~ 壱ノ刻 悪童 ~
東北の冬は、湿った雪の降る季節だ。重く、湿気を含んだ大玉の雪が降り積もり、山も町も一面を白く染め上げてゆく。その積雪は時に人の背丈を軽く越え、全てを飲み込むようにして酷寒の世界を作り上げる。
その日は冬にしては珍しく、久しぶりに太陽の拝める日であった。昨晩から明け方にかけて降り積もった雪が、町のあちこちで陽の光を反射して輝いている。
夜の間に除雪車が通ったためだろうか。屋根の上に積もった雪の量に比べ、車の行き交う道には殆ど雪が残っていなかった。白い衣をはぎ取られた大通りでは、何事もなかったかのようにして車が走っている。
屋根の上には、降り積もった雪を降ろす作業をしている者の姿が見て取れた。その下では、通りを歩く小学生の姿もある。これから学校に向かうのか、仲間達と楽しそうに話しながら通りを歩いていた。
赤いランドセルを背負い、道を歩く少女たち。彼女達の通っているのは、この先にあるN県立火乃澤第二小学校。東北の閑静な町にある小学校としては、まずまずの規模を誇る学校である。そして、そんな彼女達の後をつけるようにして、物陰から様子を窺う四つの頭があった。
「おい、藤宮。今日のターゲット、見つかったか?」
「いや、駄目だな。この季節で腰から下のガードが緩い女子なんて、そうそういるもんじゃないぜ」
電柱の影から覗いていた頭のうちの二つ、同じく火乃澤第二小学校に通う少年たちが、何やら小声で話している。
「だいたい、こんな冬の日に生足丸出しでスカート穿いてる女なんているかよ。通学中は諦めて、学校に着いてからにした方が狙いやすいんじゃねえの?」
「ちぇっ、仕方ねえな……。これだから、冬って季節は嫌いなんだよなぁ……」
「同感。やっぱ男たるもの、厚着の冬より薄着の夏ってね!!」
小学生にしては顔立ちのよい少年が、そんなことを言いながらもう一人の方を向いて笑った。同時に、今まで物陰に隠れていた他の少年達も現れて、少しだけ雪の残る道端で他愛もない話に華を咲かせる。
物陰から姿を見せた少年達は、合わせて四人。その誰もが背中に黒いランドセルを背負っていることから、彼らもまた小学生であることが窺える。先ほどの少女達と同じ、火乃澤第二小学校に通う生徒達なのだろう。
傍から見れば、登校途中の小学生が雑談しながら歩いている微笑ましい光景。しかし、彼らの真の正体を知る者であれば、そんな感想を抱くことは間違ってもない。
小学生は小学生でも、四人の少年達はただの小学生ではなかった。なにを隠そう彼らこそ、火乃澤第二小学校きっての悪ガキ軍団。通称≪火乃澤小変態四天王≫なのだから。
小学生にして変態。しかも、四天王などという大それた肩書を持つ彼ら。知らない者からすれば、「なにを大袈裟な……」と思うことだろう。だが、そんな言葉は、彼らの実態を知った瞬間に二度と口にできなくなる。
例えば、彼らのリーダーとも言える少年、長瀬晶。≪パンチラハンター長瀬≫の異名を持つ彼の得意技は、その名の通りスカートめくりである。小学校六年生にもなって未だこんな幼稚な遊びをしているのだが、その腕前だけは並みの悪ガキを凌駕する。
物陰に潜み、ターゲットを選定し、狙いをつけた獲物は逃がさない。運動会の徒競走で毎年一番になれるだけの脚力を生かし、脱兎の如く走りながらスカートをめくる。そして、不幸な獲物が怒り狂って追いかけてくる前に、さっさとその場から逃げ出してしまうのだ。そのため、こんな低俗な遊びに命をかけていながら、晶は未だ女子に捕まって説教をされたことが殆どない。
その晶の隣にいるのは、彼の親友でもある藤宮清。先ほど、晶に対して冬より夏の方が好きだと言っていた少年だ。
小学生にしては整った顔立ちと、いかにも品行方正そうな名前。だが、彼を知る者は、決してそんな風に清のことを見ない。現に、一部の男子の間では、藤宮濁と呼ばれるほどに、日夜エロいことばかり考えているのである。
そんな彼の異名は≪パイタッチャー藤宮≫。後ろから近づいていきなり女子の胸を触るという、大人であれば間違いなくブタ箱直行の行為が得意技である。
だが、晶と違って逃げ脚が早いわけではないためか、ターゲットに反撃を食らって殴られることも少なくない。そのため、今ではあまり積極的な行動には出ず、もっぱら四天王の参謀役として動いていることが多かった。
「おい、長瀬。ところでお前、今日の算数の宿題やったか?」
「ああ、あれか……。なんか、難しくてよくわかんない問題あったからさ。その辺は兄ちゃんに聞いて、答えだけ書いといた。そういうお前はどうなんだよ、直己?」
「実は、全然やってねえ。お前と違って、勉強でわかんなくなったら、すぐに聞ける相手がいなくてさ。俺なんて、家にいるのはブタとカバを足して割ったような顔した姉ちゃんだけなんだぜ」
「勉強に、顔は関係ないじゃん。姉ちゃんいるなら、お前だって聞けばいいだろ」
