第12.2話:ノイズとアンカー
美術館での鑑賞を満喫した俺たちは、そのまま併設されたカフェのテラス席へと移動して一息ついていた。
穏やかな風が吹き抜け、周囲には三連休を楽しむ人々の朗らかなざわめきが広がっている。
先ほどの『睡蓮』に対する俺の的外れな技術的感想を蒸し返されては、二人で笑い合う。
そんな他愛のない、ただの人間としての平和な時間が続いていた。
――だが、ふと会話が途切れた時だった。
彼女の視線が、楽しげな周囲の風景を彷徨った後、ゆっくりと自分の手元へと落ちた。
やわらかかった表情から、すっと温度が引いていく。
何かに耐えるように少し俯き、やがてその指先が、微かに小刻みに震え始めた。
俺が声をかけるより早く、天宮はその震えを無理やり抑え込むように、両手でコーヒーカップを強く握りしめる。
「……土屋さん。私、最近怖いんです。システムのエラーとか、最適化とか、そんな機械みたいな言葉ばかりが頭に浮かんで……。人の心が、ただの『処理すべきデータ』に見えてしまう瞬間があるんです」
彼女の優秀すぎるPMとしての才能が、システム(チューナー)に侵食され始めている証拠だった。
俺は、マニュアルチューンを切った無防備な自分の手を、彼女の震える手にそっと重ねた。
「すみません。子供の頃、不安な時はいつも親がこうしてくれたんで……嫌だったら払い除けてくださいね」
俺だって、いつ世界から消えるかわからないバグ(ノイズ)の分際だ。
だけど、機械になっていく彼女を人間側に繋ぎ止めるアンカー(※1)に、俺はなれるなら…。
「あなたは冷たいシステムの一部になれませんよ。俺がずっと、うるさいノイズを鳴らし続けますから」
……しまった。もう自分でも何を言っているか分からなくなってきたぞ。
恥ずかしさに耐えきれず目を逸らそうとした、その時だった。彼女は少しだけ目を見開き、やがて、泣きそうな顔で吹き出した。
「……ふふっ。頼もしいですね。ふふ…でも、なんか…熊よけみたいですね…あははは」
この穏やかで、けれど微かに崖っぷちを歩くような時間が少しでも長く続けばいいと、そんなことを考えていた。
だが、この時の俺はまだ、世界のシステムの『本当の恐ろしさ』を理解していなかった。
【用語解説】
※1 アンカー: ノイズになりかけた人間、あるいはチューナーとしてシステムに侵食されつつある人間が、自我を保ち「人間側の現実」に留まるための命綱となるもの。特定の人物との関係性や、思い入れのある物質などがこれに該当する。




