第6話:ロスト・シーケンス
致命的タイミングのズレ
午後8時。
小林は俺の期待通り、全てのタスクを完璧に終わらせて定時でオフィスを出た。
プロジェクトの大きなマイルストーンを越え、今日は労いの言葉でもかけようかと思っていたのだが、彼は足早に会社を後にしてしまった。
まぁいい、無理に引き留める必要もないだろう。
俺は自分のデスクに戻り、明日のタスク整理を始めた。
しかし、彼が使っていたデスクの端で、彼が置き忘れたスマートウォッチだけが、あの奇妙な『す〜は〜...』というメトロノーム音を静かに刻み続けていた。
「ん……? なんだこのログは」
ふと、深夜のこと。俺は自分が集中力アップのために自作し、小林にも勧めたスマートウォッチの脳波アプリに、奇妙なバックグラウンド通信のログを見つけた。見慣れないプロトコル(※1)、不可解なエラーコード(※2)。
ただの脳波のチューニングアルゴリズム(※3)として組んだソースコードを注意深く見直すと、それは意図せず『未定義の通信領域(世界の裏側のコードのようなもの)』にまで偶然干渉してしまっていることが判明した。
「待てよ……小林が最近様子がおかしかったのは……」
胸騒ぎを覚えた俺は、小林の携帯に電話をかけた。しかし、呼び出し音すら鳴らず、番号が使われていないというアナウンスが流れた。
観測者への転落
翌朝。
小林は出社してこなかった。俺は出勤の途中、昨夜小林が向かったと言っていたあのカフェに立ち寄った。カウンターでコーヒーを受け取りながら、結衣ちゃんに尋ねた。
「よくうちに出入りしてる小林、今日遅れてるみたいなんだけど、ここに来てないかな?」
「……小林さん? 誰ですかそれ?」
結衣ちゃんのその言葉を聞いても、土屋は取り乱すことはなかった。
軽く相槌を打ち、静かにコーヒーを受け取った。
「そっか、人違いだったかな」と軽く応じた。
過去にも何度か、突然人がいなくなり周囲の記憶からも消え去るという不可解な現象を経験したことがある…といえばある。
最初は色んな人に尋ね回ったが、結局、自分の思い違いだろうと話を収めるしかなかった。
会社に戻り、相馬たちにさりげなく探りを入れたが、やはり誰一人として「小林悠太」の存在を覚えていなかった。
ここまでは過去の経験と同じだ。だが、今回は決定的に違う点があった。
彼の書いたはずの完璧なソースコードの挙動だけが、確かにシステム内に「残っている」のだ。コミットログは俺や他のメンバーの名前にパッチされ直しているというのに、『最初から小林などいなかった』とするには、あまりにも彼の書いたコードの癖が鮮明に残りすぎていた。
俺は自分の手首のスマートウォッチへ目を落とした。
過去の消失事件は、ただの理不尽な現象だった。だが今回は違う。俺が軽い気持ちで拾って渡したあの『アプリ』が、彼を世界の裏側へと落下させるトリガーになってしまったのだとしたら?
欠落した常連客
(※本話後半は結衣の視点)
「ありがとうございました、またお越しください!」
朝のピーク帯を終え、私はふと一息ついた。
いつもなら、この時間帯に「いつものブラック」を頼む、エンジニアのお客さんが来るはずだった。名前はたしか……思い浮かぼうとして、ふっと霧のように消えてしまう。
(変だな……誰かの顔が、思い出せない)
さっき、いつも複数人で買いに来る別のお客さん(たぶん同じ会社の社長さん?)が、
「よくうちに出入りしてる〇〇、ここに来てないかな?」
と聞いてきた。私は「誰ですか?」と答えた。間違いなく、そんな名前の常連客は私の記憶にないからだ。
私の口からその言葉が出た瞬間、あの社長さんは少しだけ悲しそうな、でもすべてを悟ったような不思議な顔をした。それがなぜか、とても胸に引っかかっている。
カウンターを布巾で拭きながら、私は自分の記憶の中にぽっかりと空いた「名もなき空白」を見つめていた。
そこには確かな感触があるのに、システムのバグのように、名前も顔も絶対に認識できない。ただ、とても寂しい気持ちだけが残っていた。
【用語解説】
※1 パケット / プロトコル: 「パケット」はネット上の空飛ぶ小包。「プロトコル」は、そのやり取りをするための「通信のルール(お約束ごと)」。ルールが違うと通信できない。
※2 エラーコード: 「404 Not Found」みたいに、何が原因でエラーになったかを数字やアルファベットで表した暗号。「あ、これ500エラーだ」とか言うとちょっとプロっぽい。
※3 アルゴリズム: 目的を達成するための「計算手順」や「裏側のルール」。例えば、YouTubeで「次にどのおすすめ動画を出すか」を決めているのも、すごいアルゴリズムの働きによるもの。
ここまでが第一部になります。




