猫耳の渉
宝来優里から課せられた
「裁き」を受け入れた向井渉は、
翌日から、学園内を
白い猫耳のカチューシャをつけたまま歩き、
どんな会話の語尾にも「にゃん」と
つけるようになった。
それは、彼が優里に与えた
屈辱と苦痛に対する、
文字通りの「贖罪」の始まりだった。
彼の姿は、学園中で即座に注目を集めた。
「おい、あれ、ダイアモンドの向井渉じゃないか?」
「マジかよ、猫耳つけて『にゃん』って言ってるぞ!」
「どうしたんだ、あいつ!?」
生徒たちは、
ダイアモンドメンバーの
一人である向井渉の、
あまりにも異様な姿に驚きを隠せなかった。
特に、彼がその猫耳を隠そうともせず、
むしろ堂々と(あるいは、諦めたように)
つけていることに、
困惑と好奇の視線が集中した。
渉自身にとって、
この状況は筆舌に尽くしがたい屈辱だった。
学園の誰もが自分を嘲笑しているように感じ、
彼のプライドは粉々に打ち砕かれた。
廊下を歩くたび、食堂で食事をするたび、
好奇の視線とひそひそ話が彼の耳に届いた。
しかし、彼は優里との約束、
そして篠原悠の眼差しを思い出し、
その屈辱に耐え続けた。
怒りが込み上げるたびに、
優里の傷ついた顔が脳裏に浮かび、
彼は「にゃん」と語尾につけ続けるしかなかった。
この渉の奇妙な行動は、
学園全体に大きな波紋を広げた。
渉の猫耳姿は瞬く間に学園中の噂となり、
生徒たちはその理由を巡って
様々な憶測を繰り広げた。
彼の「処遇」が
優里の意思によって
決められたことまでは知る由もなかったが、
何かただ事ではないことが
ダイアモンドクラスで
起きているという認識が広がった。
ダイアモンドメンバーたちは、
渉の姿を見るたびに、
優里の覚悟と悠の計画の大きさを再認識した。
彼らは、渉の屈辱的な姿を目の当たりにすることで、
優里がどれほどの痛みを抱えていたのかを
改めて突きつけられ、
自分たちの責任の重さを痛感した。
同時に、悠が本当に学園を変えようとしていること、
そしてそのための「ゲーム」が
いかに容赦ないものであるかを理解した。
特に、宝来悠斗は渉の姿に
大きな動揺を隠せなかった。
彼が散々虐げてきた優里が、
まさかダイアモンドのメンバーである渉に、
これほどの屈辱を与える「裁き」を下すとは。
そして、渉がそれを甘んじて
受けているという事実は、
悠斗の心に、優里への新たな恐怖と、
ダイアモンドクラスの
異変に対する不穏な予感をもたらした。
向井渉の猫耳と「にゃん」という語尾は、
学園の日常に異物として混ざり込み、
誰もがその異変の背景にある、
ダイアモンドクラスの新たな動きと、
宝来優里という少女の変化を
感じ取り始めるのだった。
向井渉が学園中を猫耳姿で歩き、
語尾に「にゃん」をつけているという
異様な光景は、もちろん山下遥香の目にも触れた。
彼女は、その光景を最初に目にした時、
一瞬、目を見開いた。
そして、その表情に、
わずかな驚きと、
そして優里の判断に対する複雑な感情が浮かんだ。
遥香は、渉が宝来優里に対して
行ってきたことの全てを知っていた。
デマの流布、暴行事件への間接的な関与、
そして何よりも、自身の遥香への歪んだ恋心から
優里を貶めようとしたこと。
遥香の心には、渉への深い嫌悪感と、
優里を苦しめたことに対する怒りがあった。
しかし、遥香が渉の猫耳姿を見た時、
彼女の胸に去来したのは、
単なる怒りだけではなかった。
遥香は、優里が渉に肉体的な罰ではなく、
精神的な屈辱を与えた意図を
瞬時に理解した。
それは、渉の傲慢なプライドを打ち砕き、
優里自身が受けた精神的苦痛を追体験させる、
優里なりの「裁き」だった。
遥香は、優里のその賢明な判断力と、
憎しみだけではない複雑な感情に、
感嘆にも似た感情を抱いた。
渉の屈辱的な姿は、遥香自身の心にも深く響いた。
渉の過ちは、遥香が悠への恋心に囚われ、
優里のSOSに気づきながらも
行動できなかったことと
無関係ではなかった。
渉が受け入れた「罰」は、
遥香自身の心にも、
優里に対する「償い」の重さを
改めて突きつけるものだった。
遥香は、優里が自分との関係を
「幻だった」と断じたことに深く傷つき、
寂しさを感じていた。
しかし、渉に下された
この「裁き」は、
優里がもはや以前のような
か弱い存在ではないこと、
そして自身の力で
