複雑すぎる恋のベクトル
宝来優里は、遥香が悠に向ける、
日増しに募る恋心を間近で見ていた。
遥香の優しい眼差し、時折見せる照れたような笑顔、
そして悠に話しかける時の少し上ずった声。
それらを目にするたびに、
優里の胸には言いようのない
寂しさがじわじわと広がっていった。
しかし、優里はその感情を、
遥香への憧憬からくるものだと考えていた。
遥香は、優里にとって太陽のような存在であり、
手の届かない憧れの象徴。
その遥香が、自分とは違う誰かに
心を惹かれているのを見るのは、
どこか遠い世界の出来事のように感じられ、
優里の心に静かな寂しさを落としていった。
自分のような存在が、遥香の隣にいることなど、
最初からありえないことだと、心のどこかで諦めていた。
そんな優里の様子を、真佑は静かに見守っていた。
優里の表情に浮かぶ、ほんのりとした悲しみ、
そして時折見せる寂しそうな横顔。
真佑は、優里のその感情が、
単なる憧れからくるものにしては、
どこか深いように感じていた。
優里が遥香を見る目は、
確かに尊敬と憧れに満ちていたが、
その奥には、もっと複雑で、
言葉にできない感情が隠されているような気がして、
真佑は小さく首を傾げた。
その日、ダイアモンドラウンジには、
珍しく遥香、悠、そして宝来優里の姿がなかった。
残された真佑、朔也、玲司が、
いつものように紅茶を囲んでいた。
優里がラウンジに顔を出すことが減り、
遥香が悠へのアプローチを強めている現状に、
三人の間には重い空気が流れていた。
沈黙を破ったのは、じっと状況を見守っていた朔也だった。
彼は、これまで収集してきた情報と、
彼自身の冷静な観察に基づいて、
ある残酷な事実を提示した。
「実は、この複雑な状況には、もう一つ絡み合っている感情がある」
真佑と玲司は、朔也の言葉に顔を向けた。
「向井渉は、遥香に恋心を抱いている」
朔也の言葉に、真佑と玲司は目を見開いた。
向井が遥香を慕っていることは、
彼らにとって既知の事実だったが、
それがこの状況にどう影響するのか、
一瞬、理解できなかった。
朔也は、さらに追い打ちをかける。
「そして、その遥香は、悠に恋心を抱いていると、僕たちは考えている」
この言葉に、真佑は優里の寂しそうな横顔を思い出し、
玲司は遥香が悠に接近する行動を思い返した。
彼らは、その「恋心」が
誤解であることは知っていたが、
表面上はそう見えていることも理解していた。
そして、朔也はとどめの一言を放った。
「そして、悠は、優里に特別な感情、おそらく恋心を抱いている」
朔也の言葉は、ラウンジに重く響き渡った。
悠が優里をパートナーに選んだこと、
今回の事件で優里を守ったこと、
そして優里の平穏を優先したこと。
これら全ての悠の行動は、
優里への特別な感情の表れだと、
朔也と玲司は確信していた。
悠が優里に恋心を抱いているという
真実(彼らにとっては)は、
他のメンバーにはまだ共有されていなかったが、
朔也は今、それを明らかにした。
朔也が提示した、あまりにも複雑で、
一方通行の感情の連鎖に、
ラウンジの残りのメンバーは呆然とした。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 向井が遥香に恋心を抱いていて、その遥香が悠に恋心を抱いていて、悠は優里に恋心を抱いている!?」
玲司は、思わず頭を抱えた。
真佑もまた、信じられないという表情で、
呆然と呟いた。
「めちゃくちゃすぎるよ…!」
彼らが認識している
「悠と優里は付き合っていた」という誤解の上で、
この新たな恋のベクトルが加わったことで、
状況は想像を絶するほどに複雑化していた。
