第8話:六本木の休日
電子ドラッグ
最近、ひどい頭痛と眩暈に吐き気を覚えることが増えた。
世界が不自然なまでに「正常」に稼働し続ける中、ただ一人、俺だけが強烈なシステム負荷のような不協和音を脳で直接受け止めているような感覚だ。リソース(※1)が削られ、立っているのもやっとの時がある。
調子が悪くなるたび、俺は無意識に手首のスマートウォッチへ指を伸ばしかけ——ピタリと止まる。
数秒の葛藤。
『これを使ったら、俺も小林と同じように「あちら側」へ落ちてしまうのではないか?』
ただの理不尽な消失事件だと思いたかった。だが今回は違う。俺が軽い気持ちで拾い、チューニングして彼に渡したあの『アプリ』が、彼を世界の裏側へと落下させるトリガーになってしまったのだとしたら?
薄気味悪い疑念が指先を這い上がってくる。
だが、耐えきれない頭痛と吐き気に負け、俺は結局その誘惑に触れてしまう。
『す〜は〜……』
微弱なリズムが骨伝導で頭蓋に響く。
すると、嘘のように視界が澄み渡り、限界だったノイズも吐き気も完全に消え去るのだ。
……なんだこれは。これではまるで、手放せなくなった『電子ドラッグ』じゃないか。
記憶の補間
自己嫌悪と危うい精神状態をなんとかリセットするため、休日の六本木。新国立美術館で開催されていた「印象派展」のチケット(※2)を貰っていた俺は、気分転換も兼ねて足を運んでいた。
柔らかな光の点描を眺めていると、ふいに聞き覚えのある声に呼び止められた。
「え?土屋さん?」
振り返ると、クライアント先のPMである天宮 百音が立っていた。普段のスーツ姿とは違う、少しリラックスした休日の装いに驚いたが、仕事でもよく顔を合わせる彼女とは自然に入館順路を共にすることになった。
「天宮さんもこういうの、お好きなんですね?……ちょっと意外です」俺は思わず小声でこぼした。
「ええ、たまには息抜きも必要ですから。土屋さんこそ、相変わらずお忙しそうですけど、ちゃんと休んでます?」
そんな他愛のない会話から、いつしか話題は現在進行中のプロジェクトへと移っていった。美術館の穏やかな空気の中で仕事の話をするのは無粋な気もしたが、お互いにワーカーホリック気味なのだろう。
「そういえば、あのログイン周りの基盤モジュール、すごくよく出来てましたね。おかげで後の結合テストが随分楽になりました」
「あははは、あれは本当に助かりましたよ。あのモジュールは彼が……小林がすごく綺麗に組んでくれたおかげで……」
ふと口を突いて出た名前に、自分でもハッとした。
「え?」天宮は戸惑った顔をした。「誰ですか、それ?」
しまったと思った。小林悠太。つい先日、何の前触れもなく姿を消したエンジニア。
彼が残したコードは確かにあるのに、社内の人間は誰も『小林』という人間を覚えていなかった。俺以外は。
「あ……いえ、なんでも——」
俺が言葉を濁そうとした瞬間、天宮は軽くこめかみを指で押さえ、痛むように眉をひそめた。
「……ああ、小林さんの話でしたね。なんで忘れてたんだろ。おかしいな、さっきまで誰だっけって思ってたのに」
背筋にぞくりと冷たいものが走った。
……小林を、思い出した?
ついさっきまで完全に忘れていたのに、俺が名前を口にした瞬間、彼女の頭の中で『小林』という人間の記憶が急に蘇ったのか?
他の連中にはいくら話しても全く通じなかったというのに、なぜ彼女だけが。
いや、そもそも——なぜ『俺』自身は、彼のことをずっと覚えたままなんだ?まるで自分だけが、別の世界線を孤独に『観測』しているみたいじゃないか。
「……最近、なんか変なんですよね」
彼女は苦笑しながら、目を瞑った。その手は、かすかに震えていた。
「まぁ天気も不安定ですしね。調子が悪い日もありますよ……」
『実は俺も最近、妙なメトロノームアプリを使い始めてから——』
そう言いかけて、俺は慌てて口をつぐんだ。小林の消失とこのアプリの因果関係に、彼女を巻き込むわけにはいかない。
彼女自身も、自分の脳内で起きている『矛盾』に無意識の恐怖を抱いている。これ以上、得体の知れない不安を与えてどうする。それに、下手にオカルトめいた話をすれば、俺の正気を疑われてプロジェクトの信用問題にもなりかねない。
思考がまとまらず沈黙してしまった俺を見て、彼女がふっと口元を綻ばせた。
「ふふふ。どうしたんですか? 今日の土屋さん、なんだか色んな表情をしますね」
「いや……なんでもないですよ。少し仕事の構成を考えていただけです」
順路を抜け、俺たちは地下のミュージアムショップに隣接する、四角い(カレ)スペースのカフェテリアへ立ち寄った。
そのすぐ隣にあるお土産コーナーで、所狭しと並べられた印象派のポストカードを眺めていた時のことだ。
ふと、一枚の風景画のハガキを手に取った彼女の横顔が、ふっと暗く沈んだ。
「……少し前に、変なハガキが届いたんです」
独り言のような、か細い声だった。
「文字がチカチカするっていうか。それに、自分の頭が勝手に『都合のいいように記憶を書き換えてる』みたいな……そんな気持ち悪い感覚があるんです。自分が自分でなくなっていくみたいで……少し、怖いんです」
「……お疲れなんですよ。大きなプロジェクトの山場でしたし、休める時はしっかり休んでくださいね」
俺は努めて軽い調子で返した。
変なハガキ?彼女の言葉に宿る怯えと、微かな違和感の正体が、この時の俺にはまだ分からなかった。
ただ、彼女の中で間違いなく「何か」が始まっていることだけは確信できた。
【用語解説】
※1 リソース: 仕事に使える「人」「時間」「お金」「パソコンの性能」などの総称。「リソースが足りない」と言えば、だいたい「人手が足りない」か「時間が足りない」という意味。
※2 チケット: チーム内で「この作業はお前がやってね」と割り当てるための依頼状のこと。「チケットを切る(発行する)」と言うと、「クエストを依頼する」という意味になる。




