『推定有罪の孤独』
小説:『推定有罪の孤独』
第一章:理不尽な朝
私は今年で四十二歳になる。独身だ。
世間一般から見れば、それはただのステータスの一つに過ぎないはずだ。しかし、この日本という国において、中年独身男性という属性は、それだけで歩く「不審物」として扱われる。私は日々、見えない偏見の礫に打たれ、息を潜めるようにして生きている。
その日、兄の家で起きた事件は、まさに私が恐れていた「差別」の具現化だった。
「……ないの。全部、なくなってるの」
リビングで、十四歳の姪の美咲が泣きじゃくっていた。
彼女が部活動の合宿用に用意していた下着類が、ボストンバッグの中からごっそりと消え失せたのだという。
日曜の朝、穏やかな空気は一変した。兄と、その妻である義姉の顔色がサッと変わる。
そして、次の瞬間だった。
彼らの視線が――まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように――ゆっくりと、しかし確実に、私の方へと向けられたのは。
「お前……まさか、な」
兄の声が震えていた。
私は耳を疑った。
血を分けた実の兄だ。子供の頃、同じ部屋で眠り、同じ釜の飯を食って育った兄弟だ。それなのに、彼は今、私を疑っているのか?
ただ私が、「四十二歳で独身だから」という理由だけで?
「心外だ……」
私は震える声で訴えた。
「兄貴、俺を疑うのか? 肉親だぞ。お前の弟だぞ! 証拠もなしに、ただ独身の中年男が同居しているというだけで、俺が姪っ子の下着を盗むような変質者だと決めつけるのか!」
悲しみで胸が張り裂けそうだった。
これは冤罪の温床だ。現代社会の闇だ。
彼らの瞳には、私という人間性ではなく、「独身中年=性的逸脱者」という醜悪なレッテルしか映っていないのだ。
第二章:論点の所在
確かに、盗んだのは私だった。
姪の部屋に忍び込み、あの甘やかな繊維の束を自分の鞄に詰め込んだのは、紛れもなくこの私だ。
今まさに、私の部屋のクローゼットの奥底には、その戦利品が隠されている。
だが、そんなことは些細な問題だ。
私が訴えたいのは、そこではない。論点が完全にずれている。
問題なのは、"私が犯人だという物的証拠が何一つ出ていない段階で"、彼らが"私を疑った"という事実そのものなのだ。
これがもし、私が既婚者だったらどうだ?
あるいは、私が十代の爽やかな少年だったら?
彼らは真っ先に私を疑っただろうか。いや、疑わなかったはずだ。「外部からの侵入者」や「空き巣」の可能性を考えたはずだ。
しかし、彼らはそうしなかった。
思考停止し、短絡的に、「独身の叔父」という記号だけを見て、私を犯人と断定したのだ。
「ひどい……ひどすぎる……」
私は自室に戻り、扉に鍵をかけた。 クローゼットの奥から、美咲のボストンバッグから引き抜いた薄布を、ぞんざいな手つきで取り出す。 それを顔面に押し付け、深く息を吸い込む。 その瞬間、私の体内で何かが弾け、喉の奥から汚い嗚咽が漏れた。 彼らの差別的な視線と、私の身体が求める「救済」が、渾然一体となって襲いかかる。私は、ただ、抗議の涙を流しながら、それを濡れた手で握り続けた。 この行為こそが、社会に見捨てられた者への、許された唯一の慰めなのだと、自己に言い聞かせながら。
この社会は狂っている。
我々四〇過ぎた独身中年は、常に「気持ち悪いことをしでかすに違いない」という予断と偏見に晒され、ビクビクと怯えて暮らさなければならないのか?
私が実際に盗んだかどうかと、彼らが偏見で私を疑ったこと。
この二つは、まったく別の次元の話だ。
結果として私が犯人であったとしても、彼らの差別的な思考プロセスが正当化されるわけではない。それは結果論に過ぎないのだから。
第三章:断絶
結局、事はあっけなく露見した。
私の挙動不審さに気づいた義姉が、私が風呂に入っている間に部屋を捜索し、クローゼットから「汚されたブツ」を発見したのだ。
リビングには、重苦しい沈黙が流れていた。
テーブルの上に並べられた証拠品の数々。
兄は頭を抱え、義姉は青ざめた顔で姪を抱きしめている。
怒号は飛ばなかった。殴られもしなかった。
ただ、兄は静かに、底知れぬほど悲しそうな目で私を見た。
「……もう、来ないでくれ」
その言葉は、拒絶だった。
義姉もまた、汚らわしい虫を見るような目で私を見つめ、一言も発さずに背を向けた。
私は家を追い出された。
私の荷物は段ボールに詰められ、玄関先に放り出された。
エピローグ:許されざる者
アパートの一室で、私は一人、缶焼酎を煽っている。
世間は私を責めるだろう。姪の下着を盗んだ変態だと、指をさして笑うだろう。
だが、私は納得していない。
断じて、彼らを許すことはできない。
彼らは、私が犯人だとわかる「前」から、私を疑っていたのだ。
その事実は、私が真犯人であったという結果によっても、決して覆ることはない。あの瞬間の、私を蔑んだ彼らの目は、まぎれもない差別者の目だった。
「ひどい兄貴だ……」
私は呟く。
肉親の情も、兄弟の絆も、そこにはなかった。あったのは冷酷な偏見だけだ。
私が犯した罪など、彼らが私に向けた差別の罪深さに比べれば、微々たるものではないか。
私は、あの日私を疑った兄夫婦と姪を、一生許さないだろう。
この深い悲しみと孤独は、四〇過ぎて独身である者にしか分からない、聖なる痛みなのかもしれない。
(完)




