退学への課題
鳳凰学院の教員室は、
一見すると平和な学園の
日常が流れているかのように見えた。
しかし、その内側では、
厳しい階級制度が
教師たちの意識を支配していた。
教師たちは皆、
最上位階級であるダイアモンドを恐れていた。
多額の寄付金という形で
学園の運営を支え、
圧倒的な才能と影響力を持つ彼らは、
もはや教師たちの手に負える存在ではなかった。
教員室の壁には、
ダイアモンドの生徒たちの顔写真が掲げられている。
彼らへの対応は、
学園の運営を左右する最重要事項として扱われていた。
教師たちは、常に頭が上がらない。
彼らの行動に異議を唱えることなど、
決して許されなかった。
その一方で、
ブロンズという
最下層に属する生徒たちへの扱いは、
驚くほど杜撰だった。
ブロンズには、
大手有名企業の御曹司や令嬢たちも在籍していた。
しかし、
その影響力はダイアモンドやプラチナの生徒たちとは
比べ物にならない
教師たちにとって、
彼らはただの「小さな存在」であり、
彼らの問題は常に後回しにされた。
教員室を訪れても、まともに話を聞いてもらえず、
「君たちの問題は君たちで解決しなさい」と
突き放されるばかりだった。
優里もまた、その扱いを受けていた一人だった。
彼女が授業中に嫌がらせを受けても、
教師たちは見て見ぬふりをした。
教師たちにとって、
優里の存在は、
自分たちの面倒事を増やすだけの、
取るに足らない存在だったのだ。
階級制度が生み出した、
教師たちの権力への恐怖と、
弱者への無関心。
それは、鳳凰学院の日常に
深く根ざし、
生徒たちの間に、
決して越えることのできない壁を作り上げていた。
ある日の午後。
ブロンズフロアの教室は、
いつもにも増して重苦しい空気に包まれていた。
教壇に立つ教師の、感情のない声が響くなか、
優里はぼんやりと窓の外を眺めていた。
遥香たちと過ごす、
温かい時間とはかけ離れた、
冷たい現実が、ここにはあった。
授業の終盤、
教師が、一枚の紙を生徒たちに配り始めた。
「今日の授業の最後に、課題を出す。」
「一人一人、この紙に書かれた課題図書を、制限時間内に私の元へ持ってくること。」
「それができなければ、今回の授業は……不合格とする」
教師は、
優里の机にも、無表情に紙を置いた。
優里は、紙に書かれた文字に目を落とした。
そこに書かれていたのは、
優里がこれまで見たこともない、
古く、そして、分厚い本のタイトル。
(こんな本、どこにあるんだろう…)
優里は、漠然とそう思った。
しかし、その時、優里はまだ知らなかった。
その課題図書は、
優里を退学へと追い込むための、
巧妙な罠であることを。
優里は、この課題をクリアできなければ、
ブロンズランクから、やがて退学へと追い込まれる。
そんな残酷な現実が、
優里を待ち受けていることを、
優里はまだ知らなかった。
ブロンズフロアの教員室では、
授業開始前のわずかな時間を使って、
教員たちが集まっていた。
彼らの手元には、
タブレット端末が置かれている。
画面には生徒たちの名前が並んだリストが表示されていた。
「さて、今日の授業の課題だが、対象は誰にする?」
主任教員が、冷徹な声で問いかけた。
その言葉には、
教育者としての情熱など微塵も感じられない。
彼らにとって、生徒たちは、
自分たちの権威を誇示するための道具でしかなかった。
別の教員が、
リストのなかから一人の名前を指差した。
「この子はどうですか? 宝来優里。」
「最近、ダイアモンドメンバーとの関わりが噂になっています。」
