人生でいちばん不器用な朝
朝。
ダイアモンドの登校時間より、ずっと前。
校舎へ向かう道を、
優里はたった一人で歩いていた。
ブロンズは最下位。
どのランクよりも早く登校しなければならない。
誰のためでもない、
誰も得をしない、
ただ「そういうもの」として存在する理不尽。
けれど今朝のその孤独は、
優里にとって、妙に心地よかった。
(……静かだ)
誰もいない。
視線もない。
期待も、誤解も、生まれない。
(……これでいい)
優里は、昨夜、ひとつの決断をしていた。
身を引こう。
遥香の隣から。
ダイアモンドラウンジから。
あの、温かくて、眩しい場所から。
自分がそこにいることで、
誰かの感情をかき乱すなら。
(……私は、邪魔だ)
遥香と悠。
二人の間にある、静かな理解。
あれは、
自分が割り込んでいいものじゃない。
(私がいなくても、遥香様は……)
そこまで考えて、
優里は思考を止めた。
胸が、痛くなるから。
ダイアモンドの登校時間。
優里がたった一人で歩いているのが見えた。
最下位であるブロンズは、
他のどのランクよりも早く校舎にいなければならない。
その理不尽なルールが、
今は遥香にとって都合が良かった。
(お、おはよう……おはよう)
遥香は物陰で、心のなかで何度も練習する。
ダイアモンドメンバー以外には久しく、
自然な感情を伴って言わなくなっていた言葉。
ダイアモンドとしての挨拶ではない。
女王としての言葉でもない。
(……なぜ、こんなこと)
自分でもわからない。
理由はわからないのに、
優里を見かけるたび、
胸の奥がざわつく。
距離を取られると、落ち着かない。
視線が合わないと、苛立つ。
(……変だ)
遥香は、小さく息を吐く。
ふぅ、と小さく息を吐き、腹を決める。
3……
2……
1……
意を決して目をきつく閉じ、
弾けるように物陰から飛び出した。
「……なにしてんの、遥香?」
間の抜けた声。
遥香は反射的に顔を上げた。
「……悠!?」
目の前に立っていたのは、
篠原悠だった。
完全に、想定外。
悠の後ろ。
少し離れた場所で。
優里は、真佑に捕まっていた。
腕を引かれ、
楽しそうに、だる絡みされている。
笑っている。
柔らかく。
安心した顔で。
(……ちがう)
(私が話しかけたかったのは)
「……そっちじゃない」
遥香は、思わず本音を漏らした。
「なんだよ、いきなり飛び出てきたくせに」
「悪かったわね!」
語気が荒れる。
(むかつく)
(すべてが、計画通りにいかない)
遥香は、
真佑と笑い合う優里から、
目を離せなかった。
あの、孤独だったブロンズが。
自分の“親友”と、自然に話している。
その光景が、
胸の奥を、ちくちくと刺した。
悠は、その視線を追い、
面白そうに口角を上げる。
「ふぅ〜ん?」
「僕の”彼女”が、心配?」
「うるさい」
遥香は、低い声で即答した。
(……”建前”のくせに)
なのに。
その“建前”に、
なぜか苛立つ自分がいる。
その日。
見事に空回りしてから1日がスタートした遥香。
遥香は、明らかに様子がおかしかった。
優里にだけ、視線が多い。
声をかける回数が増える。
意味もなく、隣に座らせる。
「……優里」
名前を呼ぶ。
それだけで、
優里が一瞬、戸惑うのを見る。
(……よし)
理由はわからないが、
それでいい気がした。
でも。
優里は、距離を詰めない。
視線を逸らす。
返事が、少しだけ遅れる。
笑顔はある。
けれど、それは“以前の距離感”ではない。
(……なぜ)
遥香のなかで、
説明不能な焦りが膨らんでいく。
自分が、気を引こうとしている。
そんな事実に、まだ気づけないまま。
優里は、遥香の変化に気づいていた。
気づいてしまったからこそ、
余計に距離を取った。
(……優しい)