「いや、無理だって。姉ちゃん、もしかすると俺より馬鹿かもしれないし。中学校のテストも十点とか二十点くらいしか取ってないし……脳みそ腐ってうんこになってんじゃないかと思うぜ?」
そう言いながら、晶や清とは別の少年が道に転がっている雪の塊を蹴った。少年の蹴った雪玉は道路に転がり出し、道を走っていた車に惹かれてペチャンコになる。それを見た瞬間、少年は「おお、俺ってナイスコントロール!!」と叫び手を叩いた。
雪を蹴った少年の名前は山本直己。四天王きってのお調子者で、下ネタ満載の下品な冗談を口にすることが多い。また、浣腸攻撃を得意としているために≪浣腸マスター山本≫の名で呼ばれているが、本人はその名前をあまり好んではいなかった。
直己曰く、どうやら彼の浣腸攻撃にも複数のバリエーションがあるらしく、なんでもかんでも≪浣腸≫でひとまとめにされるのは心外とのことらしい。素人にはわからないが、直己にはしっかりと違いが認識できているらしく、≪邪龍拳≫だの≪獄門田楽刺突≫だのといった、漫画のキャラクターが使いそうな必殺技の名前をつけて楽しんでいた。
直己の恐ろしいところは、それらの浣腸攻撃を男女問わずゲリラ的に仕掛けるという点にある。女子は元より男子でさえも犠牲になるため、四天王の中ではある意味で最も恐れられてもいた。現に一部の生徒の間では、「将来はゲイになる」だの「あいつは男でも平気で襲う」だのといった、どう考えても差別丸出しの陰口を叩かれていたほどである。
「ねえ、直己君。宿題終わって無いんなら……僕のを見せてあげようか?」
「マジで! いやぁ、悪いな秀人。今度お前の家に遊びに行くとき、母ちゃんに言って、菓子の一つでも持たせてもらうぜ」
「ああ、わかったよ。それじゃ、お菓子の件はよろしくね」
最後に口を開いたのは、今まで黙っていた恰幅の良い少年だった。
横田秀人。火乃澤変態四天王最後の一人であるが、彼だけは他の三人とは少し血色が違っていた。
晶達が積極的に悪戯を仕掛ける悪童であるのに対し、秀人は四人の中でも内向的な方だった。その性格が災いし、ほんの出来心からクラスの女子のリコーダーを持ち出して、こっそり舐めようとしたのが運のつき。以来、彼は≪縦笛リッカー横田≫のあだ名で呼ばれたまま、変態四天王の一角に数えられてしまっている。
他の三人に比べると、秀人は決して悪戯が好きなタイプではない。ただ、年頃なのか女の子に関する話は興味があるようで、気がつけばいつも晶達とつるんでいる。今では変態四天王の一人として扱われることも、あまり気にしていないようである。
むしろ、その辺りはどうも開き直っているらしく、パソコンでダウンロードしたエロ画像――――とはいえ、実際はアイドルのグラビア写真程度のものなのだが――――を印刷して、晶達と一緒に堪能していることが多い。縦笛を舐めるという行為は既に行っていなかったが、いやらしい話に関しては、残る三人同様に興味津々なのである。
四人が四人、程度の差こそあれ異性に興味のあるお年頃。しかも、それを隠すようなことはあまりせず、むしろ大っぴらにエッチな悪戯をしている小学六年生。今時珍しいくらいに馬鹿な連中であるが、彼らはまったく気にしていなかった。
例え他人からなんと言われようと、自分達のポリシーのために、今日も元気に悪戯に励む。それが、彼らが≪火乃澤小変態四天王≫と呼ばれる所以である。クラスの女子は元より担任の先生からも目の敵にされていたが、それでも彼らの辞書に、めげるという言葉は存在していない。
雪の残る通りを歩きながら、四人は自分達と同じように通学している他の生徒達の様子を窺っていた。寒さのためか、ジャンパーやコートなどの防寒着をまとっている者が多い。仕方がないと言えば仕方がないのだが、晶や清にとっては面白くなかった。
「ったく……。どいつもこいつもコートにズボン。これじゃあ、俺の獲物が全然見つからねえよ」
「しょうがないだろ、晶。さっきも言ったけど、今は夏とは違うんだぜ。こんな雪の残る日にスカート穿いてる女なんて、そうそういないって」
「ああ、面白くねえ!! こんなんじゃ、俺の卒業までの目標、達成できないまま終わっちゃうじゃん!!」
「目標?」
「そうだよ。俺の目標……スカートめくり千回切りを達成するために、今まで頑張って来たってのに……今年になってから、まだ百回もめくってねえ! これじゃあ目標達成する前に、揃って卒業式の日になっちまうじゃんか!!」
スカートめくり千回切り。普通の人間が聞いたなら、呆れて物も言えなくなるような目標である。しかも、回数を目標としている時点で、これはなにかが間違っている。
そもそも女子のスカートをめくるという行為は、その下に穿いている下着を見てやろうという、馬鹿な男子のスケベ心から来る悪戯だ。しかし、下着を見ることではなく、スカートをめくる回数そのものを目標としてしまっては、もはや何も嬉しいことはないのではないだろうか。
