無謀な挑戦
定期テスト当日。
学園全体が張り詰めた空気に包まれる中、
篠原悠は、
いつものようにダイアモンドラウンジにいた。
彼の表情は、一見すると平静を保っているように見えたが、
その瞳の奥には、どこか焦りの色が宿っていた。
ラウンジには、すでに向井渉、日向朔也、
そして鷹城玲司が揃っていた。
彼らの間には、
優里のテスト結果に対する様々な憶測と、
向井の策略への思惑が渦巻いている。
悠は、そんな彼らの視線をものともせず、
ラウンジの中央で、まるで独り言のように呟いた。
「優里が、向井を越える、か……」
悠の声は、低く、しかし明確に響いた。
その言葉は、優里の置かれた絶望的な状況を、
改めてメンバーの前に突きつけるものだった。
「無謀すぎる」
悠は、自嘲するように、小さく首を振った。
彼の言葉は、優里の学力レベルと、
向井の知力を冷静に比較した結果だった。
いじめでまともに授業を受けられなかった優里が、
学年トップクラスの向井を上回るなど、
常識的に考えてあり得ない。
向井は、悠の言葉に、
隠しきれない優越感を浮かべた。
「当然だろ。あんなブロンズが、俺を越えるなんて夢のまた夢だ。女王様がいくら手塩にかけて教えたところで、一夜漬けでどうにかなるレベルじゃねえ」
朔也は、顔を曇らせた。
「しかし、もし本当に最下位で退学となれば、篠原の威信にも傷がつく」
玲司は、悠の言葉の裏にある真意を探るように、
静かに悠の顔を見つめていた。
悠は、無謀だと知りながら、
なぜこのような言葉を発するのか。
それは、単なる絶望の言葉ではないはずだ、
と玲司は考えていた。
悠は、ラウンジの窓から、
テストに向かう生徒たちの姿を眺めた。
優里もまた、あの生徒たちの中にいる。
彼女の顔は、きっと緊張と不安でいっぱいだろう。
悠は、優里がこの絶望的な状況をどう乗り越えるのか、
そして遥香がこの結果をどう受け止めるのか、
すべてを静観するしかなかった。
テストが開始される直前、
真佑と遥香がダイアモンドラウンジに入ってきた。
遥香はいつものように完璧な表情を保っているが、
その瞳の奥には、優里への心配と、
何かを決意したような強い光が宿っていた。
真佑は、ラウンジに入ってくるなり、
篠原悠、向井渉、日向朔也、鷹城玲司の顔ぶれを一瞥した。
そして、一瞬の沈黙の後、悠にまっすぐ問いかけた。
「悠、聞いたよ。優里ちゃんが向井くんと勝負するって。どういう流れ?」
真佑の声は、穏やかでありながらも、
その言葉には、事態の把握を求める鋭さがあった。
彼女は、優里の状況を心配しており、
この「勝負」が優里にとって
どれほど不利なものかを理解していた。
そして、この状況の裏に、
悠や他のダイアモンドメンバーの思惑が
絡んでいることも察知していた。
向井は、真佑の直接的な問いかけに、
不愉快そうに顔を歪ませた。
しかし、真佑が遥香の親友であり、
ダイアモンドクラスの中でも
一目置かれる存在であるため、
反論することはできなかった。
悠は、真佑の問いに、隠すことなく答えた。
彼は、真佑が遥香に与える影響力を知っていた。
「向井が、優里に『テストの結果が自分より低ければ学園を出て行け』と告げた。それが、今回の『勝負』だ」
悠の声には、向井への軽蔑と、
優里への僅かな心配が混じっていた。
真佑は、悠の言葉に、小さく息を呑んだ。
彼女は、向井の卑劣な策略を瞬時に理解した。
優里が向井に勝つことなど、
今の状況では不可能に近い。
「そんな……! それじゃあ、優里ちゃんは……」
真佑は、優里の置かれた
絶望的な状況に、顔色を失った。
遥香は、真佑の隣で、ただ静かに佇んでいたが、
その握りしめた拳が、
彼女の内に秘めた怒りと決意を示していた。
ダイアモンドラウンジでの緊張した会話も終わりを告げ、
テスト開始の時間が刻一刻と迫っていた。
生徒たちはそれぞれの試験会場へと向かい、
学園全体が静寂に包まれていく。
宝来優里は、自分の試験会場である
教室の扉の前に立っていた。
その手には、これまで使い込んできた教科書が握られている。
頭の中は、知識の断片と、
向井から突きつけられた
「学園を出て行け」という言葉が渦巻いていた。
身体の震えは止まらない。
しかし、その瞳には、恐怖だけでなく、
奇妙なほど澄んだ光が宿っていた。
(ここで、諦めるわけにはいかない)
優里の脳裏には、遥香の優しい笑顔と、
自分を抱き上げてくれた
悠の腕の温かさが蘇った。