状況を変えようとしていることを示していた。
それは、遥香の心を再び揺さぶり、
優里への関心と、
彼女との関係を取り戻したいという
(無意識の)願望を再燃させるきっかけとなった。
遥香は、渉の姿から視線を逸らし、
その瞳の奥には、優里への深い思いと、
自身の過ちに対する葛藤が混じり合っていた。
彼女は、感情を露わにすることなく、
静かに、しかしその存在は確実に、
ダイアモンドラウンジで巻き起こっている
「ゲーム」の新たな局面を見つめていた。
向井渉が猫耳をつけ、
「にゃん」と語尾につけながら学園内を歩く姿は、
ダイアモンドラウンジにいる
篠原悠、日向朔也、鷹城玲司、
そして宮瀬真佑の面々にも、
日常的に届けられていた。
その光景は、彼らにとって、
優里の「裁き」の具体的な現れであり、
同時に、どこか滑稽でもあった。
ある日、渉がラウンジに立ち寄った際、
うっかり語尾に「にゃん」を
つけ忘れた瞬間があった。
その時、朔也が吹き出し、
玲司も肩を震わせ、
真佑は手で口を覆いながら
必死に笑いをこらえていた。
「おい!笑うな!……にゃん」
渉は、顔を真っ赤にして叫んだが、
その必死な様子が、
かえって彼らの笑いを誘った。
悠もまた、口元に微かな笑みを浮かべ、
渉の様子を静かに見守っていた。
この日から、ダイアモンドメンバーたちは、
渉をからかうことを、
一種の「遊び」として楽しむようになった。
「おい渉、今日の『にゃん』はちょっと元気がないんじゃないか?にゃん」
「もっと可愛く言ってみろよ、にゃん」
といった具合に、彼らは渉をからかい、
その反応を楽しんでいた。
渉も最初は反発していましたが、
次第に彼らのからかいに応じるようになり、
時には自虐的な「にゃん」で笑いを取ることもあった。
この「遊び」は、渉にとって、
自身のプライドを打ち砕かれる
屈辱であると同時に、
彼を縛っていた罪悪感からの
心理的な解放でもあった。
彼が優里にしたことの重さは変わらないものの、
ダイアモンドのメンバーたちが
彼を「いじり」の対象とすることで、
彼は再び彼らの輪のなかに
受け入れられていると感じ始めた。
ダイアモンドメンバーにとっても、
この「遊び」は、
彼らの結束を強化するきっかけとなった。
共通の「秘密」と「ターゲット」を持つことで、
彼らの間に新たな連帯感が生まれた。
特に、遥香の喪失感という重い空気が漂うなかで、
渉との「遊び」は、彼らの緊張を和らげ、
ラウンジに以前のような活気を取り戻す一助となった。
そして、何よりも重要なことに、
この「遊び」は、
向井渉が自然と
ダイアモンドのメンバーとして戻れるようになった、
決定的なきっかけでもあった。
彼の能力は依然として高く、悠の計画には不可欠だった。
この屈辱的な「裁き」と、
それを共有する「遊び」を通して、
渉は再びダイアモンドの活動に
積極的に関わるようになり、
彼のくすぶっていた才能が、
再び輝きを取り戻し始めた。
渉の猫耳と「にゃん」は、
学園中に奇妙な噂を広める一方で、
ダイアモンドラウンジの内部では、
彼らの絆を深め、
優里と遥香の関係を「元に戻す」という
壮大な計画の、確かな推進力となっていった。
ある日、渉は、
学園の廊下で偶然
宝来優里とすれ違った。
彼は、まだ頭に白い猫耳をつけ、
その姿は学園の生徒たちにとって、
もはや日常の一部となりつつなっていた。
しかし、彼の表情は、
以前のような倦怠感や不満ではなく、
どこか吹っ切れたような、
そして微かな決意を宿したものだった。
優里は、渉の姿を見ると、
一瞬、身構えた。
過去のデマや暴行事件の記憶が、
まだ彼女の心に深く刻まれていたからだった。
しかし、渉は、優里の目の前で立ち止まると、
その猫耳をつけたまま、深々と頭を下げた。
彼の声は、以前の冷徹さとは異なり、
どこか人間味を帯びた、真摯な響きを持っていた。
「……ありがとな」
その一言は、優里が彼に与えた「裁き」が、
彼にとって単なる屈辱ではなかったこと、
そして、それが彼を
再びダイアモンドのメンバーとして
受け入れられるきっかけとなったことへの、
心からの感謝の言葉だった。
「…俺がしたことと同等なことをするかと思っていた」
「それくらいの覚悟はしていた」
「でも、お前は俺が再びダイアモンドのメンバーに戻れるように、わざと変な罰を与えた」
