隠せない「苦悩」
篠原悠は、最近、
宝来優里がダイアモンドラウンジに現れないことを
不思議に思っていた。
以前の優里にとって、あのラウンジは、
学園の厳しい現実から逃れる
唯一の「逃げ場」であり、
遥香や悠自身との絆を深める場所でもあったはずだ。
シルバーに昇格し、ある程度の地位を得たとはいえ、
優里が完全に嫌がらせから
解放されたわけではないことを、悠は薄々感じ取っていた。
悠は、ラウンジに集まっていたダイアモンドメンバーに、
何気なく優里の様子を尋ねた。
「そういえば、最近、優里を見かけないな。何か知らないか?」
日向朔也は、新聞を読みながら、顔を上げずに答えた。
「ああ、優里か。シルバーに上がって、平穏になったんじゃないか? ブロンズの頃みたいに、わざわざラウンジに逃げてくる必要もないだろう」
朔也の言葉は、多くの生徒が抱く一般的な見方だった。
優里はシルバーに昇格し、
ブロンズ時代のような露骨ないじめからは解放されたはずだ、と。
鷹城玲司も、静かに紅茶を飲みながら、
悠の言葉に同意するように頷いた。
「確かに、彼女の学園生活は、以前よりは落ち着いているはずだ。わざわざダイアモンドラウンジに顔を出す必要がないほどに、彼女自身の居場所ができたのかもしれないな」
彼らの言葉は、優里の表面的な状況しか捉えていなかった。
彼らは、優里がネット上で誹謗中傷を受けていることや、
シルバークラスでの新たな孤立に苦しんでいることなど、
知る由もなかった。
しかし、悠は、彼らの言葉に納得がいかなかった。
優里が、ただ平穏になったからラウンジに来ない、
という単純な理由ではないと、悠の直感は告げていた。
優里のあの、どこか影のある表情を思い出すと、
彼女が本当に「平穏」に過ごしているとは考えられなかった。
悠の心には、優里の身に
何か異変が起きているのではないかという、
かすかな不安がよぎっていた。
彼は、優里がラウンジに来ない
本当の理由を探るべきだと感じていた。
優里は、ダイアモンドラウンジに近づくことを避けていた。
そこはかつて、学園の残酷な現実から逃れる唯一の聖域であり、
遥香や悠という、かけがえのない支えがいる場所だった。
しかし、今の優里にとって、そこは同時に、
自身の弱さや苦悩をさらけ出してしまう場所でもあった。
(今、ラウンジに行けば、きっと全部バレてしまう)
優里は、自身の表情や態度から、ネットでの誹謗中傷や、
シルバークラスでの孤立が
ダイアモンドメンバーに悟られてしまうことを恐れていた。
特に、遥香に心配をかけたくない、
悠に「ゲーム」が崩れていると
思われたくないという気持ちが強かった。
彼女は、彼らの前では強く、
問題なく振る舞っていたいと願っていた。
ラウンジの豪華な扉の前を、優里は何度も素通りした。
そのたびに、胸の奥が締め付けられるような
痛みに襲われたが、
彼女は、この状況を一人で乗り越えなければならないと、
固く決意していた。
しかし、優里がダイアモンドラウンジを避けたところで、
彼女への嫌がらせが止まるわけでなかった。
むしろ、優里がダイアモンドの庇護から
離れたように見えることで、
生徒たちの攻撃は、さらにエスカレートしていった。
優里が一人でいる時間が長くなったことで、
彼女の背後で囁かれる陰口や悪意あるデマは、
より露骨なものとなっていった。
「ほら、女王様に見捨てられた」
「やっぱりブロンズはブロンズ」
「デマは本当だったんだ」
といった言葉が、
優里の耳に直接届くようになった。
かつての仲間であったブロンズの生徒たちは、
優里を徹底的に無視した。
まるで彼女が透明人間であるかのように振る舞い、
優里の存在そのものを否定するような態度を取った。
この無視は、物理的な攻撃よりも、
優里の心を深く蝕んでいった。
優里は、学園のどこにも
自分の居場所がないと感じていた。
ブロンズからも、シルバーからも、
ゴールドからも、冷たい視線と悪意が向けられる。
唯一の安息の地であるダイアモンドラウンジにすら、
自分の苦悩を持ち込みたくない。
優里は、完全な孤立の中で、
一人でこの嵐に耐え抜こうとしていた。
しかし、生徒たちの冷たい言葉の刃が、
容赦なく優里に突き刺さった。
彼女が遥香や悠と距離を置いたことで、
「守り手」がいないと見なされ、
優里の努力や、遥香と悠との間に築かれた絆を、
全て虚偽の、下劣なものへと貶めようとした。
優里は、表情を変えずにそれらの言葉を
聞き流そうと努めた。
しかし、心の奥底では、深い孤独と、
どうすることもできない絶望感が募っていった。
優里の心は、学園中に響く悪意に満ちた囁きによって、
深く深く沈んでいった。
まるで、自分の存在が透明な檻に閉じ込められ、
外の世界から罵声を浴びせられているかのようだった。
(これが、私本来の居場所なのだ)
優里は、強くそう感じていた。
