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やんだした、いすみー母が遺した白い箱ー

掲載日:2026/03/15

これは、ある娘が母の遺した言葉に触れ、

もう一度、自分の人生を見つめ直すまでの小さな記録です。

どうぞ、最後までお付き合いください。

目次


1 雪の匂い

2 東北の空

3 白い箱

4 母の日記

5 雪の村

6 母の孤独

7 過去の冬

8 手紙

9 娘の記憶

10 母の真実

11 やんだした、いすみ

12 春の匂い



1 雪の匂い




 雪の降る音が、きこえた気がした。

 東京の冬は乾いている。ベランダに干した洗濯物を取り込む指先は冷たく、アパートの窓を閉めても、すき間風みたいな寒さがどこかに残る。

 子どもたちはもう寝ていた。

 長男の聖夜はランドセルを机の横に置きっぱなしにして、次男の瑞貴は布団を蹴飛ばして眠っている。

 ようやく静かになった夜だった。

 離婚してから、こういう夜が増えた。

 子どもたちが眠ったあと、急に心細くなる夜だ。明日のことも、お金のことも、これから先のことも、考え始めると止まらない。

 そんな夜に限って、私は母の声が聞きたくなる。

 古い電話帳アプリを開いて、実家の番号を押した。

 コール音が二回鳴って、受話器の向こうで懐かしい声が弾んだ。

 「やんだした! いすみが電話なんて、どうしたのさ」

 その訛りを聞いた瞬間、胸の奥の氷が、ほんの少し溶けた気がした。

 母は昔から、どんなときでも最後には笑う人だった。

 怒られても、泣いても、疲れ果てても、最後には「なんとかなんべ」と笑ってみせる。榊原郁恵に似ている、と村の人たちに言われていた明るい顔を、私は思い浮かべた。

 「お母さん、元気?」

 「元気だよ。ほれ、あんたは? 風邪ひいてねぇが?」

 「大丈夫。もうすぐ冬休みだし、子どもたち連れて帰ろうかなって思って」

 そう言った瞬間、母はすぐに答えた。

 や、春休みでいいよ。雪もまだ積もってっから、無理して来て事故でもあったら困るべ

 天気予報みたいに落ち着いた声だった。

 私は少し笑った。けれど、そのとき胸の奥で、小さな不安がひとつだけ揺れた。理由はわからない。ただ、今思えば、あれが予感というものだったのかもしれない。

 「そうだね。春になったら帰るよ。今度こそ、子どもたち連れて」

 「ほら、聖夜と瑞貴にもよろしく言ってけろ。孫の顔、早ぐ見てぇなぁ」

 その言葉に、私は返事をしながら、急に泣きそうになった。

 「ごめんね、お母さん。私、いつも愚痴ばっかりで」

 受話器の向こうで、母が短く息を吸った。

 「いすみはバカだな」

 やわらかい声だった。

 「生ぎてるだけで、親孝行だべ。お母さん、怒ってねぇよ」

 喉の奥が詰まって、うまく返事ができなかった。

 ごめん、と言いかけたのに、声にならない。

 母はそんな私を待たず、いつもの明るさで言った。

 「春になったら、気をつけて帰っておいで。みんなでご飯食べような」

 そこで電話は切れた。

 静かになった部屋に、子どもたちの寝息だけが残る。

 洗濯物の山の向こうで、聖夜が寝返りを打つ音がした。

 私はしばらく、携帯を握ったまま動けなかった。

 春になったら帰る。

 その約束を、私は当然みたいに信じていた。

 母はそこにいる。

 雪が溶ければ、また会える。

 子どもたちを連れて帰れば、きっといつものように笑って迎えてくれる。

 そう思っていた。

 春まで、あと三か月。



 そのたった三か月が、二度と越えられない距離になるなんて、




 この夜の私は、まだ知らなかった。





2 東北の空