晶の話を聞きながら、清はふとそんなことを考えた。だが、そこは腐っても変態四天王。晶と一緒にいれば女子のスカートの中が見放題ということもあり、あえて何も言わなかった。
「ちっくしょー……。せめて雪さえ降らなきゃ、もっと楽に目標達成できるんだけどなぁ……」
そう言いながら、先ほど直己がやったように、晶は道端に転がっている雪の塊を蹴り飛ばした。コツン、という甲高い音がして、雪塊は大きなアーチを描きながら宙を舞う。雪塊はそのまま電柱の脇に固めてあったゴミの山へと飛んでゆき、その中に着地するはずだった。
「ギャウッ!!」
雪塊が落ちると同時に、ゴミ捨て場の辺りから何やら妙な声がした。晶達が思わず目を向けると、そこにいたのは一匹の野良犬。足元には晶が蹴った雪塊が転がっており、犬は牙を剥き出しにして、激しくこちらを睨んでいた。
朝日によって表面が溶かされた雪塊は、外の冷たい風に当てられて、再び固く凍りついていた。要するに、雪の塊ではなく氷の塊になっていたのだ。こともあろうか、晶の蹴り飛ばした氷の塊は、ゴミを漁る野良犬の頭を直撃してしまったのである。
「ウゥゥゥゥ……」
低い声で唸りながら、犬はじりじりと晶達の方へにじりよってくる。氷の塊をぶつけられたことで、明らかに怒っている。これはまずい。
「う、うわぁぁぁぁっ!!」
犬が吠えるのと、晶達が逃げ出すのは同時だった。雪の残る道は滑りやすかったが、そんなことを気にしている場合ではない。
猛り狂った獣の牙が、晶達を狙って後ろから迫る。逃げ脚の早い晶はいいが、他の三人は決して運動が得意な方ではない。案の定、一番脚の遅い秀人が追いつかれそうになり、その尻と犬の頭は目と鼻の先ほどにまで近づいている。
「ひぃぃぃっ! あ、晶君!! 助けてぇ!!」
逃げる晶の後ろから、秀人の間抜けな悲鳴が聞こえてきた。仲間としては、このまま彼を放っておくわけにはいかない。仕方なく足を止めて後ろを振り向くと、そこには無残にも雪道で転んでしまった秀人の姿がある。
「ひ、秀人! 早く逃げろ!!」
早く秀人を助けねばならない。頭ではわかっていても、そう口にするだけが精一杯だった。
やせ細った野良犬とはいえ、それでも小学生からすれば、牙を剥き出しにして襲い掛かるそれは猛獣と同じである。今の晶達には痩せ犬でさえ狼のように思えてしまい、足がすくんで動くことができない。
犬の牙が転んだ秀人の尻に迫り、晶達は思わず顔を背けた。このまま行けば、友のズボンは無残にも食い破られ、その大きな尻に牙が突き刺さって食いちぎられる。そんな想像が、頭の中を掠めてしまったのだ。
ところが、晶達の予想に反し、それ以上秀人の悲鳴が聞こえることはなかった。恐る恐る目を開けると、そこには黒いコートに身を包んだ少年が立っていた。
「あ……」
いったい、何が起きたのか。それを頭で理解するまでに、晶は数秒程の時間を要した。
あの時、確かに秀人は転び、犬に襲われそうになったはずだ。しかし、犬は秀人のことを襲ってはおらず、代わりに現れたのは見知らぬ少年。その少年は秀人に襲いかかろうとしていた犬を睨みつけ、無言のまま晶達に背を向けて立っていた。
この少年が、秀人を犬から助けてくれたのだろうか。恐らく、それは間違いない。だが、それにしては、目の前の少年は犬に危害を加えた様子がない。脅すでもなく、手をあげて追い払うでもなく、ただ犬を睨みつけるだけで動けなくしている。
(な、なんなんだ、この人……)
口に出す代わりに、晶は心の中で呟いた。彼の目の前にいる少年は、見たところ高校生くらいの年齢である。しかし、男にしては色白で、頭の毛も白髪と間違えてしまいそうに色が薄い。極めつけは瞳の色で、それは晶達と同じような黒ではなく、まるで血で染めたかのように赤い色をしていた。
少年と野良犬。数秒の睨み合いの後、降参したのは野良犬の方だった。犬は秀人に襲い掛かることなく、やがて踵を返してとぼとぼと去っていた。
「た、助かったぁ……」
このまま尻を噛まれるのではないかという緊張感。それから解放され、秀人は思わずその場にへたり込んだ。それを見た少年が、秀人にそっと手を差し伸べて立ち上がらせる。
「大丈夫か……?」
「あ……はい。えっと……その……」
「見たところ、怪我はなさそうだな。だが、お前達も気をつけろ。なにをしたかは知らんが、あの犬も随分と気が立っていた。俺がたまたま通りかからねば、そのまま襲われていたところだぞ」
淡々とした口調で、少年が晶達を諌めるようにして言う。その顔を改めて正面から見たとき、晶は少年の顔にどこか見覚えがあるような気がした。
(うーん……。この人、どっかで見たことがあるような……)
記憶の糸を手繰りながら、晶は少年が誰であったのかを思い出そうとする。
晶には年の離れた兄がおり、今は高校の一年生。その兄の友人ということも考えられたが、少なくとも今まで家に来た人間の中には思い当たる者がいない。
では、兄の知り合いではなく、誰かクラスの人間の兄弟だろうか。それとも、自分が知っていると思い込んでいるだけで、実はまったくの他人なのだろうか。
