交錯する嫉妬心
ある日、鳳凰学院の広大なフィールドには、
普段は見慣れない光景が広がっていた。
日々、競争と序列のなかで生きる
生徒たちを癒すため、
アニマルセラピーの一環として、
数匹の犬や猫が学院に招かれていたのだ。
生徒たちは思い思いに地面に腰を下ろし、
犬の柔らかな毛並みに顔をうずめ、
猫の喉が鳴らす低い音に、
束の間の安らぎを見出していた。
ブロンズの少女・優里は、
一匹の柴犬の前にしゃがみ込み、
その背中を丁寧に、何度も撫でていた。
柴犬はすぐに心を許したようで、
しっぽをゆっくり振りながら、
優里の指に鼻先を押し付ける。
その光景に、
優里自身も気づかないほど、
自然な笑顔がこぼれていた。
遠慮も、警戒もない。
ただ「ここにいていい」と言われているような、
無条件の温もり。
(……あったかい)
犬の体温と、素直な好意が、
優里のなかにこびりついていた緊張を、
少しずつ溶かしていった。
一方、少し離れた場所で、
遥香は一匹の白猫を腕に抱いていた。
猫は静かに目を閉じ、
遥香の制服に顔を埋めるようにして、
喉を小さく鳴らしている。
遥香の表情はいつも通り冷静で、
他人に向ける隙は一切ない。
けれど、その指先だけが、
猫の背をなぞるたびに、
ほんのわずか、柔らかくなっていた。
それを遠くから見ていた生徒たちは、
口には出さずとも思っていた。
ダイアモンドの女王様が動物と戯れている姿。
遠い世界の出来事であり、
理解しがたいものだった。
「女王様の、また気まぐれなご趣味だろうか」
ダイアモンドの女王の、気まぐれな遊び。
だが、
その光景を、違う意味で見つめていた者が一人いた。
優里だった。
遥香が猫を抱き、
その小さな命に身を預けさせている姿。
それは、優里の胸の奥に、
説明のつかない痛みを生んだ。
(……遥香様は、癒されているんだ)
猫の無言の温もりが、
遥香の孤独に触れている。
そう思った瞬間、
優里のなかで、ひとつの恐怖が芽を出した。
……もしかして。
……私じゃなくても、いいんじゃないか。
猫の純粋な愛情と温もりが、
遥香の孤独を埋めているのなら、
自分が遥香の孤独を癒す
唯一の光ではないのではないか。
遥香が別の存在によって満たされているという事実を、
目の前で突きつけられているように感じた。
いつの間にか、
自分が「特別」だと信じていたことに、
優里は気づいてしまった。
柴犬の柔らかな毛並みを撫でながら
柴犬の背を撫でる指先が、
ほんの少し、迷う。
遥香との間に、
見えない距離が、また一枚増えた気がした。
フィールドの隅。
ダイアモンドメンバーたちは、
優里の様子を遠くから見守っていた。
優里が柴犬に顔を寄せ、
満面の笑みを浮かべている姿。
普段の遠慮がちな彼女とはまるで別人に見えた。
「あの子、本当に犬が好きなんだね」
真佑が、微笑ましそうに呟いた。
優里の純粋な感情が、よく理解できた。
悠は、皮肉な笑みを浮かべて言った。
「あれは嫉妬だな」
朔也がトーンを落として肯定した。
「遥香が猫を可愛がっているからな」
優里が遥香の気を引こうとして、
わざと別の動物に愛情を
注いでいるように見えたのかもしれない。
猫に嫉妬する優里の姿は、
彼らにとって、滑稽で、
そして小さな楽しみの源だったのだろう。
優里のわかりやすい感情表現を、
面白おかしく観察していたのだ。
しかし。
猫を抱いていた遥香もまた、
優里の姿を、視界の端で追っていた。
柴犬に顔を寄せ、
心から楽しそうに笑う優里。
(…なぜ、あんなに楽しそうに)
理由は、考えるまでもなかった。
自分ではない存在に、
優里の意識が向いている。
その事実が、
遥香の胸に、わずかな棘を刺した。
猫の背を撫でる指に、力がこもる。
猫は少し迷惑そうに小さな声で鳴いたが、
遥香はそれに気づく様子もなかった。
彼女の意識は、
遠くで柴犬と戯れる優里の姿に固定されていた。
優里の純粋な笑顔が、
まるで自分の存在を否定しているかのように
