表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/9

~ 逢魔ヶ刻  魔鏡 ~

いつも側にいた君が、こんなにも遠くなるなんて……どうして想像できただろう。

遠い遠い場所に行ってしまった君は、いつかは消えてしまうのかな。

会えるものなら、もう一度会いたい。

たとえそれが、私の知る君の姿をしていなくとも……。

 喪の儀式というものは、どうしてこうも陰鬱なのだろう。通夜の席に参列していた紺野香帆こんのかほは、ふとそんなことを考えた。


 楽しい葬式などあるはずもないとは思うが、全員が全員、黒づくめの服に身を包んでいるのを見ると、それだけで気が重くなってくる。ましてや、今日の通夜が自分の身内のものだとすれば、その気持ちはますます大きくなる。


 通夜の空気は、香帆も以前に田舎の祖父が亡くなった際に経験していた。あれは、忘れもしない、香帆の一家が海外から日本へ帰ってきたばかりのこと。彼女達が暮らしている母方の実家で祖父が亡くなり、わけもわからぬまま通夜から葬儀にまで参加させられた。


 帰国子女である香帆は、当然のことながら日本の葬儀の形式など知るはずもない。両親の仕事の都合により長らくアメリカで過ごしていたためか、葬式といえば教会で行うものだとばかり思っていた。


 帰国と同時に祖父が亡くなったとき、初めて経験した日本式の葬儀。だが、そのときでさえ、こうも陰鬱な感情を抱くことはなかったように思える。亡くなったのが顔も見たことがない祖父だったというのもあるだろうが、それ以上に、呼ばれて葬儀に参加する側と、実際に葬儀を執り行う側の気持ちの違いというものが関係しているのだろうと思った。


 香帆は、小学校六年生。別に自分が喪主になるわけではないが、それでも自分の家族が亡くなったのだとすれば、その失意の念もまた大きかった。なにを隠そう、今日の通夜は香帆の弟のものだったからである。


 紺野レオ。それが、香帆の弟の名前だった。今では日本でも子どもに変わった名前をつける親など珍しくないが、それでも名前が片仮名のままというのは、香帆の知っている友人の中にもいなかった。


 日本で生まれた香帆と違い、レオはアメリカで生まれた子だ。そのため、向こうの人にも馴染みやすいように、あえて英語圏でも分かりやすい名前をつけたのだという。名前に当て字の漢字さえ振っていないのは、レオの父親が直ぐに子どもの名前を読めるようにするためだった。


 話は少々複雑になるが、香帆の父親とレオの父親は違っている。母親は同じなのだが、レオは母の再婚相手との間にできた子ども。つまり、香帆とは異父姉弟というわけである。


 香帆の母は、香帆がまだ幼い頃に彼女の父親と離婚した。理由は定かではないし、香帆も聞くつもりもなかったが、とにかく香帆には自分の父親の記憶がない。まだ香帆が物心つく前に母と別れたこともあってか、香帆は父親の顔さえ知らなかった。


 そんな香帆であったが、不思議と寂しいと思うことは少なかったように感じていた。


 母が父と別れたその次の年辺りだろうか。香帆は母に連れられる形で日本を離れ、そのままアメリカへと渡って行った。後にそれが今の父、即ちレオの父と再婚したためであると聞かされた。


 初め、母からこの話を聞いたときは、さすがの香帆も驚いた。香帆にとって父親といえば、レオの父である紺野クリスただ一人。父は日系アメリカ人であるために、そこまで違和感を抱いたこともなかったのだが、今まで自分が父親だと思っていた人間と血が繋がっていないと知ったときには普通に衝撃を受けた。


 だが、そうはいっても、その当時の香帆はまだ小学校に上がったばかりの頃である。初めはショックを受けたものの、直ぐに忘れて今の自分の世界を大切にすることで乗り切った。


 例え血が繋がっていなくとも、自分の父は紺野クリスただ一人。そして、レオが大切な弟であることにも変わりない。そう思って、今までを実に楽しく過ごしてきた。クリスも香帆のことを実の娘のように思って接してくれたし、レオも香帆のことを、頼れる姉として強く慕ってきたからだろう。


 円満な一般家庭とは必ずしも同じとはいえないが、それでも幸せな生活。それが破られたのは、香帆の家族が日本に帰国してからだった。


 香帆が日本に帰って来たのは、彼女が十一歳になったばかりの頃だった。小学校の学年にして五年生。これから日本で勉強をしてゆくには、少しばかり遅い時期だった。


 長らく外国で過ごしていた者が、いきなり日本の学校に入る。それだけでも緊張するものなのだろうが、香帆はそこまで苦労せずに周囲に溶け込めた。差別や偏見の眼差しを向けて来る者もいたが、従来の負けん気の強い性格から、そういった連中の嫌がらせは全て跳ねのけた。アメリカ育ちということも相俟って、香帆は自分の意見をはっきりと口にするタイプだった。