「このまま放っておくと、問題になりかねません」
画面に、優里のプロフィールが表示される。
家柄、財力、素行。
彼らは、優里のプロフィールを、
まるで品定めをするかのように眺めていた。
「家柄も財力も悪くない。素行も、特に問題はない。」
「しかし、ダイアモンドとの関係が、やはり気がかりだ」
教員たちは、優里という人間を、
データとしてしか見ていなかった。
優里がダイアモンドとの関わりを持っていることが、
最も危険な要素だった。
優里が、ダイアモンドメンバーの力を借りて、
この学園のルールを乱すのではないかという、
漠然とした恐怖。
「よし。今日の課題は、宝来優里で決まりだ」
主任教員は、そう言って、
優里の名前の横に、チェックマークをつけた。
そして、優里を退学に追い込むための、
課題図書と、
その本がプラチナの図書館にしかないという事実を、
他の教員たちに告げた。
彼らの悪意に満ちた笑みが、教員室に響き渡った。
優里は、知らず知らずのうちに、
彼らの悪意の罠にはまってしまったのだった。
優里は、ブロンズフロアの広い図書室の奥で、
課題に必要な資料を探していた。
高い書架に囲まれた静かな空間で、
彼女は目当ての本を見つけようと背伸びをする。
普段はダイアモンドメンバーと
行動を共にすることが多いが、
授業中はブロンズフロアで受けるため、
この時間は一人だった。
その時、優里のすぐ後ろに人影があることに気づいた。
振り返ると、そこにいたのは遥香だった。
いつも冷たい印象を与えることが多い遥香だが、
その時ばかりは、書架に並ぶ古書を興味深そうに眺めており、
どこか温かみがかった表情をしていた。
優里は、この学園のルールのように
慌てて道を譲ろうとした。
しかし、遥香は小さく首を横に振り、
「気にしないで」と短い声で呟き、
再び本に目をやった。
その近さに、優里の心臓は小さく跳ねた。
普段は遠巻きに見ているだけの存在が、
こんなに近くにいる。
優里は、遥香が手に取った本のタイトルを横目で見た。
『星夜の光』。
普段の遥香からは想像もできないような、
感傷的なタイトル。
優里は小さな驚きを覚えた。
その瞬間、
高い場所から一冊の本が、
優里の頭上に向かって落ちてきた。
咄嗟に目を瞑った優里だったが、
その本は落ちてくる寸前で、
誰かの手が間一髪でそれを掴んだ。
目を開けると、そこにいたのは、
やはり遥香だった。
遥香は、掴んだ本を無言で優里に差し出し、
冷たいながらも、
どこか心配そうな目で優里を見つめていた。
「ありがとう、ございます」
遥香はかすかに頷き、
再び自分の見ていた本へと視線を戻した。
その短い沈黙のなかには、
言葉にはできない、
かすかな繋がりが確かに存在した。
遥香は、優里に掴んで差し出した本を、
優里の手からゆっくりと取り戻すと、
再び書架に目をやった。
しかし、その瞳は、書架に並ぶ本ではなく、
優里の制服に縫い付けられた、
ブロンズを示す刺繍を捉えていた。
「…授業中?」
遥香の声は、静かだった。
それは、優里の状況を確かめるような、
どこか不思議そうな響きを持っていた。
「…はい、そうです」
優里は、ぎこちなく答えた。
優里の心のなかには、疑問が渦巻いていた。
そもそも、なぜ遥香がここにいるのだろうか。
ダイアモンドである遥香が、
ブロンズフロアに。
そして、ブロンズフロアの生徒たちが使う
図書館にいること自体が、
ありえないことだった。
(まさか、遥香様は…授業を受けていないのだろうか?)