年が明けて、空気が少しだけ柔らかくなったころだった。

 ベランダの洗濯物の間を、薄い光がすり抜けていた。

 東京の冬はまだ冷たいのに、午後の日差しだけが少し春に近づいている。

 私は台所で包丁を握っていた。

 まな板の上には、人参と玉ねぎ。

 聖夜は机で宿題を広げ、瑞貴は床に寝転がって折り紙の剣を振り回している。

 いつもの午後。

 何も変わらない、ありふれた時間だった。

 だから、電話の音がやけに大きく響いた。

 携帯の画面を見る。

 実家の番号だった。

 胸の奥が、少しだけ冷たくなる。

 ついこの前、母と電話をしたばかりだ。

 春になったら帰るね、と約束したばかりだ。

 だから、大した用事じゃない。

 そう思いながら通話ボタンを押した。

 「もしもし」

 少し間があって、聞こえてきたのは伯母の声だった。

 「いすみ、落ち着いて聞いてな」

 その声を聞いた瞬間、胸がざわついた。

 「……お母さん、倒れだの」

 時間が止まった気がした。

 「え?」

 自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。

 「脳の血管切れてな、今、病院さ運ばれでる。まだ意識戻ってねぇ」

 包丁を握っていた手から、力が抜けた。

 まな板の上で、人参がころんと転がる。

 「……そう、なの」

 それしか言えなかった。

 病院の名前も、医者の話も、伯母は何か説明していた。

 でも、頭に入ってこない。

 ただ一つの言葉だけが、耳の奥で何度も響いていた。

 倒れた。

 ついこの前、笑っていたのに。

 「やんだした」って、いつもの声で笑っていたのに。

 電話を切ったあとも、私は台所に立ったままだった。

 「ママ?」

 振り向くと、瑞貴が不安そうにこちらを見ていた。

 子どもは敏い。

 大人が思うより、ずっと。

 「なんでもないよ」

 そう言ったけれど、うまく笑えなかった。

 聖夜が宿題の手を止めて、静かに聞いた。

 「おばあちゃん?」

 私は答えられなかった。

 言葉にした瞬間、本当にそうなってしまう気がしたからだ。

 「……とりあえず、ご飯にしようか」

 それしか言えなかった。

 その夜のことを、私はあまり覚えていない。

 味噌汁を温めたこと。

 瑞貴が卵焼きを落として、聖夜が無言で拾ったこと。

 そんな細かいことだけが、ぼんやり残っている。

 母が倒れた。

 その事実だけが、重く胸に残っていた。

 夜、子どもたちを寝かせたあと、私は暗い部屋で携帯を握っていた。

 病院は遠い。

 すぐに飛んでいける距離じゃない。

 雪の多い土地だ。子どもたちを連れて動くのも簡単じゃない。

 でも、そんな理屈を考えるたびに、自分がひどく薄情な娘に思えた。

 今すぐ行けばよかったんじゃないのか。

 春休みなんて待たなければよかったんじゃないのか。

 頭の中で、同じ言葉がぐるぐる回る。

 窓の外で、風が鳴っていた。

 その音は、東京の夜なのに、どこか村の雪を思い出させた。

 母の笑顔が浮かぶ。

 畑で泥だらけの手をして笑っていた顔。

 電話の向こうで、明るく笑った声。

 「やんだした、いすみ」



 その声が、何度も胸の奥で響いた。

 どうか、間に合って。



 そう願いながら、私は携帯を握ったまま、朝まで眠れなかった。




3 白い箱





母が倒れたという電話を受けてから、時間の流れが少しだけ歪んだ気がしていた。

 東京での生活は続いている。

 聖夜は学校へ行き、瑞貴はいつものように騒ぎ、私は洗濯をして、ご飯を作る。

 けれど、その全部が薄い膜の向こう側みたいだった。

 雪に閉ざされた村の病院が、頭のどこかにずっと浮かんでいる。