 日本語に関しても、覚えるのにそれほど苦労はしなかった。もともと、香帆は日本で生まれた人間である。記憶にこそないものの、幼い頃に聞いていた言葉は全て日本語だ。そのため、頭の奥底には日本語の言葉が染み付いていた可能性がある。


 加えて、香帆は至って真面目で勤勉な性格だった。十一歳ともなれば、まともに勉強して語彙力を増やしてゆくのもそこまで大変なことではない。母も香帆とは昔から日本語で話をしていたし、香帆もアメリカで日本人の通う学校に行っていたので、殆ど違和感なく日本語を扱うことができた。


 問題なのは、むしろ弟のレオの方だった。


 香帆とは違い、レオは生まれも育ちもアメリカである。しかも、香帆とは正反対に甘えん坊な性格で、自己主張もそこまで激しいわけではなかった。何か困ったことがあれば、すぐに香帆を頼って来たのは記憶に新しい。


 後々のことを考えると、レオにも日本語を話せるようになってもらわなければ困る。そう考えて教育をしてきた両親だったが、真面目な香帆とは違い、レオに日本語を教えることは大変なことだった。


 何しろ、向こうの社会では、当然のことながら日本語を使う者の方が少ないのである。家や学校で日本語を聞いていても、それ以外の場所で聞こえてくる言葉は全て英語。そのため、レオの頭の中では日本語と英語が混ぜこぜになり、どちらの言葉もなかなか覚えられないでいた。要するに、中途半端なバイリンガルになってしまったのだ。


 控え目で大人しく、決して自己主張が激しいわけではない。それに加え、甘えん坊で常に両親や姉を頼ってしまうような性格。そんなレオが日本の学校に溶け込めないのは、当然と言えば当然の流れだった。


 また、既に十歳を越えていた香帆とは違い、帰国当時が小学校三年生だったことも、レオの言語能力を中途半端にしてしまうことに拍車をかけたようだった。これからもっと多くの言葉を覚え、難しい勉強もこなして行かねばならない。そんな時期に全く異なった環境に放り込まれれば、戸惑わない方が嘘になる。


 結局、早い段階で日本の学校に馴染んだ香帆とは異なり、レオは最後まで日本の学校に溶け込むことはできなかった。そして、とうとう最後は学校の屋上から飛び降りるという形で、短い生涯を閉じてしまった。


 通夜の参列客を横目にしながら、香帆はある確信を抱いていた。それは、弟であるレオの死が、虐めを原因としていることを。


 日本語が下手で、周りと上手にコミュニケーションが取れないレオ。そんな彼が虐めの標的にされていたことは、当然のことながら香帆も知っていた。


 ある時、レオは全身を酷く泥で汚した格好で帰ってきた。不審に思った香帆が問いただしても、ただ遊んでいたと答えるだけ。が、しかし、風呂から出たレオの体を見たときに、手や足に大きな痣ができていたことを香帆は覚えている。


 また、それ以前にも、レオはお使いに行くよう頼まれて母から渡された金を、そっくりそのまま失くして帰って来るようなことが何度かあった。途中でうっかり落としてしまったと言っていたが、今になって思えば、これも誰かがレオから金を巻き上げていたのかもしれない。


 そして、決定的なのは、ここ最近になってからの香帆の身の回りで起きたことだ。香帆は、彼女のクラスの同級生が、レオに執拗な暴力をふるっている現場を目撃してしまったのである。


 アメリカ育ちで発育が良いとはいえ、それでも香帆は女の子だ。同じ歳の男子を数人相手に喧嘩ができるほど強くもなく、案の定、逆に取り押さえられたあげく弟が虐められる姿を見せつけられた。終いには、香帆自身も屈辱的な行為を強要され、弟を助けるために已む無く従うしかなかった。


(レオは、クラスのやつらに殺されたんだ……)


 唇を噛み締めながら、香帆は込み上げて来る感情を必死に押さえようとした。ここで負けてしまえば、両親のいる前で大声を出して泣いてしまう。そんな情けない姿を、参列客に見られるのが嫌だった。


 参列客の中には、香帆やレオと同じ学校に通っている生徒達もいる。その中には当然のことながら、レオを虐めていた人間も含まれている。


 いや、そもそも虐めの事実を知っていたにも関わらず、それを止めようとしなかった時点で、傍観者達もまた同罪だ。教師も生徒も、今の香帆にとっては憎しみの対象でしかない。彼らのせいで弟が死んだ。そう思うと、悔しくて本当に泣きそうになってしまう。