感じられたのかもしれない。
遥香にとって、
優里は孤独を埋める光であり、
その光が自分以外のものに向けられていることは、
かすかな不安を引き起こす出来事だったのだ。
(……私の前では、あんな顔しないくせに)
それは、
遥香が初めて覚えた、
“取るに足らないはずの感情”だった。
嫉妬。
表面的な平和のなかで、
優里は猫に、遥香は柴犬に、
ダイアモンドメンバーは優里の行動に、
密かな嫉妬の炎を燃やしていたのだった。
アニマルセラピーの時間が終わり、
生徒たちがフィールドから去っていくなか、
遥香は不機嫌そうに、
柴犬と戯れていた優里の元へと歩み寄った。
「…そんなに、犬が好きなの?」
遥香の声は、どこか冷たく、
不機嫌さを隠しきれていなかった。
自分以外の存在に心を許していたことへの、
かすかな嫉妬。
優里は、遥香の突然の問いかけに、
戸惑いの表情を浮かべた。
遥香が不機嫌になっている理由が分からなかった。
「はい…柴犬、可愛かったです」
素直にそう答えた。
優里の心のなかには、
別の思いが渦巻いていた。
(…遥香様は、ずっと猫を撫でていらっしゃったから)
優里は、遥香が猫を愛おしそうに
抱きしめている姿を見て、
自分と遥香は合わないのではないかと、
不安に感じていた。
遥香は猫のように気高く、
優里は犬のように懐っこい。
遥香は、気まぐれな猫のような存在に心を許す。
優里は、ひたむきで、
懐っこい犬のような存在に心を許す。
優里は、意を決して、悲しそうに遥香に告げた。
「…遥香様は、ずっと猫を撫でていらっしゃいましたから、きっと、私とは合わないのではないかと…」
優里の言葉は、遥香の心を深く刺した。
優里は、遥香の「不機嫌」の理由を、
自分と遥香の相性の問題だと、
勘違いしていたのだ。
遥香は、優里の勘違いに、
もどかしさと、
自分の気持ちが
優里に全く伝わっていないことへの、
深い寂しさを感じた。
遥香と優里。
二人の間に、新たなすれ違いが生まれていた。
それは、犬と猫、という、
些細な、二人の心を象徴するような、
すれ違いだった。
遥香は、さらに不機嫌な表情を浮かべた。
彼女は、優里の勘違いを解き、
自分の気持ちを伝えたいという衝動に駆られていた。
「…なに、馬鹿なことを」
遥香の声は、いつにも増して冷たかった。
優里へのもどかしさと、
深い愛情が隠されていた。
「猫は、服従してくれる人が好きで、犬は服従したがる。知らないの?」
遥香の言葉は、
まるで動物の生態を説明しているかのようだった。
しかし、その言葉の本当の意味を、
その場にいる誰もが理解していた。
遥香が「猫」であり、優里が「犬」であること。
遥香は、自分の「女王」としての立場を保ちながらも、
心の奥では優里のひたむきな愛情を受け入れ、
そして、優里の存在を心の拠り所としていた。
一方、優里は、遥香に尽くすことで、
自分の存在意義を見出そうとしていた。
ダイアモンドメンバーたちは、
遥香の皮肉に、再び笑いをこらえきれずにいた。
「ははは! 遥香、それって…動物の正論? それとも、優里と遥香のこと?」
悠が、面白そうに問いかけた。
その言葉に、他のメンバーたちも、
笑いながら頷いた。
遥香は、彼らの笑いを無視し、
ただ優里の瞳をまっすぐ見つめた。
遥香の言葉の真意を
まだ理解できていないようだった。
「…服従したがる犬と、服従してくれる人が好きな猫。」
「…そんな二人が、本当に合わないと?」
遥香の問いかけは、
優里の心に、新たな波紋を広げた。
遥香は、優里との関係を、
犬と猫のたとえを用いて、
不器用に、真剣に問い直していた。
それは、女王が、一人の少女に、
自分の心をさらけ出す、最初の一歩だった。
優里は、遥香の「猫は服従してくれる人が好き」という言葉を、
まだ素直に受け止めきれていないようだった。
彼女は、遥香の真意を測るように、
おずおずと問いかけた。
「…遥香様は、犬のように服従してくれる人が、お好みなんですか?」
