女王の真意
翌朝。
優里は、いつもより少し遅く、家を出た。
身体が重いわけではない。
眠れなかったわけでもない。
ただ、心だけが、鉛のように沈んでいた。
「ダイアモンドと知り合い以外に、お前に価値はない」
「身の程を知れ」。
父親の声が、
昨夜から何度も、何度も、
頭の奥で反響している。
あの夜。
温かい食事があって、
笑い声があって、
確かに“居場所”があった。
なのに今は、
そのすべてが、
最初からなかったもののように遠い。
(……私が、勘違いしてただけ)
(あれは、ダイアモンドの気まぐれで)
(私は、そこに“紛れ込ませてもらってただけ”)
そう考えれば、楽だった。
期待しなければ、
傷つかずに済む。
優里は、鳳凰学院へ向かう道を、
重い足取りで歩いていく。
遥香たちに会いたい。
足は、自然とブロンズフロアへ向かう。
それが、自分の“分”だと、
何度も言い聞かせながら。
階段を上がったとき、
廊下の窓際に、視線を感じた。
ゴールドの女子生徒。
以前、遥香の隣に立っていた少女。
こちらを見て、微かに、笑った。
その笑みは、勝者のものだった。
ほら、やっぱり。
あなたは、ここ。
優里は、顔を伏せる。
優里がブロンズフロアに戻ったこと。
ダイアモンドラウンジに来なくなったこと。
彼女は喜んでいるのだろうか。
(……戻った方が、いいんだ)
(ダイアモンドラウンジなんて、最初から……)
そのとき。
「宝来さん」
「久しぶりね」
声は優しい。
けれど、瞳は冷たい。
「あなたがラウンジに来なくなったから、少し気になっていたの。」
「でも、ブロンズフロアで会った時は、案外元気そうだったから、安心したわ」
“安心”。
その言葉が、
刃のように胸に刺さる。
彼女は、優里が落ち込んでいることを知って、
わざわざやってきたのだ。
「私、最近、遥香様の隣にいさせていただくことが多くて。」
「遥香様も、私と話すのが楽しいみたいよ」
ゴールドの生徒は、そう言いながら、
優里の顔を覗き込んだ。
「優里さんは、もう、遥香様の『おもちゃ』として飽きられてしまったのかしら?」
頭のなかが、真っ白になった。
それは、優里自身が、
一番恐れていた答え。
(そうだよね)
(私は、“特別”じゃない)
(最初から、選ばれる側じゃなかった)
唇が震える。
何も言い返せない。
そのとき。。
廊下の空気が、一変した。
ブロンズフロアの廊下にいた生徒たちが
ざわめく。
そこに立っていたのは、
遥香だった。
遥香は、優里とゴールドの生徒のやり取りを、
すべて見ていたようだった。
ダイアモンドの制服。
背筋を伸ばした、女王の佇まい。
けれど、
その瞳に宿っているのは、
紛れもない怒り。
「…あなたに」
「私の友人をからかう権利はない」
氷のように冷たい。
「私の隣は、他の誰でもない」
遥香は、一歩前に出て、
優里の手を取った。
「……優里。あなたしかいない」
その手は、温かかった。
引き寄せる力は、強引ではない。
選べ、と言われている。
優里の胸に、昨夜の記憶が、鮮明に蘇る。
料理の湯気。
笑い声。
「待ってる」という言葉。
そして、父親の冷たい視線。
(私は……)
(どこに、戻りたい?)
優里は、
ゆっくりと、遥香の手を握り返した。
逃げるためじゃない。
縋るためでもない。
「……私」
声は、小さい。
「行きます。ダイアモンドラウンジに」
遥香の後ろに隠れるのではなく、
並ぶように、一歩前へ。
「“連れていかれる”んじゃなくて」
優里は、深く息を吸う。
「私が、戻りたいんです」
遥香は、一瞬、目を見開き、
それから、ほんの少し、微笑んだ。
その笑顔は、
女王のものではなく、
一人の少女のものだった。
二人は、並んで歩き出す。
廊下の視線を、ざわめきを、
すべて背に受けながら。
優里の足取りは、まだ震えている。
それでも。
これは、自分で選んだ一歩だった。
ダイアモンドラウンジの扉が閉まった瞬間。
優里は、
自分の足がわずかに震えていることに気づいた。
不意打ちだった。
覚悟はしてきたつもりだったのに、
いざ足を踏み入れると、
胸の奥がぎゅっと縮こまる。
遥香に導かれるまま、
一歩、また一歩。
(……戻って、きちゃった)
逃げ場はない。
ここは、選ばれた者の場所。
「…あ…遥香様…」
何か言わなければと思うのに、
言葉が喉で絡まり、音にならない。
だが
ラウンジの空気は、
優里が想像していたものとは違っていた。
静かで、落ち着いていて、
そして、不思議なほど、温かい。
ソファに腰掛けていた朔也が、
ゆっくりと視線を上げる。
その隣で、悠が、いつものように軽く肩をすくめ、
真佑は、ほっとしたように微笑んだ。
誰も、驚かない。
誰も、問いたださない。
まるで、
「帰ってくると分かっていた」かのように。
遥香は、優里の手を離すと、
何事もなかったかのように、いつもの席へ向かった。
