第3話:クリティカルエラー発生報告
ここまでが小林さんのストーリーですね!
空間の反転
午後8時。今日も完璧な一日だった。
すべてのタスクは予定通り完了し、エラーも存在しない。気分良くオフィスを出て、俺はいつもの夜のカフェへと向かった。結衣ちゃんの淹れてくれるコーヒーで、この心地よい達成感を締めくくりたかったからだ。
窓越しに彼女が見えた。俺に気づいて、ニコッと笑ってくれた、その直後だった。
ドンッ、とドアを開けようとガラスに手を突いたつもりが、俺の手はガラスを「すり抜けた」。
そのまま重力が反転したように、俺の体は虚空へと真っ逆さまに落下していった。認識のバグではなく、世界そのもののバグに飲み込まれた瞬間だった。
予期せぬエラーと乱入者
「なんだこれ!? どうなってるんだ!?」
落下した先は、見知ったカフェの裏路地のはずなのに、街灯も看板もすべてが墨汁をこぼしたように歪んだ暗闇だった。
足をついた地面すら、アスファルトではなく泥の沼のように気持ち悪い。
しかし景色は紛れもなくカフェの裏路地なのだ。
順調な日常からは考えられない、システム・クラッシュのような世界。パニックになる俺の前に、音もなくスーツ姿の男が現れた。
表情は読めないが、その男が俺に向けて手をかざした瞬間、全身の血液が沸き立つような悪寒と、自分が「フォーマット(※1)(消去)」されるような絶対的な死の気配を感じた。
「ヒッ……!!」
声も出ず、目を閉じたその時――。
キィィィィィィィン!!
鼓膜を突き破るような不快なハウリング音と共に、分厚い作業着を着た大男が、横合いからスーツの男へ突っ込んでいった。
大男の腕には、真鍮のパイプと真空管(※2)が剥き出しになった奇妙な機械が巻き付いており、そこから放たれた高熱の蒸気のようなものが、スーツの男の顔面を直撃する。
「チィッ……下水ネズミ風情が。せっかく『大物』の座標を特定しかけていたというのに、余計なノイズを撒き散らしやがって……」
常に無表情だったスーツの男が、初めて顔を歪め、右目付近を抑えながら後ろへ跳んだ。指の隙間から、赤い血ではなく、ノイズが混ざったような緑色の光が漏れている。
「ギリギリ間に合ったか。ほらよッ!」
大男は俺の襟首を掴むと、路地に停まっていた見たこともない黄色いトラックの荷台へと、俺を無理やり蹴り飛ばした。
「こいつは『鬼之河』行きだ! しっかり掴まっとけよ、兄ちゃん。」
何が起きているのか全く理解できないまま、俺を乗せたトラックは轟音を上げて歪んだ暗闇の中へと発進した。
トラックの運転席にはキャップを被った女の子が見える。
荷台には見たこともないような電子機器のような。いや?むしろやかんに近いものがいくつも見えた。え?なにこのやかん…。
何故か、あれだけ苦しかった気持ち悪さはまったく無い。
蛇行しながら進むトラックからも、かろうじて街灯の無い首都高を宇都宮方面に移動していることだけは分かった。
消失の翌朝
翌朝。
カフェのカウンターで、土屋はコーヒーを受け取りながら結衣に尋ねた。
「よくうちに出入りしてる小林、今日遅れてるみたいなんだけど、ここに来てないかな?」
「……小林さん? 誰ですかそれ?」
結衣のその言葉を聞いても、土屋は取り乱すことはなかった。完璧なビジネススマイルを崩さず、「そっか、人違いだったかな」と軽く応じてみせる。
過去にも何度か、突然人がいなくなり周囲の記憶からも消え去るという不可解な現象を経験したことがある…といえばある。
最初は色んな人に尋ね回ったが、結局、自分の思い違いだろうと話を収めるしかなかった。
だが、今回は少し様子が違った。
人物と記憶が消えたにも関わらず、小林が書いたあの完璧なプログラムだけは、確かにシステム内に残っているのだ。コミットログ(※3)は自分や他のメンバーのものに書き換わっているというのに。
土屋は手首のスマートウォッチへ静かに目を落とした。
【用語解説】
※1 フォーマット(初期化): スマホやPCに入っているデータを全部消して、工場から出荷されたときの「まっさらな状態(初期状態)」に戻すこと。
※2 真空管: 今のパソコンに入っている「半導体(ICチップ)」のご先祖様。昔のラジオとかに入っていた電球みたいなガラス管で、これがいっぱい並んで昔は計算をしていた。レトロでかっこいい。
※3 コミット / コミットログ: 書いたプログラムを「これでセーブ(保存)!」とシステムに記録すること。「コミットログ」はそのセーブデータの履歴。開発現場ではチーム全員のセーブデータを合体させながら作っていく。