誰もが、この感情の泥沼をどう収拾すればいいのか、
全く見当もつかないといった様子で、
深い溜息をつくばかりだった。
朔也が明かした複雑すぎる恋のベクトル
──向井渉から山下遥香へ、
遥香から篠原悠へ、
そして悠から宝来優里へ──
に、ダイアモンドメンバーたちは頭を抱えた。
個人の感情がこれほどまでに絡み合い、
さらに学園の階級制度や
偽装関係といった要素が加わることで、
事態は極めて収拾困難な様相を呈していた。
しかし、彼らは学園のトップに立つ者として、
この混乱を放置するわけにはいかなかった。
特に、鷹城玲司と朔也は、
事態を収拾するための具体的な方策を練り始める。
彼らは、この混乱の根源が
遥香の「悠への恋心」という誤解にあると判断した。
しかし、悠と優里のパートナー関係が
偽装であることを遥香に直接明かすことは、
悠の「ゲーム」の根幹を揺るがすだけでなく、
優里の学園での立場を再び危うくする可能性があった。
朔也と玲司は、
引き続き遥香が優里への感情を
悠への恋心と誤認していることを、
より明確に指摘するような言葉を、
さりげなく、意識的に投げかけることを検討した。
ある日、ダイアモンドラウンジにいた遥香に
朔也が声を掛ける。
「…遥香」
遥香は静かに顔を上げる。
「遥香は、優里の笑顔が何よりも大切だと言っていたな」
「優里が傷つけられた時、遥香の怒りは尋常ではなかった」
朔也は遥香の反応を伺った。
「…優里は、私が最初に見つけたから。」
遥香は静かの答えた。
朔也は遥香に、優里の学園における重要性と、
彼女が遥香にとって
どれだけかけがえのない存在であるかを、
別の角度から遥香に理解させることを目指した。
「遥香」
朔也の声に、遥香は無言で顔を上げる。
「優里は、この学園にとって、いや、遥香にとって、かけがえのない存在だろ?」
遥香は、朔也の言葉に、困惑した表情を浮かべた。
「…どういう意味?」
「遥香は、この学園で、誰よりも孤独だった。しかし、優里が…、あの子と、この学園で出会ってから、遥香の孤独は、優里によって癒されていった」
朔也の言葉は、遥香の心を深く揺さぶった。
遥香は、優里の存在が、
自分にとってどれほど大きなものだったのかを、
改めて痛感した。
「優里は、この学園の頂点に立つ遥香を、ただ見つめるだけの存在ではなかった。優里は、遥香の心を理解し、遥香の孤独を癒してくれた。優里は…遥香の、光だったんじゃないか?」
朔也の言葉は、遥香の心を温かく包み込んだ。
遥香は、優里の存在が、
自分にとって、どれほど大切なものだったのかを、
改めて理解した。
「優里は、この学園に、遥香の心を癒すために、遥香を目指して、ここまで来てくれた。悠の力を借りて、自力で這い上がってきた。そして、遥香は、優里を守るために、この学園にいる。遥香と優里は…まるで運命で結ばれているようだな」
朔也の言葉は、遥香の心を深く揺さぶった。
遥香は、優里を失うことなど、考えられなかった。
朔也の真摯な言葉にもかかわらず、
遥香は冷たい表情を崩さなかった。
朔也は、優里が遥香にとってどれほど大切か語ることで、
彼女の心を動かそうとしたが、
遥香の反応は彼の予想とは違っていた。
「....それで、何が言いたいの?」
遥香は、朔也の言葉を遮るように、冷たく言い放った。
その声には、優里を救えなかった無力感と、
自分の感情を指摘されたことへの苛立ちが入り混じっていた。
朔也は、遥香のあまりの冷たさに、
思わずたじろいでしまう。
遥香の態度は、優里を失ったことへの
後悔や悲しみではなく、
まるで他人の話を聞いているかのようだった。
「遥香…」
朔也は、言葉を失った。