 そんな日が続いたある夜、電話が鳴った。

 画面には、また実家の番号が表示されていた。

 「もしもし」

 受話器の向こうから、伯母の声が聞こえた。

 「いすみ、安心しろ。お母さん、意識戻ったよ」

 胸の奥が、ふっと軽くなる。

 「ほんと?」

 「ほんとだ。さっき、あんたの名前呼んでだ」

 その言葉を聞いた瞬間、涙がこぼれそうになった。

 「……よかった」

 声が震えた。

 母はまだ生きている。

 まだ間に合うかもしれない。

 春休みまで、あと少し。

 そのときに子どもたちを連れて帰れば、きっとまた会える。

 「いすみはまだ東京だべ? 心配すんな。今は落ち着いでる」

 伯母の声は、少しだけ明るかった。

 電話を切ったあと、私はリビングの椅子に座り込んだ。

 聖夜がこちらを見ていた。

 「おばあちゃん?」

 「うん。少し良くなったって」

 聖夜は小さくうなずいた。

 「よかった」

 瑞貴は意味がよく分からないのか、折り紙の剣を振り回していた。

 その姿を見て、胸が少しだけ温かくなった。

 きっと大丈夫。

 春になれば帰れる。

 また、母の笑顔が見られる。

 そう思っていた。

 ――そして、数日後。

 その日は、私の誕生日だった。

 特別なことは何もしていない。

 仕事から帰って、いつものようにご飯を作って、子どもたちを寝かせた。

 夜の部屋は静かだった。

 そのとき、電話が鳴った。

 また実家の番号だった。

 胸の奥が、冷たく沈む。

 「もしもし」

 電話の向こうで、伯母の声が震えていた。

 「いすみ……」

 その声を聞いた瞬間、すべて分かった。

 「……お母さん、もう一回、脳の血管切れだの」

 世界の音が遠くなる。

 窓の外で風が鳴っていた。

 雪が、どこかで降っている気がした。

 「さっき……」

 伯母の声は続いていた。

 「さっき、旅立った」

 私は何も言えなかった。

 涙も出なかった。

 ただ、携帯を握ったまま立ち尽くしていた。

 私の誕生日の夜だった。

 母は、その夜に逝った。

 まるで、私が生まれた日を覚えていたみたいに。

 電話を切ったあと、私はしばらく動けなかった。

 聖夜と瑞貴の寝息が、部屋の奥から聞こえる。

 私は二人の布団のそばに座り、そっと抱きしめた。

 泣き声は出なかった。

 涙は、胸の奥で凍っていた。

 「春休みでいいよ」

 あの言葉が、何度も頭の中でこだました。

 あのとき、

 「今すぐ行く」

 と言えばよかったのだろうか。

 けれど、母はきっと笑って言う。

 「やんだした、いすみ。そんなこと考えんでいいべ」

 夜が明けるころ、空はうすい桃色に染まっていた。

 私はベランダに出て、遠い東北の方角を見た。

 冷たい風の中に、かすかに雪の匂いがした。

 その匂いは、母の手のようにあたたかかった。

 春は、もうすぐそこまで来ていた。





4 母の日記



 二階の部屋は、時間が止まったように静かだった。

 窓の外では、雪がゆっくりと降り続いている。

 音はほとんどしない。ただ、白いものが空から落ちてくる気配だけがある。

 私は畳の上に座り、膝の上に白い箱を置いた。

 箱の中には、赤い表紙の日記帳と、一通の手紙。

 さっきから、その日記帳ばかり見ている。

 母が書いたものだ。

 そう思うだけで、指が少しだけ止まる。

 私は、母のことをあまり知らない。

 知らないというより、知ろうとしてこなかったのかもしれない。

 弱い人だと思っていた。

 ときどき怒鳴るし、泣くし、黙り込むことも多かった。

 子どものころ、私はそれが怖かった。

 東京へ出てからは、電話をしても長く話すことはなかった。

 元気?

