もどかしい感情
ダイアモンドラウンジ。
昼の光が差し込むなか、
遥香はいつもの席に座っていた。
悠が、すぐ隣。
それだけで、
真佑の胸の奥がざわつく。
(……違う)
(これは、前と違う)
遥香は、確かに誰かと並ぶことがあった。
けれどそれは、
必要な時だけ
目的がある時だけ
そして必ず、線を引いていた
今は、その線がない。
拒まない。
追い払わない。
無言で許している。
それが、
真佑にはどうしても引っかかっていた。
「ねえ、朔也」
声を落として、隣に立つ朔也に話しかける。
「遥香ってさ……」
言いかけて、言葉を選ぶ。
「……悠のこと、どう思ってると思う?」
朔也は、一瞬だけ考えた。
「嫌ってはいない」
「それは前からよ」
真佑は、即座に返す。
「でも、“嫌ってない”と“近づける”は違う」
朔也は、黙る。
その沈黙が、
真佑の違和感を強くした。
(そう)
(朔也も、気づいてる)
「ねえ……」
真佑は、遥香を見る。
悠が何か話すと、
遥香は短く返すだけ。
笑ってはいない。
甘くもない。
けれど。
(……拒否してない)
それが、
恋に見えてしまう理由だった。
真佑は、
ふと、別の存在を思い出す。
(優里ちゃん)
遥香が、
あんなに感情を乱されていた相手。
拒絶し、
振り回され、
それでも引き寄せられていた相手。
(……悠の時と、違いすぎる)
「ねえ、朔也」
真佑は、低く言う。
「これ、両想いに見える?」
朔也は、
すぐに答えなかった。
「……そう見えるだろうな」
「でも?」
「遥香の目が、違う」
その言葉に、
真佑の心臓が強く打った。
「……だよね」
遥香は、
悠を見ていない。
ただ、
“そこにいても平気”なだけ。
それを、
恋だと呼ぶには
あまりにも、温度がない。
(じゃあ、なんで……?)
真佑のなかに、
はっきりとした疑問が
芽生え始めていた。
その日の放課後。
ブロンズフロア。
優里は、
いつものように静かに席についていた。
距離を取ると決めてから、
ラウンジには行っていない。
(行かない方がいい)
(今は……)
そう、何度も自分に言い聞かせていた。
「ねえ、宝来さん」
背後から、
聞き覚えのある声。
振り返ると、
ゴールドランクの女子生徒が立っていた。
にこやかで、
悪意のない笑顔。
それが、
一番、厄介だった。
「最近、ラウンジ行ってないよね?」
「……はい」
「そっか」
少し、間を置いて。
「でもさ、別に寂しくないでしょ?」
優里は、
首を傾げる。
「……どういう意味ですか?」
女子生徒は、
悪気なく言った。
「だって、遥香様」
「最近、篠原悠とすごく仲いいじゃない」
その瞬間。
優里の耳が、
きぃん、と鳴った。
「……え?」
「知らなかった?」
女子生徒は、
少し驚いたように目を見開く。
「ダイアモンドラウンジでも有名だよ」
「並んで座ってるし、一緒に帰ることもあるし」
「両片思いなんじゃないかって」
優里の視界が、
一瞬、白くなる。
(両……片思い)
(悠様と、遥香様が?)