(……でも)
遥香の視線が、
自分を通り越して、
悠に向かう瞬間を、何度も見た。
悠が、わざと遥香に近づくのも。
軽口を叩くのも。
(……やっぱり)
(両片思い、なんだ)
遥香は、不器用だから。
悠は、わかっていて煽るから。
自分は、その間に、いただけ。
(……私が引けば)
(全部、うまくいく)
優里は、そう信じた。
遥香の“空回り”は、
優里には、
恋を自覚できない二人の不器用なすれ違いに見えていた。
まさか。
その中心にいるのが、
自分自身だなんて、思いもしなかった。
昼休み。
ダイアモンドラウンジの扉は、
いつも通り、静かに開いていた。
けれど、そこに、優里の姿はなかった。
渉が最初に気づいた。
「……あれ?」
視線を巡らせ、
いつもなら当然いるはずの場所を見る。
遥香の隣。
少し背筋を伸ばして座る、
控えめなブロンズの少女。
「優里、来てない?」
その一言で、
ラウンジの空気が、わずかに変わった。
真佑が、カップを持つ手を止める。
「……珍しいわね」
朔也は、何も言わない。
ただ、時計を見る。
悠だけが、面白そうに、少しだけ目を細めていた。
(……来ない、か)
遥香は、何も言わなかった。
けれど。
無意識のうちに、
優里の席を見ている自分に、
気づいてしまった。
(……遅い)
理由はわからない。
ただ、胸の奥が落ち着かない。
優里は、自分の席に座っていた。
久しぶりの、ブロンズの教室。
周囲には、ひそひそとした視線。
(……戻ってきたんだ)
誰も声はかけない。
それでいい。
それが、本来の場所。
優里は、ラウンジに行かなかった。
行けなかった、のではない。
行かなかった。
自分で決めた。
もう、あそこには行かない。
遥香の隣に座ることで、
何かを壊している気がした。
悠の煽り。
遥香の不器用な視線。
それら全部が、
自分の存在によって生まれているなら。
(……私が引けばいい)
優里は、一人でお弁当を食べた。
静かに。
誰とも目を合わせず。
その背中は、「戻った」のではなく、
「退いた」ものだった。
「……優里、完全に来ないね」
真佑の声は、
いつもより低かった。
渉が、軽く笑おうとする。
「たまたまだろ。ブロンズだし、用事とか……」
「それなら、連絡は来る」
朔也が、淡々と言う。
遥香は、その会話に入らなかった。
けれど。
椅子から立ち上がる。
「……遥香?」
悠が声をかける。
遥香は、一瞬だけ立ち止まり、
そして言った。
「ブロンズに行く」
ラウンジが、完全に静まり返った。
「は?」
「……ちょ、遥香?」
ダイアモンドが、自分から下位フロアへ行く。
それが、何を意味するか。
全員が、理解していた。
悠だけが、一瞬、目を見開いた。
(……本気、だ)
ざわめきは、一瞬で広がった。
「……え?」
「今の、誰……?」
「まさか……」
ブロンズの廊下に現れたのは、
紛れもなく、
鳳凰学院の女王。
山下遥香だった。
その姿は、
場違いなほど、堂々としていた。
視線を浴びても、怯まない。
ただ、一点だけを見る。
教室の奥。
窓際の席。
優里。
優里は、
遥香の気配に気づき、
ゆっくりと顔を上げた。
そして、固まった。
「……遥香、様?」
なぜ、ここに。
問いが、喉まで出かかって、
言葉にならない。
遥香は、一直線に優里の前まで来る。
周囲の視線など、気にも留めず。
「……来ないから」
ぽつりと、言った。
「来ないから、来た」
それは、命令でも、叱責でもない。
理由になっていない理由。
優里の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……私、もう……」
身を引くつもりだった。
なのに。
遥香は、自分の矜持も、階級も、
すべてを越えて、ここまで来てしまった。