遥香は、この学園の女王だ。
授業を受ける必要などないのかもしれない。
遥香は、ブロンズフロアの生徒たちが使うような、
古くて汚れた本には、全く興味がないようだった。
優里の心は、遥香がなぜここにいるのか、
その理由を理解できず、混乱していた。
遥香は、優里の心の動揺など気にも留めず、
優里が手に持っている一枚の紙に目を向けた。
その瞳は、鋭い光を放っていた。
「それは?」
優里は、遥香の言葉に、一瞬躊躇した。
授業の課題図書を制限時間内に見つけなければ、
不合格になってしまう。
遥香に構っている時間などない。
優里は、無礼を承知で、遥香に告げた。
「…授業の課題図書です。これを、時間内に見つけなければいけないので、遥香様の相手をしている時間がありません」
優里は、そう言いながら、
遥香の横を通り過ぎようとした。
しかし、その瞬間、
遥香は、優里の腕を掴んだ。
優里の腕を掴んだ遥香の手は、
冷たかったが、
その力は、
優里が振りほどくことができないほど強かった。
遥香の表情は、いつもの冷静なものとは違い、
どこか焦りを帯びていた。
遥香は、優里に与えられた課題図書に、
何か特別な意味があることを察していたのだろうか。
優里は、遥香の瞳をまっすぐに見つめた。
そこには、遥香が、
優里をただの「おもちゃ」として見ていたのではない、
優里という人間を、
心から大切に思っているという、
遥香の優しさが、確かに存在していた。
優里は、遥香に腕を掴まれたことで、
驚きに目を見開いた。
「遥香様…あの、申し訳ありません。私、本当に時間がないので、お相手は…」
遥香の気を悪くしたのではないかと、
申し訳なさそうに告げた。
課題を終わらせなければという焦りと、
遥香の思いに答えたいという気持ちの間で揺れ動いていた。
遥香は、優里の言葉には耳を傾けていない。
その瞳には、いつもの冷たさとは違う、
どこか切なげな光が宿っていた。
「その本は…このブロンズの図書館には、ないよ」
優里の心に、雷が落ちたかのような衝撃を与えた。
(…ない?)
頭のなかは、その一言で真っ白になった。
もし、この図書館に本がなければ、
どうやって課題をクリアすればいいのだろうか。
この課題は、最初から、
優里を不合格にするための罠だったのだろうか。
遥香は、優里の窮地を、最初から見抜いていたのだ。
遥香は、力の抜けた優里が持つ課題図書の紙を、
静かに受け取った。
そこに記された本のタイトルを読み解くと、
遥香の表情に、かすかな怒りが浮かび上がった。
「この本は…プラチナの図書館にある」
張り詰めた緊張感。
ブロンズである優里が、プラチナの図書館に入ることは、
この学園の厳格な階級制度では、決して許されないことだった。
ブロンズフロアの教師たちがよく使う手段。
問題を起こしそうな生徒を、
授業の課題を装って退学に追い込む、
巧妙な罠。
ブロンズのような底辺の生徒は、
反抗することもできず、
あっけなく学園を去るしか方法がない。
その悪意が、今、優里に向けられている。
遥香は、優里の純粋な心を利用して、
優里を学園から追放しようと画策する者たちの存在を、
はっきりと感じ取っていた。
優里を守りたいという強い思いと、
優里を傷つけようとする者たちへの、
冷たい怒りが燃え上がっていた。
優里は、遥香の言葉に全身が凍りついた。
プラチナの図書館にしか、その本はない。
しかし、ブロンズである自分は、
その図書館に足を踏み入れることさえ許されない。
絶望的な現実が広がっていた。
時間内に本を持って行かなければ、退学になる。
優里は、焦りで息が詰まりそうになった。
手のひらにじんわりと汗が滲み、
心臓は不規則なリズムで激しく鼓動していた。
この課題は、最初から自分を退学に追い込むための、
巧妙に仕組まれた罠だったのだ。
(どうすればいいの…)
優里は、目の前に立ちはだかる、
巨大で冷たい壁に、立ち尽くすしかなかった。
一方、ブロンズフロアの教室では、
教員たちが、優里の帰りを待ちわびていた。
彼らの顔には、
