ビーダーマイヤー・トリコロール、変死事件に巻き込まれた逃避令嬢 その1~貴族令嬢は逃げ出す~
「ヨハンナ・フォン・グルーバーっっ!!
よくもっ帳簿のつけ方を変えたなっ!!」
突然の婚約者の怒号に、ヨハンナは驚きと怯えのあまり肩を震わせた。
「僕が父さんに叱られただろっ!
勝手に書き方を変えるんじゃないっ!」
ヨハンナがうつむき、唇を噛むと、それを見た婚約者のカール・フォン・ヴァイセンホフは怒りで真っ赤になった顔で続けざまに
「成り上がりの軍人貴族の娘を、由緒正しい我が男爵家の嫁にしてやろうと寛大な父さんに対して、反抗的な態度をとるなんて信じられんっ!
この帳簿の書き方は、昔から決まってるんだっ!
お前はその通りに、ただ書いてりゃいいんだよっ!」
男爵家の数百ヘクタールもの広大な領地の、どの畑に小麦、ライ麦、大麦などの、どの作物をいつ植えるか、誰に耕作させるか、森の木をいつどのように伐採し販売するか、牧草地の管理や放牧の手配をどうするかなど、細々とした領地の管理業務や経費や売り上げの収支を帳簿に記す仕事は、次男のカールに任されていた。
大学に入学することもできず、軍隊に入ることも拒否したカールが、男爵家の心もとない財産を食いつぶして暮らすことを危惧した父男爵は、婚約を機に領地の管理をさせてみることにした。
しかしカールはこの仕事すら難しくて煩わしいと、父に隠れて婚約相手のヨハンナに丸投げしたのだった。
そもそもヨハンナの父は、軍功を上げ、エードラーの爵位を賜り貴族となったが、領地は与えられず、小さな屋敷に住み、軍人としての給与で暮らす身分なのだった。
贅沢はおろか『由緒正しい男爵家の子息』と結婚することを、ヨハンナは夢見てなどいなかったが、何の因果か、出かけ先の展覧会でカールに見初められ、婚約の運びとなった。
ヨハンナは今までの管理帳簿のつけ方で、一目ではわかりにくかったところを改善するために、『責任者名』の項目を増やした程度の変更を加えたにすぎないのに、逆鱗に触れたようにカールから激怒され、すっかり怯え、畏縮して、黙り込んでしまった。
由緒正しい男爵家の作法に反してしまったことに負い目を感じ、伏し目がちに、おずおずと口を開いた。
「あの・・・すみません。
訂正して、新たに元の記載方法で書き直します。」
カールはフンッ!と怒りで鼻を鳴らし
「当然だっ!
全部やり直せっ!
ったくっ!使えないヤツだなっ!
せっかく大事な仕事を任せてやったのに、無能な役立たずのおかげで、ちっとも仕事が終わらないっ!
こんなことなら婚約するんじゃなかったっ!」
分厚い帳簿の紙束を無造作にヨハンナの座る机の目の前に投げ落とし、さっさと執務室を出て行った。
執務室には、カール用の立派なマホガニー製の事務机と、ヨハンナが秘書として使う小ぶりなナラ材の作業机があった。
カールの羽ペンや銀製のインク壺や吸い取り紙は真新しいままに見えるのに、ヨハンナのそれらはインクの染みで黒く汚れていた。
執務室の中央に置かれた、職人が手描きした地球儀は埃をかぶり、壁に飾られた、立派な角の生えた鹿の剥製は憂鬱そうにヨハンナを見つめていた。
初めてこの執務室に仕事用の机を与えられた時、金箔押しで革装丁の豪華な蔵書が並ぶ書棚に、ヨハンナは圧倒され、男爵家の威風に畏縮し伝統の重みに押しつぶされそうだった。
だが過ごす時間が長くなるにつれ、カールが普段この部屋にほとんどいないことを知ると、難しいラテン語蔵書の金箔がいつまでも美しくキラキラ輝いている理由に納得し、男爵家といっても中身は平民と変わらないと実感していた。
「はぁ~~~」
とため息をつきつつも、帳簿を訂正し終え、席を立つと、ヨハンナはふと
『私はこのままでいいのかしら?』
という不安が頭をよぎった。
理不尽にカールから罵られたのは、これが初めてではなかった。
ことあるごとに成り上がり貴族のよそ者扱いして、血筋を理由に侮蔑し、無能で使えない奴だと蔑んだ。
一年ほど前、一方的に見初められ、男爵家から婚約の申し出を受けた両親は喜び、もろ手を挙げて結婚を祝福してくれた。
けれど、ヨハンナにとってカールは、魅力的でも、尊敬できる相手でも、安らぎを感じる相手でも、なかった。
容姿については、明るいブラウンの癖毛と同じ色の瞳が美しいとは思った。
だけど運動が嫌いで、賭け事や舞踏会で若い女性を追いかけまわすことが好きで、そのせいか全体的にたるんでブヨブヨしてる色白の肉体や、目つきが悪くて、不満そうにいつもとがらせた口元は、お世辞にも美男子とはいえなかった。
『このまま結婚して、面倒な仕事を押し付けられ、理不尽な難癖をつけられては、詰られ、罵られる毎日を、本当に送りたい?』
ヨハンナは自分に問いかけた。
気づけば実家で荷造りをして、ウィーンから遠く離れた田舎にある別荘へ向かう汽車に、ひとりで乗り込んでいた。
トンネルに入った蒸気機関車の二等客室で、黒い、噎せ返りそうな煙が、開けた窓から入ってくるのに気づいて、慌てて窓を閉めるほかの乗客をまねた。
煤で汚れた手袋を見ながら、
『たとえ田舎で苦しい生活をしようとも、カールの下で酷使され理不尽に侮蔑され、消耗しつくすよりはマシだわ!
少なくとも自分で苦労を選べるんですもの!』
実家で荷造りする娘を見た母は
「あら、グラーツの別荘に出かけるの?
ちょうどよかったわ!
じゃ掃除をお願いね?」
と快く鍵を渡してくれた。
汽車による9時間近くの移動を終え、シュタイアーマルクに到着したころには真夜中近くになっていた。
(その2へつづく)




