君との春の終わりに。
「ほら、これ見てよ。綺麗に咲いてるよね。」
あの頃の僕の声が心の奥で微かに響く。
ここ、白石では満開を少し過ぎた桜並木が美しく並んでいる。
風が抜けるたび、アスファルトの無機質な黒が、薄氷のような花びらに一枚、また一枚と、静かな規律を持って覆い隠されていく。
手のひらにひらりと落ちたその一枚を払い、僕はあの頃と同じように首から下げた一眼レフに手をかけた。
あれから毎年欠かさずに見ているはずの景色。
しかし、「あの頃」という言葉を意識した途端、見慣れたはずの桜は残酷なほど美しく映ってしまう。
それと同時にとある景色を思い出す。
ベッドから少し体を持ち上げて、僕へ微笑んでくれるとある女の人の姿。
ファインダー越しの桜並木は、僕の心を強く掴んで離そうとはしてくれない。
…いや、離そうとしていないのは僕のほうかもしれない。
そんなどうでもいい感傷に飲み込まれていくうちに、視界が熱く滲み、前がうまく見えなくなった。
シャッターを切ろうとした人差し指も行き場を失って止まったままだ。
もう忘れるべき思い出をこの気まぐれな春風は運んできてしまった。
無意識に押し込んだシャッターが乾いた響きを立てる。
その音の残響が僕をあの白い病室へ連れ去っていった。
「うん! 綺麗だよ。どうもありがとう!」
白いシーツの上で少しだけ身を起こし、彼女は僕が持ってきた写真と、掌に乗せた花びらを大切そうに受け取った。
指先が花びらに触れるたび、彼女が春の色に染まる。
「もちろん。……あ、そういえば、僕はまだ行ったことはないんだけど、白石の方も桜が綺麗なんだって」
彼女の視線が、一瞬だけ窓の外の、遠くの空に向けられた気がした。
僕はあわてて言葉を継ぎ足す。
「いつか一緒に行けるといいよね。」
「そうだね!行ってみたいな~」
彼女はそう、明るく弾むような声で返事した。
きっと彼女自身もそんな日が来ないことは薄々感じていたはずだ。
それなのにあんなに素敵な混じりけのない笑顔を僕にくれた。
当時の僕は、その笑顔の裏にある彼女の気持ちに全く気付けなかった。
「あなたが撮る写真は、なんだか私までその場にいるみたい。それでね、一つお願いがあるの!」
彼女はゆっくりと体の向きを変えて、枕もとの引き出しから一冊の無地のノートを取り出した。
表紙には彼女の丁寧な綺麗な字で、彼女の名前と「写真用」というタイトルが綴られていた。
「このノートにあなたの写真を貼ってね、世界に一つだけのノートを作ってほしいの。だめかな?」
どうして、そんな優しいことを思いつくんだろうか。僕は断る理由もなく、勢い良くうなずいた。
そうして、彼女の筆箱を借りて一緒に最初の一ページを彩った。
桜の写真を真ん中に貼り、テープで桜の花びらを周りに。
そうして僕の癖のある字で「1996年4月8日 広瀬川遊歩道」そう書き込んだ。
「『1996年4月8日 広瀬川遊歩道』だって、なんだか歴史の教科書みたいだね。」
彼女は僕の拙い字を指でなぞりながら優しく微笑んだ。その指先はまだ桜のにおいがしていた。
「だって、何書いていいかわかんないし、。」
「いいのいいの!私あなたの真っ直ぐで不器用な字、好きだよ」
彼女はそのノートを胸に抱きしめるようにして、満足げに目を細めた。
それから、僕のカメラを見た後にこちらを覗き込んできて。
「次はさ、新緑の若葉がいいな。それと紅葉も、雪景色も!