悠の気まぐれな「ゲーム」によって、
自分はダイアモンドメンバーのパートナーという
信じられない地位を得て、
夢のようなダイアモンドラウンジに出入りし、
ダイアモンドメンバーと会話を交わせるまでに変化した。
そして、ブロンズからシルバーへと異例の昇格を果たした。
しかし、それらは全て、
悠の「気まぐれ」という不安定な土台の上に
成り立っていたのだと、優里は絶望的な確信を抱き始めた。
本当の自分は、
学園の片隅で冷遇されるブロンズのままで、
誰からも顧みられない存在。
今の状況は、借り物の輝きに過ぎない。
(いつかは、この気まぐれで捨てられてしまうのだ)
優里の心は、深い諦めと虚無感に苛まれた。
遥香の優しさも、悠の言葉も、
全ては一時的なもので、
最終的には自分は一人になるだろうという予感に縛られた。
彼女の心から、かすかな期待の光さえも消え去り、
ただ重苦しい絶望だけが残された。
彼女は、まるで感情のない人形のように、
与えられた学業をこなし、嫌がらせにも無反応を貫いた。
しかし、その内面では、誰にも見せることのできない、
深い孤独と悲しみに打ちひしがれていた。
優里が学園の悪意と孤独の中で沈んでいくなか、
ダイアモンドラウンジでは、
悠が優里の異変を察知し始めていた。
優里がラウンジを避けていること、
そしてその背後にある深い苦悩を、悠は感じ取っていた。
「優里が、こんなにラウンジに来ないなんておかしい」
悠は、ソファに座りながら、
普段の冷静さをわずかに欠いた口調で呟いた。
彼の言葉には、優里への漠然とした不安が滲んでいた。
優里にとって、ラウンジは唯一の逃げ場であり、
自らその場所を避ける理由を、悠は理解しかねていた。
しかし、悠の言葉に対し、他のダイアモンドメンバーは、
その深層まで理解しているわけではなかった。
日向朔也は、悠の心配を軽く受け流すように言った。
「まあ、シルバーに上がって、自分の居場所ができたんじゃないのか? いちいち俺たちのところに顔を出す必要もないだろう」
朔也は、優里の表面的な変化(昇格)しか見ておらず、
その内面で起きていることには気づいていなかった。
鷹城玲司もまた、
悠の言葉に同意はせず、冷静な意見を述べた。
「彼女も成長したということだ。いつまでも甘やかしているわけにもいかないだろう。そっとしておくのが賢明だ」
玲司は、優里の自立を促すという名目で、
あえて彼女の苦悩に介入しない姿勢を見せた。
彼にとっては、優里が自らの力で困難を乗り越えることが、
今後の学園の「ゲーム」をより面白くすると考えていた。
そして、向井渉は、優里が孤立し、
精神的に追い詰められていることを
知ってか知らずか、満足げに口角を上げた。
「俺たちの忠告通り、女王様もあんなブロンズから距離を置いたということだろ。結局、身の程を知ったということだ」
向井は、優里がラウンジに来なくなったことを、
自身の嫌がらせが成功した証だと解釈していた。
悠は、他のメンバーの言葉に納得がいかなかった。
彼らが優里の状況を軽く見ていること、
そして彼女の心の声に気づいていないことに、
焦りにも似た感情を抱いた。
優里のあの澄んだ瞳が、絶望に曇っていくのを、
悠は決して見過ごすことはできなかった。
彼は、優里が「これは本来の居場所なのだ」と
感じていることを、直感的に察知していた。
悠は、メンバーの言葉を退け、
優里の身に何が起きているのか、
自ら探ることを決意した。
悠は、優里がダイアモンドラウンジに来ない理由を、
他のダイアモンドメンバーが「平穏になったから」と
片付けたことに納得がいかなかった。
優里の心に巣食う闇を直感的に察知していた悠は、
彼女が何かを隠していると確信し、
自ら優里に会いに行くことを決意した。
優里がシルバークラスの授業を終え、
一人で自習室に向かおうとしているところを、
悠は待ち伏せていた。
「おい、優里」
突然の声に、優里はビクリと肩を震わせた。
振り返ると、悠がいつもの余裕ある表情で立っていた。
優里の心臓は、ドクンと音を立てた。
悠に、今の自分の状況を悟られたくない。
悠は、優里のそばにゆっくりと歩み寄り、
不貞腐れたような口調で言った。
「シルバーに昇格したら、俺たちとは会わないって? 随分殿様になったんだな」
その言葉は、優里が
ダイアモンドラウンジを避けていることに対する、
悠なりの皮肉だった。
彼は、優里が自分たちから距離を
置こうとしていることを察しており、
その理由を探ろうとしていた。
優里は、悠の言葉に、一瞬焦りの色を見せた。
しかし、すぐに表情を引き締め、平然を装った。
「そんなことは……ありません。ただ、シルバークラスの勉強が忙しくて……」
優里は、精一杯の笑顔を作ろうとしたが、
その目には、隠しきれない疲労と影が宿っていた。
彼女は、悠の鋭い洞察力に、
自分の苦悩が暴かれることを恐れていた。