「……戻って」
遥香は、それだけ言った。
懇願でもない。
強制でもない。
でも。
初めて、
“離れられること”を拒む声だった。
優里は、その声を前にして、
動けなくなってしまった。
遥香が戻ってこない。
それ自体が、すでに異常だった。
「……まだ戻らないのか?」
渉が、ソファに深く腰掛けたまま言った。
「ブロンズまで行ったんだろ?迎えに行っただけじゃないの?」
朔也は、ラウンジの端に立ったまま、
腕を組んでいる。
「……前にも、似たことはあった」
その声は、淡々としていた。
「“彼氏”に会いに行った時だ。」
「急に姿を消して、周囲が見えなくなる」
悠が、ふっと肩をすくめる。
「ああ、あったな。呼んでも返事しなくてさ」
「だから今回も、まあ……」
渉は軽く笑う。
「好きなやつ絡みなんだろ?」
その空気に、一人だけ、乗らない人物がいた。
真佑だった。
真佑は、カップを持ったまま、動かなかった。
笑わない。
相槌も打たない。
その沈黙に、朔也が気づく。
「……どうした、真佑」
真佑は、ゆっくりと顔を上げた。
「……それ、違う」
その声は、静かだったが、はっきりしていた。
「今回の遥香、前と“似てる”ようで、全然違う」
「何がだ?」
渉が眉をひそめる。
真佑は、
少し言葉を選ぶように、息を吸った。
「遥香は、“彼氏”がいたことない。本気で好きになったことも、一度もない」
その場の空気が、わずかに張りつめる。
「……は?」
悠が、目を細めた。
「告白されて、それを信じて、裏切られた事件以来……」
真佑は、そこまで言って、少し唇を噛む。
「遥香は、“恋愛”って言葉に、条件反射でパニックを起こす」
誰も、すぐには言葉を挟めなかった。
「彼氏に会いに行った時だって、あれは“確認”よ」
真佑は続ける。
「裏切られてないか、騙されてないか、自分が“道具”にされていないか」
「好きだからじゃない」
「怖かったから、よ」
渉の顔から、軽さが消えた。
「……じゃあ、今回も?」
「違う」
真佑は、首を横に振る。
「今回は、怖がってない」
その一言が、妙に重かった。
「むしろ……自分がどうなってるのか、分からなくて、必死で追いかけてる」
朔也は、黙って目を伏せた。
(……だから、説明がつかない)
理屈で動く遥香が、理屈を捨てている。
それが、一番危険な兆候だと、
朔也は理解していた。
悠は、楽しそうでも、軽くもない目で、
ラウンジの外を見た。
(……独占欲だよ、それ)
でも、それを口に出す気はない。
今の遥香は、
それを“感情”として認識できない。
だからこそ、自分が煽れば、
もっと露骨に表に出る。
(真佑は、気づいたか)
悠は、ちらりと真佑を見る。
真佑は、遥香が消えた方向を、ずっと見ていた。
その横顔は、不安と、覚悟が入り混じっていた。
「ねえ、朔也」
真佑が、ぽつりと呼びかける。
「もし、これが“恋”だったら、まだ安心できた」
「でもね」
少しだけ、声が震える。
「これは、遥香が“唯一の居場所”を見つけてしまった時の顔よ」
ラウンジに、重い沈黙が落ちた。
それは祝福ではなく、警戒すべき変化。
女王が、“支配する側”ではなく、
“失うことを恐れる側”になり始めている。
その事実を、ダイアモンドメンバーたちは、
ようやく理解し始めていた。
放課後。
ラウンジには、もう人がいなかった。
照明は落とされ、
大きな窓の外には、鳳凰学院の夜景が静かに広がっている。
その中央で、遥香は一人、ソファに座っていた。
いつもなら、
完璧な姿勢で、
完璧な思考を巡らせているはずの時間。
けれど今夜の遥香は、
指先を膝の上で絡めたまま、
どこか落ち着きがなかった。
真佑は、
少し離れた場所に立ち、
その背中を見つめていた。
(……踏み込む?)