「…あなたの言いたいことはわかった。でも、私は…」
遥香は、そこで言葉を詰まらせた。
彼女の瞳の奥には、
一瞬、優里を思いやる、優しい光が宿った。
しかし、それはすぐに消え、再び冷たい表情に戻った。
朔也は、遥香の心の奥底に、
優里への深い愛情が隠されていることを知っていた。
しかし、遥香は、その感情を、
誰にも見せようとはしなかった。
遥香は、いまだに自分の心を閉ざし、
その心を開こうとはしていなかった。
朔也の計画は失敗してしまった。
ダイアモンドラウンジで、
朔也と玲司は作戦会議をはじめた。
「そもそも、悠も悠だ…」
玲司は困惑していた。
「遥香の感情に全く気付く様子がない」
玲司は両手を組んで悩みだす。
「悠は優里がくるまでふらふらしていたし、遥香のように自分の心を閉ざしていたからな…」
朔也の声には、悠への同情が宿っていた。
朔也と玲司は、
悠が遥香の恋心に全く気づいていないこと、
そして優里への保護欲が
彼の行動原理になっている現状が問題だと考えた。
朔也と玲司は、ダイアモンドラウンジに悠を呼び出す。
「なんだよ。2人が僕を呼び出すなんて…。悪いたくらみでもしているのか?」
悠は面白そうに言った。
ダイアモンドラウンジのソファに座る悠に、
朔也と玲司は、真剣な表情で向き合っていた。
優里の件で、悠の行動原理が
個人的な感情に偏っていることを危惧した二人は、
学園の秩序を守るという大義のもと、
悠に「人の心」を理解させるための説得を試みる。
「悠、お前は、優里のことで頭がいっぱいになっている。それはわかる。だが、遥香の気持ちを無視してはいけない」
朔也の声は、静かだったが、
その言葉には、悠に真実を気づかせたいという、
強い思いが込められていた。
「遥香は、優里が身を引いたことを、誤解している。」
朔也の言葉に、悠は驚きを隠せないでいた。
悠は、遥香が好意を寄せていることに、全く気づいていなかった。
「遥香のような重要人物の感情を無視することは、学園全体に大きな影響を与える。お前は、ダイアモンドメンバーとして、「人の心」を理解することの重要性を、もっと認識しなければならない」
朔也の言葉は、悠の心を深く揺さぶった。
悠は、自分の行動が、
優里や遥香、そして、学園全体に、
どれほど大きな影響を与えているのかを、改めて痛感した。
玲司は、朔也の言葉に続いて、悠に優しく語りかけた。
「悠、お前は、優里のことが大切だ。それはわかる。しかし、優里が本当に幸せになるためには、優里の心を理解してあげなければならない。そして、優里が本当に好きな相手を、見守ってあげなければならない」
玲司の言葉は、悠の心をさらに深く揺さぶった。
優里の身を案じ、彼女を保護している悠の行動に、
二人はある疑問を抱いていた。
「悠、お前が優里を保護しているのは明らかだ。だが、それは…ゲームの一環なのか? それとも、真の感情なのか?」
朔也の声は、優しかったが、
その言葉には、悠に真実を気づかせたいという、
強い思いが込められていた。
「悠、人の心は移り気だ。それに、ゲームの一部だったとしても、いつの間にか本気になってしまうことだってあるだろ?」
玲司の言葉は、悠の心を深く揺さぶった。
しかし、悠は、二人の問いかけに、
答えようとはしなかった。
「…なんだよ、急に」
悠の声は、不満げだった。
「俺が、優里を保護しているのは事実だ。だが…それが、ゲームの一環なのか、真の感情なのか…そんなこと、どうでもいいだろ」
悠は、そう言って、二人から視線を逸らした。
悠は、自分の感情が、
どこにあるのか、自分自身でもわからなくなっていた。
「…悠…」
朔也は、悠の心を理解していた。
悠は、優里を失ったことへの後悔と、
