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仕様書にないバグですが、たぶん俺のことです  作者: n416
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第8.5話:陽だまりのテラスとバグに無縁な猫たち

(※本話は伊藤 結衣の視点)


昼下がりのピークタイムを越え、カフェにゆったりとした時間が戻ってきた頃。

私はオープンテラス席のテーブルを片付けながら、大きく伸びをした。


このお店は目の前に緑豊かな公園が広がっていて、晴れた日には本当に気持ちがいい。見渡すと、芝生広場では近所の親子連れが遊び、ベンチでは大学生が本を読んでいる。こののどかな風景こそ、私がこのカフェで働く一番の理由だった。


ふと足元で「にゃあ」と声がした。

見下ろすと、公園に住み着いている一匹の丸々と太ったサバトラ猫が、私の足首にすりすりと頭を擦り付けていた。


「あ、サバちゃん。いらっしゃい」


しゃがみ込んで耳の後ろを撫でてやると、ゴロゴロと喉を鳴らして目を細める。

この公園には何匹かの地域猫がいて、カフェの常連客の一部みたいな顔をしてテラス席の近くをうろついている。面白いことに、どの子も絶妙な距離感を保っていて、決して店内には這入らないし、お客さんの邪魔もしない。


「平和だねぇ、今日も」


サバちゃんのお腹を撫でながらつぶやく。

ほんの少し前まで、この世界——少なくとも私の周辺では、何か奇妙な「違和感」があった気がする。

ふとした瞬間に、風景がチカチカとノイズのように乱れた気がしたり、誰かの顔が思い出せなくなって変な焦燥感に駆られたり。

でも、そんな感覚はすぐに霧のように消えてしまう。そして「気のせいだったかな」で終わってしまうのだ。


「にゃーん」

今度は足元にハチワレの猫がやってきて、サバちゃんの横にゴロンと寝転がった。

この子たちを見ていると、私の抱えていた名状しがたい違和感など、本当にどうでもいいことのように思えてくる。


猫たちは、なんの「システム」にも縛られていないように見えた。

人間の世界で起こる複雑なトラブルや、目に見えないルールの縛り(私にはよくわからないけれど、エンジニアのお客さんたちがよく口にする『仕様』とか『バグ』とかいうもの)なんて、彼らにはまったく関係ないのだ。


ただそこにある陽だまりを探し、お腹が空いたら鳴き、誰かに撫でられ、日が暮れれば眠る。

彼らはこの世界のノイズに一切干渉されることなく、ただありのままの存在として、完璧にそこにある。


「結衣ちゃーん、休憩入っていいよー」


「あ、はーい。美紀さんありがとう」


同い年のバイト仲間である美紀さんとバトンタッチして、私はバックヤードのパイプ椅子に腰を下ろした。エプロンを少し緩め、スマホを取り出す。

休けい時間の定番は、お気に入りのWeb小説サイトを巡回することだ。最近ハマっているのは、とぼけた主人公が異世界でカフェを開くファンタジーもの。


「ふふっ、この主人公また変な魔法使ってる……」


画面を見つめながら思わず笑い声を漏らすと、冷蔵庫へミルクを取りに来た美紀さんがひょっこり顔を出した。


「結衣ちゃん、また例の小説? なになに、どこまで読んだの?」

「あ、美紀さん! 今ね、主人公が魔法で特大パフェを作ろうとして、大爆発させたところ。クリームまみれで大惨事になってるの」

「えーっ、何それウケる! 読ませて読ませて」


狭いバックヤードで、二人でスマホを覗き込みながらクスクスと笑い合う。

女の子同士でこうして他愛のない話で笑い合える時間は、私にとってかけがえのないものだ。


そんな平和な時間を過ごしていると——


「きゃっ!」

「わわっ!?」


美紀さんが不意にバランスを崩し、手に持っていた空のプラスチックピッチャーを落としてしまった。

ガランガランッ!という派手な音がバックヤードからテラス席のほうまで響き渡る。


表のテラス席で寝ていたサバちゃんが「ビャッ!?」と奇声を上げて飛び起き、見事な跳躍で公園の木によじ登ってしまったのが窓越しに見えた。


「もー、美紀さん気をつけてよ! サバちゃんびっくりして逃げちゃったじゃない」

「ごめーん! ちょっと手が滑っちゃって。あはは……」


少しだけドタバタしたけれど、これも平和なトラブルだ。


「そういえば……」


ほうきとちりとりで床をササッと確認しながら、私はテラスの隅、一番日当たりの良いお気に入りの席に目をやった。

そこにはサバちゃんと同じように音に驚いて目を丸くしている茶トラ猫の『チャチャ』がいた。チャチャは人懐っこくて、いつも元気いっぱいにテラスを駆け回っている。


ふと、そのチャチャのいるテラス席のすぐ近くに、いつの間にか見慣れない男性のお客さんが立っているのに気づいた。

少し派手な、赤茶色のジャケットを着た若い男性だ。

なぜだかパッと見の印象が、以前よく来ていた常連客のエンジニアの人に似ている気がした。……あれ、でもあの常連さんって、どんな顔だったっけ?


その赤いジャケットの男性は、私の視線に気づいたのか軽く会釈をすると、足元のチャチャに向かってしゃがみ込んだ。


「おっ、可愛い猫だなー。おいで」


男性が手を伸ばした、その瞬間だった。

いつもなら誰にでもすり寄っていく人懐っこいチャチャが、ピタリと動きを止めた。


威嚇するわけでもなく、鳴くわけでもない。ただ、ガラス玉のような冷たい目で、すっと男性の顔を見上げたのだ。

そして、伸ばされた手を避けるように、音もなくするりとその場を離れ、そのままテラスの隅へと歩き去ってしまった。


「あれっ……猫好きなんだけどな。振られちゃった」


男性は少しバツが悪そうに苦笑いしながら立ち上がり、そのままカフェの店内へと入っていった。


(……え? チャチャが、あんなふうに露骨に人を避けるなんて珍しいな)


ほんの小さなことだ。猫の気まぐれなんてよくあることだし、ただ機嫌が悪かっただけかもしれない。

でも、まるで彼という存在が「そこにはいない」かのように、完全に無視して通り過ぎたあの姿に、ほんの少しだけ妙な引っ掛かりを覚えた。


そんな小さな違和感に私が首を傾げていると、再びカフェのドアベルがカランカランと鳴った。


「いらっしゃいませ!」


慌ててバックヤードから顔を出すと、レジの前にはさっきの赤いジャケットの男性ではなく、見慣れたスーツ姿の男性が立っていた。


「結衣ちゃん、いつものブラック。テイクアウトで」

「あ、土屋さん! お疲れ様です、すぐ淹れますね!」


振り返ると、近くのIT企業の社長さんが立っていた。いつもはもっとパリッとしているのに、今日はどこか疲れたような、少しだけ思い詰めたような顔をしている。

アレ?さっきの赤いジャケットの人はどこへ行ったんだろう?

店内を見渡しても、すでに見当たらない。


私は小さく首を振って思考を切り替え、カウンターに戻って手早くエスプレッソマシンをセットした。

難しいことはわからないけど、せめてこの一杯で、目の前の社長さんの疲れが少しでも安らぐように。そう願いながら。


エスプレッソが抽出される心地よい音の向こうで、テラス席のチャチャが「にゃあ」と一鳴きして、大きな欠伸をした。

今日もこの公園とカフェは、相変わらず平和な時間が流れている。

どんなに水面下で世界がバグを引き起こしていても、彼ら猫たちと、この陽だまりだけは、絶対に変わらないのだと教えてくれるように。

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