そのあとは君が言う白石の桜が見たいな~
あのね。だからもっともっと、上手な写真を撮ってね?」
「うん、練習する。プロみたいな写真を撮れるようになってやるから。」
僕の根拠のない自信に、彼女は、「楽しみにしてる!」そう言って笑顔の花をまた咲かせた。
窓の外の病室から見下ろす町は茜色に染まり始めている。看護師さんが回診に来るまでの、僅かな楽しみ。
僕はカメラのファインダーを覗かず、
ただ、目の前で笑う彼女の姿を、心のシャッターに焼き付けていた。
その後、僕は彼女の言う通り、新緑を撮り、紅葉を撮り、雪景色を撮り。彼女が喜んでくれそうな綺麗な景色をずっと撮り続けた。
彼女のノートがめくられるたび、僕の写真も段々と上達していく。
そして元気になった彼女と白石の桜を見に行く。そんな未来が待っているはずだった。
気が付けば僕は自宅に戻ってきていた。作業場の椅子にもたれ掛かり深くため息をつく。
思い出したのは、一体何年前の記憶だろうか。
ノートに写真を貼り文字を綴る僕の横で、彼女が笑う声は、確かに、少しずつ遠くなっていった。
たしか土曜日だった。
一週間ぶりに、僕は撮った写真を携えて彼女に会いに行った。
そこで僕のことを待ってくれていたのは、普段そこにいる彼女とその優しい雰囲気だけが抜け落ちてしまった無機質な病室。
思い出したくもないあの情景が僕の脳裏にはっきりとこびりつく。
あの時の僕は受付に踵を返し、彼女のことを尋ねた。すると返ってきたのは一番聞きたくなかった事実と、二人で紡いだあのノートだけだった。
僕は看護師さんにお礼を言い、震える手でそれを必死に抱きしめながら病院を後にした。
体の震えが止まらなかった。彼女のことを感じられるものが、もうそのノートしか残っていないと思うと、怖くて、怖くて仕方なかった。
それから僕は、逃げるように日々を過ごした。
結局彼女のために泣くことは出来なかった。泣いたら彼女の死を認めてしまうと思った。きっと何年後かにあの素敵な笑顔をどこかで見れると信じていたんだと思う。
しばらくの間、彼女との約束を守るように写真を撮り続けた。泣くのが怖くてノートを開くことはできなかったが、『ノートに貼る様の写真』と銘打って写真とノートを仲良く保管していたはずだ。
けれど、高校を卒業し、大学に進学し、大人になり、生活に追われる中で、いつしかその習慣も途絶えた。決して彼女のことを忘れたわけではない、ただ僕は「あの頃」を心の奥底に閉じ込めてしまっていた。
「もういいじゃないか、ちゃんと清算しよう。踏ん切りをつけよう。」
僕は椅子から立ち上がり、ノートを探すことにした。
あの頃から家も変わったが、どこにそのノートがあるのかなんとなく見当はついていた。
「あったあった。」
物置の上のほうにおいてあった、僕の不器用な癖のある字で「大切なものボックス」と書かれた木製の箱だ。
埃をかぶったその箱をあけると、一番上でそれは僕にまた見つけてもらえるのを待っていた。
表紙にある彼女の優しい文字に頬が緩んだ。震える指でページをめくる。
最初の一ページ『1996年4月8日 広瀬川遊歩道』そう綴られてた僕の文字。
彼女と一緒に貼ったこの桜の写真。そして不格好な押し花。
そして、僕がいない間に書いてくれていたのだろうか。
僕の写真のそばに「綺麗!」とか、「私も行ってみたい!」と書き込まれている。
今にも心の奥底から湧き出してきそうな想いを必死にこらえてまたページをめくる。
彼女にお願いされて撮った、定禅寺通りの燃えるような若葉の写真。鮮やかに紅葉した秋保の山々の写真。
たった10ページほどだった、しかしページをめくるたび僕の目頭は熱くなり、唇を嚙む力は強くなる。
貼ってある鮮やかな写真のように、僕が心の奥底に閉じ込めていた彼女との風景がまた色を取り戻す。
涙を堪えながら、意味もなく白紙のページをめくり続ける。
すると、真っ白なはずの最後のページに、彼女のあの丁寧な優しい文字が残されていた。
「私のために色んな世界をみせてくれて、ありがとう!
私がいなくなっても、あなたはそのカメラで、
だれかを幸せにする景色を撮り続けてね。約束だよ。」
視界が、一瞬で熱く歪んだ。
彼女を失ったあの日、流せなかった涙がやっと僕を見つけてくれた。
両手で顔を覆っても、大粒の涙が指の隙間からあふれ出る。肺の奥が震えて、嗚咽が喉をせりあがってくる。僕はただ子供のように泣いた。
「僕が撮り続けてきた写真は無駄じゃなかったんだ」
彼女がいなくなったあの病室から、僕の心から彼女の温かみが抜け落ちてしまった。
僕はどこかで『無意味なこと』を続けているような気がしていた。けれど違った。
彼女は知っていたんだ。僕がこれからも、不器用なままカメラを離さないことを。そして、そんな僕の不器用な生き方を、この温かい言葉で包もうと、彼女はあの日からずっと、ここで待って、肯定してくれていた。
あふれ続ける涙が、彼女が遺してくれた大切なノートを濡らさないよう気を付けながら、僕は今日の桜の写真を白紙のページにそっと挟んだ。
「ねぇ。今年の桜も。白石の桜もきれいだったよ。」
僕はノートを静かに、そして大切にそっと閉じた。
乾いた音が部屋に響き、穏やかな静寂が訪れる。
ふと窓の外に目をやると、街頭に照らされ、夜の闇に浮かぶ桜の花びらが、
僕と彼女で桜の花びらを一緒にノートにしたためた。
あの日、あの時の彼女の笑顔と同じ優しい色をして輝いていた。
それは風に吹かれて空に舞う。
その一つ一つが、まるで僕に「頑張ったね」と、涙ぐむ僕の頬を撫でる彼女の指先のように、優しく、なんとも愛おしく空を舞い踊っている。
僕は久々の彼女のぬくもりに包まれながら、また明日へと歩き出した。