優里の焦りや絶望をあざ笑うかのような、
冷たい笑みが浮かんでいた。
「あの子は、どうせ諦めて、教室に戻ってくるだろう」
「どうせ、ブロンズの分際で、ルールを破る勇気などあるまい」
彼らは、優里が、自分たちの仕組んだ罠に、
あっけなくかかってくれることを期待していた。
優里の未来を、自分たちの手で
簡単に終わらせることができるという事実に、
教員たちは、薄気味悪い優越感に浸っていた。
優里は、自分を待ち受ける、
冷酷で悪意に満ちた現実から、
逃れることはできないのだろうか。
遥香は、優里に向けられた巧妙な罠を、瞬時に理解した。
ブロンズの身では決して入手できない課題図書。
プラチナの図書館への立ち入り禁止。
そして、時間内に本を持ってこられなければ退学という、
非情なルール。
全てが、優里を絶望の淵に突き落とすための、
悪意に満ちた計画だった。
遥香は、優里の顔を見つめた。
優里の瞳には、深い絶望と、
どうすることもできない無力感が滲んでいた。
「残り時間は?」
優里は、学園の時計を見上げ、
かすかに震える声で答えた。
「…あと、十分…も、ないかもしれません」
十分足らずの時間で、
プラチナの図書館へ行き、
本を見つけ、ここに戻ってくるのは、
”普通の生徒”にとって不可能に近かった。
しかし、優里の目の前にいる人物。
遥香は”普通の生徒”ではない。
「きて」
遥香は、一言そう言うと、優里の腕を力強く掴んだ。
その目には、強い決意の光が宿っていた。
優里は、予想外の遥香の行動に驚き、
かろうじて言葉を言う間もなく、
遥香に引っ張られるまま、
その歩みに合わせた。
遥香の手の温もりが、
優里の心に、わずかな希望の光を灯した。
今はただ、この予期せぬ展開に、
身を任せるしかなかった。
遥香は、一切のためらいもなく、
学園の厳しく定められたルールを無視し、
優里を救い出すために、すぐに行動を開始したのだ。
遥香は、優里の手を力強く握ると、
躊躇なく走り出した。
磨き上げられた学園の廊下を、
二人の足音が小さなリズムを刻みながら響く。
周囲の生徒たちは、
ダイアモンドランクの女王が
ブロンズの生徒の手を引き、
必死にかけ抜けていく予想外の光景に、
驚きと好奇心の目を向けていたが、
遥香は一切気に留めなかった。
その目には、
ただ前だけを見据える、
決意の強い光が宿っていた。
優里は、遥香に引っ張られるまま、
夢中に後をついていった。
息が上がり、肺が悲鳴を上げているのを感じた。
それ以上に、
しっかりと繋がれた遥香の手の温もりが、
優里の意識を強く捉えていた。
優里は、走りながら、
その繋がれた手を見つめた。
それは、学園の多くの生徒たちが
夢見ても叶わない行為だった。
ダイアモンドランクの女王、
遥香と身体的に触れ合うこと。
ましてや、
手を繋ぎ、走るなど。
優里にとってそれは、
空に輝く星を掴むほど、
不可能なことだとばかり思っていた。
遥香の姿は、
必死に走るなかでも美しく、
その背中を追う優里は、
まるで夢のなかにいるようだった。
少し前までの自分なら、
距離を保ち、
敬意をもって
彼女を見送ることしかできなかっただろう。
それが今、
自分の手が、
力強く遥香の手に握られている。
その事実が、優里の胸に温かい波紋を広げ、
複雑な感情を呼び起こしていた。
驚き。
戸惑い。
そして、微かながらも確かに存在する、
小さな喜び。
この温かい温もりを、一生忘れられないだろう。
そう思った時、優里は、
必死に走るなかで
思わず遥香の手を握り返した。
それは、無意識の、
感謝と信頼の表れだった。
遥香は、優里の手を引いて、
ひたすら学園内を走った。
やがて二人が足を踏み入れたのは、
他のどのフロアとも違う、
静粛な空気に包まれた空間だった。
レッドカーペットが敷き詰められた廊下は、
足音を吸い込み、どこまでも静かだ。
そこは、学園の頂点に立つ
ダイアモンドランクの生徒だけが
立ち入ることを許された、
特別なフロアだった。
優里は、遥香に引っ張られるまま、
その豪華なフロアを駆け抜ける。