頭の中で記憶が入り混じり、どうにも上手く思いだせない。そうやって、晶が腕を組んだまま難しい顔をしている横で、口を開いたのは清だった。
「あの……。もしかして、お兄さん……前に、パーティーで会ったことなかった?」
全員の視線が、一斉に清に集まる。パーティーといえば、ここ最近であったのは昨年のクリスマスにやったものくらいだ。しかし、そこにはこんな奇妙な高校生はいなかったし、なによりもクリスマスのパーティーは、大抵が家族と一緒にやっていた。
「なあ、藤宮。お前……あの兄ちゃんのこと、知ってるのか?」
とうとう堪え切れなくなり、晶が清に尋ねた。清は首を縦に振り、それに答える。
「ああ、知ってるぜ。去年の十月に、青年ボランティアの人がハロウィンのパーティーやってくれただろ? あのとき、亜衣姉ちゃんや詩織姉ちゃんと一緒に手伝っていた人がいたじゃんか」
「そういえば、そんなこともあったな。でも、そのパーティーで手伝ってた人っていえば、後は俺の兄ちゃんくらいで……」
「お前、本当に忘れちゃったのかよ。詩織姉ちゃんの友達で、巫女さんの格好している人がいたじゃん。その人の横で、吸血鬼の仮装していた人、覚えてないのか?」
「あっ……そういえば!!」
そこまで言われて、晶もようやく思い出したようだった。
昨年の十月末、大学の青年ボランティアが開催したハロウィンのパーティー。そこに手伝いとして参加している高校生達の中に、白髪で赤い目をした吸血鬼が混ざっていた。あのときは、髪の色や目の色を仮装して変えているのだと思ったが、どうやらあれは自前だったらしい。
「なるほどな。お前達、あのパーティーで騒ぎを起こしていた悪ガキどもだったか……」
晶達の話を聞いて、少年の方も彼らのことを思い出したようだった。もっとも、少年の知る限り、晶達の印象は決して良い物ではない。
昨年のハロウィンパーティーで、晶と清はそこにいた高校生、嶋本亜衣にセクハラまがいの悪戯を仕掛けて怒らせた。そればかりか、晶は兄である長瀬浩二と兄の彼女である加藤詩織のちょっとエッチなシーンを覗き見したことまで暴露。結果、晶も清も浩二に捕まり、こっぴどく叱られたのである。
「お前達……まさか、また下らない悪戯でも考えていたんじゃないだろうな? 悪戯も、あまり度が過ぎると身を滅ぼすぞ」
「う……わ、わかったよ。とりあえず、今日は助けてくれたしな。お礼だけは言っとくぜ」
鼻の下を擦りながら、晶は少々照れ臭そうにして言った。自分の知っている人間に、犬に追われて無様な姿を晒したのを知られたこと。それが恥ずかしかったのだろう。
「まったく、相変わらず可愛げのないガキどもだな。今の小学生ってやつは、皆こんな感じなのか?」
白金色の髪を風に揺らしながら、赤い目の少年も負けずに言った。その言葉に晶は、「あんたが言うなよ」と言いそうになって、思わずそれを飲み込んだ。
そう言えば、以前に兄が、学校に少し変わった人間がいると話していた。なんでも無口で無愛想で、今時珍しい一匹狼のような人間だという。もしかすると目の前の少年は、兄の話していたその変わり者なのかもしれない。
まあ、どちらにせよ、今の自分達には関係のないことだ。今日は朝から散々な目に会ったが、それでも助かったのだから別によい。
そろそろ急がないと、学校に遅刻してしまう。通学途中だったことを思い出し、晶達は少年に簡単な礼を述べて走り出す。そんな彼らの後姿を眺めながら、残された少年は足元に映る影に目をやって、ほっと白い息を吐き出した。
「それにしても、騒がしい連中だったな。朝からあの調子じゃ、先が思いやられる。そう思わないか、黒影?」
自分の影に語りかけるようにして、少年はそっと呟いた。無論、影はそれに答えることはしなかったが、代わりに少しだけ揺れ動いているようにも思われた。
「まあ、俺には関係のないことだがな……」
そう言いながら、その少年、犬崎紅は顔を上げて晶達が去った方へと顔を向けた。そして、四人の悪童達が去ったのを見届けると、紅もまた雪の残る道を歩き出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
晶達が学校についたのは、始業のベルが鳴る五分ほど前のことだった。まさに遅刻ぎりぎりであり、もう少し遅ければ担任の先生から大目玉を食らっていたところだ。
朝から犬に追いかけられて、学校にも遅刻しかける。まったくもって、今日はついていないと晶は思う。その上、雪が止んだにも関わらず、今日はなぜだか妙に冷え込む。そのことが、晶を更に欲求不満な状態にしていた。
学校に着いてからも、晶は自分の望みが果たせないことに不服だった。彼の望みとは他でもない、クラスの女子のスカートをめくること。だが、冷え込みの激しい冬の東北で、呑気にミニのスカートなど穿いている者などそういない。