優里の声には、かすかな不安と、
そして、遥香の気持ちを確かめたいという、
切実な願いが込められていた。
遥香は、優里の問いかけに、
一瞬、言葉を失った。
好みのタイプ。
そんなことを考えたこともなかった。
彼女の世界には、
人を好きになるという感情は、
存在しなかったからだ。
「…人を好きになったことがないから、自分の好みのタイプなんて、わからない」
遥香の声は、どこか寂しそうだった。
それは、遥香の心の奥底に隠された、
孤独な真実だった。
優里は、遥香の言葉に、
胸が締め付けられるような思いがした。
遥香もまた、自分と同じように、
誰にも心を許せず、孤独に苦しんでいたのだと、
改めて痛感した。
優里は、遥香に、
さらに深い問いを投げかけた。
「…もし、遥香様が、猫のように気高い人を好きになったら、遥香様は、犬のように服従するのですか?」
優里の言葉は、遥香の心を揺さぶった。
自分が誰かに服従することなど、
考えたこともなかった。
常に、誰かに服従される側の人間だった。
もし、遥香が、自分と同じくらい孤独で、
そして、気高い誰かを好きになったとしたら、
遥香は、自分のプライドを捨てて、
その人のために尽くすのだろうか?
遥香は、何も答えることができなかった。
優里の言葉は、遥香の心を深くえぐり、
遥香自身の、誰も知らなかった感情を、
引き出し始めていた。
遥香が優里の問いかけに答えられずにいると、
その様子を見ていた朔也が、口を開いた。
「…遥香の周りには、常に服従する人で溢れていたからな。服従したがる人ばかりで、そろそろ飽きてきているのかもしれない」
朔也の言葉は、
まるで遥香の心理を分析するかのようだった。
優里をからかうような軽薄さはなく、
ただ、事実を淡々と述べているだけだった。
「だからこそ、優里のような、予測不能で、自分の意思を持っている人間に、興味を持ったのかもしれない」
遥香の心を代弁しているようにも聞こえたが、
同時に、優里の心に、新たな不安を植え付けていた。
(…私は、遥香様の退屈を埋めるための、ただの『おもちゃ』なの?)
優里は、自分が、
遥香の気まぐれな興味の対象でしかないのではないかという、
深い恐怖に囚われた。
遥香が自分に心を向けてくれるのは、
自分が予測不能で、他の人間とは違うから。
もし、遥香が自分に飽きてしまったら…
また、一人になってしまうのではないか。
優里の心のなかには、新たな葛藤が生まれていた。
それは、遥香に寄り添いたいという純粋な気持ちと、
遥香に利用されているのではないかという、
深い疑念だった。
朔也の冷徹な分析は、優里の不安を煽り、
二人の関係に、新たな影を落としていた。
放課後、突然雨が強く降り出した。
優里は傘を持っておらず、
下校しようにもできずに、校舎の出口で困っていた。
まるで、いまの自分の心を
映し出しているようだ、と
優里は苦笑いをした。
ダイアモンドメンバーたちは、
それぞれ迎えの車が来て、帰路についていた。
優里がどうしようかと途方に暮れていると、
校舎の出口に、見慣れた黒い車が静かに停車した。
車の後部座席の窓が静かに開き、
なかから遥香の静かな目が優里を捉えた。
「乗って行きなよ」
冷たいながらも、
いつもより少し温度を含んだ声。
優里は驚いて少しためらう。
「早く」
優里が恐る恐る車に乗り込む。
車内は静かだった。
遥香は、窓の外を冷たいな表情で見つめている。
優里は、遥香にお礼を言うのが精一杯だった。
学校から優里のマンションまでの道のり、
二人の間に会話はほとんどなかった。
しかし、雨音だけが響く静かな車内には、
以前のような緊張はなく、
微かながら、穏やかな雰囲気が流れていた。
マンションの前で車が静かに停車し、
優里が降りようとすると、遥香は静かに優里を見た。
「…あの」
遥香は優里の問いに首を傾げる。
「どうして私をみて、面白いと思ってくれたのですか?」
遥香は、優里の問いかけに、
優しく微笑んだ。
