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2026年的世界観

作者: 永井晴
掲載日:2026/02/10

この時期の僕のいかに孤独かと、「世界」の崩壊かということを言いたい。すなわち、卒業に際してである。これは多分高校生的クリシェでありつつ、しかしそれだけでもない気がする。分からない。とにかく、単なる世の無常とか人々の出会い別れへのセンチではないと思うのである。精神は疲弊する。それは日々の活動の一つであるけど、そんな訳でふと寝落ちて夜に目覚める。邦楽的なリアリズムに似て、そこには眠りに落ちる前、抱きしめるように強いられた一層のこの「世界」の広がりと無意味がある。悲惨な景色のように、ただ物質化した周囲が冷たい。僕はある事をきっかけにxを一旦閉じてみた。静かな日常があった。そして恐ろしいほどの孤独と、豊潤に与えられていた時間もあった。そういう事柄はもちろん「若さが幸福を求めることなど衰退である」的な、下積み時代としての粛々とした日々の匂いもする。しかし、分からぬのだ。先が見えぬというのは、今現実に僕に見えている目の前の景色の、その当たり前な奥行きの無さへの恐怖であるかしら。すなわち、僕は異様なまでに現実を意に介していなかったということだ。それが人間生活一般に適応されるべき発見かどうかは自信が無い。しかし、僕は確かに精神的な世界によく生きておる。芸術家気質とかADHDとか、色々呼び名はあるだろうけど、恐らく僕は現代に特有の情報の海を航海して、そこでの収穫で何とか日々をやり繰りしていたような気がする。少なくとも、一般に問題視されるような「情報の海を彷徨う」みたいな自覚は無い。それは恐らくネットネイティブの世代には共通の認識な気がする。誰も情報の多さに戸惑う同級生はいない。少なくとも、情報的世界は僕らの世代の日常の一部であり、同時に精神世界の大きな要素であると思う。先日、僕はそこから逸脱したのだ。それはパラダイム・シフトを自分の中に於いて容易に起こせるという事かも知れないけど、さすがに疲れる。多くの大人がデジタルデトックスを論じるのを知るなかでも、さすがにいい気分はしないものだ。それは僕の心に聞いた、とても素直な事だった。精神の崩壊を、「世界」の崩壊を簡単に起こしうる人間に何が「世界」であるか。情報社会と関係があるかも分からないけど、出会う人々の思想、思考が(ことごと)く一般論的範疇を出ないことを嫌という程知る。みんなそれでなお自己を保たんと自分の言説にはアイデンティティを見出すようだ。僕は何も超越したようなことを言いたいのではない。ネットの海に潜ればいくらでもその多様な言説の有り様を目の当たりにするというのに(実際その言説の引用元、すなわち発信者を容易に特定できた場合もある。もちろんわざわざ指摘などしないが)、そこにある種の多少の恍惚、すなわち中流意識ならぬ「インテリ意識」みたいなぼんやりとしたアイデンティティの輪郭があるのだと思う。インテリとはもっと辛いものだと僕は最近よく心得るようになったけど、別にそれを鼻にかけたい訳ではない。さらに言えばこの構造はネットのない時代にも簡単に発見できたであろうと思う。言説の発見場が本からネットに変わっただけなのだ。こんなことをやけに目の敵にするようなのは僕の若さもあると思う、無論。でも、今の僕にはその人たちの「世界」の脆弱さが怖い。僕だって構造的には何ら変わらぬ「世界」の構築を個人として行っているんだろうけど、その人たちのアイデンティティとやらは僕に比べりゃもう幾分も弱々しいものであると想像に易い。それは裏を返せば僕の情報への貪欲とかが透けると思う。アイデンティティの視点に於ける他者への穿鑿にも自己保身にも、どちらにしても僕は情報に貪欲なのだと思う。すなわち僕もその脆弱さを出ないうちの一人であると思うのだ。こういう事を言うのがとても辛く、悲しみに心の耐えかねる思いだというのは他の世代の人には分かるだろうか。今述べていることは謂わば、自分の生きる「世界」の欠陥を見つめるようなものであると思う。僕にはそう思えてならない。もちろん問題探求とか学問的、研究的姿勢とはいつもそういうものかもしれないけど、しかしなんと恐ろしい事かと思う。アイデンティティという言葉を僕は今だきちんと、しっくりとした心地をもって使ったことがない。それは市民社会とかそういう言葉にも似ている。実感のわかない、抽象的な言葉であるように思える。しかしその語の示す事の大事さは、何となくだが歳を重ねるごとに少しずつ実感するように思う。確かに僕は常に自分についての問いを絶やしたことがない。何だか不幸な気分を自覚しながらも、その茨の道を進むのである。つまりはその先に何か素晴らしい発見があると思うから行くのである。まあ哲学者とかはそんなものかもしれない。答えが仮になくとも、道があれば嬉しい人だってあると思う。ただ今回の僕の経験、精神世界の崩壊的な出来事は、その道のそもそもハリボテであることを遂に示したように思う。僕も自分は他の周りとは違うと思い込める人間であるが、本来僕らのアイデンティティとなるべきであった事柄の一般化、大衆化されてゆく様のグロテスクはさすがに分かってもらえるだろうか?まあもしかすれば人は本来歳を重ねて「丸くなる」とよく言うように、結局いつかは同じような体験をして絶望せらるる存在であるのかもしれない。しかしネットには、その絶望のありふれ過ぎている気がする。脆弱さだけでなく、うちからその構造が破壊されようとしている日常。僕にはそれがどういうことかはまだ分からない。話を戻せば、卒業に際しての果てしなさはそういう所からも来ている気がする。僕らの日常には言うまでもなくネットがあるが、そこには現実生活と補完物との上手い具合の均衡が存在しているように思う。しかし卒業に際して、否、こういう感は別に夏休みや冬休みにもあるが、人と会う機会が極端に減りその均衡が崩れれば、僕らの誤魔化しの生活、日常の徒労が否応なく露呈してくるのだ。その時アイデンティティとやら、僕らの存在意義のよすがのような曖昧さは霧散してしまう。ああ、現実を見る。もちろん今の僕の不安は中々に骨のあるのばかりだ。でも、それにしても希望が無さすぎるように思う。僕はつくづく淡い恋をしていて良かったと思う。そう、愛情はきっと普遍で無敵だ。それでも若き一個人、この限りある現実世界に無限の空虚を感ず。この度は少しばかりその儀を明らかにせんとした次第なり。

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