「そうすれば、ダイアモンドのメンバーはいじるように俺に話しかけてくる」
「そしたら自然と元に戻ることができる」
「それを、狙っていたんだろ?」
そして、渉は、もう一言、優里に告げた。
「……悪かったな」
その言葉は、彼が優里に与えた
全ての苦痛に対する、改めての謝罪だった。
彼の目には、過去の過ちへの後悔と、
優里への深い罪悪感がにじんでいた。
猫耳をつけた彼の姿は滑稽だったが、
その謝罪の言葉は、彼の心からの本音であり、
優里の心に、これまでになかった感情を呼び起こした。
優里は、渉の突然の感謝と謝罪に、ただ立ち尽くしていた。
彼の言葉は、彼女の心に、予想もしなかった温かさと、
そして、彼が本当に変わろうとしているという、
かすかな希望をもたらした。
彼女が下した「裁き」が、
憎むべき相手の心を動かし、
彼を変えるきっかけとなったことに、
優里は驚きと、そして複雑な感情を抱いた。
渉は、優里の反応を待つことなく、
再び頭を下げ、そして「にゃん」と語尾につけて、
その場を去っていった。
彼の背中には、以前のような陰鬱さはなく、
どこか軽やかな足取りが見て取れた。
向井渉の「贖罪」と完全復帰は、
篠原悠の計画に確かな手応えをもたらした。
渉が宝来優里に謝罪したことで、
優里の心にも変化の兆しが見え始め、
何よりも渉自身の能力が
再び活用できるようになったことは、
大きな進展だった。
悠は、この勢いを逃すことなく、
次の、より具体的なステップへと進むことを決断した。
まず、ダイヤモンドメンバーたちが取り組むのは、
優里の「復権」だった。
向井渉の猫耳と「にゃん」という語尾は、
学園中を騒がせたが、
その真の意図は、
ダイアモンドメンバーの間で共有される秘密だった。
これは、あくまでも
渉が優里に与えた苦痛に対する、
ダイアモンドのメンバーとしての「贖罪」であり、
彼自身のプライドを打ち砕くことと
再びダイアモンドのメンバーに
戻れるようにすることを目的としたものだった。
しかし、この「贖罪」の裏には、
巧妙な策略が隠されていた。
公には、この奇妙な行動は、
渉が学園内で何か特別な任務を
受けているかのように見せかけるための
誤導の役割も果たしていた。
これにより、悠たちが
優里に対して何らかの行動を起こしても、
それが即座に遥香と優里の関係を
巡るものだとは悟られないようにする意図があった。
悠は、渉の件で優里がラウンジに来たことを利用し、
公に優里のシルバークラスへの昇格を
発表することを決定した。
これは、単なるクラスの移動ではない。
過去に渉の策略でシルバーに昇格したものの、
その後のデマと暴行でブロンズに
逆戻りさせられた優里にとって、
これは正当な「復権」を意味する。
発表は、全校生徒に向けて行われる
学園の定例集会で行われた。
悠は、ダイアモンドの絶対的な権威をもって、
優里の学力と品格が
シルバークラスにふさわしいものであることを強調し、
過去の「誤った情報」(渉が流したデマを指す)に
よって不当に扱われたことを示唆した。
「宝来優里は、その実力をもって、再びシルバークラスへ昇格する。彼女への不当な扱いは、学園の秩序を乱すものであり、今後、同様の行為は一切許されない」
悠の言葉は、優里の尊厳を公に回復させるものであり、
同時に、学園内のいじめに対して、
ダイアモンドが明確な姿勢を示すものでもあった。
これにより、優里が学園内で
再び正当な地位と安全を確保できるよう、
基盤が築かれた。
優里のシルバー昇格は、
遥香と優里の関係を「元に戻す」ための
第一歩だった。
優里はダイアモンドのパートナーではないため、
ダイアモンドラウンジへのアクセス権こそ
得られないものの、
より上位のクラスへと復帰し、
学園内での自由な行動や情報へのアクセスが格段に向上する。
ダイアモンドメンバーたちは、
優里がシルバーとして学園生活を送るなかで、
遥香との接点が増えるような
「偶然の機会」を創り出すための
情報収集を開始する。
渉の完全復活は、
この情報網の再構築において極めて重要だった。
彼らは、遥香と優里の行動パターン、
共通の興味、友人関係などを徹底的に分析し、
二人が自然な形で交流できるような環境を
戦略的に整備していくことになる。
これは、単なるクラス昇格以上の意味を持つ、
悠たちの壮大な計画の、本格的な始動を告げるものだった。