「ほら」
女子生徒は、
楽しそうに続ける。
「宝来さんは、もう用済みなんじゃない?」
「最初から、契約みたいなものだったんでしょ?」
笑っている。
悪意なく、
事実のように。
優里は、
何も言えなかった。
否定できる材料が、
一つもなかったから。
(……そう、か)
(だから、最近……)
遥香が、
どこか遠くなった理由。
悠が、
やけに近くにいる理由。
(私が、身を引けば)
(全部、丸く収まる)
優里は、
小さく頭を下げた。
「……教えてくれて、ありがとうございました」
その声は、
驚くほど、落ち着いていた。
その日から。
優里は、
はっきりと行動を変えた。
ラウンジには行かない。
連絡もしない。
目が合っても、軽く会釈するだけ。
逃げるのではない。
壊さないために、
距離を取る。
それが、
優里なりの誠実だった。
廊下で、
遥香とすれ違った時。
遥香が、
一瞬だけ足を止める。
「……優里」
呼び止められた。
優里は、
立ち止まらなかった。
振り返らず、
静かに答える。
「失礼します、遥香様」
その距離。
その呼び方。
それが、
何よりも、
遥香の胸を刺した。
(……なに、これ)
(どうして)
(こんな、遠い)
優里は、
胸の奥が痛むのを、
ぎゅっと押し殺しながら歩く。
(大丈夫)
(これは、正しい選択)
遥香が、
悠を好きなら。
自分が、
入り込む場所はない。
(好きだからこそ)
(壊したくない)
優里は、
そうやって、
自分を納得させていた。
それは、些細なことから始まった。
廊下で、
遥香が優里を見つけた。
これまでは、
目が合えば、優里は必ず立ち止まった。
少し緊張して、
それでも、遥香の言葉を待つように。
でも、その日。
優里は、
遥香の視線に気づいた瞬間、
ほんの一瞬だけ、迷うように目を伏せ。
そのまま、歩き去った。
「……優里?」
名前を呼んだ。
確かに、声は届いているはずだった。
それでも、
優里は振り返らない。
足を止めない。
(……聞こえなかった?)
そう思おうとした。
でも。
その背中は、
“無視”ではなく、
はっきりとした「選択」だった。
(……違う)
(前は、こんなじゃなかった)
胸の奥が、
きゅっと締めつけられる。
それから、何度か。
ラウンジで、視線を合わせない
話しかけても、必要最低限で切り上げる
以前なら微笑んでいた場面で、距離を取る
どれも、偶然ではない。
(……避けられてる)
その事実に気づいた瞬間、
遥香の呼吸が浅くなる。
(なにをした?)
(私が、なにか……)
理由が、分からない。
説明が、つかない。
ただ、
“拒絶されている”という感覚だけが、
生々しく残る。
(……いや)
(そんなはず、ない)
そう否定しようとするほど、
心臓がうるさくなる。
これは、
怒りでも、悲しみでもない。
……恐怖だ。
真佑は、
優里の変化に、誰よりも早く気づいた。
それは、態度ではない。
表情でもない。
“温度”だった。
「優里ちゃん」
ブロンズフロアの廊下で、
声をかける。
優里は、
きちんと立ち止まり、振り返る。
笑顔も、言葉遣いも、完璧。
「どうしましたか、真佑様?」
……それが、違った。
前は、
もっと近かった。
立場は違っても、
感情の距離は、こんなに遠くなかった。
「最近、ラウンジ来ないね」
軽い調子で言う。
優里は、
少しだけ目を伏せてから答えた。
「はい。私には、必要ない場所なので」
その言い方。
自分に言い聞かせるような、
妙に硬い声。
真佑の胸が、
嫌な予感でざわつく。
「……何か、あった?」
優里は、
一瞬、言葉を探すように黙る。
そして、
穏やかに笑った。
「いいえ」
「皆さんが、楽しそうで……それで十分です」
その瞬間、
真佑は確信した。
(ああ)
(この子、壊れないように、自分を切り離してる)
遥香のために。
自分のために。
「……優里ちゃん」
真佑は、
それ以上、踏み込まなかった。
今、下手に触れれば、
本当に戻れなくなる気がしたから。
悠は、
すべてを把握していた。
優里が、
身を引いた理由。
遥香が、
混乱していること。
だから、
あえて、声をかける。
「優里」
放課後の中庭。
優里は、
一瞬だけ、硬直した。
「……なんでしょうか」