二人がたどり着いたのは、
重厚な扉を持つ、巨大な図書館だった。
扉の上には、ダイアモンドの紋章が刻まれており、
その威厳が、ブロンズである優里を圧倒した。
図書館の前に着くと、
遥香は足を止め、優里の手を離した。
「ダイアモンドのパートナーになった際の、カードキーは持ってる?」
悠とパートナーになった際に、
確かに渡されたカードキー。
しかし、それは、
優里にとって意味のないものだと思っていた。
優里は、言われるがままに、
制服のポケットから、一枚のカードキーを取り出した。
遥香は、そのカードキーを受け取ると、
図書館の扉にある、カードリーダーにかざした。
ピッ、という
軽快な電子音と共に、
重厚な扉が静かに開いた。
遥香は、扉が開くと、
優里を振り返り、
静かに、そして、優しく微笑んだ。
その瞳には、優里を助けたいという、
強い思いが宿っていた。
それは、ただ単に扉を開けるための行動ではなかった。
遥香は、この状況の裏に潜む教員たちの悪意を、
すべて見抜いていたのだ。
遥香はダイアモンドに所属している。
当然自分のカードキーを持っている。
しかし、もし遥香が
自分のカードキーで扉を開けていれば、
優里が遥香の手助けを得て
課題をクリアしたという事実が、
教員たちに知られてしまう。
そうなれば、彼らはまた優里に、
さらに理不尽で困難な要求を突きつけ、
優里を追い詰めるだろう。
遥香は、そうした教員たちの策略を封じるため、
あえて優里のカードキーを使ったのだ。
図書館のシステムには、
カードキーの利用履歴が残る。
そこに刻まれるのは、
遥香の名前ではなく、
優里の名前だ。
これにより、優里は、
教員たちに対して、
「自分自身の力でダイアモンドの図書館に入り、課題をクリアした」
という事実を証明できる。
遥香の瞳には、優里をただ助けるだけでなく、
優里自身に、
この理不尽な状況を乗り越えるための
力を与えたいという、
深い願いが宿っていた。
優里は、遥香の行動の真意を、
まだ理解できていなかったが、
遥香の優しさと、
その温かさに包まれ、
希望の光を感じていた。
遥香は、開かれた図書館の扉から、
優里をなかに促した。
優里が足を踏み入れたのは、
ブロンズフロアとは比べ物にならないほど、
広大で豪華な空間だった。
天井まで届く書架には、
貴重な本がずらりと並び、
静かで荘厳な空気が満ちていた。
自分をプラチナの図書館ではなく、
ダイアモンドの図書館に連れてきたことに、
再び疑問を抱いた。
「…遥香様、でも、本はプラチナの図書館にあるのでは…」
優里は、おずおずと問いかけた。
「ダイアモンドの図書館には、この学園の全てのフロアの本が収められているの」
ダイアモンドの図書館は、
ただの図書館ではなく、
学園の知のすべてを集約した、
特別な場所だったのだ。
遥香は、図書館に入ると、
壁に設置されたタブレット端末に、
課題図書の題名を手早く入力した。
遥香は、端末の操作を終えると、
ダイアモンドラウンジに
常駐する専用の執事に、
課題図書をすぐに持ってくるように命じた。
「…急いで。時間がもうない」
その手際の良い行動は、
優里の窮地を救うための、
遥香の強い決意を表していた。
優里は、遥香の迅速な手腕と、
優里を助けるために、
遥香がここまで尽力してくれていることに、
深い感動と感謝の気持ちでいっぱいになった。
執事は、一冊の分厚い本を抱えて、駆け込んできた。
遥香は、執事から本を受け取ると、
それを優里に授けた。
本を受け取った優里の手は、
かすかに震えていた。
「…ありがとう、ございます」
優里は、感謝の気持ちを、精一杯の声で告げた。
遥香は、優里の言葉には答えず、
ただ、自分の腕につけた腕時計に
目を落とした。
残された時間は、もうわずかしかない。
「…走って!」
遥香の声は、静かだったが、
その言葉には、優里を案じる、
強い思いが込められていた。
優里は、遥香の言葉に、力強く頷いた。
そして、本を胸に抱え、図書館を飛び出した。
その背中は、
