第2話:人的リソースの枯渇と影響
唯一のアンカー
昼休憩、いつものカフェへ向かう。毎朝行ってるルーティーンだ。
でも今日の足取りはなぜかひどく重く、視界の端が少しだけぼやけている。
すれ違うスーツ姿の人々の顔は、まるでノイズがかかったように認識できなかった。
またバグってるのか…。
それでも、ここに来る目的はただ一つだ。
「いらっしゃいませ!あ、いつものブラックですね!」
カウンター越しに顔を出した結衣ちゃんの明るい声と屈託のない笑顔を見ると、薄皮一枚隔てたようなこの世界が、少しだけ鮮明になる気がする。彼女はカフェの制服をきちんと着こなし、いつものようにテキパキとカップを用意してくれていた。
彼女はITのことも、システムのことも、ましてや俺が最近感じている「世界が歪んでいる」ような不気味な感覚のことも何も知らない。ただの平凡で明るい日常を生きている。
その当たり前の存在が、今の俺にとっては強烈なアンカーとして機能していた。
「お仕事、順調ですか? 今日もかっこいいですね!」
「ありがとう!ちょうど大きなマイルストーン(※1)を越えたところでね。プロジェクト自体はすごくいい感じで進んでるよ」
「さっすがでーす!」
と嬉しそうに微笑む彼女の屈託のない表情を見ると、張り詰めていた神経が少しだけ解けるのを感じた。
彼女のため(?)にも、俺はもっとスマートにシステムを作り上げたい。
あわよくば、落ち着いたら彼女をまともな食事に誘おう!
そんな些細な目標が、今の俺にとっては重要だ。
彼女の笑顔と淹れたてのコーヒーの香りだけが、俺の心を確かな『現実』に繋ぎ止めてくれる気がした。
……いや、繋ぎ止めるってなんだ? 俺は一体、何を怖がっているんだ?
[画像: 第2話 カフェでの談笑]
▲ 彼女の笑顔とコーヒーだけが、俺の意識を世界に繋ぎ止めるアンカーだった
違和感の進行
カフェからの帰り道、コーヒーの温もりもすっかり消え失せた頃、また「あの嫌な感覚」が襲ってきた。
前触れもなく、体がふっと軽くなる感覚。重力が半分になったような奇妙な浮遊感。
思い返せば、一昨日も駅の階段でスーツ姿のおっさんと肩がぶつかり、舌打ちをされたばかりだ。あの時はまだ「物理的な衝突」があった。
だが今の俺は違う。
前から歩いてきた歩きスマホをする若い男と、肩がぶつかりそうになった――その瞬間。再び、男の肩が俺の腕を完全に「すり抜けた」。
冷や汗が背中を伝う。振り返っても、男は何事もなかったように歩き去っていく。俺の方を見向きもしない。……三日前の朝、セキュリティゲートで起きたのと同じだ。いや、あの時よりも世界のテクスチャが希薄になっているかもしれない。
気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。
無理やり自分に言い聞かせる。あんな物理法則を無視した現象が現実であるはずがない。仕事はうまくいっている。ただの過労だ。連日の激務で、俺の認識機能が一時的にバグを起こしているだけだ、と。
だが早鐘を打つ心臓の音が、それが真実であると俺に告げている。
早く、早くオフィスに戻らなければ。
あの静かで集中できるデスクと、社長がGitHubから拾ってきた謎のメトロノームアプリの音。あの『す〜は〜...』のリズムを聞いて、いつも通り完璧なコードを打ち続けてさえいれば、俺はこのバグを抑え込み、世界に正常に存在し続けられるはずだ。
祈るような気持ちで、俺はすがるように足早にオフィスビルへと向かった。
【用語解説】
※1 マイルストーン: プロジェクトを進める上での「大きな節目」や「中間目標」のこと。「ここまでできたら第一段階クリア!」というチェックポイントのようなもの。




