おじいさんと空っぽのバケツ
小さな島。その波止場で、おじいさんは毎日釣りをしていた。
釣果はほとんど無いけれど、それでもおじいさんはいつも満足そうだった。
ある日、ぼくは初めておじいさんに挨拶した。挨拶といっても軽い会釈だ。
おじいさんは手を振って返してくれた。
翌日もおじいさんは釣りをしていた。
ぼくは話してみたくなって近づいた。いつも横に置いてあるバケツは空だった。
「一匹も釣れてないじゃん」
そう言うと、おじいさんは笑って「まぁこんな日もある」と言った。
ぼくは少しムッとして、明日から毎日、バケツを除いてやろうと思った。
それからの一週間、学校帰りに波止場へ寄るようになった。
世間話をしながら、おじいさんの釣りと海をのんびり眺めた。
昔話を少し、ぼくも学校の話を少し。
そんな調子で、話す量は多くなくても距離は少しずつ縮まっていった。
夕暮れになるとおじいさんは竿をしまい、ぼくもそのあとを追うように帰った。
──おじいさんは今日も釣りをしていた。
ふと、ぼくは思った。
釣れもしないのに、あんなに続けられるなんて、釣りってどれほど面白いんだろう。
気になって仕方なくなったぼくは、学校帰りに釣りをさせてもらおうと決めた。
「おじいさん、今日も釣りしてるの?」
竿を上下させながら、おじいさんは静かに頷いた。
「ねぇ、おじいさん。ぼくも釣りしてみたい」
おじいさんは少し嬉しそうに、釣竿をぼくに持たせてくれた。
釣り針に餌をつけ、できるだけ遠くへ飛ぶように竿を振る。
重りがないからか、ほとんど飛ばなかった。
おじいさんは肩が悪いから、糸を垂らすだけらしい。
「今日は魚パーティーするんだ」
宣言した瞬間、竿が重くなった。
おじいさんが横で「おちついて、ゆっくり巻くんだ」と言ってくれる。
ぼくは言われた通りに巻いた。
そして、アジが一匹釣れた。
ぼくは初めて、おじいさんのバケツに魚が入るところを見た。
「坊主、筋がいいな」
おじいさんの声は耳に入らなかった。
ただ、胸の奥がじんわり熱くなった。
空っぽだったバケツの海水が、魚の動きでゆっくりと揺れた。
ある日、ぼくは学校のことでしょんぼりしながら波止場へ行った。
少し離れていたのに、おじいさんは手招きをしてきた。
「学校で、何かあったのかい?」
ぼくは膝を抱えてうなずいた。
おじいさんは慰めるように竿をぼくに渡す。
「何かしてた方が気が休まるだろう。君みたいな子は特に」
釣れる釣りは楽しい。
魚が数匹バケツで泳ぎ始めた頃、ぼくはようやく竿を返した。
でも言いたいことが胸に残っていた。
「おじいさんが羨ましいよ。学校行かなくてもいいし、勉強もしなくていいし、毎日釣りできるし」
「なんでもできるじゃん。大人ってお金もってるし、おじいさんは時間もあるし」
おじいさんはうんうんと聞きながら、餌をつけて海に糸を垂らした。
「そうでもないさ。わしはもう島を一周歩けんし、泳げもしない。ここでは釣りくらいしかできんのよ」
その言葉に、ぼくは少しガッカリした。
思い描いていた“大人”とは違っていた。
おじいさんは髭のあたりを触りながら言った。
「わしと違って、君にはまだ色んな道がある。医者でも、サッカー選手でも、宇宙飛行士でもな」
おじいさんは麦茶を飲んで、続けた。
「選ぶのは早い方がいいぞ。気づいた頃には、歩けん道が増えとる。
……まあ、よく考えるんだ。釣りはたまにでいい。勉強して悩むのが子供の仕事だ」
その日を境に、ぼくは数日波止場へ行かなかった。
でもおじいさんの言葉が頭から離れなかった。
──将来のことなんて考えたことがなかった。
──好きなものはたくさんあるけど、仕事にしてる自分は想像できなかった。
気づけば夏休みに入っていた。
悩みは消えなかったけれど、ぼくは波止場へ向かった。
「久しぶり。元気だったか?」
おじいさんの挨拶を遮って、言った。
「おじいさん、ぼく、何をしたらいい? 無限の可能性とかよく分かんないよ」
おじいさんは少し考え、ゆっくり言った。
「何でもしてええ。けど、勉強だけは続けなさい。……勉強はのう、歩ける道を少しだけ広げてくれる」
意味はよく分からなかった。
ぼくが仰向けになって空を見ていると、おじいさんが訊いた。
「ところで君、進路はどうする? この島に高校はないぞ」
遠いと思っていた未来が、急に近づいてきた気がした。
「晩ごはんの時でいいから、親御さんと話しなさい。道は歩けるうちに選ばにゃな」
夏休みの宿題は、おじいさんに手伝ってもらいながら二週間ほどで終わった。
釣りもした。おじいさんは相変わらず釣れなかった。
ぼくがあまりに釣るものだから、クーラーボックスをくれた。
「わし一人じゃ、よう食べんからな」
ぼくは魚を持って帰って家族と食べる日が増えた。
七輪と炭を自転車に積んで、おじいさんと焼いて食べることもあった。
「おじいさん。ぼく、東京の高校に行くよ」
「……寂しくなるな」
ぼそっと言ったあと、おじいさんはぼくの方を向いた。
「ちゃんと、考えたんだな?」
ぼくが頷くと、おじいさんは嬉しそうに背中を叩いた。
偉い、立派だ、と何度も言った。
ぼくは照れくさくて仕方なかった。
──今、ぼくは島を出て東京の高校の寮に住んでいる。
都会の生活は大変だけど、後悔はしていない。
それに、今でもたまに釣りをする。
今日のバケツも空っぽだ。
だけど、それも悪くないと思える。