優里への深い愛情が、悠の心を激しく揺さぶっていた。
「…俺は、優里の味方だ。優里の心を、誰よりも大切にしたいんだ」
朔也の言葉は、悠の心を温かく包み込んだ。
悠は、朔也の優しさに触れ、
自分の心が、少しずつ温かくなっていくのを感じていた。
一方、朔也は優里のパートナーとして、
優里のケアも欠かせなかった。
優里の自己犠牲的な行動を止めるためにも、
彼女の自己肯定感を高め、
自分の価値を認めさせることが重要だった。
朔也は、優里のいる
下位ランクのフロアに顔を出した。
ダイアモンドメンバーが下位ランクの
フロアに顔を出すことなど、
優里と知り合いになるまで
前代未聞の出来事だった。
優里の顔には、まだ影が残っていたが、
朔也の優しい言葉と行動に、
少しずつ安らいでいるようだった。
「優里、もう大丈夫だよ」
朔也の声は、
優里の心を温かく包み込むように、優しかった。
「…朔也様…私、みなさんに迷惑ばかりかけて…」
優里は、俯いてそう呟いた。
朔也は、優里の言葉を遮るように、優しく言った。
「迷惑じゃない。俺にとって、優里は…必要な存在だ」
朔也の言葉に、優里は顔を上げた。
朔也の瞳には、優里への深い愛情と、
優里を守り抜くという、強い決意が宿っていた。
「優里が、自分の価値を認めてくれるまで、俺は、優里に言い続ける。優里は、この学園にとって、そして、俺にとって、かけがえのない存在だ」
朔也の言葉は、優里の心を深く揺さぶった。
優里は、自分の心が、
朔也の存在によって、再び温かくなっていくのを感じていた。
「…朔也様…」
優里は、朔也の瞳を見つめた。
「優里、これからは、もっと自由に、自分の感情を表現していいんだ」
朔也は、優里の頬を優しく撫でながら言った。
「…自分の感情…ですか?」
優里は、戸惑いを隠せないでいた。
「ああ。優里が、何が好きで、何が嫌いなのか。誰といたいのか、誰といたくないのか。優里の心を、もっと大切にしてほしいんだ」
朔也の言葉は、優里の心を温かく包み込んだ。
ダイアモンドメンバーたちは、
この絡み合った感情の糸を、
誰かを傷つけることなく、
いかに解きほぐしていくかという、
非常に困難な課題に直面していた。
彼らの戦略は、学園の秩序と、
そこに生きる生徒たちの感情の均衡を保つための、
複雑な心理戦となっていくことは明らかだった。
優里の心に深く根差していた
「迷惑な存在」という自己認識は、
容易に消えるものではなかった。
しかし、朔也は、優里のそんな内面を理解し、
彼女が「自分は必要な存在だ」と感じられるよう、
言葉と行動で優しく、しかし粘り強く示し続けた。
一方、ダイアモンドラウンジの隅では、
玲司が、下位ランクのフロアから戻ってきた
朔也の様子を静かに見つめていた。
その隣には、悠が、不満げな表情で立っていた。
「朔也、優里を説得できそうか?」
悠は、朔也に、小声で問いかけた。
「…どうだろうな。優里の心の傷は、まだ深い。時間はかかるだろう」
朔也の声は、静かだった。
「私たちは、優里の心を、誰かを傷つけることなく、解きほぐしていかなければならない。これは…非常に困難な課題だ」
玲司の言葉に、悠は、不満げな表情を浮かべた。
「…俺が優里のパートナーだったのに」
玲司は苦笑いをして、悠の頭を撫でた。
朔也は、優里がダイアモンドラウンジから
距離を置くようになってからも、
彼女を見守ることを怠らなかった。
優里がラウンジに来なくても、朔也は授業の合間などで、
優里に会う機会を作り、
世間話や体調の気遣いを欠かせなかった。
授業の終わった優里に、朔也は話しかける。
「よっ!」
「朔也様…」
朔也は人目のつかない場所に優里を連れ出す。