 焼香の客が一通り捌けたところで、香帆は両親と共に通夜ぶるまいの席に通された。これからは、主に親族を中心に、香帆の家が出した食事や酒を口にする。


 もっとも、未だ小学生の香帆にとっては、こんな席は窮屈なだけで面白くもなんともない。しかも、父親が日系アメリカ人である香帆の家は、そもそも母方の親族しか日本にはいない。結果、どうしても町内の知人まで通夜ぶるまいの席に通すこととなり、なんとも言えない奇妙な空気が場を支配していた。


 本来であれば、一番悲しみに暮れ、一番精神的に疲弊しているのは、他でもない遺族のはずである。しかし、実際はそんなことお構いなしに、誰もが出された食事や酒を、さも当たり前のように口にして話をしている。その横で、慣れない接待に気を使いながら食事や酒を運んでいる母の姿が痛々しかった。


 結局、レオが死んだことを悲しんでいる者など、自分の家族を除いて他にいない。本当ならば、一番気を使ってもらいたいのは父や母、そして自分だというのに、なぜこうまでして客に遠慮をしなければならないのか。しかも、その客の中には、レオを自殺に追い込んだ人間が混ざっているかもしれないというのに。


「ねえ、お母さん……。私、ちょっと気分が悪いの……」


 本当は別に気分など悪くなかったが、香帆はあえて母にそう告げた。とにかく、この場を離れたい。これ以上見ていると、自分の顔が知らない内に醜く歪んでしまうような気がして怖かった。


「仕方ないわねぇ……。だったら、向こうの部屋で少し横になる?」


「ううん、平気。ちょっと外の空気を吸ったら、よくなると思うから」


「ああ、そういうことね。だったら、あなたは少し席を外していなさい。お酒の席は、まだ続きそうだから」


 香帆の言葉を聞いた母は、通夜ぶるまいの席についている客をちらちらと横目に見てそう言った。特に、父の仕事の関係者など、男性客を中心に見ているようである。どうやら香帆が、酒や煙草の匂いを嫌っていると勘違いしたらしい。


「うん。それじゃあ、ちょっとその辺に出ているから。でも、何か用があったら呼んでね。私に手伝えることがあれば、何でもするよ」


 適当に、口だけはそう告げて、香帆は通夜ぶるまいの席を後にした。母は何かを勘違いしていたようだったが、今の香帆にとっては好都合だった。


 通夜の会場の裏口から、香帆はそっと外に出た。誰かに見られても別に心配することなどなかったが、あの場所から自分だけ逃げ出したことに、なんとなく後ろめたい気持ちがあったのかもしれない。


 外に出ると、冬の冷たい風が香帆の肌を刺した。今の季節は二月。一年の中でも、寒さが厳しい季節の代表格だ。


 以前、祖母から聞いた話では、二月は暦の上では既に春であるとのことだった。しかし、この寒さを目の当たりにしてしまっては、到底春だとは思えない。


 昔の人は、なぜこんな寒い季節を春だと思ったのだろう。香帆にとって、日本人の感覚の中には、未だ理解できない部分が存在しているようだった。


 はぁっ、と息を吐くと、それは白い霧になって辺りに広がった。母にはああ言ってしまったが、やはりどうにも寒くてやっていられない。せめて、部屋の外で待つ程度にした方がよかったか。そう、香帆が思った時だった。


「ネエ、チョットイイカナ?」


 聞き覚えのない声に、香帆は思わず後ろを振り向いた。


「誰……?」


 思わず、そう聞き返してしまう。


 香帆の目の前にいたのは小柄な一人の少女。背恰好からして中学生くらいかと思われたが、小学生に見えなくもない。最近は小学校中学年くらいでも、最上級生と見紛う程に体格の良い子もいるくらいだ。香帆自身、自分の背が少し高いことに、妙なコンプレックスを抱いていた時期もある。


「貴方、レオ君ノ知リ合イ?」


 こちらの質問に対し、少女は更に質問で返して来た。調子を崩された感じだったが、それでも香帆は、少女の口からレオの名前が出たことに驚いた。


 この少女は、レオの知り合いなのか。見たところ、弟と同学年には思えない。では、自分と同じ小六か、もしくはそれより一つ下か。


 相手が誰なのかはわからなかったが、少なくともレオの名前を知っている時点で、同じ小学校に通う生徒ではないかと香帆は考えた。それに、彼女の話している言葉は、どこか片言の日本語だ。もしかすると自分達と同じ、帰国子女なのかもしれない。