「おい、晶。もう、いいかげんに諦めようぜ。こうやって寒い廊下で待っていたって、スカート穿いた女子なんかいないんだしさ……」
「馬鹿言うなよ。こんなことで諦めたら、変態四天王の名が泣くってもんだぜ」
「でも、女子がスカート穿いてなきゃ意味ないだろ? このままじゃ、卒業までの千回切りは無理なんじゃねえの?」
両手を大袈裟に広げて肩をすくめ、清が晶に向かって言った。
「ねえ……。なんだったら、得点制にしてみたらどうかな? ガードの固い人のスカートめくったら百人分、とかさ」
「おっ、それいいな、秀人。だったら、早速実行に移そうぜ。晶もそれでいいよな?」
隣で聞いていた直己が晶の背中を叩きながら叫ぶ。それでも晶はどこか不満そうな顔で、秀人の言葉にも首を縦に振ろうとしない。
「得点制って……具体的に、誰を狙うんだよ。百人分に匹敵するガードの固い女子なんて、そういないぜ?」
「甘いな、晶。なにも、相手は女子じゃなくたっていいんだぜ。例えば、一組の担任の本ババ。あれのスカートめくってやるとかさ」
こっそりと耳打ちするような形で、直己が更に晶に囁いた。だが、それを聞いた晶はますます嫌な顔をして、耳元で囁く直己のことを振り払った。
「勘弁してくれよ、直己。いくら俺でも、あんな干からびたババアのスカートめくる趣味はないぜ」
「でも、ガードの固さだけで行けば百人分だぜ。どうしてもスカート穿いた女子が見つからないなら、その辺で妥協するしかないじゃん」
当人がその場にいないのをいいことに、直己が好き放題言っている。
ちなみに彼の言う≪本ババ≫とは、六年一組の担任をしている本田先生のことを指す。化粧気がなく厳しいことで有名な、かなり性格のきつい女教師だ。
女子ではなく、より怒られる可能性の高い先生のスカートを狙う。確かに百人分に匹敵するのかもしれないが、それでも晶はそこまでするつもりは毛頭なかった。いくら数が稼げないからといって、自ら寿命を縮めるようなことまではしたくない。
だが、このままでは卒業までに、目標の千人切りを達成することは到底不可能に思われた。少なくとも、一日に三十回近いスカートめくりを繰り返さねば、目標には届かない計算である。
自分で言ってしまった後だったが、晶は激しく後悔していた。一日に三十回もスカートめくりをすれば、さすがに先生に怒られた上、親をも呼び出されて説教だ。そうなれば、ことは自分だけの問題では済まない。最悪の場合、変態四天王はPTAに敗北するという最低の形で解散を余儀なくされてしまう。
こうなれば、気休め程度に適当な女子を見つけ、いつも通りにちょっかい出して楽しむしかないか。そう、晶が思ったときだった。
「ねえ、晶君。あれ見てよ」
秀人が晶の肩を叩き、廊下の向こう側にいる女子のことを指差して言う。彼の指すその先にいるのは、スカートを穿いた一人の少女。ミニではなくロングだが、それでもスカートを穿いていることには間違いない。
「おい、やったじゃんか。今日のターゲット、ようやく発見ってやつだぜ!!」
自分はスカートめくり担当でないにも関わらず、直己が小躍りしながら晶を小突く。もっとも、晶がスカートをめくった後に、大抵の場合は清か直己が追い打ち攻撃を仕掛けるため、ある意味では彼が喜ぶのも無理はないのだが。
ロングスカートを穿いた少女は、晶達に気づいている様子はなかった。それをいいことに、四人は廊下の端にある階段の踊り場に身を潜め、そのまま足音がこちらに近づいてくるのをじっと待つ。
なにしろ晶達は、学校でも有名な変態小学生である。それ故に女子からは敵意を抱かれており、中には晶達の姿を見ただけで逃げ出す者もいる。事を確実に運ぶためには、行動に出る前に女子に見つかってはいけないのだ。
朝からろくな目に遭わなかったが、久々に悪戯を仕掛ける相手が見つかった。ところが、それを喜ぶ清、直己、秀人の三人とは異なり、晶の表情は複雑だった。
「おい、どうした晶? なんか、あんまりやる気ないみたいじゃん」
「ああ……。折角だけど、あいつはやめとこうぜ……」
清達を前にして、晶はそんなことを口にした。いつもの彼とは違う、どこか気持ちを押し殺しているような表情だった。
「なあ、どうしたんだよ。まさか、ここにきて怖気づいたのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど……。ただ、あの女には手を出したらマズイと思うんだよ。ある意味、本ババ以上にさ……」
少女の足音が、徐々にこちらに近づいてくる。しかし、それでも晶はなぜかやる気を出そうとしない。訝しげに思う直己や秀人だったが、清だけは何かを気づいたようで、にやにやしながら晶に向かって口を開いた。
「ははぁん……。どうやら晶、あの女に気があるみたいだな」
確信めいた表情で、清が晶にそう告げた。その言葉に晶だけでなく、直己や秀人も固まった。
「なっ……! いきなりなに言ってんだよ!! 俺があいつのこと好きなんて……そんなはずないじゃんか!!」