「毎日いらっしゃらなくても大丈夫ですよ」
優里は申し訳なさそうに言った。
「俺が来たくてきてるんだが…」
朔也は苦笑いをした。
「最近どう? 無理してないか?」
朔也は心配そうに言った。
「大丈夫です。」
優里はふんわりと笑った。
「何か困ったことがあったら、すぐに言ってくれ」
朔也は、優里が一人ではないこと、
常に自分を見守ってくれている存在がいることを、
彼女の心に温かく刻んでいった。
朔也は繰り返し優里に伝えた。
「君は、ここの学園にいていい存在だ」
「君がいてくれることが、僕たちにとって大切なんだ」
朔也の行動は、優里の心を少しずつ溶かしていった。
彼女の自己肯定感はまだ脆いものだったが、
朔也の献身的な支えによって、
彼女の心に希望の光が確実に灯り始めた。
「優里、それで、今日の調子はどうだ? 何か困ったことはないかい?」
朔也の声は、
優里の心を温かく包み込むように、優しかった。
優里は、朔也の優しい声に、顔を上げた。
「朔也様…大丈夫です。ありがとうございます」
優里は、ほっとしたような笑顔で答えた。
二人の間には、穏やかで優しい時間が流れていた。
「よかった。何かあったら、いつでも俺に言ってくれ。優里は…俺にとって、大切なパートナーだから」
朔也の言葉に、
優里の心は、温かい光に包まれていった。
優里と朔也が穏やかに言葉を交わすその光景は、
周囲から見ても微笑ましいものだった。
しかし、その様子を
少し離れた場所から見ていた遥香の表情は、
複雑な感情に彩られていた。
優里が朔也と楽しそうに話しているのを見るのは、
彼女にとってどこか引っかかるものがあった。
(朔也と、あんなに楽しそうに話して…)
遥香の胸には、小さな波紋が広がるような、
落ち着かない感覚が広がっていった。
それは、優里が悠ではなく
朔也と親密にしていることへの戸惑いなのか、
あるいは別の、まだ言葉にできない感情なのか、
遥香自身にもはっきりと分からなかった。
遥香の瞳は、優里と朔也をただ静かに見つめていた。
遥香は、優里の幸せを願っていた。
しかし、優里が朔也と幸せそうにしているのを見るのは、
遥香の心を、ほんの少しだけ、苦しめていた。
真佑は、少し離れた場所から、
遥香と優里、朔也の三人の様子を注意深く観察していた。
彼女の瞳は、遥香の複雑そうな顔、
そして、優里の心底から安堵したような笑顔を、
一つも見逃さなかった。
(やっぱり、何かおかしい…)
真佑は、小さく首を傾げた。
遥香の表情は、優里が朔也と
親密にしていることへの嫉妬なのか、
それとも、別の、まだ言葉にできない感情なのか、
真佑にも分からなかった。
しかし、遥香の顔に浮かんだ、
小さな波紋のような、落ち着かない感覚は、
真佑の心をざわつかせていた。
優里は、朔也の隣で、穏やかに微笑んでいた。
その笑顔は、優里の心が、
朔也の存在によって、癒されていることを物語っていた。
しかし、真佑は、優里の心が、
朔也だけを求めているわけではないことを知っていた。
真佑の勘は、この一見平穏に見える状況の裏に、
まだ解き明かされていない
感情の糸が絡まっていることを告げていた。
真佑は、遥香の心を、
そして、優里の心を、誰よりも理解していた。
真佑は、二人の間に流れる、
言葉にできない空気を、ただ静かに見つめていた。
その日の昼休み、学園の中心にある広場は、
生徒たちの賑やかな声で満ちていた。
しかし、その喧騒は一瞬にして静まり、
生徒たちの視線が一斉に集まる光景があった。
女王・山下遥香が、篠原悠を伴ってその広場に現れたのだ。
優里がダイアモンドラウンジから距離を置いたことで、
遥香は悠へのアプローチに拍車をかけていた。