距離を保ったまま、
丁寧な返事。
悠は、
その距離が、たまらなく面白かった。
「最近、避けてるよね」
直球。
優里の肩が、
わずかに揺れる。
「そんなことは……」
「あるよ」
悠は、遮る。
「遥香からも、僕からも」
優里は、
唇を噛みしめた。
「……それが、何か問題ですか」
その問い。
“これ以上、来ないで”という、
静かな拒絶。
悠は、
わざと、困ったように笑う。
「いやあ……」
「それ、勘違いさせるなって思って」
「勘違い……?」
「うん」
悠は、
さらっと言った。
「君が身を引いたらさ」
「遥香、余計に僕に縋るでしょ」
その言葉が、
優里の胸に、深く突き刺さる。
「……それは」
「両片思いだと思われても、仕方ないよね」
優里は、
何も言えなかった。
否定したいのに、
否定できない。
悠は、
一歩だけ近づく。
「ねえ、優里」
声を落として。
「逃げたつもりでしょ?」
「でもさ」
にっこりと笑う。
「君が消えたら、遥香は壊れるよ」
優里の目が、大きく揺れた。
「……そんな」
「あるよ」
悠は、即答する。
「だって」
「遥香、君がいないと、パニック起こすんだから」
その一言で。
優里の覚悟が、
ぐらりと揺らいだ。
(……卑怯だ)
(そんなこと、言われたら)
身を引くことも、
そばにいることも、
どちらも、罪になる。
悠は、
その葛藤を楽しむように、
静かに付け加えた。
「選びなよ」
「“身を引いて壊す”か」
「“そばにいて壊す”か」
優里は、
その場に立ち尽くす。
その夜、
優里は自室で、電気もつけずに座っていた。
窓の外の光だけが、
床に細く差し込んでいる。
(……逃げたら、壊れる)
悠の言葉が、
頭のなかで何度も反芻される。
(そばにいたら、壊れる)
それも、分かっている。
遥香は、
優里が離れれば、パニックを起こす。
優里がそばにいれば、
自分は、感情を殺し続ける。
(……どっちでも)
(誰かが、壊れる)
初めて、
はっきりと理解してしまった。
これは、
「選択」ではない。
どちらを選んでも、
“正解”が存在しない。
遥香を守れば、
自分が削れる。
自分を守れば、
遥香が壊れる。
(……じゃあ)
(私は、何を基準に選べばいい?)
頭を抱えた瞬間、
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
(……嫌だ)
どちらも、嫌だ。
遥香が壊れるのも。
自分が、嫉妬と恐怖に飲み込まれるのも。
そのとき、
優里は気づいてしまった。
(私……)
(もう、戻れないところまで来てる)
翌日。
ダイアモンドラウンジの奥。
人気のない空間。
真佑は、
珍しく、悠を呼び止めた。
「……悠」
その声は、
いつもの柔らかさを欠いていた。
悠は、
振り返り、軽く眉を上げる。
「なに?」
「やりすぎ」
短く、はっきりと。
悠は、
一瞬だけ目を瞬かせ、
それから、笑った。
「ああ……」
「気づいた?」
真佑は、
悠のその反応に、
胸の奥が冷えるのを感じた。
「優里ちゃんを、追い込んでる」
「遥香を、不安定にしてる」
「それ以上は……」
「違うよ」
悠が、遮った。
その声は、
軽いのに、妙に鋭い。
「僕は、現実を早めてるだけ」
真佑は、
一歩、踏み込む。
「遥香は、壊れる」
「また、あの時みたいに……」
「壊れるのはね」
悠は、
楽しそうに、言葉を選ぶ。
「遥香の精神じゃない」
真佑の呼吸が、止まる。
「壊れるのは……」
悠は、
ラウンジをぐるりと見渡した。
「ここに、閉じこもるっていう“選択”」
「……なにを」
「考えてみなよ」
悠は、
淡々と続ける。
「遥香は、ここにいる限り」
「安全で、孤独で、誰も裏切らない」
「でもさ」
視線を、真佑に戻す。
「それって、生きてるって言える?」
真佑の喉が、鳴った。
「君が怖がってるのは」
悠は、
一歩近づく。
「遥香が壊れることじゃない」
「“変わること”でしょ」
真佑は、
反論できなかった。
悠は、
静かに、追い打ちをかける。
「優里がいなきゃ」
「遥香は、また完璧な女王に戻る」
「それでいいの?」
真佑の胸に、
鈍い痛みが走る。
(……それは)
(守ってるつもりで、閉じ込めてるだけ?)