「隠すことないぜ、晶。あれ、お前のクラスにいる紺野さんだろ? 晶、ああいうタイプが好みだったんだな」
「違うって言ってんだろ!! 俺は、別に香帆のことなんか、なんとも思っちゃいないって!!」
「おっ、俺達は名字で、しかも≪さんづけ≫で呼んでるのに、晶は名前で呼び捨てか。こりゃ、マジで本気なんじゃねえの?」
「うっ……。そ、それは……」
全力で否定したつもりだったが、それは更なる墓穴を掘っただけだった。気がつけば、直己も秀人もにやけた笑いを浮かべながら、何やら言いたそうな顔をして晶を取り囲んでいる。
「まあ、そういうことなら仕方ないな。紺野さんのパンチラは、俺達が拝んでいいもんじゃない。あれは晶だけに捧げられる神聖なもの。そうだよな、直己?」
「ああ、そうだな。というわけで、俺も今日から紺野さんをターゲットにするのは止めるぜ。あいつに≪邪龍拳≫を決めるのは俺じゃねえ。初めては、お前の手で奪ってやれよ、晶」
「だから、なんでそういう話になるんだよ! っていうか、どうして俺が香帆に浣腸攻撃しなきゃならないんだ!!」
「別に、そんなに全力で否定しなくったっていいんだよ。晶君が紺野さんのこと好きだからって、僕達は馬鹿にしたりしないからさ」
「くっ……秀人まで……」
それ以上は、晶は何も言えなかった。
紺野香帆のことを、晶が気にかけていたこと。それは確かに事実である。しかし、だからといって香帆のことが好きかどうかと聞かれると、直ぐには答えられそうにない。
確かに香帆は、同年代の女子に比べても可愛い部類に入る方だった。アメリカ帰りで気の強いところもあったが、基本は成績優秀で気立てもよい優等生。おまけに小学生にしてはスタイルも良く、中学生になれば確実に部活の先輩などから告白されそうな感じだった。
自分が女子を好きになることなどありえない。自分は変態四天王の筆頭であり、女子など単なる悪戯の獲物に過ぎない。そう頭では思っていても、香帆を前にするといつもの調子が出なくなってしまう。だが、果たしてこれが恋というものなのかどうかは、未だ精神年齢的に幼い晶にはわからなかった。
「まあ、とにかくだ」
何も言えなくなった晶に代わり、清が続ける。
「俺達の間では、今度から紺野さんをターゲットにすることは禁止する。彼女に悪戯してオッケーなのは、晶だけ。これで構わないな」
「ちょっ……勝手に決めんなよ、藤宮!!」
「まあまあ、そう怒るなって。直己も紺野さんには手を出さないって言ってるし、俺も今後は気をつけるよ。彼女の生チチ揉む権利は、今この瞬間からお前に譲ったぜ!!」
「くぅ……。お前達、いいかげんにしろよな!!」
最早、顔だけでなく耳まで赤い。どう見ても猿山の猿にしか見えない形相で、晶が清達を睨む。
確かに、香帆のスカートを清達の前でめくりたくないと思ったのは事実だ。それだけでなく、清や直己の必殺技を、香帆が食らっているところも見たくなかった。
しかし、それを少し口にしただけで、どうしてここまで話が飛んでしまうのか。色恋に関しては人一倍疎い晶には、それがさっぱりわからない。
いっそのこと、このまま清達を張り倒してやろうか。そう思った矢先、晶は何やら殺気のようなものが、自分の後ろに迫っているのを感じて振り向いた。
「あっ……香帆……」
そこにいたのは香帆だった。両腕を胸の前で組み、なにやら白い目でこちらを睨んでいる。いや、正確には睨んでいるというよりも、見下すような視線を送っていると言った方が正しいか。どちらにせよ、香帆は実に不愉快な様子で晶達四人の前に立っていた。
「ちょっと、晶。さっきから、私に手を出すとか出さないとか……いったい、何のこと?」
「えっ……!? い、いや、これには深いわけがあって……」
今の話を香帆に聞かれていたら、それこそ話が更にややこしいことになる。晶はなんとか誤魔化そうと考えたが、特に良い言い訳が思いつかない。そして、そうこうしているうちに、今度は直己が晶に代わって喋り出した。
「いや、別に大したことないんだけどさ。紺野さんのおっぱいや尻が、誰のものかって話をしてただけだから」
「んなっ……!?」
失言、ここに極まれり。へらへらと笑っている直己を他所に、晶、清、秀人の三人が思わず凍りつく。そして、その前では顔を真っ赤にさせた香帆が、額に青筋を立てながら震えていた。
「なるほど……。あんた達、人がいないのをいいことに、朝っぱらからそんなこと話してたわけね……」
体を小刻みに震わせながら、香帆の拳に徐々に力が込められてゆく。それを見た晶は後ずさりながら、なんとか説明しようと試みる。
「ご、誤解だ、香帆! 話せばわかる!!」
「そう……五回引っ叩いて欲しいのね? 四人だと平手が一発分余るけど……お釣りはあんたがもらうってことでいいわよね?」
「ばっ……や、やめろ!! 暴力反対!!」
「問答無用! 校庭の雪に頭でも突っ込んで、少しは反省してきなさい!!」