そして、
自分の隣のソファを、指で軽く叩く。
「…さあ、ここに座って」
声は、いつも通り、少しだけ命令口調。
けれど、その奥にあるのは、拒絶ではない。
当然の指定席。
優里は、促されるまま、そこに腰を下ろした。
座った瞬間、
胸の奥で、何かがほどけた。
(……あ)
ここだ。
自分の、場所。
遥香の隣。
誰にも譲られていない席。
優里は、ゴールドの生徒から庇われたこと、
そして、
“私の隣はあなただけ”と告げられたことを思い出し、
胸が熱くなるのを感じていた。
その余韻が消えないうちに、
隣から、柔らかな声が降ってくる。
「ねえ、優里ちゃん」
真佑だった。
いつの間にか、優里の隣に腰を下ろし、
にこやかにこちらを見ている。
「もう、ブロンズフロアに行かなくてもいいんじゃない?」
その一言に、
優里は、思わず息を呑んだ。
「……え……?」
ダイアモンドラウンジ。
それは、ダイアモンドランクのみが許された特別区域。
そこに、
ブロンズが“居続ける”など。
この学園の厳格な階級制度を、
優里は身をもって知っている。
ルールを破ることは、
優里には想像もつかなかった。
「でも、それは……」
言いかけた優里の言葉を、
真佑は、やさしく遮る。
「ダイアモンドのパートナーは、ダイアモンドと同じ扱いなの。ここで授業を受ける資格、ちゃんとあるのよ?」
そう言って、
優里の手に、そっと自分の手を重ねた。
温かい。
逃げ場を塞ぐような力ではなく、
「ここにいていい」と伝えるための温度。
(……本当に……?)
優里は、胸の奥で、じんわりと光が広がるのを感じた。
自分は、救われようとしている。
孤独から、引き上げられようとしている。
それでも。
優里のなかには、消えない疑念があった。
(もし、これが……気まぐれだったら?)
(私は、“面白い存在”だから、ここにいるだけなんじゃ……)
耐えきれず、
優里は、コーヒーを淹れていた朔也に視線を向けた。
「……朔也様」
声は、かすかに震えていた。
「遥香様は……私がブロンズだから、面白がって……おもちゃみたいに、扱っているんじゃないですか」
ラウンジが、一瞬、静まり返る。
朔也は、カップを置き、
わずかに口角を上げた。
それは、嘲笑ではない。
呆れに近い、短い息。
それは、優里の疑問が、
あまりにもくだらないことであるかのように聞こえた。
「……遥香はな」
低く、冷静な声。
「媚びる人間が、大嫌いだ」
その言葉は、刃のように鋭かった。
「ブロンズなどの下位ランクの者は、媚を売って上に行こうとする。遥香が、そんな者たちと、わざわざ関わろうとすると思うか?」
遥香は、媚を売る人間を嫌い、
純粋な人間を求めている。
媚びる。
取り繕う。
自分は、してこなかった。
遥香が自分に心を許したのは、
自分が媚びることなく、
ありのままの自分で遥香と向き合っていたからなのだろうか。
「……じゃあ」
優里は、唇を噛みしめ、続ける。
「もし……媚びないプラチナだったら。私じゃなくても……」
歪んだ問いだと、分かっていた。
それでも、聞かずにはいられなかった。
(ダイアモンドからしてみれば、おとなしくおもちゃでいればいいのに…そう思われているだろうか)
遥香の優しさも、
ダイアモンドメンバーたちの温かさも、
すべてが、いつか終わってしまうのではないかという、
深い恐怖。
気まぐれな遥香が、
自分に飽きてしまえば、
また孤独な日々に逆戻りしてしまうのではないか。
朔也は、真っ直ぐに、優里を見た。
「…ブロンズだから、プラチナだから、そういう話ではない」
朔也の声は、優里の心を落ち着かせるような響きを持っていた。
「遥香は、お前のような存在を、これまで見たことがなかった。」
「無鉄砲で、空気を読まなくて、勝手で」
「それでいて、遥香への忠誠だけは、一度も裏切らない」
「…そんな存在は、お前以外にいない」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
自分の階級や、媚びない性格だけではなかった。
優里という人間、
そのものに惹かれたのだと、
朔也ははっきりと伝えていた。
「もし、飽きたら、だと?」
「遥香が、お前との関係を『飽きる』というような、くだらないものだと思っているとでも?」
優里の心のなかの、疑念を打ち砕いた。
遥香は、優里を「おもちゃ」として
扱っていたのではない。
優里の存在を、心の底から求めていた。
自分は、“選ばれている”。
階級でも、立場でもなく、
優里という存在として。
「忘れるな」
朔也は、静かに告げる。
「お前は、遥香にとって、唯一無二だ」
優里の目に、涙が滲んだ。
ダイアモンドラウンジは、
もう、遠い世界ではなかった。
ここは、
戻ると、自分で決めた場所。
そして、
受け入れられている場所だった。