悠は、
その沈黙を、勝利と受け取った。
その頃。
遥香は、
ラウンジの中央に立ち尽くしていた。
……優里が、来ない。
それだけで、
世界の輪郭が、曖昧になる。
(……遅い)
(いや、来ない?)
スマートフォンを確認する。
連絡は、ない。
胸の奥が、
ざわざわと、騒がしくなる。
(……なんで)
(なんで、こんなに)
理由が、分からない。
説明が、つかない。
ただ、
“いない”という事実だけが、
耐えがたく重い。
「……遥香?」
声をかけられても、
反応が遅れる。
「大丈夫?」
その問いに、
答えが出てこない。
(……大丈夫って、なに)
心臓が、早い。
呼吸が、浅い。
視界の端が、滲む。
(……だめ)
(これ、知ってる)
告白された時と、同じ。
近づかれる恐怖。
失われる予感。
「……やめて」
誰に向けた言葉かも、分からない。
(優里が、いない)
それだけで、
世界が敵になる。
気づいたときには、
手が震えていた。
(……いや)
(いや、いや、いや)
思考が、絡まって、ほどけない。
(私、どうした)
(なんで、こんな)
その瞬間。
脳裏に浮かんだのは、
ただ一人。
優里。
(……来て)
声にならない願い。
初めてだった。
“失う恐怖”を、
ここまで強く感じたのは。
遥香は、
それが何なのか、
まだ知らない。
それが、
独占欲だということも。
中庭。
悠は、
ベンチに腰掛け、
優里を待っていた。
やがて、
視線を伏せたまま歩く優里を見つけ、
声をかける。
「……逃げる準備?」
優里は、
足を止めた。
「……なにを」
「顔に書いてある」
悠は、
楽しそうに言う。
「“私は脇役です”って」
優里の指が、
無意識に、胸元に触れる。
ダイアモンドのパートナーバッジ。
「ねえ」
悠は、
立ち上がり、一歩近づく。
「逃げるならさ」
「それ、返したら?」
優里の呼吸が、
一瞬、詰まる。
「……これは」
「“居場所”の証でしょ?」
悠は、
容赦なく言葉を重ねる。
「助けるだけなら、いらない」
「選ばないなら、持つ資格はない」
優里の胸に、
突き刺さる。
(……分かってる)
(分かってる、のに)
「返せば?」
悠は、
にこやかに、追い打ちをかける。
「そうしたら、楽になるよ」
「遥香の感情も」
「君の嫉妬も」
「全部、“なかったこと”にできる」
優里は、
唇を噛みしめた。
(……それは)
(いちばん、卑怯な逃げ方だ)
手が、バッジに触れる。
外すことは、できる。
でも……。
(外した瞬間)
(私は、遥香様を“選ばなかった”ことになる)
悠は、
その沈黙を、楽しむように見つめていた。
「さあ、優里」
「助ける人でいる?」
「それとも……」
一拍。
「選ぶ人になる?」
この瞬間、
優里は、理解してしまう。
もう、
“いい人”の場所には、戻れない。
ダイアモンドラウンジの空気は、
目に見えないほど張り詰めていた。
遥香は席を外している。
それが、
真佑にとっては“限界線”だった。
「……ねえ、悠」
真佑は、カップを置き、
はっきりと名を呼んだ。
悠は振り返り、
いつもの軽い笑みを浮かべる。
「なに? 真佑。こわい顔して」
「いい加減にしなさい」
一切、飾らない声。
悠の笑みが、
ほんの一瞬だけ止まる。
「あなた、分かっててやってるでしょ」
「遥香を揺さぶって」
「優里を追い込んで」
「このラウンジ全体を、不安定にして」
悠は肩をすくめた。
「結果論じゃない?」
「遥香が閉じこもる選択をしてきたのは、ずっと前からだ」
「僕は、扉を叩いてるだけ」
真佑の視線が、
鋭くなる。
「違う」
「あなたは、壊れやすいところだけを、正確に踏んでる」
「“気づかせる”ふりをして、逃げ道を潰してる」
悠は、
楽しそうに目を細めた。
「で?」
「それが、ダメ?」
真佑は、
一歩、前に出た。
「遥香は、実験台じゃない」
「感情は、理論じゃない」