 うん。

 それだけで終わる会話。

 そんな関係だった。

 それでも、この日記は私に向かって置かれている気がした。

 私は、そっと表紙に触れる。

 赤い布の表紙は少し色あせていて、角が丸くなっていた。

 長い時間、誰かの手に触れてきた形だ。

 母の手。

 そう思ったとき、胸の奥で何かが小さく動いた。

 ゆっくりと、日記を開く。

 最初のページには、日付が書かれていた。

 ――昭和六十三年 一月

 インクは少しにじんでいる。

 けれど、文字ははっきりしていた。

「今日は雪が降った。

 いすみが、庭で転んで泣いた。」

 私は思わず息を止めた。

 ページの上に並んでいるのは、母の字だ。

 見慣れていたはずなのに、こんなに丁寧に書かれた字を見るのは初めてだった。

「泣きながらも、また外へ出ていく。

 この子は、強い子になると思う。」

 私は、日記を見つめたまま動けなくなる。

 強い子。

 母は、そう書いていた。

 私は、母を弱い人だと思っていたのに。

 窓の外で、雪がまた少し強くなった。

 ページをめくる。

 そこには、私の知らない母の言葉が、静かに続いていた。




5 雪の村




 日記を閉じると、部屋の静けさが急に濃くなった。

 私は立ち上がり、窓の方へ歩く。

 すりガラス越しの空は、どこまでも白かった。

 村の冬は、こんな色だった。

 東京にいると忘れてしまうけれど、この村の冬は世界を丸ごと雪で覆ってしまう。

 道路も、畑も、家の屋根も、みんな同じ白い色になる。

 私は、窓の外を見ながら思い出していた。

 小さいころ、母と二人で歩いた道。

 長靴が雪に埋もれて、歩くたびに「ぎゅっ」と音がした。

 息を吐くと白くなって、空へ消えていく。

 母はいつも前を歩いていた。

 背中だけを見てついていく。

 私はその背中が、少し猫背で小さいことを知っていた。

 けれど、母が振り返ることはあまりなかった。

 私はそれを、冷たいと思っていた。

 日記のページが頭の中で静かに揺れる。

「いすみは、雪が好きだ。」

 母はそう書いていた。

 好きだっただろうか。

 もう、よく覚えていない。

 ただ、雪の中で転んで泣いたことは覚えている。

 手袋の中まで冷たくなって、泣きながら母の背中を追いかけた。

 母はそのとき、何も言わなかった。

 ただ、少しだけ歩くのをゆっくりにした。

 その意味を、私は考えたことがなかった。

 窓の外では、また雪が強くなっていた。

 村の屋根はどれも低く、煙突から薄い煙が上がっている。

 遠くの山は、白い霧に包まれて見えなかった。

 私はふと、もう一度日記を開きたくなった。

 あの赤い表紙の中には、

 私が知らなかった時間が詰まっている。

 母がどんな顔で、どんな気持ちで、この村で生きていたのか。

 私は今まで、それを知ろうともしなかった。

 畳の上に戻り、日記を開く。

 ページをめくると、母の文字がまた現れた。

「この村は、冬が長い。

 だけど、雪があるから、人は助け合って生きていく。」

 私はその一行を、しばらく見つめていた。

 外では、雪が静かに降り続いている。

 まるで、この村の時間を包み込むみたいに。





6 母の孤独



 日記のページをめくると、文字の間に少し長い沈黙があった。

 母の字は、どこかで少しだけ揺れている。

 インクの色も、前のページより少し薄い。

 その日付を見て、私は気づく。

 この頃、父はもう家にいなかった。

 私はまだ小さくて、詳しいことは知らなかった。

 ただ、ある日から父の姿が家から消えた。

 母は何も説明しなかった。

 村では、噂だけが静かに広がっていた。

 あの家は、母子家庭になったらしい。

 旦那は町へ出て戻らないらしい。

 子どものころ、私はそれを理解していなかった。

 ただ、学校で誰かに言われたことだけは覚えている。

「おまえの家、父ちゃんいないんだろ」

 私は何も言えなかった。

 雪の帰り道を、一人で歩いた。

 長靴が雪に沈む音だけが続く。

 家に帰ると、母は台所に立っていた。

 背中を向けて、黙って味噌汁をかき混ぜている。

 私は何も言わなかった。

 母も何も言わなかった。

 ただ、味噌汁の湯気が、静かに上がっていた。

 日記には、その頃のことが書かれていた。

「村の人は優しい。

 けれど、ときどき、優しさは遠い。」

 私はその一行を何度も読み返す。

 優しいけれど、遠い。

 母は、この村で一人だったのかもしれない。

 私はそのとき、母を弱い人だと思っていた。

 すぐ泣くし、怒るし、黙り込む。