「…私の世界は、いつも完璧で、秩序立っていた。だけど、それは同時に、とても退屈な世界でもあった」
遥香の声は、優里の心に、
そっと染み込んでいくようだった。
「そんな私の世界に、優里、あなたが現れた。あなたは、いつも私の予想を裏切ってくれた。消火器を撒き散らしたり、突然泣き出したり…あなたの行動は、私にとって、予測不能で、そして、とても面白かった」
遥香は、優里の頬にそっと手を添え、
その瞳をまっすぐに見つめた。
「でも、私があなたに惹かれたのは、それだけじゃない。あなたは、無鉄砲だけど、私の忠誠を裏切ることはしない。笑顔の裏に何かを隠していることもしない。…あなたの純粋で、無償の思いやりが、冷え切った私にとって、とても温かく、心地よかったの」
遥香の言葉は、優里の心の中の、
すべての不安と疑問を、
温かい光で包み込んでいった。
優里は、遥香が自分を、
「おもちゃ」として見ていたのではない。
優里という人間、そのものを、
愛おしいと思ってくれていたのだと、
初めて知ることができた。
優里は、遥香の言葉に深く感動していた。
しかし、どうしても心の中に残る、
疑問をぶつけずにはいられなかった。
「…ブロンズだから、興味がそそられたのですか?」
優里の声は、かすかに震えていた。
遥香の優しさが本物だと信じたい気持ちと、
それでも階級という壁が、
遥香の行動の理由なのではないかという不安が、
優里の心を揺さぶっていた。
遥香は、優里の問いかけを聞くと、
ふっと、これまで見せたことのないような、
柔らかな笑みを浮かべた。
その笑みは、優里の心を、
温かく包み込むような、優しいものだった。
「私が、ランクで人を判断するとでも?」
遥香は、そう言いながら、
優里の頭に、そっと手を置いた。
その声には、優里の疑問を、
まるでくだらないものだと諭すような、
どこか愛おしさを感じるような響きが込められていた。
遥香のその言葉と、優しい温もりに、
優里の心の中の、不安と疑問は、
溶けて消えていった。
遥香は、優里という人間、
そのものを、見ていてくれていたのだと、
優里は、ようやく心から信じることができた。
遥香は、優里の問いかけに、
どこか切なそうに微笑んだ。
その表情は、これまで遥香が見せたことのない、
弱い一面を優里に見せていた。
「…私は、人が得意ではないの」
遥香の言葉は、優里にとって、意外なものだった。
常に完璧で、人々の中心にいる遥香が、
人を苦手としている。
優里は、遥香の言葉の意味を、理解しようと努めた。
「笑顔で、私に媚びを売って、すり寄ってくる。」
「……だけど、その笑顔の裏に、どれだけの打算や、偽りがあるのか…」
「それを考えると、私は、自分が表面上でしか判断されていないことが、とても苦痛でしかなかった」
遥香がこれまで抱えてきた、
深い孤独と絶望。
「だから、私は、顔や言葉ではなく、行動で人を判断するようにしたの」
遥香は、優里の瞳をまっすぐに見つめた。
「プラチナは、私が少し手を差し伸べたら、すぐに調子に乗って、本性を表した。」
「ブロンズならば、情けをかければ、すぐに勘違いして調子に乗る。」
「上位でも下位でも、そのどちらでも、人間の本性という面では、ランクなど意味がなかった」
遥香は、階級などという、
表面的なものでは、人間を判断していなかった。
「だから、優里。私は、あなたがブロンズだから興味がそそられたわけではない。あなたの行動、一つ一つをみて、あなたを判断していたの」
遥香は、そう告げると、
優里の頭に、再びそっと手を置いた。
その手は、優里の心を温かく包み込み、
優里は、遥香の言葉に、
深い感動と、遥香への深い愛情を感じていた。
「傘を忘れずに」
少し大きな傘をそっと指さした。
それは、遥香の傘だった。
優里が感謝を伝えると、
遥香は静かに頷き、
何も言わずに車は走り去った。
優里は、遥香の予期せぬ優しさ、
そして、その奥に微かに感じられた心配に、
温かい思いを感じていた。