瞬間、晶達の頬を香帆の平手が張り倒し、激しい痛みが頬に響く。乾いた音が廊下に響き渡り、晶達の悲痛な叫びがこだまする。
数分後、階段の踊り場には頬を片手で押さえる清や直己、それに秀人の姿と、両方の頬を赤く腫らしている晶の姿があった。
「ああ、痛ぇ……。香帆のやつ、本気で引っ叩きやがって。俺がいったい、何をしたって言うんだよ……」
零れそうになる涙をこらえながら、晶がそんなことを口走った。叩かれた痛みもあるが、それ以上に、香帆から軽蔑の眼差しを受けたという事実が悲しくて仕方がない。いつもであれば女子を敵に回すことなど平気だったが、今日に限っては耐えられそうになかった。
「おい、直己……。次からは、言葉には気をつけてくれよ。お前のせいで、酷ぇ目に遭ったぜ……」
「悪ぃ……。マジ、反省してる」
互いに自分の頬を抑えながら、直己と清が話していた。休み時間はそろそろ終わりに近づいていたが、この頬の腫れは当分治まりそうにない。仕方なく、頬を抑えたままの格好で、四人は階段の踊り場を後にする。
悪戯の一つも成功させられず、果ては失言から女子に平手を食らって退散する。なんとも情けない結末だが、たまにはこんな日もあるだろう。互いにそんなことを言って励ましつつ、≪火乃澤小変態四天王≫は、敗者としてそれぞれの教室に戻って行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
教室に戻ってからも、晶の頬の腫れは引かなかった。どうも、かなり酷く叩かれたらしく、香帆の手の平の痕がくっきりと残っている。
廊下側の席の前方を見ると、そこには未だ不機嫌そうにしている香帆がいた。何も言わなければ可愛い顔も、今はどこか恐ろしく見える。こういう場合、下手に刺激しても逆効果になるだけだ。
それにしても、今日は本当に最悪の日だ。登校中は犬に追いかけられるし、学校には遅刻しそうになる。おまけに清達との会話を香帆に聞かれ、全員が平手打ちを食らってしまった。
(ったく、香帆のやつ……。ちょっとエロい話したくらいで、あそこまで怒んなくったっていいのにさ……)
腫れた頬を抑えつつ、晶は誰に見せるともなくむくれて見せた。確かに、香帆をネタにエッチな話をしていたのは事実だが、それだって晶が中心になってしたわけじゃない。失言も直己の口から漏れたもので、晶は何も言っていない。
それなのに、香帆は何故か晶のことだけ一発多く引っ叩いた。恐らくは晶が≪変態四天王≫の筆頭として名を馳せているからだろうが、それにしても理不尽な話だ。
(せめて、こっちの話を聞いてから、引っ叩く相手を選べっての!!)
思わず声に出しそうになったが、それはなんとか押しとどめた。ここで香帆に聞かれたら、次に何をされるかわかったものではない。
悶々とした気持ちのまま、晶は始業のベルが鳴るのを待つ。次の授業は苦手な国語。それを考えただけで、ますます気が重くなる。
もう、今日は悪戯もやめて、大人しくしていた方がいいかもしれない。国語の教科書を広げながら、ふと晶がそんなことを思ったときだった。
教室の戸が唐突に開いて、その向こう側から背丈の低い少年が姿を現した。身長からして、恐らくは三年生か四年生。少なくとも、晶と同じ六年生ではない。
(あいつ、確か香帆の弟だったな。名前は……レオとか言ったか?)
教室にやってきた少年のことを、晶は既に知っていた。もっとも、彼は別に香帆からレオを紹介されたわけではない。
晶がレオのことを知っているのは、レオが度々姉である香帆に借り物をしに来るからだった。昨日は鉛筆、その前はノート。とにかく、晶でさえ呆れてしまうほどに、レオは何かしら忘れ物をしては香帆に借りに来る。
晶も悪ガキではあったものの、忘れ物に関してはレオの方が上手に思われた。少なくとも、晶は同じ物をそう何回も忘れるほど馬鹿ではない。だが、レオは反省するということを知らないのか、決まって一日に一回は忘れ物をして姉のとことを訪れるのだ。
にたにたとした、それでいて恥じらうような笑みを浮かべながら、レオが教室に入ってきた。その姿を見るなり、一部の女子達が「キモ~イ」と連呼して遠巻きにあざ笑う。何を考えているのかわからないレオのことが、彼女達には実に薄気味悪く映るらしかった。
笑っているのか、それとも恥ずかしがっているのか。なんとも言えない奇妙な笑みを浮かべたまま、レオは姉である香帆の机の前にやってきた。そして、何やら英語交じりの日本語で、困った顔の香帆に話しかける。
どうせまた、何かを忘れて香帆に借りに来たのだろう。果たして晶の予想は正しく、どうやらレオは今日も授業に必要な道具を家に忘れて来たらしい。
いつもなら、ここで香帆が道具を渡し、それでレオは去って行く。今日もまた香帆が力を貸して、すぐにレオは帰るだろう。そう思った晶だったが、今日に限ってレオはなかなか帰ろうとしなかった。いや、正確には、帰ろうにも帰れない状態になっていた。