 だから、東京へ出た。

 この村から、遠く離れたかった。

 けれど日記の文字を見ていると、

 少しだけ考えが揺らぐ。

「いすみが笑っているとき、私は少しだけ救われる。」

 母はそう書いていた。

 私は、しばらく日記から目を離せなかった。

 窓の外では、雪が静かに降り続いている。

 この村の冬は長い。

 母は、その長い冬を、

 どんな気持ちで過ごしていたのだろう。




7 過去の冬




 日記を閉じると、部屋の空気が少しだけ温かく感じた。

 ストーブの火が小さく揺れている。

 古い灯油ストーブの匂いは、子どものころの冬を思い出させた。

 私は畳に座ったまま、窓の外を見ていた。

 雪は相変わらず降り続いている。

 村の冬は、静かで長い。

 ふと、ある日のことを思い出した。

 あれも、こんな雪の日だった。

 私は小学校の帰り道、雪の坂道で転んだ。

 膝が濡れて、手袋の中まで冷たくなって、泣きながら家まで歩いた。

 玄関の戸を開けると、母がいた。

 母は私の顔を見るなり、何も言わずにタオルを持ってきた。

 濡れた手袋を外して、手を拭く。

 それから、ストーブの前に座らされた。

 母は黙ったまま、私の長靴を脱がせた。

 靴下までびしょびしょだった。

 私は泣きながら言った。

「雪きらい」

 母はそのとき、少しだけ笑った。

「そうか」

 それだけ言って、ストーブの火を少し強くした。

 私はそのまま眠ってしまったらしい。

 目が覚めたとき、布団の中だった。

 外はもう暗くなっていて、台所から味噌汁の匂いがしていた。

 その記憶を、私はずっと忘れていた。

 母のことを思い出すとき、怒った顔や泣いた顔ばかり浮かんでいたからだ。

 けれど、日記を読んでいると、

 別の母の姿が少しずつ浮かび上がってくる。

 静かな母。

 言葉の少ない母。

 そして、私を見ていた母。

 日記を開くと、また母の文字が並んでいる。

「いすみは、雪の日に転んで泣いた。

 それでも、また外へ出ていく。」

 私はその一行を見て、小さく息を吐いた。

 母は、あの日のことを覚えていた。

 私が忘れていたことを、母は書き残していた。

 窓の外では、雪がまだ降っている。

 私はもう一度ページをめくる。

 日記は、まだ続いていた。





8 手紙



 日記を閉じたとき、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。

 畳の上には、まだ白い箱が置かれている。

 箱の中には、もう一つのものが残っていた。

 一通の手紙。

 薄い封筒は、少し黄ばんでいる。

 何度も触られたのか、角が丸くなっていた。

 宛名のところには、私の名前が書いてある。

 ――いすみへ

 母の字だった。

 私はしばらく、その封筒を見つめたまま動けなかった。

 母が、私に宛てて書いた手紙。

 それを私は、母がいなくなったあとに読む。

 その事実が、胸の奥に静かに沈んでいく。

 窓の外では、雪が降り続いていた。

 村の冬は、何もかもを白く包み込んでしまう。

 私は、ゆっくりと封を開けた。

 中には、便箋が一枚だけ入っていた。

 母の字が、そこに並んでいる。

 震える指で、私はそれを広げた。

「いすみへ」

 その一行だけで、胸が詰まりそうになった。

 母の声が、どこかで聞こえる気がした。

「この手紙を、いつ読むのか分からないけれど。」

 私は、息を止めて続きを読む。

「いすみは、きっと遠くにいるね。」

 胸の奥が、少し痛くなる。

 母は、分かっていたのかもしれない。

 私がこの村を離れること。

 東京で生きていくこと。

 そして、簡単には戻らないことを。

 便箋の文字は、ゆっくり続いていた。

「お母さんは、あまり上手に生きられなかった。」

 私はその一文で、手紙から目を離した。

 ストーブの火が、小さく音を立てている。

 母は、いつもそう言っていた。

 自分は不器用だと。

 弱い人間だと。

 けれど、今こうして文字を読んでいると、

 その言葉の奥にあるものが、少しだけ見えてくる。

 私はもう一度、手紙に目を戻す。

「でも、いすみが笑っていると、

 それだけで生きていてよかったと思った。」

 その一行を読んだ瞬間、

 胸の奥で何かが崩れた。

 私は今まで、母を弱い人だと思っていた。

 泣き虫で、怒りっぽくて、

 村の中でうまくやれない人。

 だから、この村から離れた。

 けれど、母は違ったのかもしれない。

 ただ、不器用だっただけなのかもしれない。

 窓の外では、雪が静かに降っている。