遥香は、広場の中心にある噴水脇のベンチに悠を誘い、
まるでプライベートな会話を楽しむかのように、
身を寄せ合って話し込み始めた。
彼女の表情は柔和で、
悠を見つめる瞳には、隠しきれない甘さが宿っている。
「悠、最近読んだ本の中で、何か面白いものはあった?」
遥香の声は、いつもの冷たい響きではなく、
悠の心を温かく包み込むような、優しい響きだった。
「…最近は、経営学と心理学の本を読んでいる。遥香は…?」
悠は、相変わらずその意図に気づかず、
遥香の話に真剣に耳を傾けていた。
遥香は、時折、悠のグラスに飲み物を注いだり、
悠の頬を優しく撫でたりする。
その姿は、まるで長年連れ添った恋人同士のようだった。
その光景は、誰の目にも「親密な二人」と映った。
これらの遥香の行動は、あっという間に学園中に広まり、
生徒たちの間で新たな噂が飛び交うことになった。
「やっぱり女王様は悠様と特別なんだ」
「ダイアモンドのトップ同士、ついに公認カップルってわけか」
「宝来優里はもう完全に蚊帳の外だな」
生徒たちの間では、
遥香と悠が「公認カップル」であるという認識が、
確固たるものとして定着し始めた。
優里がラウンジに姿を見せないことも、
この噂を後押しした。
しかし、その根底には遥香の大きな誤解があり、
そして悠は相変わらず
その中心にある感情の機微に気づいていなかった。
この学園中に広まる誤解は、
やがて優里の耳にも届く。
そして、日向朔也や鷹城玲司といった
他のダイアモンドメンバーは、
この事態をどう収拾するのか、
さらなる困難に直面することになる。
遥香と悠が「公認カップル」であるという
噂が学園中に広まり、
遥香が悠と親密に振る舞う姿を目の当たりにするたび、
優里の心は静かに、深く沈んでいった。
ダイアモンドラウンジから距離を置いたことで、
優里は遥香と悠の「幸せな光景」を、
より客観的に、痛々しいほど鮮明に
捉えるようになっていた。
(遥香様は……もう、孤独じゃない。悠様と一緒にいて、あんなに楽しそうに笑っている……)
優里が悠にパートナーを頼み、
ダイアモンドラウンジに入ったのは、
何よりも遥香の孤独を救いたいという一心からだった。
遥香が学園の頂点に立ちながらも、
その心の奥底に孤独を抱えていることを知っていた優里は、
自分が遥香の「傍にいる存在」となることで、
彼女の支えになりたいと願っていた。
しかし、今、遥香の隣には悠がいて、
彼女は心から楽しそうに笑っている。
その笑顔は、優里がかつて見た、
孤独に影を落とした女王の顔とは全く異なるものだった。
遥香が悠に恋し、
その恋が実った(と優里は誤解している)ことで、
遥香はもう孤独ではない。
そして、自分が遥香の隣にいる理由も、
日向朔也との偽りのパートナーシップを続ける理由も、
優里の中では完全に失われていた。
優里の心には、遥香の幸せを願う純粋な気持ちと、
自分の存在がもはや必要とされていないという寂しさ、
そして、遥香の恋路を邪魔したくないという
自己犠牲の念が渦巻いていた。
そして、ある日、優里は決意を固めました。
優里は、朔也と玲司に、
二人きりになれる時間を改めて設けた。
彼女の表情は、どこか諦めと、
しかし確固たる決意に満ちていた。
「朔也さん、玲司さん……お話があります」
優里の声は、いつもよりずっと静かで、
揺るぎない響きがあった。
「私……ダイアモンドとのパートナーを、解消したいと思います」
その言葉に、朔也と玲司は息を呑んだ。
彼らは優里が再び
自己犠牲的な行動に出ることを恐れていたが、
まさかこのタイミングで、
しかも自らパートナーシップの解消を
申し出るとは予想していなかった。