今日、レオが香帆に借りに来たのは、三角定規とコンパスだった。恐らく、次の授業は算数。それに必要な道具を家においてきた。そういうわけだ。
三角定規やコンパスなど、図形を勉強している時には絶対に忘れてはいけないものだ。晶も決して頭はよくなかったが、そのくらいは理解している。学校の授業でいつ図形が出されてもいいように……というわけではなかったが、不精な晶はコンパスも定規も常に道具箱の中に押し込んであったため、それに救われていることが多かった。
ところが、そんな晶とは反対に、香帆は整理整頓がとても上手な少女だった。不要なものはさっさと家に持ち帰り、机の中はいつも綺麗だ。もっとも、今回ばかりはそれが仇となり、香帆もコンパスを持って来ていないようだった。
このままでは、レオが授業を受けられない。そう思った香帆は徐に席を立つと、教室にいる全員に向かって声を張り上げた。
「ねえ! 誰か、コンパス持ってる人いない?」
香帆の声は、決して小さくない。どちらかと言えば声は大きな方だったし、現に教室の隅まで声は届いていた。
しかし、そんな彼女の想いなど関係ないとばかりに、教室にいる生徒たちは誰も返事をしなかった。友達とのお喋りに夢中な者。次の授業の準備をするため、慌ただしく教科書を机の中から引っ張り出している者。その誰もが、本当は香帆の声が聞こえているにも関わらず、あえて無視する道を選んでいた。
(聞こえているなら、ちゃんと力になってやれよな……)
そう思う晶だったが、彼らは別に香帆を無視しているわけではない。ただ、レオのことを薄気味悪がっている数名の女子がいることから、例え聞こえていても、コンパスを素直に貸す者など現れないだろう。
「仕方ねえ。ここは俺が、一肌脱ぐか!!」
そう言うが早いか、晶は机の中から古びたコンパスを引っ張り出して立ち上がった。ケースも破損し、針も錆びついてしまったようなボロボロのコンパスだったが、それでも無いよりはマシだろう。
コンパスを取り出した晶はレオのところまで歩いて行くと、無言のままそれを突き出した。
「ん……」
咄嗟に口から出て来た言葉がそれだった。晶はまだ小学校六年生。当然、英語など簡単な単語を耳にしたことがあるくらいで、本格的に話せるわけではない。
「ほら、使えよ……」
今度は日本語だったが、それでもレオには通じたようだった。今まで燻っていたレオの表情が途端に明るくなり、彼はコンパスを晶の手からさらって走り出す。渡してもらったというよりは、奪い去って行ったと言った方が正しかった。
(なんだよ、あいつ……)
自分から貸すと言って席を立ったものの、晶はつい、そんなことを思ってしまった。
人から物を借りたなら、簡単な礼くらいは言うべきだろう。そのくらいは、変態四天王と言われて悪者扱いされている晶にもわかる。
自分の手からコンパスと定規をひったくって行ったレオに、晶は軽い怒りにも似た感情を覚えていた。馬鹿の自分でもわかっている常識が、レオにはない。そのことが、妙に晶の神経を逆なでしてならなかった。
やりきれない気持ちのまま、晶は後ろにいる香帆の方へと目を向けた。階段の踊り場では晶に対して随分と怒っていたようだが、今はそんな様子も感じられない。ただ、向こうも何を言っていいのかわからないようで、黙って晶から視線を逸らしていた。
(まっ、仕方ねぇか。とりあえず、これで少しは汚名返上できてるといいけど……)
別に、香帆に誉めてもらいたくてやったわけじゃない。そう自分に言い聞かせ、晶は大きく伸びをして自分の席に戻った。
自分が香帆に何かしてやろうと思った理由。それは晶にもわからない。ただ、階段の踊り場のことは抜きにしても、困っている香帆のことを放ってはおけなかった。
――――どうやら晶、あの女に気があるみたいだな。
踊り場で、清が言っていたことが頭をよぎる。自分は本当に香帆のことが好きなのか。もしもそれが本当なら、自分はこれからどうすればいい。
悶々とした気持ちのまま、晶は授業もそっちのけであれこれと考えていた。目の前の黒板では担任の教師が何やら説明を続けているが、それも耳には届いていない。そんな晶の意識が授業に戻ったのは、彼の惚けた顔に気がついて、担任が投げたチョークが額に直撃した時だった。
「痛ってえ!!」
チョークの当たった場所を抑え、思わず叫んで立ち上がる晶。瞬間、教室が爆笑の渦に包まれ、晶は決まりが悪そうにして辺りを見る。
右も左も、教室にいる生徒の殆どが、晶を見て笑っている。そんな中、ふと香帆の方へ目を移すと、彼女だけは笑っていなかった。
間抜けな晶に呆れていたのか、それとも単に笑いの沸点が高いだけなのか。どちらにせよ、晶は妙に恥ずかしい気持ちになって再び席についた。
いつもであれば、この辺で一発ギャグでもかまして更なる笑いを取るところだが、今日に限ってはそんな気も起こらない。それよりも、香帆の前でこれ以上恥をかきたくないという気持ちの方が強かった。