 私は便箋を握りしめたまま、しばらく動けなかった。

 母の言葉は、まだ続いている。

 その続きを読むのが、少し怖かった。



9 娘の記憶




 母の手紙を膝の上に置いたまま、私はしばらく動けなかった。

 窓の外では、まだ雪が降り続いている。

 音のない雪だ。

 この村の冬は、静かに人の記憶を掘り起こす。

 私はゆっくりと息を吐いた。

 母の文字が、頭の中で何度も浮かぶ。

「いすみが笑っていると、

 それだけで生きていてよかったと思った。」

 私はそんなふうに思われているなんて、考えたこともなかった。

 むしろ逆だった。

 母は、私のことを重荷にしているのだと思っていた。

 父がいなくなったあと、

 母はよく疲れた顔をしていた。

 仕事から帰ってきて、黙って台所に立つ。

 湯気の向こうに見える横顔は、いつもどこか遠かった。

 私はそれを、冷たいと思っていた。

 だから早くこの村を出たかった。

 高校を卒業してすぐ、東京へ出た。

 この雪の村から離れれば、

 もっと自由に生きられると思った。

 母は、そのとき何も言わなかった。

 駅まで送ってくれたのに、

 別れ際も、ただ小さく手を振っただけだった。

 私はその背中を見ながら思った。

 きっと母は寂しくないのだろう。

 娘がいなくなっても、

 この村で一人で生きていける人なのだろう。

 そう思っていた。

 けれど、今、手紙を読んでいると、

 その記憶が少しずつ揺らぐ。

 あのとき母は、何を考えていたのだろう。

 私は、自分のことばかり考えていた。

 この村が嫌だ。

 雪が嫌だ。

 早くここから出たい。

 そんなことばかり。

 母の気持ちを考えたことは、一度もなかった。

 ストーブの火が小さく揺れている。

 私はもう一度、母の手紙を手に取った。

 母の文字は、まだ続いている。

 その続きを読むのが怖いような、

 でも知りたいような、不思議な気持ちだった。

 窓の外では、雪がやまない。

 まるで、この村の時間をゆっくりと包み込むみたいに。

 私は深く息を吸って、便箋の続きを見つめた。

 母の言葉は、まだ終わっていない。





10 母の真実




 私は便箋をもう一度広げた。

 ストーブの火が小さく揺れている。

 外では、まだ雪が降っていた。

 母の文字は、ゆっくりと続いていた。

「いすみへ。

 お母さんは、あまり上手に生きられなかった。」

 その言葉は、さっきも読んだ。

 けれど、その続きはまだ読んでいない。

 私は静かに続きを目で追った。

「怒ったり、泣いたり、

 うまく言葉にできないことばかりだった。」

 胸の奥が少しだけ痛くなる。

 私はその姿をよく知っている。

 母はいつも、何かに追われるように生きていた。

 村の仕事、畑のこと、家のこと。

 そして、私のこと。

「いすみには、つらい思いもさせたと思う。」

 私は思わず、手紙から目を離した。

 畳の上に落ちる自分の影を見つめる。

 つらい思い。

 確かにあった。

 けれど、それは母だけのせいだったのだろうか。

 私はまた便箋に目を戻す。

「でもね、いすみ。

 お母さんは、あんたを産んでよかったと思っている。」

 その一行を読んだ瞬間、胸が強く揺れた。

 私は今まで、母の人生を不幸だと思っていた。

 父は家を出て、

 村では噂をされ、

 一人で子どもを育ててきた。

 そんな人生は、きっとつらかったはずだ。

 だから私は、母を見るたびに思っていた。

 この人は、不幸な人だ。

 けれど手紙の中の母は、違った。

「いすみが笑うと、

 家の中が少し明るくなる。」

 私は目を閉じた。

 そんなことを、母は思っていたのか。

 私は知らなかった。

 何一つ。

 窓の外では、雪が静かに降り続いている。

 村の冬は長い。

 その長い冬の中で、

 母は私を見ていた。

 私はそれを知らずに、この村を出た。

 東京へ行けば自由になれると思った。

 母から離れれば、

 もっと楽に生きられると思った。

 でも、母の手紙は違うことを言っていた。

「いすみ。

 もし、この手紙を読む日が来たら。」

 私は息を止める。

 母の文字は、少しだけ大きくなっていた。

「自分のことを責めないでほしい。」

 私はその言葉を、何度も読み返した。

 責めないでほしい。

 母は、私がそうすることを知っていたのだろうか。

 窓の外の雪は、まだやまない。

 私は便箋を握りしめたまま、しばらく動けなかった。

 母の言葉は、まだ続いている。

 そして、その最後の一行が、