遥香に託された希望を背負い、
ブロンズフロアへと向かう。
遥香は、優里の小さな背中を、静かに見送った。
その瞳には、優里の無事を祈る、深い愛情が宿っていた。
ブロンズフロアの教室は、
重苦しい静寂に包まれていた。
教員たちは、生徒たちが提出した
課題図書の審査を、
感情のない顔で行っている。
彼らの瞳には、優里が時間内に戻ってこられないことを、
確信しているような冷たい光が宿っていた。
その場の空気を打ち破るかのように、
教室の扉が勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、
息を切らした優里だった。
優里は、肺が張り裂けそうになるほどの
苦しさに耐えながらも、
しっかりと本を胸に抱えていた。
教室にいたすべての生徒と教員の視線が、
優里に集中する。
ブロンズの生徒たちは、
優里が時間内に戻ってきたことに
驚きを隠せないでいた。
一方、教員たちの顔には、
優里の帰還を信じられないという、
怒りと困惑の表情が浮かんでいた。
優里は、教壇までまっすぐ進むと、
本を机の上に置いた。
その場に、重い音が響き渡る。
「…課題図書、提出します」
優里の声は、震えていたが、
その瞳には、遥香に託された
希望の光が宿っていた。
優里は、悪意に満ちた教員たちの
視線をまっすぐに受け止め、
毅然とした態度で課題を提出した。
教室の空気は、再び凍りついた。
優里が提出した課題図書を前に、
教員たちは冷ややかな目で優里を眺めていた。
彼らは、優里が
時間内に戻ってきたこと自体が
信じられず、
何らかの不正を働いたに
違いないと確信していた。
「宝来、この本をどうやって持ってきた?」
教員の一人が、厳しく問いかけた。
その声には、優里を追い詰めるための、
冷たい意図が込められていた。
優里は、言葉に詰まった。
「それは…」
遥香の助けを借りたことを、
どう説明すればいいのか分からずにいた。
優里が戸惑っていると、
優里が提出した本を手に取っていた
別の教員が、
まるで尻餅をつきそうな勢いで
驚きの声を上げた。
「こ、こ、これはっ!」
その教員の尋常ではない様子に、
優里を咎めていた教員は、
不審に思いながらも、
優里が持ってきた本を
おもむろに手に取った。
そして、不意に本の裏を向ける。
そこには、
本のバーコードリーダーと、
その下に図書の
保存先を示す記号が記載されていた。
教員は、優里が運良くプラチナの図書館に
不法侵入でもしたのだろうと思っていた。
しかし、バーコードリーダーが
示す保存先は、
教員の予想を遥かに超えるものだった。
『D』
つまり、
『Diamond』
それは、この学園の頂点に立つ、
ダイアモンドの図書館を示す記号だった。
教員たちの顔から、
嘲笑の表情が消え去り、
代わりに信じられないという
困惑の色が浮かんだ。
教員の顔は、
信じられないという色を隠せない。
彼らの計画が、
まさかこのような形で覆されるとは、
夢にも思っていなかったのだ。
「どうやってダイアモンドの図書館に入った!」
咎めるような強い口調で、
先程本を取り上げた教員が
優里を睨みつけた。
「あそこは、限られた者しか立ち入ることを許されないはずだ!」
他の教員たちも、
優里に詰め寄るような視線を送ってくる。
彼らは、優里が何か不正な手段を
使ったに違いないと決めつけていた。
ブロンズの生徒が、
自力でダイアモンドの図書館に入れるなど、
彼らの常識ではありえなかったからだ。
優里は、教員たちの剣呑な空気に、
一瞬身を竦ませた。
しかし、遥香に助けられたという事実は
伏せておきたい。
何よりも、自分を陥れようとした彼らに、
言い訳をするつもりはなかった。
優里は、ゆっくりと呼吸を一つすると、
静かに、しかし、はっきりと告げた。
「これで、入りました」
そう言いながら、優里は、
制服のポケットから一枚のカードキーを取り出した。
それは、悠とパートナーである証。
ダイアモンドの紋章が刻まれたカードキーだった。
優里が差し出したその小さなカードキーは、