「“壊れてから学べ”なんて、私は認めない」
悠の視線が、
初めて真佑を真正面から捉える。
「……へえ」
「君がそこまで言うんだ」
「本気なんだね」
真佑は、
一切、逸らさなかった。
「本気よ」
「これ以上、遥香を追い詰めるなら」
「私は、あなたの味方をやめる」
一瞬、沈黙。
そして悠は、
くすっと笑った。
「それ、つまりさ」
「僕と敵対するってことだけど?」
「構わない」
即答だった。
「遥香を壊すくらいなら」
「あなたと敵になるほうが、ずっといい」
その言葉に、
悠は否定しなかった。
ただ、
どこか満足そうに目を伏せる。
「……なるほど」
「だからこそ、面白いんだよ」
ブロンズフロアの更衣室。
鏡の前で、
優里は制服の胸元を見つめていた。
ダイアモンドのバッジ。
重い。
存在感が、
重すぎる。
(……返せば)
(全部、終わる)
悠の言葉が、
頭をよぎる。
「逃げるなら、返したら?」
指先が、
バッジの縁にかかる。
外せる。
簡単に。
(私は)
(選ばない側に、戻れる)
遥香の感情を、
引き受けなくて済む。
嫉妬も。
恐怖も。
期待も。
(……楽、だ)
カチ、と
金具が、わずかに動いた。
その瞬間……
扉が、開く。
「……優里」
息が、少し乱れている。
階級も、立場も関係なく、
遥香は、ブロンズフロアまで降りてきていた。
優里は、反射的に手を離す。
バッジは、まだ外れていない。
「……なにか、ありましたか」
距離を取ろうとする声。
遥香は、
それを聞いて、少しだけ眉を寄せた。
そして、迷った末に、
はっきりと言う。
「連絡先を、教えてほしい」
優里の目が、
大きく見開かれる。
「……え」
「ダイアモンドの規則でも」
「契約でもない」
遥香は、
一歩、近づいた。
「私が、あなたと繋がっていたいから」
言い切りだった。
命令でもない。
取引でもない。
ただの、お願い。
優里の心臓が、
うるさく鳴る。
(……それは)
(いちばん、ずるい)
スマートフォンを、握りしめる。
画面に、
自分の連絡先を表示するだけ。
それだけで。
(これを渡したら)
(私はもう)
(“助ける人”じゃいられない)
呼ばれたら、行く。
連絡が来たら、応える。
それは、
選ぶことだ。
逃げられない。
距離も、
曖昧にはできない。
(……遥香様は)
(気づいてない)
(これが、どれだけ重いか)
でも、
遥香は、
優里を見つめている。
不安と期待が、
混ざった目で。
その視線を、
拒むことができない自分に、
優里は気づいてしまう。
(……私は)
(もう、とっくに)
(戻れない場所にいる)
画面は、
遥香の前に向けられた。
連絡先を渡した、その直後。
優里の胸に最初に湧いたのは、
安心でも喜びでもなく、後悔だった。
(……渡すべきじゃなかった)
あまりにも、軽率だった。
あまりにも、覚悟が足りなかった。
自分は「助ける側」でいるつもりだったのに、
これはもう、明確に“選ぶ行為”だ。
一歩、下がろうとした、その瞬間。
「……ありがとう」
遥香の声が、すぐ近くで聞こえた。
顔を上げるより先に、
腕に、温度が触れる。
「……え?」
次の瞬間、
優里の胸元に、遥香が顔を埋めていた。
抱きついている。
迷いも遠慮もなく、
ぎゅっと。
「ちょ……っ、遥香様……?」
声が震える。
ここはブロンズフロアだ。
誰かに見られたら、
噂どころじゃ済まない。
でも、
遥香は、離れない。
それどころか、
小さく息を吐いて、
笑った。
優里は、その笑顔を見てしまった。
誰にも向けないはずの笑顔。
誰にも触れないはずの女王が、
自分にだけ見せる表情。
(……ずるい)
ずるすぎる。
拒否する準備も、
距離を取る理由も、
全部、吹き飛ばされる。
「……嬉しい」
遥香は、そう呟いた。
ただそれだけなのに、
優里の心臓は、うるさく跳ねる。
(私は……)
(これに、耐えられるの?)
