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おじいさんと空っぽのバケツ

作者:
掲載日:2025/11/18

小さな島。その波止場で、おじいさんは毎日釣りをしていた。


釣果はほとんど無いけれど、それでもおじいさんはいつも満足そうだった。


ある日、ぼくは初めておじいさんに挨拶した。挨拶といっても軽い会釈だ。


おじいさんは手を振って返してくれた。


翌日もおじいさんは釣りをしていた。


ぼくは話してみたくなって近づいた。いつも横に置いてあるバケツは空だった。


「一匹も釣れてないじゃん」


そう言うと、おじいさんは笑って「まぁこんな日もある」と言った。


ぼくは少しムッとして、明日から毎日、バケツを除いてやろうと思った。


それからの一週間、学校帰りに波止場へ寄るようになった。


世間話をしながら、おじいさんの釣りと海をのんびり眺めた。


昔話を少し、ぼくも学校の話を少し。


そんな調子で、話す量は多くなくても距離は少しずつ縮まっていった。


夕暮れになるとおじいさんは竿をしまい、ぼくもそのあとを追うように帰った。


──おじいさんは今日も釣りをしていた。


ふと、ぼくは思った。


釣れもしないのに、あんなに続けられるなんて、釣りってどれほど面白いんだろう。


気になって仕方なくなったぼくは、学校帰りに釣りをさせてもらおうと決めた。


「おじいさん、今日も釣りしてるの?」


竿を上下させながら、おじいさんは静かに頷いた。


「ねぇ、おじいさん。ぼくも釣りしてみたい」


おじいさんは少し嬉しそうに、釣竿をぼくに持たせてくれた。


釣り針に餌をつけ、できるだけ遠くへ飛ぶように竿を振る。


重りがないからか、ほとんど飛ばなかった。


おじいさんは肩が悪いから、糸を垂らすだけらしい。


「今日は魚パーティーするんだ」


宣言した瞬間、竿が重くなった。


おじいさんが横で「おちついて、ゆっくり巻くんだ」と言ってくれる。


ぼくは言われた通りに巻いた。


そして、アジが一匹釣れた。


ぼくは初めて、おじいさんのバケツに魚が入るところを見た。


「坊主、筋がいいな」


おじいさんの声は耳に入らなかった。


ただ、胸の奥がじんわり熱くなった。


空っぽだったバケツの海水が、魚の動きでゆっくりと揺れた。


ある日、ぼくは学校のことでしょんぼりしながら波止場へ行った。


少し離れていたのに、おじいさんは手招きをしてきた。


「学校で、何かあったのかい?」


ぼくは膝を抱えてうなずいた。


おじいさんは慰めるように竿をぼくに渡す。


「何かしてた方が気が休まるだろう。君みたいな子は特に」


釣れる釣りは楽しい。


魚が数匹バケツで泳ぎ始めた頃、ぼくはようやく竿を返した。


でも言いたいことが胸に残っていた。


「おじいさんが羨ましいよ。学校行かなくてもいいし、勉強もしなくていいし、毎日釣りできるし」


「なんでもできるじゃん。大人ってお金もってるし、おじいさんは時間もあるし」


おじいさんはうんうんと聞きながら、餌をつけて海に糸を垂らした。


「そうでもないさ。わしはもう島を一周歩けんし、泳げもしない。ここでは釣りくらいしかできんのよ」


その言葉に、ぼくは少しガッカリした。


思い描いていた“大人”とは違っていた。


おじいさんは髭のあたりを触りながら言った。


「わしと違って、君にはまだ色んな道がある。医者でも、サッカー選手でも、宇宙飛行士でもな」


おじいさんは麦茶を飲んで、続けた。


「選ぶのは早い方がいいぞ。気づいた頃には、歩けん道が増えとる。


……まあ、よく考えるんだ。釣りはたまにでいい。勉強して悩むのが子供の仕事だ」


その日を境に、ぼくは数日波止場へ行かなかった。


でもおじいさんの言葉が頭から離れなかった。


──将来のことなんて考えたことがなかった。


──好きなものはたくさんあるけど、仕事にしてる自分は想像できなかった。


気づけば夏休みに入っていた。


悩みは消えなかったけれど、ぼくは波止場へ向かった。


「久しぶり。元気だったか?」


おじいさんの挨拶を遮って、言った。


「おじいさん、ぼく、何をしたらいい? 無限の可能性とかよく分かんないよ」


おじいさんは少し考え、ゆっくり言った。


「何でもしてええ。けど、勉強だけは続けなさい。……勉強はのう、歩ける道を少しだけ広げてくれる」


意味はよく分からなかった。


ぼくが仰向けになって空を見ていると、おじいさんが訊いた。


「ところで君、進路はどうする? この島に高校はないぞ」


遠いと思っていた未来が、急に近づいてきた気がした。


「晩ごはんの時でいいから、親御さんと話しなさい。道は歩けるうちに選ばにゃな」


夏休みの宿題は、おじいさんに手伝ってもらいながら二週間ほどで終わった。


釣りもした。おじいさんは相変わらず釣れなかった。


ぼくがあまりに釣るものだから、クーラーボックスをくれた。


「わし一人じゃ、よう食べんからな」


ぼくは魚を持って帰って家族と食べる日が増えた。


七輪と炭を自転車に積んで、おじいさんと焼いて食べることもあった。


「おじいさん。ぼく、東京の高校に行くよ」


「……寂しくなるな」


ぼそっと言ったあと、おじいさんはぼくの方を向いた。


「ちゃんと、考えたんだな?」


ぼくが頷くと、おじいさんは嬉しそうに背中を叩いた。


偉い、立派だ、と何度も言った。


ぼくは照れくさくて仕方なかった。


──今、ぼくは島を出て東京の高校の寮に住んでいる。


都会の生活は大変だけど、後悔はしていない。


それに、今でもたまに釣りをする。


今日のバケツも空っぽだ。


だけど、それも悪くないと思える。

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