 きっと私をここへ呼んだのだと思った。




11 やんだした、いすみ




 便箋の最後の行に、母の文字が残っていた。

 少しだけ間が空いている。

 迷ったような、

 力の抜けた字。

 そこに書かれていたのは、たった一言だった。

 ――やんだした、いすみ。

 私はしばらく、その言葉を見つめていた。

 やんだした。

 村の言葉だ。

 子どもの頃、何度も聞いた。

 畑の仕事をしながら、母がぼやく。

「やんだしたなあ」

 雨が続いた日も。

 親戚の集まりのあとも。

 村の人間関係に疲れた夜も。

 母は、ぽつりとそう言っていた。

 面倒くさい。

 嫌になった。

 もう、やってられない。

 そんな意味の言葉。

 私は便箋を持つ手を少しだけ強くした。

 母は、この言葉を最後に書いたのだ。

 やんだした。

 嫌になった。

 それでも――

 母は生きていた。

 畑に出て、

 ご飯を作って、

 私を学校に送り出して。

 嫌になったと言いながら、

 それでも毎日を続けていた。

 私はそのことを、ずっと知らなかった。

 母は強い人だと思っていた。

 愚痴も弱音も言わない、

 黙って働く人。

 そう思っていた。

 でも違ったのかもしれない。

 母はただ、

 言葉にする場所がなかっただけだ。

 私は白い箱の中の手紙をそっと閉じた。

 箱の中には、赤い日記帳が残っている。

 まだ読んでいない。

 けれど、もう少しあとでいい気がした。

 今はただ、母の言葉を考えていた。

 やんだした。

 嫌になった。

 それでも、母はやめなかった。

 私は窓の外を見た。

 雪は少し弱くなっている。

 屋根の端から、細い水が落ちていた。

 春が近いのかもしれない。

 私は小さく息を吐く。

 そして、静かにつぶやいた。

「やんだした、いすみ。」

 母の言葉を、

 少しだけ理解した気がした。





12 春の匂い



 朝、目が覚めたとき、部屋は静かだった。

 夜のあいだに雪は止んでいたらしい。

 窓の外には、白い屋根と、うすい青い空が広がっている。

 私は布団の中でしばらく天井を見ていた。

 この家に泊まるのは、何年ぶりだろう。

 母がいなくなってから、ここはただの空き家になっていた。

 それでも、昨日この家に入ったとき、

 どこかで母の気配を探してしまった。

 台所。

 廊下。

 居間。

 けれど、もうどこにもいない。

 残っているのは、

 白い箱だけだった。

 私はゆっくり起き上がり、居間へ行く。

 机の上に、あの箱が置いてある。

 白い箱。

 母の手紙と、赤い日記帳が入っている。

 私は箱のふたに手を置いた。

 開けるか、少し迷った。

 でも今日は、まだいいと思った。

 母の言葉は、もう十分だった。

 やんだした。

 母はきっと、何度もそう思ったはずだ。

 村で生きることも。

 家族のことも。

 毎日の暮らしも。

 嫌になったことは、きっとたくさんあった。

 それでも母は、生きていた。

 逃げもしないで、

 投げもしないで、

 ただ静かに続けていた。

 私はそのことを、昨日やっと知った。

 窓を開ける。

 冷たい空気が、部屋の中に流れ込む。

 雪の匂いの中に、

 ほんの少しだけ、土の匂いが混じっていた。

 春の匂いだ。

 私は白い箱を抱えた。

 軽い箱だった。

 けれど不思議と、重さを感じた。

 母の時間が、そこに入っている。

 玄関の戸を開ける。

 外の道は、まだ雪が残っていた。

 けれど、その下では、

 もう季節が動き始めている。

 私は振り返って、家を見た。

 この家で過ごした時間は、

 もう戻らない。

 でも、消えるわけでもない。

 白い箱の中に、ちゃんと残っている。

 私は小さく息を吐いた。

 そして、誰もいない庭に向かって言った。

「やんだした、いすみ。」

 母がそう言った気持ちが、

 少しだけわかる気がした。

 それでも人は、生きていく。



 私は雪の道をゆっくり歩き出した。



 空は、少しだけ春の色をしていた。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

この物語は、母と娘のあいだに残る、言葉にならなかったものを書きたくて綴りました。

「やんだした」という言葉の中にある、疲れや諦め、口癖のような母親と、それを受け継ぐ、でもそれでも生きていく感情を受け取った娘。感じていただけたなら嬉しいです。

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