「私は紺野香帆よ。レオのお姉さんなんだけど……聞いてないの?」


「一応、知ッテハイタヨ。デモ、コウシテ会ウノハ初メテ……」


 どこかぎこちなく、はにかんだような笑顔で、少女は香帆の前にそっと右手を差し出して来た。それが握手を求めているのだと理解するまでに、香帆は数秒の時間を要した。


 アメリカにいた頃は普通だったが、日本で挨拶代わりに握手をする人間は珍しい。やはり目の前の少女は、帰国子女ということなのだろうか。


 相手の差し出して来た右手に合わせ、香帆も自分の右手を重ねる。瞬間、ぞっとする程に冷たい肌の温度が伝わって、香帆は思わず顔をしかめた。


 こちらの体温を全て奪い去ってしまうような、極限までに冷え切った手。氷の塊と言っても差し支えない程に、それは香帆の手から体温を奪って行く。まるで、骨の髄まで凍りついているかのように、少女の手はおよそ生きている人間のものとは思えないほどにまで冷たくなっていた。


「ちょっ……! あなた、随分冷たい手をしてるのね。少し、建物の中に入って暖まった方がいいんじゃない?」


「別ニ、平気ダヨ……。ソレヨリモ……アナタ、チョット私トオ話シデキルカナ?」


 自分の手の冷たさをまったく気にしていない様子で、少女はクスクスと笑い名がら言った。


 話すなら、本当は部屋の中で話したい。そう思った香帆だったが、この少女の前では、なぜかそんなことを口にすることさえ憚られた。


「アソコニ座リマショウ」


 そう言って少女が指差したのは、建物の裏手にある駐車場の一角だった。車を止めるために作られたコンクリートの出っ張りがあり、幸いなことに、そこが一つだけ空いていた。


 少女と共に、香帆はその出っ張りの上に腰かける。駐車場の脇には雪が残っており、大地もめっきり冷え切っている。


 初めはコンクリーに直に座ることさえも躊躇われたが、直ぐにそれも慣れてしまった。雪の上に直接腰かけているわけではないためか、思ったほど寒いとは感じなかった。


「ソレジャア、自己紹介シテオクネ。私、マオ。漢字ダト、コウ書ク」


 香帆の隣に座った少女が、指で地面をなぞって字を書いた。少女の指の動きから、それが≪真央≫という漢字を示しているのは直ぐにわかった。


「へえ、真央ちゃんか。でも、あなた……日本人じゃないんでしょう?」


「ウン、ソウダヨ。私、中国カラ来タ」


「ふうん、そうなんだ。それじゃあ、私と同じだね。私も五年生になるまでは、アメリカで暮らしていたんだ。」


「デモ、香帆ハ日本語上手。私、日本ニハ来タバカリダカラ……日本語、ソンナニ上手クナイ」


「そんなことないよ。真央ちゃんだって、ちゃんと私とお話できてるじゃない」


「フフ……。アリガト、香帆」


 片言の日本語で話しながらも、真央と名乗った少女は屈託のない笑顔を香帆に向けて来た。先ほどのはにかんだような様子はなく、今度は自然な笑いだった。


 育った場所は異なっているものの、香帆とは似たような境遇を持った少女、真央。そんな真央に対し、香帆もいつしか心を許しつつあった。この日本において、自分の気持ちをわかってくれそうな数少ない相手。そんな人間に出会ったことが、彼女の心の警戒を緩めたのかもしれない。


 それから二人は、互いに他愛もない会話をして楽しんだ。外の寒さなど当に忘れ、お互いの育った国のこと、日本に来てからのことなどを話し合った。


 香帆は自分がアメリカで暮らしていたときの話を中心にしたが、真央は自分が中国にいたときの話をあまりしたがらなかった。どうも、かなり辛い思い出もあるようで、代わりに話すのは日本に来てからのことばかりだった。


 真央の話では、今は頼りになる兄のような存在と一緒に不自由のない暮らしをしているという。自分は常に長女として扱われてきたため、香帆はそんな真央のことが少しだけ羨ましく思えた。


 だが、しばらくすると、香帆は急に何かを思い出したかのようにして真央に尋ねた。真央が自分をこの場に引き留めた理由。それをまだ聞いていないことに気づいたのだ。


「あっ、そういえば……真央ちゃん、私に何か話があるんじゃなかったの?」


「ウン、ソウダヨ。実ハ……香帆ニダケ、教エテオキタイコトガアルンダ……」


 そっと耳打ちするような声で、真央は香帆に囁いた。真央の口から吐き出された息が首筋にかかった途端、香帆は思わず肩を震わせて飛び退いた。


 冷たい。真央の手を握ったときもそうだったが、彼女の息は、まるで冷凍庫の扉を開けたときに漏れて来る冷気のように冷え切っている。コートを着ている上からでも、その布地を通り抜けて肌に直接触れて来るような寒さと言ったらいいだろうか。とにかく、これが同じ人間のものかと疑ってしまうくらい、真央の吐く息は冷たかった。