もし、悠に「平穏に過ごしたかった」とか
「友達が欲しかった」といった本音を話してしまえば、
彼が「損得勘定だけの世界」だと
断言したこの学園の現実を、
優里自身が認めてしまうことになる。
そして、何よりも、自分が弱音を吐くことで、
遥香や悠に心配をかけたくなかった。
悠は、優里の取り繕った表情と、
言葉の裏に隠された真実を読み取ろうとしていた。
彼の目は、優里の心の奥底を見透かすように、
じっと彼女を見つめていた。
悠は、優里の言葉が嘘であることを見抜いていたが、
あえてそれを追求せず、
優里が自ら心を開くのを待つかのように、
静かに優里の次の言葉を待った。
優里のぎこちない笑顔と、
隠しきれない疲労を映す目に、
悠は疑念を深めていた。
優里の取り繕う言葉の裏に、
何か別の真実が隠されていることを、
悠は直感していた。
悠は、優里の隣で立ち止まったまま、
彼女の顔をじっと見つめ、尋ねた。
「ほう。シルバーの授業は、そんなに質がいいのか? ブロンズ時代には考えられないほど、学びに没頭できると?」
悠の言葉は、優里がブロンズ時代に受けた授業の質と、
現在のシルバーの授業の質を比較するように促すものだった。
そこには、ただ授業の質を問うだけでなく、
優里が本当に「平穏」に学業に集中できているのか、
という深い疑念が込められていた。
彼は、優里が学業に没頭しているという建前を使って、
何かを隠しているのではないかと推測していた。
優里は、悠の鋭い質問に、一瞬言葉に詰まった。
確かに、シルバーの授業は
ブロンズとは比べ物にならないほど質が高く、
学習環境も整っていた。
しかし、その恩恵を享受しようとする
優里の周りには、陰口と無視、
そしてネット上の誹謗中傷という、
新たな「壁」が立ちはだかっていた。
優里は、何を答えるべきか迷った。
真実を話せば、悠に今の状況を悟られてしまう。
しかし、嘘を重ねれば、
より深く追及されてしまうかもしれない。
彼女の心は、激しく揺れ動いた。
優里は、何を答えるべきか、瞬時に思考を巡らせた。
(「はい、最高です」と言ったら、きっと悠様はもっと深く探ってくる。でも、「いえ、そんなことは」と言ってしまえば、全部バレてしまう……)
彼女は、口を開きかけたが、
言葉は喉の奥に引っかかって出てこなかった。
無理に笑顔を作ろうとすれば、
それがかえって不自然になるだろうと悟ったからだった。
優里の顔からは、
先ほどまでの「平然」とした表情が消え失せ、
代わりに、隠しきれない疲労と、
深く沈んだ眼差しが浮かび上がっていた。
悠は、優里のその沈黙と、
表情の変化をじっと見つめていた。
優里の言葉にならない答えは、
悠にとって、何よりも雄弁な情報だった。
彼女が「平穏」ではないこと、
そして、それを隠そうとしていることが、
明確に伝わってきた。
悠は、優里の苦悩を敏感に察知していた。
この沈黙こそが、
優里が直面している
新たな問題の深刻さを物語っていると確信した。
彼の心には、優里への心配と、
そして彼女を追い詰める見えない敵への、
静かな怒りが芽生え始めていた。
彼女が苦悩していることを悟った悠は、
それ以上は深く追求しなかった。
優里が自ら心を開くのを待つかのように、
彼は話題を変えた。
「まぁ、いい。暇になったらいつでも来い」
悠は、優里の肩から手を離し、
いつものように余裕ある態度でそう告げた。
その言葉は、
優里がダイアモンドラウンジに来なくなったことに対する、
悠なりの「心配」と「誘い」だった。
彼は、優里にとって
ラウンジがどれほど重要な場所であるかを
理解しており、
彼女がそこから遠ざかっている
現状を憂慮していた。
悠の言葉に、優里は顔を上げた。
彼女の目に、かすかな光が宿った。
「……また、ダイアモンドラウンジに行っても、いいんですか?」
優里の声には、信じられないという戸惑いと、
わずかな希望が混じっていた。
彼女は、自分が弱音を吐くことを恐れて
ラウンジを避けていたため、
再びそこへ行くことを許されるとは
思っていなかった。
自分はもう、ダイアモンドメンバーに見捨てられ、
ラウンジに行く資格もないと感じていた。
優里の問いに、悠は呆れたような表情を見せた。
「何を言っているんだ?」
悠の言葉には、優里の問いが、
彼にとって
全く意味をなさないものだという響きがあった。
優里がダイアモンドラウンジに来ることは、
彼にとって当然のことであり、
彼女がその資格を失うなど、
微塵も考えていなかった。
彼の「ゲーム」において、
優里は重要な駒であり、
遥香の隣にいるべき存在だった。
悠の言葉は、優里の心に、
再び小さな希望の光を灯した。
自分はまだ、完全に捨てられたわけではない。
遥香と悠は、まだ自分を必要としてくれている。
その事実に、優里は胸の奥で
温かいものが広がるのを感じた。