教員たちの目を釘付けにした。
ダイアモンドの象徴であるその輝きは、
ブロンズフロアの陰鬱な空気を切り裂き、
否応なく彼らの目に飛び込んできた。
教員たちは、言葉を失った。
ダイアモンドのパートナーにのみ与えられる特権。
ダイアモンドのパートナーである優里が
それを利用したのだとすれば、規則違反ではない。
優里がこのカードキーを見せつけた行為は、
単にダイアモンドの図書館に入った事実を
証明するためだけではなかった。
それは、自分がダイアモンドのパートナーという、
彼らとは違う世界に身を置いていることを、
そして、その時に与えられた特権が、
有効であることを、
冷酷なまでに彼らに知らしめるものだった。
ブロンズの生徒だと侮っていた相手が、
自分たちよりも上位の存在であったという事実に、
教員たちは屈辱感を覚えずにはいられなかった。
教室には、重苦しい沈黙が支配した。
教室の凍りついた空気を破るように、
別の教員が慌ててタブレット端末を操作し始めた。
その指先は、わずかに震えている。
彼らは、優里の言葉が真実かどうか、
そして、まだ何か抜け道がないかを必死に探していた。
画面には、ダイアモンド図書館の利用履歴が表示される。
教員たちは、固唾をのんで、
そのリストをスクロールしていった。
「…宝来優里…確かに、ダイアモンドの図書館を利用しています!」
タブレットを操作していた教員の声は、
驚愕と諦念が入り混じっていた。
そこには、確かに優里の名前と、
今日の利用日時が記録されていた。
彼らの最後の希望は、完全に打ち砕かれた。
最初に優里を問い詰めていた教員は、
もはや何も言う気力がないように、
深くため息をついた。
その顔には、先程までの威圧的な態度はなく、
ただ困惑の色が濃く浮かんでいた。
「…宝来優里」
教員の声は、先程までの鋭さを失い、
まるで空気を抜かれた風船のように、
静かで重々しかった。
「…課題、クリアとする」
その言葉は、教室の静寂に吸い込まれていった。
教員たちの顔には、屈辱と無念さが滲んでいた。
彼らの仕組んだ悪意の罠は、
遥香の及ばぬ知略と、
優里が手にした特権によって、
見事に打ち破られたのだ。
ブロンズフロアの重い空気は変わらないものの、
優里の周りには、確かな安堵感が漂っていた。
遥香の名前は一切出なかったが、
その強大な力が、確かに存在していた。
優里は、緊張した面持ちで
ダイアモンドラウンジへと向かった。
ブロンズフロアでの出来事が、
まだ心臓を小さく締め付けているようだった。
遥香に、直接感謝を伝えたかった。
あの時、遥香がいなければ、
きっと自分は退学させられていただろう。
ラウンジの重厚な扉の前に立ち、
優里は静かに深呼吸をした。
そして、決意を込めて扉を開いた。
部屋の中には、いつものように優雅な空気が漂っていた。
大きな窓から夕方の光が差し込み、
金色の輝きを放っている。
そして、部屋の中央に置かれた豪華なソファーに、
遥香が静かに座り、薄い雑誌に目を通していた。
周りには、
他のダイアモンドメンバーの姿は見当たらなかった。
優里は、ためらいながらも、
遥香に近づき、声をかけた。
「…遥香様」
部屋の静寂のなかに、控えめに響いた。
遥香は、優里の声を聞くと、
ゆっくりと顔を上げた。
いつもの冷たさの奥に、
わずかな安心感のような色が見えた気がした。
優里は、遥香のその表情を見つめながら、
深く呼吸を一つした。
そして、心の底から湧き上がってくる
感謝の思いを、精一杯言葉に託した。
「遥香様、今日は、本当にありがとうございました。」
「遥香様がいらっしゃらなければ、私は…きっと、退学になっていました。」
「本当に…感謝してもしきれません」
優里は、深く頭を下げた。
遥香への深い感謝の思いが、
全身から溢れ出ていた。
遥香は、手にした雑誌から顔を上げることなく、
素っ気なく答えた。
「…べつに」
いつもの冷たい雰囲気を纏った言葉。
しかし、
どこか安堵したような表情が隠されていた。