後悔は確かにある。
でも同時に、
もう戻れないことも、
はっきり理解していた。
しばらくして、
遥香は名残惜しそうに腕をほどいた。
しかし、
優里の袖を、指先で掴んだまま。
「……ねえ」
「はい?」
「……その」
遥香は、珍しく言い淀む。
言葉を探しているというより、
自分の感情をどう扱えばいいか分からない、
そんな表情だった。
「……他の人に」
一拍。
「その連絡先、教える必要はないよ」
優里の心臓が、止まりかける。
「……え?」
遥香は、少しだけ眉を寄せる。
「必要ない、というか……」
「あなたは、私と繋がっていればいいでしょう?」
「不安だった。会いたかった。」
「……さみしかった」
それは、
支配でも命令でもない。
でも、
“排他的”な響きを、確かに含んでいた。
遥香自身が、
それを独占欲だと認識していない。
ただ、
「取られたくない」という衝動が、
そのまま零れただけ。
優里は、
曖昧に笑うことしかできなかった。
(……ああ)
(もう、完全に)
(逃げ道がない)
その夜。
スマートフォンは、
ベッドの横に置かれている。
画面は暗い。
なのに、
優里の意識は、
ずっとそこに縛られていた。
(……来ない、よね)
当たり前だ。
今まで連絡を取り合う関係じゃなかった。
それでも。
画面が光る気配に、
何度も目を凝らす。
……ピロン。
音。
心臓が、跳ね上がる。
メッセージ。
【遥香】
今日は、ちゃんと帰れた?
短い。
用件だけ。
なのに。
(……無理)
(こんなの、無理)
返信するだけで、
胸が苦しい。
【優里】
はい。無事に帰りました。
数秒後。
【遥香】
よかった
それだけで、安心する
優里は、
天井を見つめたまま、
息を止める。
(……安心、って)
(そんな言葉)
(軽く使わないで)
眠れない。
それは、
単なる緊張じゃない。
「大切にされている」ことを、
知ってしまった夜だった。
翌日。
廊下ですれ違いざま、
悠が、何気なく声をかけてくる。
「顔、死んでるけど?」
「……寝不足です」
悠は、
優里の手元。
スマートフォンに視線を落とした。
そして、ゆっくり笑う。
「あー……」
「もう、連絡来た?」
優里は、答えない。
それが、答えだった。
悠は、満足そうに肩をすくめる。
「言ったでしょ」
「一度、繋がったら」
「もう逃げられないんだって」
優里は、
反論できなかった。
悠は、
はっきりと言い切る。
「遥香は、もう君を“選んでる”」
「気づいてないのは、本人だけだけどね」
その言葉は、
予言のように重かった。
放課後。
向井渉は、
校舎の影で、
宝来悠斗と向き合っていた。
「……俺は」
渉は、拳を握る。
「遥香を、守りたいだけだ」
悠斗は、
静かに聞いている。
「でも、今のままじゃ」
「あいつは、優里に全部持っていかれる」
渉の目には、
焦りと嫉妬が、はっきり浮かんでいた。
「……宝来」
「お前なら、分かるだろ」
「このままじゃ、壊れる」
悠斗は、
少しだけ口角を上げる。
「目的は?」
「遥香を、取り戻す」
即答だった。
悠斗は、
一拍置いてから言う。
「……利害は一致するな」
こうして。
遥香を“守るつもり”の渉
優里を“消したい”悠斗
二人は、
静かに手を組み始める。
誰よりも大切なものを、
誰よりも傷つける方法で。