「私にだけ教えたいこと? それ、なんなのかな……」


 ゴクリと唾を飲む音が、香帆の耳にもはっきりと聞こえた。なぜかは知らないが、真央の放っている空気が急に変わった。そんな気がしたからだ。


「ネエ、香帆。アナタ……≪鏡サマノ儀式≫ッテ知ッテル?」


「えっ……? ううん、私は知らないよ」


「ソウ……。ダッタラ、私ガ教エテアゲル。コレハ、香帆ノ通ッテイル小学校ニ伝ワル噂ナンダケド……」


 勿体をつけるようにして、真央がにやりと笑った。その目がきゅっと細くなり、口元が三日月のような形に曲がったところで、香帆は何やら良くないものを感じて後ずさった。


 これから真央は、いったい何を話そうというのだろうか。いや、それ以前に、真央の言っている≪鏡さまの儀式≫とは何なのか。


 本当は、これ以上ここにいてはいけない。真央の話すことに、耳を傾けるのは危険だ。


 そう、本能が告げていたが、香帆は動けなかった。目の前で微笑を浮かべた真央の顔を見ているだけで、金縛りにあってしまったかのように身体が動かない。それに、今しがた楽しく話していたばかりの真央の顔を思い出すと、自分の恐れがどこか気のせいのような感じもしていたからだ。


「コレハ、私ガ聞イタ話ナンダケド……」


 あくまで片言の日本語のまま、しかしどこか自信に満ちた口調で、真央はゆっくりと話し始めた。その、細く透き通るような声に、香帆はいつしか魅了されるようにして耳を傾けている自分がいるのに気がついた。


 ここまで来たら、もう真央の話を聞く他にない。この場を覆う奇妙な空気も、そして外の寒ささえも、今の香帆にとってはどうでもよいことだった。


 それから真央は、自分の知る≪鏡さまの儀式≫のことについて、香帆にゆっくりと語っていった。駐車場には相変わらず人気がなく、香帆は自分と真央以外の人間が全て世界からいなくなってしまったように感じていた。


 真央の口から語られた≪鏡さまの儀式≫。それは、香帆も初めて聞く話だった。


 香帆の通う、N県立火乃澤ほのさわ第二小学校。そこにある旧校舎の東階段に、古ぼけた大鏡があるという。その鏡の前で、午前二時にある儀式を行うことで、大鏡に鏡さまの力が宿るのだという。


 鏡さまを呼びだすために必要なのは、これまた古くから大切にされてきた二枚の鏡。大きさや種類は何でもよいが、長きに渡り大切にされてきたという部分がポイントらしい。そんな鏡を二枚用意して、大鏡に向かい合うように、合わせ鏡の形にして置くのだという。そして、鏡と鏡の間に挟まるようにして自分が立つことで、鏡さまが一度だけ、その儀式を行った人間が最も会いたいと思った人間と会わせてくれるのだという。


 全てを話し終えたとき、真央は香帆と語らっていたときに見せていた屈託の無い笑顔を浮かべていた。そこには先ほどの冷たさはなく、香帆が初めて会った際に見た真央しかいなかった。


「ネエ、面白イ話デショウ? 香帆ハ、コノ噂ヲ聞イタコトガアル?」


「ううん。そんな話、私も初めて聞いたわ……」


 偽りではなく、それは正直な答えだった。


 香帆も日本に来て長いわけではなかったが、それでも既に一年ほどは暮らして来た。その間、当然のことながら、自分の通う学校に伝わる奇妙な話を耳にしたことはある。


 だが、真央の話してくれた≪鏡さまの儀式≫に関する話は、香帆も初めて聞いたものだった。ともすればありがちな都市伝説なのだろうが、小学生が考えた作り話にしては、妙に儀式の手順が凝っている。あえて古びた、それでいて大切にされていた鏡を利用するところや、鏡と鏡を合わせてその間に自分が立つところなどが、その話の信憑性を高めているようにも思われた。


 自分が会いたいと思っている人に、もう一度だけ会えるという儀式。そんなものが存在するのであれば、香帆は躊躇うことなく試してみたいと思っていた。もしも噂が本当ならば、今の香帆にとっては一番に会って話したい相手がいるのだから。


