第13.4話:黒須の監視と、ノイズの体温
(※本話は天宮 百音の視点)
私のシステムへの適応が進む一方で、日常の中にはもう一つ、奇妙な『ノイズ』が混ざり始めていた。 PMOである黒須だ。
「天宮さん、最近少しお疲れのようですね。無理は禁物ですよ」
給湯室でコーヒーを淹れていると、背後から音もなく現れた彼に声をかけられた。 その口調は、以前のような冷たい慇懃無礼さではなく、本当に私を案じているかのような柔らかな響きを持っていた。
「黒須さん……いえ、ただの寝不足です。ご心配なく」 「そうですか。……ところで、先日ご自宅に『ハガキ』が届きませんでしたか?」
その言葉に、私はピタリと手を止めた。 『チューナー選定通知』。あの、役所からの悪戯のようなハガキ。
「ああ、あれですか。はい、届きましたけど……」 「役所での手続きは済ませましたか? 実は、私の親族にもあなたと同じ『チューナー』に選ばれた者がいましてね」 「親族に……?」 「ええ。とても立派で、国のために尽くす誇らしい役割ですよ。あなたも自信を持って、その能力を発揮していってください。私たちはチームとして、あなたを全力でサポートしますから」
黒須は、優しげに微笑んで私の肩を軽く叩いた。 彼は、私がまだ覚醒しきっていないと踏んでいるようだった。親族の作り話まで交えて親身な上司を演じ、私を「そちら側」へスムーズに誘導しようとしている。
だが、最適化されつつある私の視界は、彼のわずかな『バグ』を見逃さなかった。 私を励ますその笑顔は、口角の上がる角度が1ミリの狂いもなく固定されている。温かな声のトーンは、声紋が完全に一定の波形を描いている。 肩を叩く動作すら、「好感度を上げるために計算された物理的接触スクリプト」にしか見えなかった。 瞳の奥には温度がなく、1ミリの感情の揺らぎも検出されない。
「……ありがとうございます、黒須さん。……あの、少し失礼しますね」
私は逃げるように給湯室を飛び出した。 同じ会社のチームメンバーに向かって初めて抱く、「人間ではないもの」への恐怖。自分が彼のような「システム」に近づいていく恐怖で、足元がふらついた。
廊下の角を曲がったところで、ドンッ、と誰かの分厚い胸板にぶつかった。
「……って、おい天宮、急に飛び出してきて危ねえな。どこ見て歩いてんだ」 「……あ、ごめ……」
見上げると、そこには不機嫌そうな眉を寄せた土屋が立っていた。 その瞬間——彼の発した「不規則で人間らしい乱れた息遣い」が私に触れた途端、狂いそうだった私の視界の波長がスッと消え、ただの給湯室前の廊下の風景が戻ってきた。
「なんだよお前、顔面蒼白どころか、死にかけのルーターみたいなツラしてんな。そんなに仕事溜まってんのか」 「なによそれ……ルーターって……誰かさんとの打ち合わせの準備のせいよ……」 「ふん。言いがかりも甚だしいな」
彼は鼻で笑いながら、持っていた冷えた缶コーヒーの底を、私の頬にピトッと押し当ててきた。
「ひゃっ!?」 「目ぇ覚ませ。バグってんぞ」
缶についた水滴の生々しい冷たさと、彼の不器用な気遣い。 そのノイズだらけの温もりこそが、冷酷なシステムから私の『人間らしさ』を強引に引き剥がし、救い出してくれる唯一の命綱だった。
私は無意識のうちに、すがりつくように土屋の腕を強く握りしめていた。 自分が正常な人間でいられるために。 その依存が、やがて強烈なノイズである彼自身をどれほど追いつめるかなど、今の私に考える余裕すらなかった。