あの時、遥香は「私があなたを守る」と言ってくれた。
彼らは、優里に、この学園で
生き抜くための希望を与えてくれたのだ。
そして、遥香との勉強会で感じた、
学ぶことの喜び。
遥香が優里を信じて、
惜しみなく知識を与えてくれた時間。
その全てが、優里の背中を強く押していた。
優里は、大きく深呼吸した。
手のひらを強く握りしめ、自分に言い聞かせる。
(私は、一人じゃない。遥香様が、悠が、私を信じてくれている)
優里は、遥香の隣に立つために、
そして、自分自身の居場所を守るために、
このテストを乗り越えなければならない。
向井の策略、悠斗の憎悪、
学園の残酷なヒエラルキー。
その全てを跳ね返す、唯一の道は、
このテストで結果を出すことだ。
たとえ、それがどれほど無謀な挑戦であっても。
試験開始を告げるチャイムが、
静かに学園中に響き渡った。
彼女の顔には、もう恐怖や絶望の色はなかった。
そこにあったのは、すべてを受け入れ、
戦い抜くことを決意した、
静かなる覚悟だけだった。
試験開始を告げるチャイムが鳴り響き、
鳳凰学院の全教室に、
一斉に問題用紙と解答用紙が配られた。
宝来優里の心臓は、激しく鼓動していた。
目の前の問題用紙には、
これまで見たこともないような
複雑な問いが並んでいるように見えた。
(深呼吸……落ち着くんだ……)
優里は、シャープペンシルを握りしめ、
問題文を読み始めた。
しかし、いじめによって
授業をまともに受けられなかった影響は、
想像以上に大きかった。
基本事項すら曖昧で、
応用問題など、まるで理解できない。
遥香が優しく教えてくれた内容も、
緊張と焦りの中で、
頭から抜け落ちていく感覚に襲われる。
解答用紙は、白いままの箇所が多い。
優里の額には、冷や汗が流れ落ちる。
向井から突きつけられた
「学園を出て行け」という言葉が、
脳裏をよぎる。
このままでは、
本当にゼロ点になってしまうかもしれない――。
絶望が、優里の心を蝕み始めた。
優里は、遥香の隣に立ちたいと願った。
彼女の孤独を救いたいと強く願った。
優里の胸の奥で、まだ朧げな感情の輪郭を描き始める。
遥香が他の誰かと楽しそうにしているのを見て、
なぜか胸が締め付けられた、あの感覚。
自分はまだその感情の正体を掴めないけれど、
遥香の傍にいたいという強い衝動は、
優里の心を突き動かす唯一の原動力だった。
優里は、深呼吸した。
もう一度、問題用紙に向き合った。
分からない問題があっても、諦めない。
遥香が教えてくれたことを、
一つ一つ、思い出し、書き出していく。
たとえ、それが点数に繋がらなくても、
今できることを、すべて出し切る。
優里は、自分のためだけでなく、
遥香のため、
自分を信じてくれた悠のためにも、
この試験を最後まで戦い抜くと決意した。
解答用紙の空白を埋める手が、
震えながらも、確実に動き始めた。
定期テスト1日目が終わり、
宝来優里は、
重い足取りでダイアモンドラウンジへと戻ってきた。
しかし、彼女の顔には、
努力の跡ではなく、深い絶望が刻まれていた。
ラウンジの豪華なソファに身を沈めると、
優里はそのまま項垂れてしまった。
(ダメだ……全然、できなかった……)
頭の中には、白いままの解答用紙と、
理解できなかった問題の数々がちらついていた。
遥香が優しく教えてくれた内容も、
テストのプレッシャーと、
これまでの勉強不足の壁に阻まれ、
十分に活かすことができなかった。
向井から突きつけられた
「学園を出て行け」という言葉が、
優里の耳元で木霊する。
優里は、自分の努力が、
この学園の残酷な現実の前では、
あまりにも無力であることを痛感していた。
このままでは、本当にゼロ点になってしまう。
遥香の隣に立つことも、
悠との約束を果たすことも、
全てが夢に終わってしまう。
そんな優里の様子を、
篠原悠は静かに見守っていた。
彼は、優里が
どれほど追い詰められているかを理解していた。
悠は、優里の傍らに歩み寄ると、温かいお茶を差し出した。
「優里、これでも飲め」
悠の声は、普段の冷徹さとは異なり、
優里を気遣うような優しい響きを持っていた。
彼は、優里の努力を知っている。
そして、彼女がこの窮地を乗り越えることを、
心から願っていた。
しかし、優里は、悠の差し出したお茶に
気づく様子もなく、ただ項垂れたまま、
立ち直れないでいた。
彼女の心は、深い絶望の淵に沈んでおり、
悠の優しさすら、今の優里には届かない。
悠は、優里の反応を見て、小さく息を吐いた。