「香帆、私ノ話、信ジテクレル? 私ノコト、馬鹿ニシタリシナイ?」


「う、うん……。でも……こんなこと、私に話してどうするの?」


「別ニ、ドウスルッテコトモナイヨ。タダ……香帆ガ鏡サマノ力ヲ借リタイッテ言ウナラ、私ハコレヲ香帆ニアゲル……」


 そう言いながら、真央は自分のポケットの中から何やら小さな物を取り出した。赤と青。それぞれが異なる色の錦模様に塗られたそれは、よく見ると小さな鏡だった。


「コレ、私ノ家デ昔カラ使ッテイタ鏡。モシモ香帆ガ鏡サマヲ呼ビダシタクナッタラ、コノ鏡ヲ使エバ、キット来テクレル」


「えっ……!? で、でも、本当にいいの? 私、こんな高そうなもの……」


「イイカラ、貰ッテオイテ。香帆ガ使ワナイナラ、別ニソレデイイカラ」


 強引に、半ば押し付けるような形で、真央は香帆に二枚の鏡を手渡した。その瞬間、真央の指先が手に触れて、香帆は危うく鏡を取り落としそうになる。


 冬場ということもあるのだろうが、それでもやはり真央の手は冷たい。その辺に残っている雪に触れたのではないかと勘違いしてしまう程に、およそ人の体温が感じられない。


「ソレジャア、私ハモウ行クネ。ソレト……今日ノコトハ、誰ニモ話シタラ駄目ダカラネ……」


「だ、誰にもって……。そんなに秘密にしなくちゃいけないこと?」


「香帆ハ信ジテクレタケド、他ノ人ハ、キット私ノコト馬鹿ニスル。ダカラ、アマリ他ノ人ニ、私ガ話シタコトヲ言ワナイデ欲シイ……」


「あっ……うん。でも……また今度、学校で会ったら話そうね。私のクラスは六年三組だから、遊びに来てよ」


 手渡された二枚の鏡と真央の顔を見比べながら、香帆はそう言って真央と別れた。途中、ふと気になって後ろを振り向くと、そこには既に真央の姿はない。



――――チリン、チリン……。



 突然、鈴の音が鳴り響き、香帆はビクッと肩を震わせた。


 いつの間に現れたのだろう。先ほどまでは何もいなかった駐車場の中に、一匹の黒猫が迷い込んでいた。辺りにはまだ雪が残っているにも関わらず、猫は何ら気にしない様子で腰を下ろすと、その金色の目で香帆のことをじっと見た。


 黒い、闇よりも深い色をした艶のある毛並み。濃厚なタールを全身に塗りたくったようなその姿が目に入った瞬間、香帆の脳裏に微笑を浮かべる真央の顔が思い起こされた。氷のように冷たく、それでいてどこか魅了されてしまうような奇妙な笑み。それと同じような雰囲気を、目の前にいる猫の瞳から感じたのである。


「……ニャオ」


 猫が、低く唸るような声で鳴いた。こちらを威嚇するでもなく、かといって甘えてくるわけでもない。何とも言葉に表せないが、とにかく不愉快極まりない、人間の生理的嫌悪感をかき立てるような独特の鳴き声だ。


 駐車場を吹き抜ける冷たい冬の風に混じり、何やら生温かい風が香帆の頬を打った。その瞬間、香帆は途端に怖くなり、一目散に建物の中へと舞い戻った。その手に握り締めた鏡をポケットの中に放り込むと、慌てて通夜ぶるまいが行われている部屋に飛び込んだ。


「どうしたの、香帆。そんなに慌てて……」


「な、なんでもないよ。ただ……外の空気を吸ってたら、ちょっと寒くなってきちゃって……」


「あら、そうなの。まあ、それだったらいいけど……他の人もいる手前、あまり騒がしくしたら駄目よ」


「わかってるわよ、そんなの。お母さんは、心配しなくても大丈夫だから」


 こちらを心配する母に適当な理由を述べて、香帆は部屋の隅に用意されていた自分の席に座った。既に通夜ぶるまいの席も終わりに近づいており、気がつけば人の数も先ほどより少なく思える。


 そっとポケットの中に手を伸ばすと、そこには真央からもらった二枚の鏡があった。


 赤と青の錦で彩られた外枠を持つ、小さな小さな鏡。それこそ、女の人の化粧ポーチの中に収まってしまいそうなほどに小さなもので、手鏡とさえ呼べるかどうか怪しいくらいの大きさだ。


