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仕様書にないバグですが、たぶん俺のことです  作者: n416
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第9話:デスマーチの足音と限界

数日後。穏やかだったプロジェクトの空気は一変した。

クライアントからのとんでもない仕様追加要求。しかも納期は据え置きという、典型的な炎上の引き金だ。


「これ、どう考えても無理ですよね……?」

頭を抱える相馬をよそに、俺はキーボードをただひたすらに叩き続けた。

やるしかない。過酷でもいい、現実の仕事に没頭していなければ、俺も小林のように『名もなき空白』としてこの世界から滑り落ちてしまいそうだったからだ。


徹夜が続いたある日の深夜。

誰も残っていないオフィスで、俺はとうとう限界を迎え、デスクに突っ伏して意識を手放した。


……ふと、人の気配を感じて目が覚めた。

忘れ物を取りに来たのだろう。天宮が、俺の肩にそっとブランケットをかけてくれようとしていた。


だが、奇妙なことが起きていた。

ブランケットが、俺の肩を『すり抜けて』落ちていくのだ。まるで俺の体がホログラムであるかのように。

彼女がそれに気づいて目を丸くした瞬間、彼女の手が俺の肩に触れた。


その瞬間、世界がピントを合わせたようにカチリと鳴り、ブランケットはごく自然に俺の肩にかかった。


「……お疲れ様です、土屋さん。冷えますよ」

「あ、ああ……すみません、天宮さん」


彼女は何事もなかったように微笑んで去っていった。だが、その背中越しに、彼女がギュッと自分の両手を握りしめ、何かをひどく恐れているように見えたのは気のせいだろうか。

今の現象はなんだ。俺が世界からズレかけているのか? それとも彼女の方が、無意識のうちに俺という存在の綻びを『修正』したのか?


翌朝を迎え、プロジェクトはさらに混迷を極めていた。

とんでもない仕様をAIに叩き込んだところ、AIはハルシネーション(※1)を連発し、使い物にならないコードを吐き出した。

結局、俺自身が膨大な量のコードを書きながら、要求仕様をなんとか要件に落とし込んでいくしかなかった。


「す〜は〜...」


視界が霞んでくる。世界が薄暗く見え、周囲の音がくぐもって遠のいていく。

俺は急いでスマートウォッチの自作アプリを起動し、「整え」を繰り返す。

深呼吸と共に脳波アプリの波形を合わせると、なんとか世界の解像度(※2)が戻ってくる。これが最近の俺の、意識を現実に繋ぎ留めるための苦肉の策だった。

どう考えてもこの行動、俺の精神を削り取っている。


デスマーチ開始から3日目。

プロジェクトは完全に暗礁に乗り上げていた。AIが吐き出したスパゲティコード(※3)と追加仕様の矛盾が衝突し、本番環境一歩手前のステージングで致命的なデッドロック(※4)・バグを引き起こしたのだ。

俺を含め、エンジニアたちが徹夜でログを睨んでも原因が特定できず、チーム全体が絶望的な空気に包まれていた。


「……ちょっと退いてください、土屋さん」


ふいに、背後に立った天宮が俺の椅子を軽く押し、コンソール(※5)の前に滑り込んできた。

彼女は「PMの強いアクセス権限」を使ってシステムの深層にあっさりと侵入すると、普段の温厚な態度からは想像もつかない神がかった速度でキーボードを叩き始めた。


黒い画面ターミナルに、流星のような速度で無駄のないコードが直書きされていく。

誰も手が出せなかった複雑に絡み合ったスレッドの競合を、彼女は涼しい顔をしたまま、わずか数分で鮮やかに解きほぐし、ホットフィックス(※6)のパッチを当ててしまった。


「これで通るはずです。テスト、再開してください」


事もなげにターミナルを閉じた彼女の横顔を見て、俺は背筋に粟が立つ思いだった。

(この人……ただの優秀なプロジェクトマネージャーじゃない。PMの皮を被った、とんでもない化け物(天才)だ……!)


この瞬間、俺の中で彼女への認識は「頼れる元請けPM」から「底知れない凄腕のハッカー」へと完全にアップデートされた。

その後、俺たちは彼女が書き直した強固な土台の上で、膨大なテストエビデンス(※7)と共に納品仕様書を仕上げていく。


そして、テスト仕様書がほぼ完成に近づいた頃。

フロアにやってきたクライアントの担当者が、にべもなく言い放った。


「追加仕様の件ですが、予算の都合で今回は見送りになりました」


……ふざけるな。

せっかく血を吐く思いで作った仕様書が一瞬にしてゴミになった。徒労感に膝から崩れ落ちそうになった。……だが、これで少なくとも今日一日は休むことができる。そう無理やり思考を切り替えるしかなかった。


ふと見ると、隣のデスクで天宮が疲れ果てて座ったまま眠っていた。

よく頑張ってくれた。今日は帰って休んでいいと伝えてあげたいが、昨今の厳しいコンプライアンスを思うと、不用意に肩を揺すって起こすのも躊躇われた。

彼女の部下である佐々木さんに声をかけておき、俺も帰宅することにした。


その時だ。

眠る天宮のコートのポケットから、見慣れないハガキが半分覗いているのに気づいた。


『スタンダードチューナー候補生 御中』


……なんだ、それは。

【用語解説】

※1 ハルシネーション: AI(ChatGPTなど)が、さも本当のことのように「もっともらしい嘘(幻覚)」を堂々と出力しちゃうこと。これを信じてそのままコピペするとエラい目に遭う。

※2 解像度: 画面や画像に「光るピクセル」がどれくらいぎっしり詰まっているかを表す言葉。テレビやスマホなど、解像度が高いほど映像がなめらかで綺麗に見える。

※3 スパゲティコード: 色んな人が適当につぎはぎで書き足したせいで、スパゲティの麺のように複雑に絡み合ってしまい、誰にも解読や修正ができなくなったやばいプログラムのこと。

※4 デッドロック: プログラム同士がお互いに「そっちが終わるまで待つよ」「いやそっちが先でしょ」と譲り合い(または資源の奪い合い)をしてしまい、完全にフリーズして動かなくなるバグの一種。最悪。

※5 ターミナル / コンソール: ハッカーが映画でよくキーボードをカタカタ叩いている、「黒背景で文字だけがブワーッと出てくる画面」のこと。

※6 ホットフィックス(緊急パッチ): 「やばいバグが見つかった!今すぐ直さないと会社が潰れる!」という時などに、大至急で当てられる応急処置のアップデートプログラムのこと。

※7 エビデンス: プログラムが正しく動いていることを証明するための「証拠画像」や「記録ログ」のこと。これを大量に残す作業はエンジニアにとって苦行のひとつ。

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