彼の表情には、優里への心配と、
どうすることもできないもどかしさが浮かんでいた。
彼は、優里がこの絶望から
自力で立ち上がることしかできないことを知っていた。
ダイアモンドラウンジには、優里の深い絶望と、
悠の静かな気遣いが混じり合った、重い空気が流れていた。
宝来優里がダイアモンドラウンジの
ソファで項垂れている様子は、
他のダイアモンドメンバーたちの目にも入っていた。
それぞれが優里の窮地に対し、異なる感情を抱いていた。
向井渉は、優里の絶望的な姿をちらりと見て、
満足げに口角を上げた。
「ざまあみろ。これが身の程を弁えないブロンズの末路だ」
彼の顔には、優里を
徹底的に排除しようとする策略が
成功しつつあることへの、確かな優越感が浮かんでいた。
向井にとって、優里の苦痛は、
遥香の心を奪われるかもしれないという
不安を解消し、自身のプライドを満たすものだった。
しかし、日向朔也は、
優里の様子を見て、わずかに眉をひそめた。
「本当に、そこまで追い詰める必要があったのか……」
朔也は、向井の過激なやり方に、
内心では抵抗を感じていた。
彼は学園の秩序を重んじるが、
優里の絶望的な姿は、
彼の倫理観に微かな痛みを伴った。
しかし、向井の圧力と、
学園のルールという壁の前では、
彼にできることは何もなかった。
そして、鷹城玲司は、
ソファに項垂れる優里と、
その傍らで静かに見守る篠原悠の様子を、
冷静な視線で観察していた。
(篠原は、優里に何を期待しているのか……。そして、女王様は、この状況をどう受け止める?)
玲司は、優里のテスト結果が、
学園のパワーバランスに
どのような影響を与えるかを測っていた。
優里の失敗は、悠の威信に傷をつけるだろう。
しかし、もし優里がこの絶望から立ち上がり、
何らかの奇跡を起こせば、
それは遥香の心をさらに強く揺さぶり、
学園に新たな変化をもたらす可能性もある。
玲司の関心は、常にその先を見据えていた。
ダイアモンドラウンジには、優里の絶望、
向井の勝利の確信、朔也の僅かな戸惑い、
そして玲司の冷徹な観察が入り混じり、
重苦しい空気が漂っていた。
悠の差し出したお茶も届かないほど、
優里の心は深く沈んでいた。
遥香がダイアモンドラウンジに戻ってきたのは、
1日目のテストが終わってしばらく経ってからだった。
彼女は、自身の出来に手応えを感じていたものの、
優里のことが気になり、ラウンジへと足を運んだのだ。
そして、遥香の目に飛び込んできたのは、
ソファに深く座り込み、
まるで抜け殻のように項垂れている
宝来優里の姿だった。
篠原悠が優里の傍らでお茶を差し出しているが、
優里はそれに気づいている様子もない。
遥香は、その瞬間、胸に強い痛みを覚えた。
優里の憔悴しきった姿は、
遥香の心を締め付け、言葉を失わせた。
自分が優里に勉強を教えた時間は、
本当に役に立ったのだろうか?
彼女の努力は、結局、
無駄に終わってしまうのだろうか?
遥香は、静かに優里に近づいた。
普段の女王としての威圧感は消え、
その表情には、深い心配が滲み出ていた。
「優里」
遥香は、優しく声をかけた。
その声は、ラウンジの静寂を破り、
項垂れていた優里の耳にも届いた。
優里は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は潤んでおり、
疲労と絶望の色を深く宿していた。
遥香の姿を認めると、優里は、
かすかに申し訳なさそうな表情を浮かべた。
遥香は、何も言わずに、
優里の隣に腰を下ろした。
そして、優里の震える手をそっと握った。
その掌から伝わる優里の冷たさが、
遥香の心をさらに痛めつけた。
「話して?」
「何があったのか」
遥香は、優里の言葉を遮らず、
ただ静かに耳を傾けるつもりだった。
彼女は、優里が抱える不安や苦しみを、
少しでも和らげてあげたいと心から願っていた。
女王としてではなく、ただ一人の人間として、
優里の傍に寄り添おうとしていたのだ。
遥香に手を握られ、
優しく声をかけられたことで、
優里の張り詰めていた心が限界に達した。
彼女は、遥香の温かさに触れ、
もう我慢する必要はないのだと感じた。
「遥香様……」
「私……全然、できませんでした……!」
優里は、必死に言葉を絞り出した。
「授業についていけてなくて、遥香様に教えていただいたのに、頭が真っ白になってしまって……! このままだと、きっと、ゼロ点になってしまいます……」