 周りの人に気づかれないよう、香帆は鏡を再びポケットの奥に押し込めた。真央から聞いた話は半信半疑な部分もあったが、それでも香帆は、真央と会ったことや鏡をもらったことを、大人には言ってはいけないような気がしてならなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 N県火乃澤町。


 東北地方に位置するその町は、どこにでもある閑静な田舎町だった。駅前に出ればそれなりに賑わってはいるが、それでも住宅街に混ざる形で、未だ多くの田園風景を眺めることのできる町である。


 学校に関してもそれは同じで、火乃澤にある多くの校舎はどれも相当な築年数を誇るものが多かった。中には未だに木造の旧校舎が取り壊されず残っているような学校もあり、誰も手をつけないまま、半ば立ち腐れのような状態になっていた。


 本来であれば、旧校舎など取り壊して新しいグラウンドや講堂を作った方がよい。そうわかってはいても、行政から予算が降りねば工事さえすることができない。


 地方の小さな町では当然のことながら予算も厳しく、新校舎の補修をするだけで精一杯だった。紺野香帆の通う火乃澤第二小学校も、そんな学校の一つである。


 深夜、誰もいないはずの旧校舎。その廊下に、ぎしぎしと、何やら木の板の軋むような音が響き渡る。オレンジ色のぼんやりとした灯りが壁を照らし、染みだらけの不気味な姿を浮き彫りにしている。


 老朽化の激しい旧校舎は、現在は立ち入り禁止となっている。警備の者でさえ中に入ってまでは見周りをせず、正面玄関を始めとした入口は厳重に封印されていた。


 では、そんな校舎の中を、この深夜に歩きまわる者は誰だろうか。朽ち果てた校舎の中、薄明かりだけを頼りに彷徨うのは、果たして本当にこの世の者なのだろうか。


 闇に閉ざされた無人の校舎の階段を、足音はゆっくりと昇っていった。先ほどよりも更に酷いきしみが生じ、その音が校舎の中に響き渡る。そして、その音は階段の途中まで来たところで、急に響くのを止めてしまった。


 旧校舎の東にある階段の、踊り場に設置された大鏡。その鏡を淡い光が照らしだしたとき、音の正体もまた鏡に映し出された。


「あった……。これね」


 そこにいたのは香帆だった。真冬の寒さから逃れるための外套に身を包み、左手にはしっかりと懐中電灯を握っている。


 香帆がこの鏡の前にやってきた理由はただ一つ。あの、レオの通夜の日に出会った不思議な少女、真央から聞いた話を試すためである。


 最高学年とはいえ、それでもまだ小学生の少女が一人、深夜の旧校舎に忍び込む。普通であれば考えられないことだが、今の香帆は恐怖心よりも自らの願いを叶えたいという欲求の方が大きかった。


 もっとも、香帆とて旧校舎に忍び込むことに躊躇いがなかったわけではない。真央から話を聞いて既に一週間ほどが経っていたし、その間に何度も旧校舎の前に来ては怖くなって引き返した。一階の窓に一つだけ鍵が壊れている場所があるのを見つけていたため、忍び込むのは簡単だったが、それでも夜の旧校舎の姿を前にすると、どうしても足がすくんでしまっていた。


 自分一人では、夜の旧校舎に忍び込むことなどできはしない。できることなら、誰か一緒に来てほしい。そう考えた香帆は、とうとう今日の学校で真央との約束を破ってしまった。



――――今日ノコトハ、誰ニモ話シタラ駄目ダカラネ……。



 あの日、真央の話していた言葉が、片言の日本語と共に蘇る。彼女の教えてくれた≪鏡さまの儀式≫。その話を他の誰にもしてはいけないという、あの約束だ。


 本当は、真央との約束など破りたくはない。人として約束を守らねばならないという常識よりも、約束を破ったことで、香帆自身の身に何か起きるのではないか。そんな考えが頭にあった。


 だが、実際に話してしまった以上、もう後戻りはできない。それに、その話をした相手も、結局は香帆の話を信じてくれなかったらしい。


 ほっと息を吐きながら、香帆はポケットの中から小さな鏡を取り出した。真央がくれた、錦模様の二つの鏡。その、赤い錦模様をした鏡の方を握り締め、香帆は自分が≪鏡さまの儀式≫のことを話した相手のことを思い出す。


 やんちゃで負けん気が強く、腕っ節が弱いくせに妙な正義感だけ強い。それでいて、いつもは悪戯ばかりして学校の先生達を困らせ、おまけにかなりエッチなところもある。香帆のクラスにいる、同級生の少年である。