優里は、二人の驚きに満ちた視線を受け止めながら、
ゆっくりと、はっきりと理由を告げた。
「遥香様は、もう孤独ではありません。悠様と一緒にいて、本当に幸せそうです。私が遥香様のそばにいる必要は、もうないのだと……そう、悟りました」
優里の言葉は、遥香への深い愛情と、
彼女の幸せを願う純粋な気持ちに満ちていた。
しかし、同時に、自分の存在価値が失われたという、
深い悲しみも滲み出ていた。
「それに、私がここにいると、遥香様と悠様の邪魔になってしまうかもしれません。私も、もう、ダイアモンドのパートナーでいる理由も、遥香様に近づく理由もなくなりました」
優里の瞳には、遥香の幸せを願う涙と、
自らの居場所を失う寂しさが混じり合っていた。
「だから……私、本来の居場所に戻ります」
優里は、そう言って、深々と頭を下げた。
それは、彼女がようやく手に入れた
「ダイアモンド」という居場所を、
自らの意思で手放し、
再び学園の底辺へと戻ることを意味していた。
彼女の決断は、遥香への純粋な想いと、
自己犠牲の精神が極限に達した結果だった。
優里の、あまりにも突然で、
覚悟に満ちたパートナーシップ解消の申し出に、
朔也と玲司は言葉を失った。
彼らは、優里の決意の固さと、
その根底にある遥香への純粋な想いを前に、
容易に言葉が見つからなかった。
最初に口を開いたのは、朔也だった。
彼の声には、動揺と、
優里を失うことへの焦りが滲んでいた。
「優里、待ってくれ!そんな急に……それは、本当に君の意思なのか?遥香のためだとしても、君がまた一人になるのは……」
玲司も、冷静さを保とうと努めながらも、
その表情には深刻な色が浮かんでいた。
「優里、君が遥香を大切に思っているのは理解している。だが、君自身はどうなるんだ?ダイアモンドラウンジは、君がやっと手に入れた安全な場所じゃないか。それに、君はもう一人じゃない。私達がいる」
二人は、優里が再び孤独に戻り、
学園の悪意に晒されることを強く懸念していた。
彼女が手に入れたばかりの居場所を、
自ら手放すことに、どうしても同意できなかった。
優里は、二人の真剣な眼差しを受け止め、
静かに首を横に振った。
その瞳には、迷いはなかった。
「はい、これは私の意思です。遥香様が幸せなら、それが一番です。私がどこにいても、遥香様の幸せを願っています」
彼女の言葉は、あまりにも純粋で、利他的だった。
朔也と玲司は、優里のこの強い想いを前に、
無理に引き止めることが、
かえって彼女を苦しめることになるのではないかと感じ始めた。
朔也は、苦渋の表情で問いかけた。
「だが、シルバークラスに戻れば、また辛い思いをするかもしれない。宝来悠斗だって……」
優里は、わずかに目を伏せたが、
すぐに顔を上げ、毅然とした態度で答えた。
「それも、私が受け入れるべきことです。遥香様が笑顔でいられるなら、私はどんな場所にいても構いません」
玲司は、深い溜息をつき、言葉を探した。
「優里……君の気持ちは分かった。だが、せめてもう少しだけ考えてくれないか?他に方法がないか、私達にも考えさせてほしい」
彼らは、優里の決意を尊重しつつも、
彼女の身を案じ、わずかな希望にかけようとしていた。
しかし、優里の心は固く、
彼女の決断を覆すのは容易ではないことを、二人は痛感していた。
結局、朔也と玲司は、優里の強い意志を前に、
強引に引き止めることはできなかった。
彼らは、優里の出した結論を尊重しつつも、
彼女が再び困難に直面した際には、
必ず助けになると約束することしかできなかった。
ダイアモンドとの、優里の短くも特別な関係は、
彼女自身の選択によって、終わりを迎えようとしていた。




