第13.5話:隔絶される世界線
(※本話は天宮 百音の視点)
最近、ロボットのように仕事をこなす私を心配してくれたのだろう。 佐々木が「先輩、元気出してください! 美味しいパスタ行きましょう!」と、珍しくお気に入りのカフェのランチに誘ってくれた。
「——というわけで、あの課長ったら本当に面倒くさくて! というか、そもそも今日のネクタイの柄、あれなんなんですか!? 目がチカチカして集中できないって思いません!?」
目の前で、佐々木がフォークを片手にいつものように愚痴をこぼし、屈託なく笑っている。 他愛のない、正常な一般人の日常の会話だ。 それなのに、私の耳には彼女の言葉が上手く入ってこなかった。
(……あの店員、レジからテーブルまでの動線で無駄な歩数が二歩多い。BGMの音響周波数が人の咀嚼音と不協和音を起こしている。テーブルクロスの微小な汚れが引き起こす視覚的ノイズへのアラート……。店外から聞こえる車の走行音のドップラー効果からの速度算出——)
カフェの空間すら、私の目にはうっすらと波長や数値のオーバーレイとして見えている。 視覚から入るすべての情報がパラメーター(※1)化され、それらを自動的に「最適化」しようとする思考プロセスがバックグラウンドで暴走していた。 今この瞬間、「同僚の愚痴にどう相槌を打つか」という人間らしいタスクは、システムのリソース不足によりキューの最後尾へと追いやられていく。 表情筋を動かすための信号すら、手動でコマンドを叩かなければ実行されない感覚。私は必死に、引きつった「愛想笑い」をレンダリングしようと試みていた。
「……であのオレンジと緑のストライプですよ? もう色彩感覚どうなってるのって話じゃないですか。……あれ? 先輩、聞いてます?」 「えっ? あ、ああ、課長のネクタイよね。あの明度と彩度のコントラスト比は、確かに人間の網膜に対して視覚的疲労を誘発する波長だから、室内の照度基準と照らし合わせると不適切ね」 「……え?」
私の言葉に、佐々木がポカンと口を開けた。 しまった、と思ったが、一度口から出たエラー出力(言葉)は取り消せない。
「網膜? 照度基準? いや、そういう話じゃなくて……だ、ダサいねって話をしてたんですけど……?」 「あ、ごめん、そうよね。ダサい……というか、その、たいしてダサくないよ?」 「……なんでそこで庇うんですか。先輩、なんだか最近、会話のピントが合わないっていうか……」
彼女は困ったように笑い、少しだけうつむいてフォークでパスタをつついた。
「手の届かない遠くへ行っちゃったみたいですね」
その何気ない一言が、私の心拍数を一気に引き下げた。 まるで心電図がフラットラインを描いたかのような、決定的な喪失感。冷たい水底へと急激に引きずり込まれる感覚に、息が詰まる。
私はもう、この優しい一般人の世界には、二度と戻れない。 この完璧すぎる異常な視界を、世界のバグと戦う恐怖を、誰かに共有することも、分かってもらうこともできない。 親しかった後輩との間に引かれた、絶対に越えられない不可逆の境界線。 自分の存在が根本から書き換えられ、日常から「隔離」されてしまった絶望。 私はただ、痛いほど冷え切った、水滴だらけのアイスティーのグラスを握りしめた。 指先に伝わる冷たさすらも、熱伝導率と結露の物理演算としてしか認識できない狂った世界の中で、せめて今の表情だけが「悲しい顔」として正しく出力されていることだけを祈りながら、それを一口流し込んだ。
【用語解説】
※1 パラメーター: ゲームでいうところの「HP」「攻撃力」「素早さ」などの各種データや設定値のこと。ここをいじることで、動きや強さが変わる。