優里が、無事にあの困難を乗り越えられたことへの、
かすかな喜び。
それは、遥香が優里を
いかに大切に思っているかを示す、
ささやかな兆候だった。
優里は、
どうしても聞きたかった疑問を口にした。
「…どうして、ブロンズフロアにいらっしゃったのですか?」
この学園の絶対的な女王様が
自らブロンズフロアへと足を運んだ。
その理由が、優里にはどうしても理解できなかった。
遥香は、再び素っ気なく答えた。
「たまたま」
優里の問いかけから逃れるための、
単なる口実だった。
遥香が、わざわざブロンズフロアに足を運んだのは、
他でもない、優里に会うためだった。
優里が、一人で孤独に課題に取り組んでいる姿を、
遠目から見ていたのだ。
しかし、この学園の女王である遥香が、
ブロンズである優里を心配し、
彼女の安否を確認するために、
自らブロンズフロアに足を運んだなどと、
口が裂けても言えるはずがなかった。
優里を傷つけたくない。
そして、自分の弱さを、優里に見せたくない。
遥香は、素っ気ない言葉の裏に、
優里への深い愛情と、
自らのプライドを隠していた。
その二つの感情の狭間で、
遥香の心は、静かに揺れ動いていた。
ブロンズフロアでの、
あのタイミングで、偶然遥香がいるなど、
ありえないことだった。
「…どうして、あの時間にブロンズフロアにいたのですか? 遥香様の授業は、どうされたのですか?」
優里は、遥香の言葉の裏に隠された真実を知りたくて、
遥香をまっすぐに見つめた。
優里は、遥香の沈黙を、
からかうような気持ちで、言葉を続けた。
「…まさか、サボりですか?」
優里にとって、
遥香をからかう、ささやかな冗談のつもりだった。
遥香は、一瞬、表情を固くした。
信じられないという顔で、
優里をじっと見つめる。
女王様である自分をからかう生徒など、
初めてだったからだ。
「…はぁ?」
優里を、全く理解できないという、
困惑が込められていた。
優里と遥香のやり取りに、
朔也が静かに近づいてきた。
その手には、一枚の紙が握られている。
「遥香、模試の結果が出たぞ」
朔也は、その紙を遥香に手渡した。
遥香は、それを受け取ると、
視線を落とすことなく、雑誌を読み続けている。
その様子を見ていた悠が、
優里に、からかうような口調で話しかけた。
「僕たちは今日、模試の授業だったんだ。」
「授業といっても、テストだけどね。」
「遥香は、たった30分で模試を解いて、提出して、さっさと出て行ったよ」
「…模試を、30分で…?」
優里は、言葉を失った。
ブロンズの授業とは比べ物にならないほど難解な、
ダイアモンドの模試。
それを、たった30分で解き終えるなど、
優里には想像もつかないことだった。
「いつもそうだもん」
悠は、当たり前のようにそう告げた。
優里は、遥香の非凡さに圧倒されていると、
朔也が悔しそうな顔で、優里に話しかけた。
「俺は、時間をいっぱいに使ったのに、5問も間違えてしまった…」
朔也は、プラチナの生徒から見れば、
とてつもない秀才だ。
そんな彼が、5問も間違えたことに、
悔しさを滲ませている。
(でも、5問間違えただけでも、すごいのに…)
「遥香は、いつも満点だぞ?」
難関模試を満点。
しかも、それをたった30分で解く。
優里は、遥香が、自分とは全く違う、
非凡な世界に生きる人間であることを、改めて実感した。
それは、もしかしたら偏差値80以上という、
途方もない数字を意味するのかもしれない。
高校1年生で、すでにその頂点に立っている遥香。
優里がこれまで出会ってきた人間とは全く違う、
まさに「本当の天才」だった。
優里は、自分と遥香との間に、
埋めようのない深い溝があることを、
改めて痛感した。
遥香は、そんな優里の反応を、
どこか面白そうに見ていた。
そして、手にした雑誌をそっと閉じると、
優里に、からかうような口調で告げた。
「…暇だったから、ブロンズフロアに行ったの」
遥香の優しさは、
やはり、遥香の気まぐれに過ぎなかったのだろうか
優里は、遥香の真意を測りかね、混乱していた。




