 洗い終えた上履きを、晶は香帆に放って渡す。香帆はそれを受け取ると、しばらくの間、晶と上履きを見比べながら顔を動かしていた。


「な、なんだよ。俺の顔、なにかおかしいのかよ?」


「う、ううん。そうじゃないの。ただ……あんたが手伝ってくれるなんて、思ってなかったから……」


「へっ……。俺だって、いつも女子のスカートめくってるだけじゃないんだぜ。困ってる女の子がいたら、たまには助けてやることもあるんだよ」


 鼻の下を指でこすりながら、晶は少し気取って見せた。本当は、香帆のことが気になって手伝ったなど、口が裂けても言えない。もっとも、傍から見れば態度に思考がにじみ出ているため、晶の本心など直ぐにわかってしまいそうなものなのだが。


「なあ、香帆。ところで……どうしてまた、こいつの上履きがこんなに汚れてたんだ」


 このままでは、なんだか気まずい雰囲気になりそうだ。いち早くそれを察した晶は、早々に話の矛先を自分から上履きへと変えた。


「別に、大したことじゃないよ。この子、あんたみたいに悪戯好きなところがあるからね。今日も、ちょっとふざけていたら、こんなに汚しちゃったみたいで……」


「本当かよ!? それにしちゃ、ガムの粕とかくっついてたし……まるで、誰かに汚されたみたいだったけどな」


「そ、それは……」


 図星を突かれた。そう言わんばかりの表情で、香帆は口籠ったまま晶から目を逸らした。


 レオの上履きが汚れたのが、本人の悪ふざけによるものではないこと。そのくらい、香帆にだってわかっている。


 今朝、下駄箱に来るなり、レオはボロボロになった上履きを取り出して見せた。そこにあったのは、様々なゴミを詰められて、落書きだらけになった上履きだった。誰がやったのかは知らないが、きっとレオを虐めていた連中がやったに違いない。


 自分の弟が虐められている。その事実を、香帆は他の人に知られたくなかった。虐めの事実を言ったところで、殆どの人間は傍観者になるであろうことを香帆は知っている。それに、レオが虐められていることを誰かに言って、それを聞いた人間が虐める側に回らないとも限らない。


 レオは自分が守る。少なくとも学校にいる間、レオを守ってやれるのは自分だけだ。クラスの人間に話したところで、親身になって協力してくれるはずがない。そう思っていた香帆だったが、晶の口から出たのは意外な言葉だった。


「おい、香帆。お前、なんか隠してるだろ。普通、遊んでいるだけで、こんな風に上履きが汚れたりしないぜ」


「な、なによ! それじゃあ晶は、私が嘘ついてるって言うの!?」


「そうじゃねえよ。ただ……なんか、ちょっとだけ気になったんだよ。もしかしたら、誰かにやられたんじゃねえかってさ」


 いつになく真剣な顔で、晶は香帆とレオを見て言った。自分でも、性に合わないことをしているのはわかっている。ただ、ここで香帆から本当の話を聞かせてもらえないのは、なんだかとても気持ち悪い気がしてならなかった。


 もうじき始業のベルも鳴る。時計の針に急かされてか、香帆はとうとう晶に今日のことを話そうと決めた。別に、話してどうにかなるわけでもないのだが、このまま互いに言い合っていても無駄だとは思った。


「あのさ、晶……。実は、レオのことなんだけど……どうも、学校にいる誰かに虐められているみたいなの」


「げっ、マジかよ。まあ、確かに言われてみりゃそうかもな。いくら俺だって、悪ふざけであそこまで上履きボロボロにすることなんか、まずないしな」


「ごめんね、嘘吐いたみたいになって。それと、この前の定規とコンパスだけど……実は、あれも誰かに壊されたみたいなんだ」


「おいおい、あれもかよ。もしかして、随分と前から虐められてたんじゃねえの、こいつ」


 香帆の言葉を聞いた晶が、再びレオの方に目をやった。相変わらず、レオは能面のように歪んだ笑みを浮かべながら、何も言わずに立っている。


 何を考えているかわからない、気持ちのわるいやつ。初めてレオのことを見た者は、きっとそう思っただろう。だが、だからといって人を虐めてよい理由になるはずもなく、晶は自分の胸の中で怒りが込み上がってくるのを感じていた。


 自分たちは、≪火乃澤小変態四天王≫の名で呼ばれる悪戯のエキスパートだ。その殆どがセクハラ紛いのものなのだが、晶とて越えてはいけない一線があるのは知っている。


 変態四天王が狙うのは、決まって負けん気が強く気丈な女子だ。スカートめくりをしたことで泣いてしまうような女の子には、晶はもとより清も直己も手を出さない。晶にとって悪戯は一種のステータスなのだが、人を本気で苦しめてまで楽しもうとは思わない。ましてや、人が苦しむことそのものを楽しむなど、いくら晶でも許せなかった。


「なあ……。お前、弟のことは親とか先生に話したのか?」


「うん。お父さんも、お母さんも、ちゃんと話は聞いてくれたよ。今日、学校の先生に連絡して、なんとかしてもらうって言ってたわ」


「だったら安心だな。まあ、それでも虐めるようなやつがいたら、その時は俺にも言えよ。スカートめくりだけが能じゃないってこと、お前にも見せてやるぜ」


 自分でも、なぜそんな言葉が口から出たのか不思議だった。強がりと照れ隠し。その二つを混ぜ込んだ、精一杯の台詞。自然と顔が赤くなってゆくのがわかったが、晶はあえて考えないようにした。ここで下手に取り乱せば、それこそ香帆に今の気持ちがバレてしまうかもしれない。


「それじゃあ、早く教室に行こうぜ。このままだと、俺達揃って遅刻になっちまう」


 自分の気持ちを隠すようにして、晶は香帆とレオに急ぐよう促した。洗ったばかりの上履きは乾いていなかったので、レオには来賓用のスリッパを借りることにする。このまま教室で干しておけば、給食時までには形だけでも履けるようになるだろう。


 三階の教室に向かう途中の階段で、晶達の耳に始業ベルの音が聞こえて来た。どうやら、少しばかりのんびりし過ぎたようだ。


「走るぞ!!」


 そう言うが早いか、晶は自慢の俊足で脱兎の如く駆けだして行く。その後を、香帆とレオも追う。


 ふと、晶が後ろを振り返ると、そこには自分と同じように階段を走る姉弟の姿があった。香帆はいかにも苦しそうにしているが、対するレオの方は笑っている。だが、その顔は、例の歪んだ能面の顔ではない。


 レオは確かに笑っていた。しかし、その笑顔は晶が今までに見たこともないような、明るく楽しそうなものだった。


(なんだよ、あいつ……。ちゃんと普通に笑えんじゃん……)


 定規とコンパスを貸したとき、レオが晶に見せた歪な笑み。初めは妖怪のような不気味さを感じたものだが、今のレオにそれはない。晶を追いかけ姉と一緒に階段を駆け上がるレオの表情は、ちゃんと生きた人間のものに思えた。

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