 はっきり言って、あいつは馬鹿だ。そう思う香帆だったが、同時にそんな彼の真っ直ぐな部分に期待してもいた。


 もしかしたら――――それこそ、馬鹿だからという理由も含め――――あいつは自分の話を信じてくれるかもしれない。夜の旧校舎に忍び込むなどという話をすれば、喜んで協力してくれるかもしれない。そう信じて、香帆は少年に青い錦模様の鏡を渡していた。初めは半信半疑に聞いているようだったが、それでも最後は自分のところにやってきてくれると信じて。


「ふぅ……。結局、あいつは来なかったかわね……」


 大鏡に映った自分に語りかけるようにして、香帆はそんなことを呟いた。今、この旧校舎にいるのは香帆一人だけ。結局、鏡を渡した少年は、香帆の言った待ち合わせの時間になっても現れることはなかった。


 このまま待っていても仕方がない。そう思って忍び込んだ旧校舎。初めは恐怖に怯えていたが、いざ中に入ってしまうと、だんだんと恐怖心よりも自分の想いの方が強くなっていった。


 こんなことならば、もっと早くこの大鏡の前に来ればよかった。真央との約束を破るようなことをせずに、自分一人で儀式を試せばよかった。そんなことを思いつつ、香帆は手にした鏡を自分の後ろに立てるようにして置いた。


 旧校舎の東階段にある大鏡の前で、古くから大切にされていた鏡を使って合わせ鏡をする。すると、大鏡に鏡さまの力が宿り、自分の最も会いたいと願う相手の姿を鏡に映し出してくれる。


 この話を真央から聞いたとき、香帆の心の中では既に想いが膨らみ始めていた。まだ十歳の誕生日を迎えたばかりだというのに、それから一年と経たずしてこの世を去った弟、レオ。彼に会えるものならば、もう一度会って話をしたい。そして、何の助けにもなれなかったことを、改めて謝りたい。


 想いはとうとう限界まで膨らんで、ついには香帆を、この旧校舎の大鏡の前に立たせるに至った。ここまで来たら、もう後には引けない。


 鏡は一枚足りないが、それでも合わせ鏡をしたことには変わりない。成功するか不安だったが、今さら儀式をやめるつもりもない。これで何も起きなければ、明日、少年から青の鏡を返してもらった上で、また儀式を試せばよいだけの話だ。


 懐中電灯で腕時計を照らすと、もうすぐ予定の時間になろうとしていた。真央の話では、深夜の二時に合わせ鏡の間に立つことで、鏡さまの力を大鏡に降ろすことができるらしい。


(二時か……。後三分くらいなのに、随分と長く感じるなぁ……)


 鏡に映った自分の姿と腕時計の文字盤を見比べるようにして、香帆は心の中でそんなことを思った。


 暗がりの中で見る自分の顔は、どこかいつもと違って見える。まるで、鏡の向こう側に自分と同じような顔をした人間がいて、それが向こう側からこちらを見つめている。そんな錯覚に陥りそうになってしまう。


 予定の時間まで、後一分。懐中電灯を両手で握り締めるようにして、香帆は胸の前で手を組んだ。そして、そのまま目を瞑り、心の中で祈り始める。レオの顔、レオの声、それだけを思い浮かべ、いるかどうかも定かでない相手に対して願いを告げる。


(鏡さま……。どうか、もう一度だけ弟に……レオに合わせてください……)


 そう、香帆が心の中で告げたとき、腕時計の針が二時を指した。その瞬間、香帆を挟むようにして置かれた二枚の鏡が不気味な色に光り出し、淀んだ紫色の光が彼女を包む。


「――――っ!!」


 声を上げようにも、肝心の声が出なかった。大鏡から溢れ出した光は香帆を完全に呑みこむと、やがて吸い込まれるかのようにして、元の鏡の中に戻って行く。


 ガラン、という音がして、懐中電灯が階段の踊り場を転がった。鏡は既に光を失い、旧校舎は完全に静寂を取り戻している。


 まるで、何事もなかったかのようにして、旧校舎の中を再び闇が支配した。割れたガラス窓から一筋の月明かりが射し込んで、階段の踊り場をおぼろげに照らす。そして、その青白い灯りの真ん中では、生気を失い灰色に淀んだ瞳をした香帆が、糸の切れた人形のようにして倒れていた。




挿絵(By みてみん)

 本作品は一部に暴力的な表現を含みますが、これは作中の暴力行為その他を推奨するものではありません。


 また、一部の人間が差別的な考え方に囚われて非道な行いを働いたり、それらの人間が法ではなく、個人の意思や超常的な存在によって裁かれる描写が存在します。

 これらの描写に対して政治的道徳観、及び宗教観から不快な思いをされる可能性がある方は、これより先の内容を読むことを控えるようお勧めいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