優里の脳裏には、
白いままの解答用紙が鮮明に浮かび上がっていた。
努力しても、努力しても、
届かない現実に、優里の心は打ちひしがれていた。
向井の「学園を出て行け」という言葉が、
耳元で木霊する。
遥香の隣にいられなくなる。
悠との約束も果たせなくなる。
その全てが、優里を追い詰めていた。
「私……どうしたらいいのか、分かりません……」
優里は、遥香の手を握りしめ、
まるで幼子のように、
その不安と絶望を吐露した。
彼女の言葉は、
普段の毅然とした
優里からは想像できないほど、
弱々しく、切羽詰まっていた。
遥香は、その痛切な告白に、
胸が締め付けられる思いだった。
優里が抱える苦しみが、
遥香の心を激しく揺さぶる。
遥香は、優里の頭をそっと抱き寄せ、
その髪を優しく撫でた。
遥香は、背中を優しく撫でながら、
静かに、確固たる声で語りかけた。
その声は、優里の絶望を包み込み、
新たな希望を与えるかのように響いた。
「優里」
遥香は、優里の顔をそっと持ち上げ、
その潤んだ瞳をまっすぐに見つめた。
遥香の瞳には、優里への深い愛情と、
どんな困難にも立ち向かう
女王としての揺るぎない決意が宿っていた。
「ゼロ点でも、構わないよ」
遥香の言葉に、優里は顔を上げた。
信じられないといった表情で、
遥香を見つめる。
「あなたの努力は、私が一番よく知ってる。いじめの中で、まともに授業も受けられなかったあなたが、これだけ頑張った。それだけで、十分だよ」
遥香の言葉は、優里の心を深く温めた。
点数ではなく、優里の努力
そのものを認めてくれた。
「それに……向井の言葉など、気にする必要はない」
「卑劣な手段を使って、あなたを排除しようとしているだけ。私が、そんなことを許すはずがない」
「いい? 優里。あなたは、決して一人ではない。私が、あなたのそばにいる」
遥香は、優里の手を強く握りしめた。
「どんな結果になろうと、私があなたを守る。学園を辞めさせることなど、絶対にさせない」
遥香の言葉は、女王としての絶対的な誓いだった。
その声には、優里への深い愛と、
彼女を守り抜くという
揺るぎない覚悟が込められていた。
優里は、遥香の温かさに包まれ、
その言葉の力強さに、
絶望の淵から引き上げられるような感覚を覚えた。
優里の涙の告白を聞き、
遥香は、もはや躊躇することはなかった。
優里を守るという決意は、
遥香の心を揺るぎないものにしていた。
「分かった」
遥香は、優里の潤んだ瞳を
まっすぐに見つめた。
「今日のことは、忘れて。明日のテストに集中するの」
優里は、遥香の言葉に、
不安げに顔を上げた。
自分には、もうどうすることもできないと思っている
優里の心を、遥香は痛いほど理解していた。
「私が、明日のテストも、あなたに付き添ってあげる」
遥香の言葉に、優里は息を呑んだ。
明日のテストも、遥香が
自分に勉強を教えてくれるというのか。
「今から、夜通しでも構わない。明日出題される範囲を、もう一度、徹底的に教え込む」
遥香の声は、静かでありながら、
絶対的な覚悟を帯びていた。
女王である遥香が、特定の生徒のために、
夜を徹して勉強に付き合うなど、
学園史上前代未聞のことだ。
しかし、遥香にとって、
優里を守り抜くことこそが、
今の彼女にとって最も重要なことだった。
篠原悠は、遥香の言葉を聞き、静かに頷いた。
彼の表情には、遥香の決断に対する理解と、
二人の関係が新たな段階へと進むことへの
期待が浮かんでいた。
彼は、優里が遥香によって救われ、
そして遥香自身もまた、
優里という存在によって
変わっていくことを確信していた。
優里は、遥香の真剣な眼差しに、
再び涙が溢れそうになった。
絶望の淵に沈んでいた優里の心に、
遥香の言葉は、
まるで一筋の光のように差し込んだ。
「遥香様……!」
優里は、遥香の手を強く握りしめた。
その掌から伝わる遥香の温かさが、
優里の心に、再び希望の炎を灯した。
ダイアモンドラウンジの奥の個室では、
遥香と優里の、勉強会が始まった。
遥香は、優里の理解度に合わせて、
基礎の基礎から丁寧に教え込み、
優里もまた、遥香の期待に応えるべく、
必死に知識を吸収しようと努めた。
女王とブロンズの少女の間に、
新たな絆が深く結ばれていく。
明日のテストの結果がどうなるか、
誰も知らない。
しかし、この時間は、
二人の関係を、
これまで以上に
確かなものへと変えていくことになるだろう。