何度も、その問いが胸に浮かぶ。
(でも、踏み込みすぎたら……)
あの時のことが、脳裏をよぎる。
告白され、信じて、裏切られたあの日。
遥香は、
ほんの些細な言葉にも過呼吸を起こし、
人の気配に怯え、
「誰も信じない」と言い切った。
それを、一番近くで見ていたのが、真佑だった。
(また、同じことをさせるわけにはいかない)
でも。
(放っておいていい変化でもない)
真佑は、ゆっくりと遥香のそばへ歩み寄った。
「……遥香」
名前を呼ぶだけで、喉が少し詰まる。
遥香は、びくりと肩を揺らし、振り返った。
「……真佑。まだ、いたの」
その声は、いつもより少し低く、疲れがにじんでいた。
「ねえ、最近……」
真佑は、言葉を選びながら続ける。
「自分でも、“変だな”って思うこと、ない?」
遥香は、一瞬だけ目を伏せた。
それだけで、答えは半分出ていた。
「……思わない」
即答だった。
早すぎる否定。
真佑は、それ以上、踏み込めなかった。
(……今は、まだ)
踏み込めば、
遥香は“自分が壊れている”と
自覚してしまう。
それは、今の彼女には、一番残酷だ。
「……そう」
真佑は、それ以上何も言わず、そっと距離を取った。
遥香は、
その背中を見送りながら、
理由のわからない苛立ちを感じていた。
(……何を聞きたかったの?)
(どうして、はっきり言わないの)
ダイアモンド専用の通路。
悠は、
柱にもたれながら、
遥香と優里が並んで歩く様子を眺めていた。
優里は、
少し距離を取っている。
笑ってはいるが、
視線が、
一瞬一瞬、遥香から逸れている。
(……ああ、完全に誤解してるな)
悠は、
内心で舌打ちした。
その直後、背後から声がする。
「……悠」
真佑だった。
悠は、振り返り、軽く手を振る。
「やあ、真佑。怖い顔してるね」
「……わざとやってるでしょ」
真佑は、低い声で言った。
悠は、一瞬だけ目を細め、すぐに笑う。
「うん」
否定しない。
「だってさ、遥香、自覚しないと止まらない」
「あなた……」
真佑の声に、怒りが滲む。
「これ以上刺激したら、あの子、壊れる」
悠は、真佑の真剣さを理解していた。
だからこそ、軽く答えない。
「壊れないよ」
「……根拠は?」
「初めてだから」
悠は、遥香の背中を見る。
優里の隣で、ほんの僅かに、身体を傾けている。
無意識の距離。
「初めて“欲しい”って思ったものはさ」
「自分で名前をつけない限り、暴走する」
真佑は、息を呑んだ。
「だから、僕が名前を浮き彫りにしてあげる」
「……独占欲?」
悠は、笑った。
「本人が一番、否定する言葉だね」
その夜。
遥香は、自室で一人、机に向かっていた。
資料は完璧。
スケジュールも完璧。
なのに。
(……集中できない)
ペンを置き、こめかみを押さえる。
思考が、何度も、同じ場所に戻る。
優里が、誰と話していたか
悠が、何を言ったか
真佑の、言いかけた言葉
(意味がわからない)
遥香は、
苛立ちを込めて立ち上がった。
(私は、合理的に動いている)
(優里は、必要な存在)
(孤独を埋める、条件に合致している)
なのに。
優里が離れそうになると、
胸の奥が、
ざわつく。
理由がない。
説明ができない。
「……っ」
遥香は、鏡の前で立ち止まった。
映る自分の顔は、いつもより、感情が露わだった。
(これは……何?)
怒り?
不安?
焦り?
どれも違う。
でも、失う想像だけが、やけに鮮明だ。
「……ありえない」
遥香は、自分に言い聞かせるように呟く。
「私は、誰かに縋る人間じゃない」
その言葉が、空虚に響く。
(じゃあ、どうして)
(どうして、ブロンズの教室フロアまで自分から行ったの)
(どうして、あの子が笑っていないと、落ち着かないの)
答えは、まだ、言葉にならない。
だからこそ、遥香は苛立つ。
論理で支配できない感情を、
初めて抱えているから。
これは、
“独占欲”という名前を持つ前の、
一番危険な段階だった。




